夜の帳の中に飛び込むと、途端に神官達の声が遠のいた。
夜の闇はミヤビの世界も同じだと安易に考えて飛び込んだのだが、ミヤビの知る夜の色とは全く違う、もっと濃くて深い。
しかし嫌な気持ちはしなかった。
「ミヤビさま……そちらにいらっしゃるのですか……?」
隣にいるディルミナエルが、大きな男の人なのに少し声が震えているのに逆に勇気付けられながら、ソアレになんとかできないかと問う。
『しかたあるまいな、目が効かぬというのは心もとなかろう』
やれやれとそう言って、ミヤビの目が夜闇の中でも効くようにしてくれた。「ディルさん、こっち」と、ミヤビがディルミナエルの手を握ると、どうやら彼もまた同じように目が少し効くようになったようだ。
暗闇の中、目が効くようになったディルミナエルに先導されながら歩く。周囲の静けさから、ようやく一息ついた心持になった。
ディルミナエルからミヤビが襲われた理由を聞いて、罪悪感に苛まれる。ミヤビがグズグズしていたせいで、神官達は業を煮やしてこんなことになったのだ。ディルミナエルは全然関係ないのに巻き込んでしまった。
「迷惑かけて、すみません……」
『迷惑なことあるか。ディルなんとかは太陽王に仕える身じゃぞ! 太陽王の加護持つミヤビにもまた同じように仕え……』
「ソアレは黙ってて。あの……」
おどおどとミヤビがディルミナエルを見上げる。三面一対の奇妙なお面を見下ろして、ディルミナエルが優しく苦笑した。
「『ソアレ』は何と?」
「あの……あー」
まさか助けてくれて当然と言っていますなどと、上から目線の言葉など言えず濁していると、ディルミナエルが続けた。
「私は太陽王に仕える神官です。その太陽王の加護を持つミヤビ様の無事をお護りするのは当然のことですよ」
「でも……神殿は……」
ミヤビを襲ってきたのは神官達だ。その上に誰がいるのかは分からないが、もし彼らの働きが神殿の総意なのだとしたら、ディルミナエルはそれに反したことになるのではないだろうか。
「よいのです」
「でも……」
「よいのです。ミヤビさま。私は……太陽王の存在そのものには敬意を払っていますが、神殿の政に対しては常日頃から疑問を持っていたのですよ。だがそれを正すだけの気概も勇気も持ち合わせていなかった。のらりくらりと過ごしていれば、少なくとも面倒ごとには関わりませんからね」
『ほ。なかなか気概のあるやつではないか。だが、言った通りじゃろ。ディルなんとやらが、ミヤビ、主を助けるのは当然のことよ』
「だから、ソアレは黙って……」
「私も『ソアレ』殿とお話しができればよいのですが」
ちょいちょい挟まれるソアレとの問答に、ディルミナエルが小さく笑った。いつも真面目で神妙な顔しか見ていなかったが、こうして笑うと、もともとが男らしい美形だっただけにすごい破壊力だ。今が夜闇の暗がりでよかった。
「ソアレ、ディルミナエルにもソアレの声が聞こえるようにできないの?」
『できる』
「えっ」
確かにディルミナエルがソアレと話をできたら、ミヤビが独り言を言っていると思われなくて便利ではないか。そう思ってお願いしてみたら、あっさりと答えが返ってきた。
「それなら早くそうしてくれたらよかったのに!」
『いやじゃ。どうして儂とミヤビの会話を邪魔されねばならんのじゃ』
「えっ、なにそれ」
むっすりとした声でソアレが答えたが、子供のわがままのような言い分はさすがに通せなくなったのか、力を少し送ったようだ。ミヤビの手がほんわりと温かくなって、つないだディルミナエルに伝わる。
『ほれ、しかたがないから儂の力を見せつけてやったぞ』
姿が見えたらふんぞりかえって言っていただろうが、残念ながらソアレは今、ミヤビの仮面でしかない。三面一対の真ん中の顔がむすっとしたが、残念ながらミヤビには見えなかった。
しかし、その言葉とお面の表情を見たディルミナエルが、おや……と首を傾げて、可愛いものを見たかのように笑った。
