005.お前、案外可愛い顔をしておるじゃないか

女の人の声……というのが意外で、ミヤビが「え?」と思った次の瞬間、「んまああああ!」と感嘆の声が上がって、その黒い人物がつかつかと歩み寄ってきた。

「そなたが! そなたが妾を呼んだのか!? そなたが! なんという! なんという愛らしい!」

「ひいっ!?」

ディルミナエルが奇声を発した。

女の人はミヤビを素通りして、ディルミナエルの前に立ったのだ。そうして身体をくねらせながら、ぐいぐいと迫っている。

「ほほほ、そのような声を上げよって。ういやつよ。よしよし、そなたの呼びかけにこうして応えてやったからのう、安心するがよい」

どうやら女の人は、ディルミナエルが自分を呼んだと思っているらしい。ディルミナエルがミヤビとつないでいない方の手で「やめろ」とか「近付くな」などと言いながら追い払い、触れぬように仰け反っている。

「えっと、つまり……」

『うむ』

ミヤビが女の人に顔を……お面を向けると、ソアレがふう……とため息を吐いた。

『ノアフュテ、おい。それくらいにしておけ』

ぽつりと言っただけだが、結構な威力を発揮したようだ。女の人……ノアフュテがぴたりとおしゃべりを止め、ミヤビの方を向いた。

「おや、随分と可愛らしい娘を連れていること」

ノアフュテが両手を口元に充てて、クスクスと笑った。その様子は堂々としていて、それでいて少し茶目っ気があって、想像とは全然違う。

「あなたが、夜闇王……ですか?」

聞かれて、クスクス笑いをやめたノアフュテが、今度は落ち着いた……まるで可愛らしい自分の子供でも見るかのような優しい表情になって、首を傾げてミヤビを見下ろした。

「いかにも。妾が夜闇王と呼ばれる存在よ。愛らしい、陽王の騎士殿」

両手を持ち上げて、ノアフュテがミヤビの頭にそっと触れた。恐ろしくはない。それよりも、懐かしい心地よさを覚えてそれを享受していると、その両手の様子に初めて気がついた。

「ノアフュテさん……両手……」

「おお、これか。これはな、妾を封じ込めるための枷だな」

「枷?」

声を低くして問うたのはディルミナエルだ。ノアフュテがパッと顔を輝かせて、にっこりと笑った。

「そう。枷。主らジシャノーテの神官どもが、妾らの力を利用するためのな」

「利用って……。神官達が利用・・しているのは太陽王の力でしょう? 」

ミヤビの言い方に、ノアフュテが「おや?」という顔をした。ディルミナエルは眉間に皺を刻み、厳しい顔をしている。ソアレはお面なので相変わらず表情は見えない。

ノアフュテはミヤビに優しい笑顔を向けると、教え子が正解を持ってきた時のような顔で頷いた。

「利用、とはよく言うたの、娘。そう。神殿は太陽王の力を利用している。そして、あれらが敵とのたまう妾の力も、な」

「どういうことですか?」

「妾の話を聞くかえ? 娘よ」

ミヤビが頷くと、ノアフュテが話し始める。

それは、神殿に聞かされた話とは全く異なる話だった。

****

もともと、ジシャノーテには昼も夜もあったのだそうだ。比較的温暖な気候で暮らしやすい平和な小国、それがジシャノーテだった。太陽王も夜闇王もそこにはおらず、真面目な王族が国を治めていた。

しかしある時代、ジシャノーテは天候の異変によって不作が続き、多くの不幸を産んだことがあった。人々の心に余裕はなくなり、王族への不信が募る。天候の異変は王族の所為では決して無かったが、豊かな土地にすっかり頼りきっていて危機感が薄かったのは事実だ。

民からの信頼を取り戻すため、当代の王は強い魔力を持つ二人の術者に命じた。豊穣と恵雨を統べる術と、夜に跋扈する獣らを治める術を作らせたのだ。

術は程なく完成した。術の継続は、国の神官や魔導師など、魔力を持った者達によって持ち回りで行われることになり、ジシャノーテは永遠の豊穣と安寧を約束されたかと思われた。

しかし、術が完成した代に在籍していた一人の神官が、この二人の術者の存在そのものに目をつけた。二人の術者は魔力が人為らざる程強く、互いに引き合い、補完しあう。通常の者ならば互いを満たすことはできなかったが、二人の場合は違った。昼の力が満ちる時には夜の力が補充され、夜の力が満ちる時には昼の力が補充された。この周期が保持されれば、他の者達に術を使わせる必要は無い。

