男運なんてなんとかしてやる。

彼がその魂を見つけたのは、本当に偶然だった。

自身の住まう界のほとりを流れる、死んだ魂が行き交う場所。この界の側には、比較的善行を為した魂が多く流れてくるのだが、そのせいもあってか、それらが次に住まう界を探している様子を見る事が出来る。

彼は鍛錬や狩りの合間に、そうした場所で魂がただ流れて行く様を見るのが好きだった。それを見つけた時も、たまたまのんびりとした時間を過ごしていた時だ。

ひとつの魂の輝きを見つけた。

どうやら、次の生の行き先を見失なっているようでおろおろと彷徨っている。

彼らはそうした魂を導くのも仕事だ。仕事といっても、魂だけの状態で界をうろうろされても困るから、仕方なく始末しているだけなのだが、時折、そうした魂の行く末を見守る仲間も居ないわけではない。

彼自身はそういう趣味は無かったのだが、その時は何故か気になった。

それは非常にぴちぴちぷりぷりしていた。

前世はよほど健全な一生を全うしたのだろう。どのように死んだのかまでは知らないが、禍根に残るような死ではなく、生を十分に謳歌した後……すなわち、何も思い残すことなく死んだに違いない。それほど元気で、愛らしかった。

「なんとまあ、可愛らしい魂だなあ」

思わず手を伸ばすと、その光はひょいと彼の手に乗った。

そっとなでてみると、懐くようにぷるぷると揺れて彼の無骨な指にくるりと光を絡めてくる。通常の魂ならば、彼の持つ光の魔力にあてられて萎縮するはずなのに、この魂は何も感じないのか……あるいは、彼と並び立つほどの力を隠し持っているのか、楽しげに彼の手の上で丸くなったり伸びたりしていた。

魂というのは、ある意味無垢で原始的な状態だ。その愛らしさは、この魂が持つ力そのものなのだろう。

彼は界のほとりをぶらぶらと歩きながら、手に乗せた魂を揺らして光の加減を愛でていた。

だが、あまりにもその魂がぴちぴちぷりぷりと元気だったからか。やがて彼の手から逃れるように元気よく、ぷい……飛び出して行ってしまったのだ。

「しまった」

あっ……という間の出来事だった。慌ててつかまえようとしたがそれは、この界随一の戦士のはずの彼の手を軽やかにすり抜け、くるくると迷った挙句に、ひょい……と転生の流れを飛び越えたのだ。

ぽちゃん……と音をたてて、その魂がとある界へと吸い込まれていく。

彼は目を凝らす。

「不味い……」

その界は、この魂が行く場所ではなかった。その証拠に、魂の輝きが見る間に失われて弱々しくなっていく。彼はなんとか手を伸ばし、その魂が転生してしまう前に捕まえようとしたが、彼の指が届く前にそれは為されてしまった。

一度転生が為されてしまえば人の子の領域であり、彼が易々と手を出す事はできない。

光の領域の勇と戦を統べる戦神シャンは、彼らしくもなく呆然としてしまった。

「なんてこった……」

あの魂は迷い子だった。シャンならば正しい界へ導くことも出来たのに、うっかり手に乗せてその輝きを愛でていたばかりに、全く異なる界にやってしまうなど。

大きな体躯に彫の深い厳つい顔。戦で失った左の眼窩は眼帯が覆っている。その顔をぐるりと囲うのは、獅子のたてがみの様な黄金色のもしゃもしゃの髪と髭。泣く子も黙る戦神シャンは、風格あるその姿を今は小さく丸めて、魂がいってしまった界を見た。

愛らしいあの輝きはそこにはなく、ただ静かな水面のごとく、界の境界がゆらゆらと揺れているだけだった。

****

人の子の一生など、神々にとっては瞬きの間のことである。

1つの界が出来上がり、そこに人の子を住まわせ、王国を築き、何代にも渡って歴史を刻む。そうした巡りを幾度も見て来たシャンにとってもまたそれは同様だ。

だが、どうしても気になった。

例の、うっかり別の界にやってしまった魂の行方だ。

どうしてもどうしても気になって、シャンはその魂の行方をずっと見守り続けた。

その魂は地球という名の惑星に人が住まう界の、日本という国で女子に転生し、「コハル」という名前で16歳までは、弱いながらもまだ健やかに過ごしていた。運命が変わったのは16歳からだ。

