ディルミナエルは二十も過ぎてから神官になった珍しい男だ。普通、神殿に仕える神官は十にも満たぬ歳で神殿に入り、厳しい修行を経て……神官としての位を上げていく。しかしディルミナエルは高位の神官であった父が亡くなった後、その魔力の穴埋めをするために随分と遅くに神官になったのだ。
もともと神官になるつもりはなく、神殿騎士を目指していた。内部に勤め政を行う職務ではなく、外で戦う職務が己の性分だったからだ。しかし人生とはままならぬものだ。
ディルミナエルはもともと、太陽王の加護と呼ばれる魔力を多く持っていた。こうした魔力は、夜闇の力が働く間の神殿の護りとして使われる。神殿はできる限り多くの魔力を有しておかねばならず、魔力を多く持つものは優遇された。ディルミナエルは他の同年代の神官よりもはるかに勤続年数が少ないにもかかわらず、帯びる魔力ゆえに地位そのものは高い位置にいる。
しかし実際には、地位は高いものの政には関わらない閑職へと追いやられていた。本人の実力で神官になったのではないと軽んじられ、ディルミナエル自身もそれは致し方ないと受け入れている。
そうしたディルミナエルに与えられた現在の仕事が、異界から喚び出した「ミヤビ」という太陽王の面を被った少女の護衛だ。
召喚によって現出したミヤビは十四歳だという。年齢の割にほっそりとしていて、もう少し若い風にも見える。受け答えの様子は賢く、なかなか心を開かぬ様子も立派なものだったが、警戒心は強いようだ。……もっとも警戒心が強いのは仕方ないかもしれない。なんの前触れもなく家族や知人から引き離され、見知らぬ世界に来たというのだ。大の大人であったとしても心許ないに違いない。
夜闇王との戦いについて理解を示さず出立しようとしないミヤビに、神官達は苛立ちを隠せないでいる。これまでの召喚によって喚び出された騎士達は皆屈強な男達ばかりで、あのように線の細い女の子供であったことはなかったらしく、神官達は、此度の召喚が間違いであったのではないかと騒めいているのだ。星の巡り合わせと座標を算出したのは、ほかならぬあの者達だというのに。
それでも、ミヤビが太陽王を模した仮面を身につけ、食事も摂らずに何日も過ごしている様子に、人ならざる力を感じずにはいられない。しかし神官達はミヤビを否定し続けるだろう。神官達にとって、夜闇王と戦わぬ騎士などどれほど不可思議な力を持っていても不要なのだ。
ミヤビがジシャノーテに召喚されてから数日、ずっと世話をしてきたのはディルミナエルだ。太陽王の仮面を被った人ならざる少女。突然こんな世界に連れてこられた彼女の不遇さに、元来真面目なディルミナエルが肩入れするのにそう時間はかからなかった。ディルミナエル自身、物心ついてから神殿に入った経歴もあって、神殿自体に完全な信頼を寄せてはいない。政に関わる神官達には国王のように振る舞う者もいて、端的に言うと神殿の一部は腐敗している。信用はできなかった。
しかし夜闇王の脅威もまた、間違いないものなのだ。もっともよいのは、ミヤビを元の世界に帰し、自分達の力で夜闇王をなんとかすることだろう。その「なんとか」の方法が見つかれば良いのだが。
古い文献などを漁って、調べてはいる。しかし、異世界から来た者が戦いに勝ち、その後どのように暮らしたかという記述はあっても、一度来た異世界の者を元の世界に戻したという記述は無かった。
その日も、ディルミナエルは夜遅くまで古い文献を調べていた。ただ、やはり闇雲に調べても手がかりはつかめず、明日もまたミヤビのがっかりした声を聞くのかとやや憂鬱になりながら顔を上げる。見える窓の外は暗く、夜闇の領域だ。ジシャノーテの夜は、夜闇王の力が強くなる。この時間は、蓄積した魔力を使って夜闇に侵されぬよう神殿を照らす。しかしその力には限界があり、照らされぬ闇の向こうには、普通ならば誰も足を踏み入れない。闇に触れると、夜闇王の魔力に侵食されてしまうからだ。