二人の術者を裏切ったのは、当時の神殿……神官達だ。

夜闇を統べる者に枷を付け、昼を司る者の肉体を奪い道具に封じ込めたのだ。互いの存在を質に取り、互いに干渉することを封じ、己の正体を口にすることを禁じ、彼らの正体を封じ込めた。そうして、昼を中心に世を動かすために昼の術者を王として、夜闇の術者を敵とした。人々は昼を崇め、夜を恐れた。

ジシャノーテの天候は安定し夜は平和になったが、二人の術者は永遠に魔力を供し続けることになる。王族の血統が幾度も変わり、神殿の立場もなんども変わり、一人の術者は英雄となり、一人の術者は敵となり、伝説となり、遂には神や邪神と崇められ、元の話は忘れられた。

元の記録は禁書として封じられ、全てを正確に知る者は誰もいなくなる。

こうして忘れられた二人の術者の上に、ジシャノーテの平和は成り立ったが、しかし百年に一度程度、二人の魔力を持ってしても抑えきれぬ天候の異変が現れた。

神殿が秘密を知っていた当時、この天候の異変は認知されており、数週間をやり過ごせばよいとされ、その際の天候不順に対する対応策も記録には残されていたのだ。ただ、時代が進むにつれてこれらの資料も全て禁書の中に含まれてしまった。ゆえに、人々の記憶には太陽王と夜闇王の伝説と、その力を利用する術だけが残ったのだ。

「そして、百年に一度の天候の異変……それに恐れを為した神官どもは、考えた末に太陽王に触れられる者を異世界から呼び出すことにした」

「え?」

太陽王に触れられる……とノアフュテは言った。しかし最初にミヤビが説明を受けたのは、夜闇王に触れられる……だったはずだ。

それを問うと、答えたのはディルミナエルだった。

「なるほど……太陽王の力を持つものでは夜闇王には触れられない……のではなく、この世界の人間には、いずれにも触れられない……」

「そう。この世界の誰にも妾達の封印が解けぬよう、この世界の誰にも触れられぬという術が施されておるのでな」

そのため、異世界の人間が呼び出され、太陽王の力が封じ込められた道具を使って夜闇王を倒す……というカラクリが作られたのだ。

「でもそれじゃあ、夜闇王が……」

『倒されはせなんだ。夜闇王の姿は誰も知らぬし、天候の異変は数週間もすればいずれ止まる』

その間、夜闇王が遣わした漆黒のカイネと太陽王は偽りの戦闘を行った。正確に言えば、夜闇王を守るために、太陽王はカイネと戦うフリをしたのだ。異世界からの騎士は、それが太陽王とカイネが作り出した茶番とも知らず、巨大な夜の獣を夜闇王と思い込んだまま、旅をし、剣を向け、倒した気になった。

そうしている間に天候は通常に戻り、それを騎士の手柄として神殿は褒めそやすのだ。

「そんな……」

「愚かしいカラクリよ。騎士達は己の勝利を偽りとは気づけず、可愛いカイネは恐ろしい化け物と謗られ、兄上は動けぬ身体で剣となって傷つけなくてもよい者どもを傷つけねばならぬ」

「あにうえ……?」

ノアフュテが頷く。

「ジシャノーテのために術を生み出したのは、ノアフュテとソアレーレ。かつては第一王子と第一王女とも呼ばれておったな」

術が生み出された古い古い時代、神と呼ばれるにふさわしいほどの無尽蔵の魔力を持った「人」が稀に生まれることがあった。当時の王子と王女も、そうした者だった。

ミヤビとディルミナエルは黙り込む。

全てが本当かどうか、話が大きく……また神殿の話とは異なりすぎていて、把握できない。しかし、たった今、ミヤビの目の前にいる夜闇王ノアフュテとそのカイネは、全く邪悪なものには見えず、少しの恐ろしさも感じなかった。