コハルの周囲にどうしようもない男達が群がり始め、コハルもまた、何をやっているのだというほど、その男達の手を取ってしまう。いや、これはコハルに問題があるわけではない。コハルの伴侶を巡る星回りが、いびつに歪んでしまっている。端的に言うと極端に男運が悪いのだ。

ともかく何をやっても、家族以外の男に関わるとダメだ。

15歳までは女子校だったからそれほど被害は無かったようだが、16歳になり共学になってからというもの、コハルは何度も何度も恋に傷つくようになった。

何度も男に騙され、追い回され、男の影に恐怖して、それなのにコハルはいつも堂々と男と相対してきた。男運の無いのは転生の巡り合わせだというのに、一体自分の何が悪いのかといつも自問自答し、ダメな男はきっぱりと突き放す。それなのにやはりダメな男に騙されて、表面上は平気そうでも、どんどんコハルの魂は傷つき弱っていく。

あれほど可愛らしく輝いていた魂の光が小さくなってしまった様子に、見守るシャンの心が傷んだ。あんなに愛らしかった魂の輝きを失くしてしまったのは、自分にも責任がある。分かっているのに弱っていく様を見せつけられて、それなのに手出しの出来ない状況は、どんな戦でどんな怪我を負うよりこの戦神を堪えさせた。

そしていよいよ決定的なことが起こった。

それはコハルが人間でいうところの28歳になった時、かつて別れた男に刃物を持って追いかけられ、逃げる途中で階段を踏み外したのだ。

人間の肉体は脆く、コハルの魂と身体はとうとう分かたれた。

傷つき弱って怯え、寂しげに震えている小さな小さな魂を、シャンはそっとすくい上げる。

そうして、己の手の中で大事に大事に蘇生させる。コハルの肉体を魂が傷つき弱る少し前の16歳まで巻き戻し、その中に魂を戻す。本来ならば、魂だけの姿にして0歳からやり直させるのが一番いい方法だ。だがシャンはそうしなかった。0歳にしてしまうと、コハルではない別の人間になってしまう。短い間とはいえ、コハルをずっと見守ってきたシャンには、何故かそれが出来なかった。

己の我侭だと分かってはいたが、神の本質というのは傲慢で自分勝手な存在だ。

16歳に戻ったコハルにシャンは、明るく言う。

『悪いな。…あんた、生まれてくる世界間違えてたわ』

そうして、彼女にもっとも適した世界へと送り届けた。

****

宮間小春という女が刃物を持った男に追いかけまわされ挙句に階段から足を踏み外して落ちて死に、グリマルディにある小国シャンカラのカカラ神殿にて16歳の姿で生き返って、もうすぐ一年になろうとしていた。

そのカカラ神殿の裏庭で、黒に近い栗色の髪をひとつに束ねた少女が、ベンチに座って何か縫い物をしている。よくよく見ると手元のそれは、女官が肩に巻きつける臙脂色の肩掛けだ。

「よーう、コハル! 縫い物か? 相変わらず仕事熱心だな、感心感心!」

少女に野太い声を掛けた神官は、カカラ神殿の神官長補佐シャンハだ。毛髪の無い頭、左眼に眼帯。背も高く筋骨も見事な偉丈夫である。しかもその左半身には神を讃える刺青が施してあり、相対するものを圧倒する迫力の男だった。

呼ばれた少女コハルが。縫い物の手を止めて顔を上げる。

「シャンハ様? 首都の大神殿に行かれてたのではなかったんですか?」

シャンハはコハルの隣に腰を下ろし、馴れ馴れしく小さな肩に腕を回した。大きな身体のシャンハが小さなコハルの肩を抱くと、コハルがさらに小さく見える。シャンハはぎょっとしたコハルが逃げ出す前に、そっと耳元に唇を近づけた。