『おい、ディルなんとやら、何を笑っておる』
「いや、笑ってはおりません」
『いや、笑ったじゃろう。笑った。くそっ、儂がお面だからとバカにしおって』
「バカになどしておりません、ソアレ様。……太陽王のしもべたるソアレ様をバカになど」
「ちょっと、ソアレ、ディルさん……!」
話が通じ合うようになったら途端に仲良く話し始めた二人に(主にソアレに)、今は緊急事態なのだと冷静に思い出す。あまり騒いでは気づかれるのではないかと慌てたが、だが、この国で夜闇の領域に足を踏み入れる人間などそうはいないのだとディルミナエルが首を振った。
『それで……これからどうするつもりじゃ、ミヤビ』
「私?」
突然話を振られて、ミヤビが立ち止まる。ディルミナエルもミヤビの手を引いたまま立ち止まって、その言葉を待つように振り返った。
「私は……」
どうしたいかと言われれば、帰りたいに決まっている。でも、それが叶わないならば叶う方法を探さなければならない。一番の手掛かりは何だろう。
「ソアレ、教えて。私が元の世界に戻る方法は本当にないの?」
『……』
しばらくして、ソアレがポツリと言った。
『儂はそれに干渉できぬのじゃ。だが手掛かりを一つ教えるのならば、お前をこちらに呼んだ時、神官どもは太陽王の力を使った』
ミヤビが顔を上げる。
『太陽王は昼を司る。夜闇王とは裏表じゃ』
「つまり一対ってこと? ……呼ばれた時は太陽王の力を使ったってことは……」
喚び出す力を太陽が持っているのならば、帰す力を持っているのは夜闇王ということだろうか。ミヤビが思いついたことを口にすると、ディルミナエルも頷いた。
「……たしかに。太陽王は豊穣や光を喚び、夜闇王は生けるものを帰すと言われています」
それゆえ、生を失わせる者として忌まれているのだと。太陽王の力によってミヤビがこの世界に「生まれた」のであれば、それを帰す力を持っているのは……。
「夜闇王のところに……行けば」
あるいは、ミヤビを帰す力を貸してくれるのだろうか。
「しかし、夜闇王がそう簡単に力を貸してくれるでしょうか……あれは太陽王の力に反する存在で、ミヤビが倒すべき……」
『誰が、太陽王に反したと?』
「え?」
ディルミナエルの言葉を遮るように、ぴしゃりとソアレが言う。ミヤビも少し考え込んだ。これはずっと考えてきたことで、しかしソアレは答えをくれなかったことだが、本当に「夜闇王」は倒すべき存在なのだろうか。
夜闇の存在は昼を遮り、人々の活動を弱らせるというが、夜があるからこそ人は眠る。少なくともミヤビの世界ではそうだった。物語の中では、夜は確かに恐ろしい幽霊や魔物が出てくる時間だけれども、身体を休めたり眠ったりする時間でもあるではないか。
「昼も必要だけれど、人間には夜も必要……だよね」
「ミヤビさま?」
「ソアレ、私、夜闇王に会ってみたい」
ミヤビがそう決めて言葉にした途端、ほわりと心があったかくなった気がした。その温もりに比例するように夜の闇が濃く沈み、巨大な気配が近づいてくる。
ミヤビにははっきりと見えた。
隣のディルミナエルが息を飲み、ソアレが「ようやく来たか」とため息を吐く。
ミヤビとディルミナエルの前に、いつのまにか大きな獣が一匹、いた。夜闇の中にありながら、その毛皮は漆黒なのだとはっきりと分かる。顔は犬のようで、耳は賢そうにピンと立ってこちらを向いている。大きさは馬ほどはあるだろうか。その大きな獣はミヤビに向かって、ふさふさと尾を振っていた。
『ようやくきたか、漆黒。そして……』
カイネと呼ばれた大きな犬が、ミヤビに向かって頭をさげるように伏せをする。すると、その背中に誰かが乗っているのが見えた。
『夜闇王よ』
ソアレがノアフュテと呼んだ者が、カイネからゆっくりと降り立つ。
「妾を呼んだのはそたなかえ……?」
美しく柔らかで、どこかトロリとした響きの女の声が発せられた。