「……」
その夜の闇の向こうから、人の声が聞こえた気がした。
誰かいるのか。神殿の内部は明るい。ディルミナエルのいる書庫も、使用していない時でも夜闇に侵食されぬように魔力を絶やさない。ディルミナエルは気配を消し、影が映らぬように移動した。
「……ヤビ、を」
「役に立たぬ……」
「次を、召喚……」
どうやらミヤビのことを話しているらしく、その声の様子にディルミナエルは嫌な予感がした。想像通りというべきか、神官達は次の騎士を召喚しようとしているらしい。
確かに、ミヤビが夜闇王との対決を拒否している今、次の者が召喚されれば夜闇王の侵食を止めることができるかもしれない。ただ、次の異世界の者が来たとて、ミヤビのような哀れな者が一人増えるだけではないのか。
ミヤビの様子を見て初めて分かったのだ。異世界から騎士を召喚するなど間違っている。事情を知らされ、それでも行きたいと言ったものならばまだしも、そうではない者を無理やりこちらに連れてくるなど拉致も同然。神の名の下にそのようなことを行ってよいはずがない。
無駄とは分かっていても進言せねばならぬ。そのためにはどうするか……考えようとした時、別の意味の言葉がディルミナエルの耳を打った。
「殺せ」
神殿で聞こえるとは思えぬほどの物騒な言葉に、ディルミナエルが息をひそめる。
「ミヤビを殺して、次の召喚を……」
「それならば、今夜手配を……」
それを聞いた瞬間、考えるよりもディルミナエルは早く動いた。早く……と言っても、もちろんこちらの気配を悟られないように、猫が方向転換をするように静かに踵を返す。
素早く書庫を出て、まっすぐにミヤビの部屋へと走った。
****
「こっちの夜は本当に真っ暗なんだね」
『お前の世界にも夜はあるのか』
「あるよ、こんなに真っ暗じゃないけど」
『ほう、何か夜を明るくするものがあるのじゃな?』
こちらの世界に来てから、ミヤビは夜に眠くなる事がない。ミヤビには食事もお風呂もトイレも不要なのだが、睡眠が必要ないというのも同じように魔力の力なのだろう。どれほど起きていても夜眠くならないのは不思議だった。
だが夜に眠りが必要ない……というのは、最初は面白かったが、すぐに辛くなった。
どうしても夜起きているのが辛かったら、ソアレに頼むと眠ったような気持ちにさせてはくれる。目を閉じて寝台のふかふかを被って横になると、気がつけば朝になっているのだ。しかし眠ったという心地よさはなく、気を失ったのではないかという気持ち悪さと不自然さがあって、それ以来頼んでいない。
一日の長さがどれくらいで、ミヤビの世界と違うのか、時計を持ってきていないミヤビには分からない。夜の長さも当然分からないのだが、いつ終わるかしれない夜を一人過ごすのは孤独だった。ソアレがいてくれなかったら、頭がおかしくなっていたかしれない。こうして夜通しソアレと話して、長く感じる時間を紛らわせる。
話す時間はたっぷりとあったから、夜闇王との戦いや、夜闇王がいる場所なども聞いてみたのだが、それを聞いたところでミヤビには何の役にも立たなかった。太陽王の剣を持ち、西の果てで夜闇と戦った……とだけしか、ソアレ自身も知らないらしい。他にもいろいろ聞いてみたが、何か決まりごとでもあるのか、曖昧にはぐらかされる情報も多かった。
むしろ、ソアレはミヤビの世界の話を聞きたがった。ミヤビの学校の話や、家の話、カレーが好きとか、そんなどうでもいい話ばかりだ。