頭髪が無く左眼に眼帯を着けた刺青の男が初々しい少女の耳元に顔を近づける様子は、これが神官と女官でなければ、どう見ても悪い男が少女をかどかわしているようにしか見えない。

「コハル……今は2人っきりだろ? だから『様』だなんてのはよして、シャン……と呼、むぐうぅ!」

しかし、少女もまた初々しいだけの女官ではなかった。シャンハの迫力などものともせず、大味で厳つい顔に付いた唇をぎゅっ!……と指で摘んで押しやった。

「はいはい。分かりましたからシャンハ様。大神殿に赴いてお疲れでしょうからお部屋でお休みになられてはいかがですかー?」

「棒読みひでえ! 仮にも神様に向かって棒読みとか、もっと心込めろよ!」

シャンハは摘まれた唇をさすさすとさすりながら涙目で訴えた。コハルはそんなシャンハをちらりと横目で見て、呆れたようにため息を吐く。

「仮にも神様なら、いきなり女官の肩を馴れ馴れしく触るなんてセクハラしないで下さい」

「神様だから多少の強引さは許されるんだよ」

「神様だからこそ遠慮してください」

「じゃあ神様っていうの無し。恋人だか……、痛い痛い!」

コハルがシャンハの耳を引っ張っている。……カカラ神殿の神官シャンハと女官コハルの、いつものやり取りだ。

しかしながらこの神官シャンハと女官コハルの間には秘密があった。先ほどコハルが「仮にも神……」と言った、それはまさにその通りなのだ。

シャンハはこのグリマルディで戦神シャンとして崇拝されている、本人……ではなく、本神なのである。そしてコハル……本名を宮間小春というが、彼女が地球の日本という国で死んだ後、16歳の身体で転生させたのも、この戦神シャンなのだった

なんでもコハルが死ぬ前に極端に男運が悪かったのは、このシャンという戦神がうっかり手を滑らせてしまったために間違えた界に転生してしまったかららしく、その所為で死んでしまったコハルを生き返らせてくれたのだという。

そこまではいいのだが、コハルがカカラ神殿で生き返って半年後、女官としてすっかりこちらの生活にも慣れて来た頃、なんと戦神シャンは自らコハルの前に姿を現した。

首都の大神殿から遣わされた新進気鋭の若き神官シャンハとして。

****

コハルの言うとおり、シャンハはついこの間までシャンカラの首都シャマハラに出向いていた。大神殿が各神殿に配布している、女神シャマの糸を取りに行くためだ。

その糸は、神殿に仕える者の服全てに少しずつ縫い込まれる聖なる糸だ。また、神殿でお布施と交換に渡される守り袋にも縫い込まれている。大神殿で育てられた綿を紡ぎ、大神殿の奥に湧く水で洗い、大神殿に植えてあるシューファンという木から収穫される紅色の実で染められる糸は、身に付けるものに使えばその者を守るお守りになるのだという。

毎年、神殿の神官長かそれに準ずる者が頂きに出向くらしい。

「べっつにそんなことしなくっても、この神殿は俺がいりゃあ大丈夫なのになー」

「そんなご利益の無いこと言わないでください。女神の糸を使うことが出来るって、女官達は張り切ってるんですから」

「ってことは! お前も張り切ってるってことか!」

「そりゃあ、初めてですし」

「そうか、初めての相手が俺か。ならやさしくていねいに慎重にほぐして……、むぐうっ!」

「意味がわかんない」

敬語を止めて、再びシャンハの唇を指で挟んで、ぎゅっと痛めつけてからコハルは自分の縫い物に視線を落とした。

女神シャマの糸を神官の布に縫い込めるのは女官達の仕事だ。毎年、本当に少しだけの糸を神官の身に付ける物全てに縫い付けていく。新しい神官服も全てこの時期に納入され、最後の仕上げに女官達がシャマの糸を縫い込んでいくのだ。そこに特別な儀式はないが、たくさんの新しい衣服に少しずつシャマの糸を縫い込む作業は女だけに与えられた仕事であり、それを着たものにも縫い込めたものにも、よき守りの益があるのだと言われている。