長い沈黙の後、ディルミナエルがポツリと言う。

「ですが、そうすると……今代の太陽王陛下は、何処に……?」

「おや」

ノアフュテが小さく笑って、枷の嵌った両手を持ち上げた。

「ほれそこに、すぐそばにおるではないか」

「え……?」

「ミヤビ、ぬしの顔に張り付いておる」

「ソ、ソアレ……?」

『……』

ソアレが……、正確に言うとミヤビの被ったお面が、グウ……と唸った。

****

えっ、ソアレが太陽王!? ……と、慌てふためいてミヤビがお面を外そうとするが、もちろん外れない。

「な、何それ! 何で言ってくれなかったのよ!」

『儂は己の正体を名乗れぬのじゃ。そんなことをすれば、神殿の悪事が明るみに出るからの。正体もカラクリも話せぬ決まりになっていたのじゃよ』

「でも、今までは剣とかになってたんでしょう? なんでお面なの?」

「その面が、そもそも太陽王を封じた物だからの。太陽王は肉体を失っている。触れるものが望む形や武器になったのだ」

「答えになってないよ!」

『儂はな、身体を持たぬ代わりに持ち主を最も強くありたいと望む道具に変化出来るのじゃ。しかしミヤビ、お前は何も望まなかった。強くなりたいとか、この力があれば夜闇王を倒せる……などとな。それゆえ、儂も何にもなれなかった。このようなお面のまま、お前の前に現れることになったんじゃ』

「だって、それは……」

『いや、儂は感謝しておるんじゃよ。この姿は儂が封じられたそのときのままじゃ。カイネや夜の眷属共をこの手で倒さなくてもよいし、何よりもお前は儂の声を聞いてくれたじゃろう』

今までの騎士達は、誰にもソアレの声が聞こえなかった。ソアレの力に働きかけることが出来なかったからだ。しかし、なぜかミヤビにはソアレの声が届き、力を貸すことが出来た。

『さあ、ミヤビよ。ノアフュテの……妹の枷を解け。さすればお前は元の世界に戻れるじゃろうて』

「でも……そうしたら。ソアレ……ソアレーレは? 元に戻れるの?」

『儂はもう、肉体は失われておる。戻ることは叶わんじゃろうな』

「そんな……」

肩を落とすミヤビの前にノアフュテが立ち、枷の嵌った両手を差し出した。

「ミヤビ。……お前が、真に願い、ただこの枷に触れるだけで、お前は妾の枷を解くことが出来る」

「触れるだ、け?」

「そう。脆いものよのう。しかし、誰も為し得てくれなんだ。だれも、妾達の話には耳を傾けようとせなんだからな」

いつの間にか、ディルミナエルの手がミヤビから離れていた。励ますように、そっとミヤビの肩を支えて押し出す。

「だがお主は、妾達の話を聞いてくれた。たったそれだけのことが、今までの騎士達には出来なんだ」

「ノアフュテさん……」

「さあ、触れておくれ、ミヤビ。その時に一瞬、妾から解放の魔力が生み出される。それを使えば、お前を帰してやれるだろう」

ミヤビがディルミナエルを振り向いた。ディルミナエルは、小さく微笑んで、頷く。

「ミヤビさま。叶うなら、貴女のお顔を拝見したかったですね」

しかしそこに割り込んだのはソアレの……いや、太陽王ソアレーレの声だ。

『阿呆。誰がお前にミヤビの顔をみせるか。ミヤビ!!』

「は、はい!」

『グズグズするな、さっさとノアフュテの枷を解け』

「ソアレ……」

『そうして、お前はお前の世界にとっとと帰るがいい』

そんな言い方しなくても……と、最初のミヤビならば思っただろう。だがもうミヤビは知っている。この乱暴で尊大な声の裏には、ミヤビを庇う思いやりが隠されているのだ。

『夜が明ける前に。さあ』

「……」

ミヤビは片方の手を持ち上げて、ノアフュテの枷に触れた。

「どうか、ノアフュテの枷を外して」

それが正しい言葉だったかどうかは分からない。……しかし、ミヤビが触れた瞬間、パリン……と小気味のいい音が響いてあっけなく枷が壊れ、銀色の欠片になって飛び散った。

瞬間、膨大な魔力が解き放たれ、ミヤビの身体に流れ込む。

黒い闇の帯がミヤビの身体を優しく包み込み、まるで極上の寝台に沈み込むように後ろへと倒れていく。

「うそ、私、もう、帰っちゃうの!?」

「ははっ、帰りたい帰りたいとわめいておったじゃろうが。何を今更」

その声は、ミヤビの心に話しかけるのではなく、しっかりと耳に届いた。実際に聴覚を使って聞く初めてのソアレーレの声に、ミヤビがまっすぐ顔を上げる。

「ソアレ!?」

「さようならじゃミヤビ! お前、案外可愛い顔をしておるじゃないか」

闇に飲み込まれ落ちていく瞬間、ミヤビはお面を被った少年・・を見たような気がした。