その日の夜も多くのことを話し、その合間に少し沈黙が落ちた時のことだった。
カタン……と音がして扉が開き、心臓が飛び出るかと思った。人が入ってくる気配にミヤビが振り向くと、侵入者は知った顔だ。
「ミヤビさま」
少し声を落とし、慌てた様子な男はディルミナエルだった。見慣れた顔にほっとしたのもつかの間、ディルミナエルはミヤビを腕の中に囲って、周囲を伺い始めた。
いきなりかっこいい男の人に抱き寄せられて、「うわ」と思った、よりも先にソアレが毒を吐く。
『なに!なにをしているのじゃ、この神官めが! ミヤビ、おい避けろミヤビ、お』
「ちょっと、ソアレ黙って、あの、ディル」
「しずかに」
切羽詰まったような声に、ミヤビの羞恥が緊張感に取って変わった。
「すぐにここを出ます」
「え?」
それ以上はディルミナエルは答えず、代わりにソワレが答えた。
『侵入者のようじゃな』
「侵入者……?」
ソアレの声はディルミナエルには聞こえない。ミヤビの声だけを拾ったディルミナエルは「お分かりになりましたか」とだけ答えて、あとはしずかに頷いた。
その時だ。
ヒュウ……と冷たい風が吹いて、明らかに空気が変わった。
振り向くと、いつの間にか後ろの窓が開いていて、顔を隠した神官が数人、入ってこようとしていた。
ディルミナエルがミヤビの腕を引いて、別の窓へと走り出す。
「逃がすな」
「どこにも行けぬぞ」
前方の窓の外は、道が繋がっていて、その上だけは昼のように照らされていた。しかし、どうやら前方からも誰かがやってくるようだった。
ディルミナエルが舌打ちする。
「挟まれたか」
『無闇やたらに飛び出すからじゃ、愚か者め。やはりミヤビには儂がおらんとダメなようじゃな、な!ミヤビ』
「え、いまそれどころじゃないから」
「それどころではないとは、どういうことです? とにかく……どちらか一方は倒さねば……」
ディルミナエルにはソアレの声が聞こえないからややこしい。不穏なことを決意したディルミナエルに、ミヤビが「えええ……」と反対する。こんなところでミヤビを抱えて、二組の敵に勝てるはずがないではないか。
「ディルさん、にげ、にげないと」
「前方も後方も塞がれている。安心してください、一組程度ならばなんとか……」
「や、だから」
『大した自信家よの。まあ、腕は立ちそうじゃが、ミヤビの前で戦おうという、その野蛮な心意気が』
「ちょっと、ソアレややこしいから黙ってて」
「ミヤビさま、こんな時まで独り言ですか」
「独り言じゃない、もう!とにかく! なんでこっちに逃げないの? 横に逃げようよ!」
ミヤビは道の端へとディルミナエルを引っ張った。つまり、道の上を照らす光から外れる草むらだ。暗くてちょうどいいし、壁もないのだからたやすく逃げられるはずだ。どこにつながっているかは真っ暗だから分からないけれど、昼間見て広い庭だったことは分かっているから、たった今の瞬間からは逃げられるはずだ。
それなのに、ディルミナエルは足を突っ張って拒否した。
「なにをバカな、そちらは夜闇の領域。足を踏み入れれば夜闇に侵食されて……」
「何言ってるのよ、夜だから暗いのは当たり前でしょう? それに……それに、死んじゃうよりはましだよ! ソアレ!」
『よしきた』
ミヤビが力を込めるとソアレの精霊力が働く。大の大人のディルミナエルがミヤビの力に負けて傾ぎ、引っ張られて光と闇の領域を超える。
神官達が「バカな!」と大きな悲鳴を上げた。
ディルミナエルも、大人気ない声をあげる。
「うわああ!?」
『はっはは、今の悲鳴聞いたか!? 大の!大人が!男が! ウワアアア!?じゃと』
ソアレの大笑いをディルミナエルが聞こえなかったのは幸いとしか言いようがない。