神官の服だけではなく女官達が着る服、神殿で使う寝具やカーテンに至るまで、思いつく限り、神殿に存在する布製品にシャマの糸は付けられていく。

コハルはグリマルディではない世界の生まれで、シャンカラの人間よりは信仰心は薄い。だが、コハルは男っ気の無い神聖なここの暮らしをとても気に入っていて、自分の知らない様々な仕事や行事に携わることを楽しんでいた。今回の聖なる糸を縫い込める仕事はこの世界に来てから初めてのことで、楽しみにしていたのだ。

顔を綻ばせて縫い物に視線を落としたコハルを、シャンハは片方の銀瞳で優しく見下ろした。ぽんぽんと頭をなでると、懐から赤い糸を一本取り出す。

「そんなお前に、ほれ、一番乗りだ」

「え?」

「ちょうど縫い物してんだろ? それに付けとけよ」

針を持っていない方のコハルの手を取って、シャンハは糸を持たせてやった。コハルは手の平の上の糸とシャンハを見比べながら、珍しく困った顔をしている。

「これ、神官長さまから許可貰ったの?」

「それとは別口だ。お前の分」

「別口って……」

聖なる糸は数も用途もきちんと決められていて、いつ、何に付けたかは記録しなければならない。いくらシャンハだからといって、こんな風に勝手に付けてはいけないはずだ。困るという風に眉をへにゃりと下げると、コハルは糸を握った手をシャンハに戻した。

「ダメよ、シャンハ。ちゃんと神官長の許可を貰わないと」

「いいからいいから。あっ! じゃあ、俺のに付けてくれよ、ほら」

「え?」

神官おれの持ち物なら、怒られたって俺が責任取ってやるよ」

「そうじゃなくて!」

「その糸、俺が本人から貰ってきたやつなんだよ。マジで。帳簿なんてつけなくてもいい本物」

「本人って……」

「ほら、俺の」

言って、シャンハは腰に巻き着けていた臙脂色の飾り布をするりと抜いて、コハルに渡した。

シャンカラの神官や女官は、神殿に従事している者であることを示す為に、臙脂色の布を身に付けている。男の神官は腰に、女の神官や巫女、女官は肩に、大きな臙脂色の布を掛けたり巻いたりするのだ。この臙脂色はシャマが一番最初にこの世界に植えた植物だと言われているシューファンの実で染められていて、聖なる糸を染めているのもこの色である。

コハルはシャンハから腰布を受け取ると、思いっきり顔をしかめた。

「なんで、私がシャンハの腰布に糸つけないといけないの」

「えっ!?」

それを聞いて、ガーン!!

……とでも言いそうな顔をする。

「か、かかか、仮にも神様の腰布だぞ!? ありがたいと思って付けろよ! いや、付けてください」

「でも腰布って……」

せめて法衣ならありがたみもあるのに、腰布って……。コハルがぶつぶつ言っているのはわざとである。コハルがすげなくすると、シャンハは時々大袈裟に表情を変えるので、それが楽しくてついつい軽口を叩いてしまうのだ。

もちろん、付けないなどという意地悪をするつもりは無い。

「ほら、貸して」

「お、付けてくれるのか? やっぱりやさしいなあ、コハルは。俺のコハルは!」

「いつからシャンハのになりました」

「生まれた時から俺のものだよ」

「調子いいことばっかり言うんだから」

コハルは神様のありがたいお言葉も適当に聞き流しながら縫い物の縫い糸を始末し、針から糸を抜いた。シャンハからもらった糸を新しく針に通して、シャンハの腰布を受け取る。その一連の作業を見ながら、シャンハはコハルの手元を覗きこんだ。

