002.人間たちの願い

ある夜。大変な事件がおきました。

天使の女の子と悪魔の男の子は、その日街の少し端のほうを歩いておりました。すると街の少し端のほうであるのに、歩くたびに人が大勢になっていきます。そしてその人たちの顔は、みな怒ったり慌てたり、何やらとんでもない表情になっているのです。見ている人たちを不安にする、なにかとても大変なことが起こっているような顔でした。

天使の女の子と悪魔の男の子は、何事かと思ってそれを見に行きました。

すると、

「火事だ。逃げろ!」

大きな男の人が、そんな風に叫んでおります。

「待って、中に、メアリが」

小さな老婦人が、おろおろとそばの人にとり縋っております。

「ギリクも、まだ逃げてない!」

そう叫ぶお兄さんの顔は、揺れる光に真っ赤に照らされておりました。

天使の女の子と悪魔の男の子の前には、真っ赤に燃える小さな家があったのです。

中からは、必死でお願いする男の人の声がきこえました。

天使の女の子はそんなときでも悪魔の男の子の顔を見ずに、まっさきに駆け出しました。悪魔の男の子も慌てて駆け出します。

天使も悪魔も人間のものには触れられませんので、炎は熱くなんかありませんでした。でも熱くないはずなのに、すごくすごく熱いふうに感じてしまうのは、見た事のないほど火が真っ赤に燃えているからでしょう。その家は、家具職人の人のお家でした。つい最近結婚したばかりの若い夫婦が、つつましく暮らしていたのです。ですが、家の中には木で出来たたくさんの可愛い家具がありましたから、それらが勢いよく燃えてしまっているのでした。

恐ろしい炎のなかで、天使の女の子は神さまを呼ぶ男の人の声を聞きました。男の人は、家具職人の旦那さんでした。

旦那さんは、このように願っておりました。

「俺の命はどうでもいいから、メアリだけでも助けてほしい」

メアリというのは旦那さんの奥さんの名前です。旦那さんの愛は、メアリに向けられておりました。妻のために自分の命を投げ出そうと、そんな風に願っておりました。天使の女の子が声のする方にいってみると、旦那さんは倒れてきた家具に片方の足をはさまれて、奥さんがそれを必死に引っ張っているのでした。

「いやよ、ギリク、私と一緒に行くの!」

逃げろという旦那さんの声に首を振って、奥さんは必死に旦那さんを助けようとしております。しかし、家具には今にも火が移りそうで、このままでは2人火の中に取り残されてしまうでしょう。

お願いをしているのは旦那さんのほうでした。

だから天使の女の子は、神さまにお願いを届けようとしました。天使の女の子には、その願いがとても尊いよいもののように思えたのです。神さまどうか、旦那さんのお願いを聞き届けてください。

「バカ!!」

それなのに、悪魔の男の子が大きな声で叫んで、天使の女の子のお願いを止めました。天使の女の子はびっくりして、神さまへのお願いを止めてしまいました。どうしてバカと言われたのかわかりませんでした。

悪魔の男の子は天使の女の子の手を引っ張って、燃えさかる家から逃げ出します。

天使の女の子と悪魔の女の子が家を出ると同時に、ガラガラと音をたてて家が崩れてしまいました。

徐々に炎がおさまっていく家具職人の家を後ろに残しながら、夜の道を悪魔の男の子は走りました。天使の女の子は悪魔の男の子に手をひかれながら、後ろを気にしい気にしい、一緒に走ります。

「待ってよ、悪魔!」

「うるせーよ!」

「どうして、あの人!」

「うるさい!!」

悪魔の男の子は走る足をとめて、やっと天使の女の子の方に向きました。でも天使の女の子は燃え尽きようとしている家のほうを気にして、しくしくと泣き始めました。

「どうしてとめたの」

「うるさいな」

「どうして意地悪ばっかりするのよう」

「うるせえ! あんな男の願いごとなんて、かなえようとすんなよ!」

天使の女の子は、悪魔の男の子の言葉にぎょっとして振り向きました。悪魔の男の子は天使の女の子がこちらを向いてくれたのに、そっぽを向いておりました。

「俺はな、『どうでもいい』なんていう男だいっきらいなんだよ! あいつ嘘ばっかりついてる。ほんとは嫁のために死にたくなんかねーんだよ!」

「ひどい……」

天使の女の子は人間の尊いお願いごとが聞こえますが、悪魔の男の子には人間の強い望みが聞こえます。悪魔の男の子には聞こえました。旦那さんは本当は死にたくなんかないんです。奥さんと、いっしょにいたい! いっしょにいたい! そればっかりを考えていたのです。でもそんなことを奥さんに言ったら、奥さんは逃げないでしょう。だから嘘をついて、神さまにお願いするふりをしたのでした。

そんな嘘つきが、悪魔の男の子は大嫌いでした。

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それから数日たったある日のこと。街の人たちのためにお薬をつくっている薬屋のおばあさんの家に、孫娘が遊びにきておりました。

おばあさんはおじいさんを亡くしてから元気もすっかり失くしてしまって、もともと悪かった眼をますます悪くしています。このままでは、おばあさんはすっかり眼を見えなくしてしまうでしょう。

おばあさんには弟子が一人おりました。おじいさんとの間にできた一人娘が生んだ、かわいい孫娘です。娘さんは冬のおまつりの少し前に、街の気だての良い男の人と結婚することになっておりました。孫娘も、お母さんであるおばあさんの一人娘も、孫娘の夫になる予定の人も、その家族も、みんなみんなおまつりの時期に重なるお祝いごとを楽しみにしております。