「これはお前の肩掛けだろ? どうしたんだ?」

「干してたときに、引っ掛けてしまったの」

それですこし破れてしまって、繕っていたのだと言う。そんなもの俺が新しく買ってやるのに……と、いつもの軽口でいうシャンハに、コハルが顔を上げて小さく笑った。

コハルの笑顔にシャンハの表情が止まる。

だがコハルは気に止めずに小さく笑ったまま首を傾げた。

「だってこれ、こっちに来てずっと使ってるから。大切にしたいの」

笑って、再びシャンハの腰布に視線を落とす。短い聖なる糸はすぐに縫いつけ終わってしまった。長方形の大きな布の端に小さく縫われた糸は、最後まで綺麗に縫ってしまって、三つ折りにしている中に入れてしまう。こうしておけば、端の始末をしなくても糸が出てくる心配は無い。

「出来たわよ、ほら、シャンハ?」

妙に静かになったシャンハの顔を、今度はコハルが覗きこんだ。シャンハは片方の瞳を潤ませてぼーっとコハルの顔を見ていたが、ハッと我に返った。

「どうしたの? やっぱり大神殿に行って疲れたんじゃない?」

「この俺が、疲れるわけないだろうが。……コハル、お前ほんっと可愛いのな」

「……はあ? 何言ってるのよ。ほら、これ」

折角可愛いと褒めたのに、むっとしたままの表情で仕上がった腰布を返すコハルを、シャンハはもう一度じーっと見つめる。その様子をコハルがうさんくさそうに見返した。

「何?」

「決めた」

「え?」

コハルの手には今、2枚の布がある。シャンハの神官用の腰布と、コハルの女官用の肩掛けだ。どちらも同じ色で、どちらも同じ位の大きさである。シャンハはコハルが繕っていた肩掛けを手に取ると、立ち上がった。

「こっちは俺が貰うわ」

「はあ!?」

「そっちはお前にやるよ」

「ちょっと!」

「この戦神シャン様の身に着けてたもんだ。おまけにシャマの糸が縫いつけられているときてる。どんなもんよりご利益があるだろ?」

「何言ってるのよ、返して」

コハルが慌てて立ち上がると、シャンハは奪い取った肩掛けを自分の腰に巻きつけてしまった。それを見て、コハルが「こら、シャンハ!」と、小さい子供でも叱るかのように眉を吊り上げる。

その様子を楽しげに見下ろして、シャンハはもう一枚の布をコハルの肩に掛けてやる。

「ほれ、こうしてると分からねーだろ、俺の腰布」

「いや、そういう問題じゃなくて」

コハルがシャンハの腰に手を伸ばすと、ひらりと避けた。もう一度伸ばすとさらに避ける。ひらひらと裏庭で追いかけっこをしていると、シャンハを呼ぶ神官長の声が近付いてきた。流石に女官が神官長補佐の腰を狙って手を伸ばしている姿を見られるのはよろしくない。

コハルが躊躇った隙に、シャンハが、しゅたっ……と片手を挙げた。

「細かいことは気にすんな!」

「だから、気にするとかしないとかじゃなくて、聞きなさいよ、なんで私がシャンハの腰布を肩に巻かなきゃなんないのよ、返して!」

「俺の匂いに包まれろ!」

「変態!!」

変態呼ばわりにも気にすること無く、頭髪の無い頭に眼帯という厳つい顔で陽気に笑って、「じゃあ、俺お勤めあるから!」……と言い残すと、シャンハはコハルの肩掛けを腰に巻いたまま行ってしまった。

何故か、コハルの肩にはシャンハの腰布がかかっている。

****

はあ……とコハルはため息を吐いた。

いつもはコハルの言葉に一喜一憂するシャンハだが、最後の最後は強引にコハルを翻弄する。あんな厳つい顔と厳つい筋肉、コハルは全然興味がないのに、頭を撫でられたりからかわれたりすると、どうしても意識してしまう。しかもシャンハはそもそも神様で、戦神シャンなのだ。その存在感は大きく、ついつい目で追ってしまう。

男なんて興味無いって知ってるのに、しかも神様のくせに、どうしてこんな風にコハルのことを追い掛け回すのだろう。あんなに楽しそうに。……そして性質たちの悪い事に、コハル自身もまた微妙に楽しかったりするのだ。何せここはコハルの知らない異文化の世界だ。心細くないと言ったら嘘になる。そんな中、コハルという人間が生きていたことを知っているシャンハという存在とのやり取りは、どんな形であれコハルを元気付けていた。

「責任感じてるんだろうな。……そんなの、気にしてないのに」

シャンハはコハルがこうなってしまった責任を感じているのだろう。強引だと自分で言うくせに、変なところで気を遣うのだ。だがコハルはもともと28歳の女だったし、伊達に男運の悪さに翻弄されてはいない。シャンハの軽口にいちいち頬を染めたり意識したりするほど純粋な乙女でもない。

掛けられた布は心なしかいつもよりもあったかくて、なんだか森の中にいるような香りがする。コハルは困ったように肩に掛けられた布に手を掛けた。

「何が、俺の匂いに包まれろ!……よ、変態め」

言いながらも、本気で怒る気にはなれずに再びため息を吐いた。臙脂色の掛布スカーフは1枚しか支給されていないから外すわけにもいかず、かといってそのまま掛けておくのもシャンハの思い通りのようで癪に触る。

そんな風に思い悩みながら、一度肩から布を取った。

「あ」

一陣の風が吹いて、コハルの手から布が奪われる。

それはふわりと浮いて、裏庭の木の高い位置に引っ掛かる。ついてないなと思いながら、コハルは木の側まで歩いて枝に手を伸ばした。

……届かない。

「うっそ……」

自分ってこんなに背が低かっただろうか。16歳の頃からコハルはそれほど背は伸びていないはずで、つまり28歳で死んだ時と今とでは身長は変わらない。

気を取り直してもう一度、うんと身体を伸ばしてみる……が、やはり届かない。

そうこうしているうちに、再び強風が吹いて別の枝へと飛んで行く。

「なんなのよ、もう!」

いつもはこんなことなかったのに、シャンハの布を貰ったらすぐにこれだ。やっぱり運が悪いではないか。やや逆恨み気味にぶつぶつと言いながら、飛んで行った布を追いかける。

3本目の木に引っ掛かったところで、やっとコハルの手の届きそうな高さになった。懸命に身体を伸ばして、布に指を掛ける。

強引に引っ張れば難なく取れたかもしれない。けれど、強く引っ張ったら、自分の肩掛けがそうなってしまったように破れてしまうかもしれない。それはダメ。そう思って、コハルはお行儀の悪いことを承知でスカートを捲り上げ、木の低い部分にある枝に膝を付いて体重を掛けた。

身体の伸びに余裕が出来て、たやすく布が手にかかる。

「取れた」

ほっとした瞬間。

バキッ!……と音がして、膝がじくりと痛んだ。枝が折れて膝を傷つけたのだ。おまけにその痛みにびっくりして、足を滑らせてしまった。

「きゃっ……!」

バランスを取ろうと地面に近かった足に神経をやると、木の下の湿った植物に足を取られてつるりと滑る。そのまま地面に尻餅を付いた……まではよかったが、どうやら足首を豪快に捻ってしまったようだ。

「いったぁ」

左膝は木の枝ですりむくし、右の足首は捻るし、……こんなについてないのは久しぶりだった。なんとか立ち上がろうと木に手を付いてみるが、両方の足に力が入らずよろめいてしまう。

「不味ったなあ……」

下手に動くと怪我がひどくなるかもしれない。コハルは冷静にそう考えて、少し休憩することにした。膝の方をなんとかすれば、立ちあがれるくらいにはなるだろう。丁度昼過ぎの時間だったことも幸いした。それほど仕事がたくさんあるわけでもなく、夕方までに帰れば多分大丈夫だ。

とりあえず膝のひりひりをなんとかせねばと、何か巻くものを探した。だが手ごろなものは何も無く、スカートを裂くわけにもいかない。シャンハの腰布があるが、それを使う気にはなれなかった。

仕方なく、痛みを我慢して膝の木の枝を払い、その場にそっと腰を下ろす。いつの間にか裏庭の林の、少し奥へと入り込んでしまったようだ。林の空気はひんやりとしていて、陽も陰っているからか肌寒い。

もそもそとシャンハの腰布(すっかりこの呼び名が定着した)を肩に巻き付けて、膝を怪我していない方の足を引き寄せてうずくまる。転倒したときに力を入れたからだろう。身体のあちこちが軋んで痛い。