もちろん孫娘は、大好きなおばあさんに結婚のお祝いに来て欲しいと思っておりました。

しかし、おばあさんはとても迷惑そうに首を振ります。年を取った自分にはお祝い事もおまつりも、気が重いだけで面倒なのだと、頑として行かないと言い張るのでした。

「ねえ、おばあさん。ちゃんと来てよ。おばあさんの席も用意してあるのだから」

「あたしはいかないよ! しつこいねえ。そんなことよりもこんな場所で油売ってないで、さっさと旦那のところへおもどり!」

おばあさんの家からは、今日もそのような怒鳴り声が聞こえました。

それは意地悪そうな自分本位な声でした。

すぐ側を通っていた悪魔の男の子は、天使の女の子に向かってニヤリと笑うと、一目散に駆けました。おばあさんの家を覗き込みますと、おばあさんが今にも泣きそうな孫娘を怒鳴りつけています。

孫娘は今日もおばあさんを結婚式に呼ぼうとして、訪ねてきたのです。それなのにおばあさんときたら、杖をふりまわさんばかりの勢いでがなり立てておりました。

「なんでこんなところでうじうじしてんだい。来なくていいって言っただろう!」

「でもね、おばあさん。やけど用や怪我用の軟膏がたくさん必要になったのよ」

「こんな時期にやけどなんてバカばっかりだよ、ほらほらいきな、そんなもんあたし一人でも用意できるんだよ!」

「だけど」

結婚式のことばかりではありませんでした。おばあさんの眼は、もうほんの少ししか見えません。孫娘はそれを心配なのもあって訪ねて来るのです。でもおばあさんの頑な心は訪ねるたびにひどくなってきて、今では孫娘の足音を聞くだけでイライラするほどです。

孫娘は、仕方なくおばあさんに見られないところでこっそりと家の用事をして出て行きました。

静かになった家の中で、おばあさんは一人でぶつぶつ、こんな風に言っておりました。

「まったく、二度と来なけりゃいいんだよ。静かになって、せいせいした!」

おばあさんは一人になりたいのです。心配する孫娘の気持ちも撥ね付けて、せっかくの親切にも意地悪な事をたくさん言っておりました。

「あーあ、なんて疎ましい眼だろうね。飲んでも飲んでも効きやしない」

言いながら、おばあさんは窓辺の小さな小さな鉢に植えてある、小さな小さな薬草の葉っぱを2枚ちぎりました。これはおばあさんの眼を悪くしないようにする葉っぱです。それを飲むと眼の病気が進むのはおさえられますけれど、なんだかとてもイライラしてしまうのでした。

おばあさんは孫娘のことはどうでもよくて、ただ自分の眼だけがよくなればいいって、そう思っていました。悪魔の男の子は、魔王に報告しようとしました。悪魔の男の子は、このような振る舞いは実に自分勝手なもののように思えたのです。ねえ魔王さま、こんな人間の欲望を叶えてやってはどうですか。

「バカ!!」

しかし、天使の女の子がきつく叫ぶと悪魔の男の子の手を引いて、おばあさんの家を出て行きました。出て行く時に、ガシャンと音が聞こえたような気がします。

「待てよ、天使!」

「うるさい!」

「なんだよ、どうして止めるんだよ!」

「ひどいわ、あんなこと」

「何がひどいんだよ。あの薬草はあのばあさんの眼をよくするんだろ!」

「ちがう、ちがうわ!」

天使の女の子は走る足を止めました。そうして悪魔の男の子の方を向いて、ぎっと睨みつけました。

初めて天使の女の子が、悪魔の男の子の方を向きました。けれど、悪魔の男の子はあまりに怒っておりましたから、むっとして顔を背けてしまいました。

「お前な、なんであんな邪魔するんだよ!」

「あんなの、ちがう」

「違わねーよ、お前だって思うだろ? ばあさんの眼がよくなってほしいって。ひとりにしてやったほうがいいって!」

「違うわ。あのおばあさんには、もっともっと、別のお願いごとがあるんだもの!」

天使の女の子の言葉に、悪魔の男の子は黙り込みました。しずかになった夜の道に、天使の女の子が胸に手をあてて言いました。

天使の女の子には聞こえました。おばあさんは本当は、孫娘の結婚式のドレス姿が見たくて見たくて、そればっかりを考えておりました。でも、おばあさんの眼が悪くなればなるほど、孫娘はおばあさんの世話を焼きにやってきました。そして、孫娘がおばあさんの世話をしにやってくればくるほど、花嫁がドレスを作る時間が無くなってしまうのです。だからおばあさんは、眼を悪くしなくするきついお薬を飲んで、そしてわざと孫娘にやつあたりをしたのでした。そうすれば孫娘は来なくなって、ドレスを作る時間が増えるでしょう。

おばあさんは、誰よりも孫娘の幸せを祈っていたのです。

そんなうそつきが、天使の女の子にはとても愛しいものに思えました。

けれど、天使の女の子が尊いと思った願いも、悪魔の男の子が強いと思った欲望も、そのどれも、だれも、叶えられる事は無くなりました。

家具職人の旦那さんのお願いも、薬屋のおばあさんの自分勝手な振る舞いも、悪魔の男の子と天使の女の子が、たがいに邪魔をしたのですから。