ひとりで背中を木に預け、ぼんやりと空を見上げてみる。こんな風にしていると、とりとめもないいろんな記憶が甦って来る。この神殿に来た時の事。今でこそ、男っ気のないここの生活を快適に思っているけれど、最初の夜はひとりでこんな異世界にいるのが寂しくて、死んだ事実が怖くて、あまり眠れなかった事。刃物を持って追い掛け回された記憶。今度こそ大丈夫と思ったひとにやっぱり騙されて、またかと思って呆れて、でも寂しくて部屋で泣いたこと。

男運が悪いことは分かっていたけど、慣れてるなんて笑いながら平気そうにしてたけれど、でもやっぱり傷付かないことなんてないのだ。

そんなことを考えていると、何故だかぽたりと涙が零れた。

あわてて、ごしごしとこする。

「なんでこんなこと思い出すんだろ」

しかも、特定の男のことを思い出して寂しくて泣く……とか、そんな可愛い涙ではなくて、男運が悪かったことを思い出して情けなくてなんとなく泣くなど、28歳にもなって感傷的過ぎる。

こしこしとシャンハの腰布で涙を拭って、はふんと息を吐く。ちょっと頑張って歩けば裏庭に辿り着くかもしれないが、まだそんな気分にはなれない。

「シャンハ……」

思わずその名前を呼んで、我に返る。ちょっと待て。何故今ここでシャンハの名前を呼ぶんだ。コハルはうずくまっていた顔を上げて、ぎゅっと眼を瞑ってぷるぷると頭を振った。気持ちを鎮めるように、そのまま数を3つ数える。

「コハル?」

「え?」

呼ばれてぱちりと眼を開けると、目の前に、顔がもしゃもしゃした黄金色のたてがみのような髪と髭に覆われた男が、片方の瞳でコハルを見つめていた。コハルを見ている瞳は人のそれとは思えない本物の銀の色で、びっくりするくらい強く瞬いている。彫りの深い厳つい顔に眼帯を着けていて、恐ろしいともいえる風貌をしているが、その金色と銀色の力強さにコハルは何故か安堵を覚えた。

「シャン?」

「おう」

返事をした。

シャンハではなく神様の名前、シャン……と呼んでしまって、ぱちぱちと瞬きをする。

目の前にいる戦神シャンは、いつのまにか頭髪が無くて左半身が刺青に覆われている神官シャンハに戻っていた。いつものふざけているくせにコハルを気遣っている眼差しで、こちらを見ている。

「裏庭にもどこにもいないと思ったらこんなとこで何やってんだ。怪我してんだろ? 血の匂いがする、見せてみ」

「シャンハ」

ぎゅ……とコハルがシャンハの筋肉に顔を埋めて、抱きつく。

痛くて寂しくて悲しくて、心細くて動けない時に目の前に居たのが悪い。後からコハルはそう自分に言い訳するのだが、今はともかくよく分からない衝動に動かされて、目の前の神官兼神様に抱きついたのだ。

シャンハが動揺したように、だが力強い腕でしっかりとコハルの背中をささえてくれる。

「こ、コハル? どうした、なんだ、痛いのか? 俺がいたら平気だぞ。コハル……おい」

すんすんと鼻をすするとますます慌てる。

「泣くなよ。な、コハル。治してやるから。よしよし、痛いのか? 見せてみろ、ほら」

シャンハがコハルの背中を優しくなでながら、おろおろと慌てている。いっつも強気なくせに、こんな時は少しだけおろおろする、これがシャンハ。いつものシャンハの様子にコハルは安心して体重を掛けた。

「怪我は膝か? 見せてみろ」

身体を低くしたシャンハが、コハルを自分の太腿の上に座らせた。スカートの裾を膝まで捲り上げる。

「細っせえ足」

言われて急に恥ずかしさが込み上げる。がばっ……!と身体を離した。

「ちょっとシャンハ!」

「ん、暴れるな。治してやるから」

うぐ……と言葉を詰まらせて、足を出したままおとなしくする。

シャンハがコハルの足の、足首からふくらはぎまでをそっと撫で、膝の怪我を大きな手の平で包み込んだ。

ほんわりとあたたかな何かで足が包まれる。

「ほら、治った。そっちも見せてみろ」

瞬く間に膝の怪我が消え、驚いている間に今度はシャンハの手が、捻挫した方の足首に触れる。

再びほんわり温かくなり、痛みが消える。いつのまにか身体の節々が痛かったのも消えていた。ほわほわと温かくて、なんだかとても心地がよい。

「どうだ、痛くないか?」

「ん、大丈夫……ねえ、今の、足湯みたいね」

「足湯て! 折角の神様の力を足湯て!」

「ご、ごめん? でも、すごくあったかくて気持ちよくて、不思議だったから……」

「ふふん、俺一応神様だぜ? ま、普通は人間にこんなことしてやらねえが、コハル、お前は特別。俺様の恋人だし」

「いや、それは違うけど」

「ええ!」

相変わらず大袈裟にショックを受けた顔をして、拗ねてコハルを見ている。

「でも、ありがとう」

コハルが身体の力を抜くと、シャンハがその分抱える腕に力を込める。ありがとうと言ったコハルの顔をシャンハはじっと見つめていたが、やがて余裕の表情を取り戻して、ニヤリと笑みを浮かべた。

「なあ、じゃあお礼をくれよ」

「え?」

「コハルからのキス一回」

それを聞いて、コハルがきょとんと瞳を丸くする。次の瞬間、はー……とため息をついた。

コハルの様子に、なんだよ、ダメなのかよー……と、シャンハがしょんぼり顔になる。だがコハルは、んんー、とシャンハの腕の中で身体の向きを変えて顔を近付けた。

自分から言い出したくせに、今度はシャンハが盛大に驚く。

「こ、こ、コハル!?」

「目、つぶって」

なんだか、コハルの声もしっとりと濡れているように思えた。

シャンハが頬を赤くして、ぎゅっと目を閉じる。

ちゅ。

……と、音がして、シャンハの頭髪の無い頭に柔らかい何かが吸い付いた。

「え」

「はい、一回終わり」

「コハル!」

どこにキスされたのか分かって、シャンハが悔しげにコハルの腕を掴んで揺さぶる。

「なんでそこなんだよ!」

「どこに、とか、言ってなかったでしょう」

「普通、恋人同士のキスというものは唇と唇で、こう、がっつりするものだろうが、ケチ!」

「だって恋人同士じゃないし」

それにつるりとしたハゲ……じゃない、頭髪の無い頭って、なんだか触ってみたくなるのだ。いつもシャンハには憎まれ口を叩いてしまうから「触らせて」なんて言えないけれど、今日は特別だった。

シャンハの抗議を聞き流しながら、コハルはぴょこんと降りる。

身体から重みが無くなって、慌ててシャンハの腕がコハルの腰に巻きついた。抱えられるように引き寄せられたその力に、なにやら切羽詰ったものを感じてコハルが振り向く。

「シャンハ?」

「ぴょこぴょこ逃げるな、もう」

「別に逃げてないでしょ?」

「逃げそうに見えるんだよ」

ぶつぶつ言いながらシャンハも立ち上がり、コハルの小さな手を捕まえる。今度はコハルは自分の手の中から逃げずに、緑を楽しむように隣で上を見上げている。その様子を愛しげに見下ろして、シャンハは、ふう……と息を吐いた。

あー、可愛いなあ、コハル。マジで俺の嫁にしてえなあ。ダメかなあ。

戦神シャンのそんな独り言は、爽やかな風にかき消える。

聖なる糸を縫い付けた戦神シャンの腰布は、すっかり女官コハルの肩掛けになってしまっていて、さて、そのご利益はあったのかどうか。

ともあれ……。

ちいさな手は大人しくシャンハの手におさまって、無骨で太い指にコハルの細い指先が絡まっている。

その手の感触に、戦神シャンは満ち足りる。

今度は逃がさないように、しっかり握った。