今日は雨が降っておりますから、お散歩の代わりにお話をいたしましょうか。
私の家には、代々女性に受け継がれる薄い紫水晶のブローチがございます。このブローチにまつわる私のお話を、いたしましょう。
そのブローチは大変美しいブローチなのですよ。ええ、今、私の胸に着けておりますでしょう。見えやすいように外しましょうか。覗き込んでごらんなさい、何か見えまして?
そう。何も見えませんわね。それが普通のこと。ところが、これが少し、違うのです。
ブローチは私のひいひいおばあさまが作らせたもので、小さなころからこのブローチをいただくのがとてもとても楽しみでした。なぜかと申しますと、私にだけ、このブローチを覗き込んだ時に不思議なことがあったからです。
先ほど貴女が覗き込んだ時、何も見えなかったでしょう?
私が覗き込むと、水を固めたような美しい紫の向こうに、水の波紋と一緒に、それは綺麗な男の人が見えたのです。
男の人はどうしてだか、切なそうな、それでいてどこか諦めたような、見送って寂しく笑っているような、そんな顔をしておりました。そうして私が思わず触れようと指を伸ばすと、彼もまた、何かを掴もうとするかのように手を伸ばすのです。
しかし、その手に触れることは叶いません。
彼は小さな宝石の向こうにいる方なのですよ。幼い私には彼が小人かなにかに見え、閉じ込められてかわいそうにと思っておりました。父や母に相談もしてみたのですが、父や母が覗き込んでも、そこには何も見えないというのです。
あまりに見えると申しますと、お医者さまに連れて行かれそうになりましたから、私は黙って、時々彼を見つめては、宝石箱に仕舞う風にしておりました。私がドレスを着られる年頃になり、とうとうそのブローチを身に着けてもよいと言われても、私はなぜかそれを身につけることはしませんでした。私などが身に着けてはいけないような気がしたのです。
ですが、とうとうそれを身に着ける日がやってまいりました。
王城で開かれた夜会にて、私のデビュタントが決まったのでございます。
ブローチの薄い美しい紫に合わせたドレスを着て、初めての宴に私は胸を躍らせました。しかしあれほど楽しみにしていた夜会であったのに、ちらちらと私の頭に浮かぶのは、紫水晶の向こう側に居る彼のことばかり。胸にブローチを着けて、私はまるで彼にエスコートされて夜会に来たかのような気持ちになっておりました。他の男の人に声をかけられても上の空で、付添人にお小言を言われるほどでした。
そんな風に上の空だったからでしょうね。すっかりつまらなくなりまして、裏庭を歩いていたときのこと。私はよからぬ男の方に声を掛けられ、腕を掴まれてしまいました。何がおもしろいのか、笑いながら何かを話しかけてきますけれど、腕を掴まれた痛みにそれどころではありません。
さらに強く腕を引かれ、思わず「いたい」と言ってしまったときです。
優しいのに強い別の腕が、私の肩を抱きました。男を退散させ、私を見下ろすその人の瞳は紫水晶の色をしております。
それが私と彼の出会いのお話で、それからずっと、この紫水晶には誰も映らないのです。
……さて、ずっとこの紫水晶に彼が映らなくなったということは……どういうことか、お知りになりたい?
そう、もう貴女もご想像なさってる通り。彼は紫水晶のブローチからこの現世へと、まさに生きている1人の人間となって私の目の前に現れました。
本当に、とても綺麗な方に思っていたのだけれど、実際に目の前に現れると存外普通の殿方でしたわ。こんな風に言うと、あの人はとても楽しげに笑うの、不思議ね。
私はね、とても有頂天になりました。だって今まで綺麗だと思っていた人が目の前に現れて、それがとても親しみやすい殿方だったのです。夢中になるのも当たり前だとお思いにならない? 彼はいつも私のそばで、私をエスコートする殿方になりました。
彼は古いお家柄のご子息だということになっておりますけれど、その辺りの詳しいことはお話できません。ですが、これはお話には必要のないことね。
さて、彼と一緒にいるのはとても楽しかったけれど、そのうちとても悲しくなりました。
どうしてかと申しますと、彼は私を見ていないような気がしたのです。私を通して、誰か別の人を見ているのではないかと、私は感ずるようになりました。そう申しますのも、彼が私のお屋敷に飾ってある、ひいひいおばあさまの肖像画を見たときのこと。彼はこれまでにないほどうろたえて、丸一日、その絵の前から動かなかったのです。
それから、彼の雰囲気が全く変わりました。これまでほんの少しよそ行きだった彼の態度が、まるで親しい方を見るように変わってしまったのです。普通なら嬉しく思うことでしょう? けれど私は疑いました。彼は私を通して、ひいひいおばあさまを見ているのではないかって。だって、私、いつだってひいひいおばあさまによく似ているわねって、いろいろな方から言われてきて、とてもうんざりするほどでしたから。
だから、私と彼は、少しずつすれ違って、一度はもう会いませんと勝手につっぱねたこともあるのです。
その時、ふふ、その時ね、私は彼に言ったのです。あなたはずっと肖像画を見ていられる位、ひいひいおばあさまのことが好きなのでしょう。って。そうしたら彼は驚いて、私を抱き締めて、こう言ったのです。
私はあなたを愛しているから、あなたのひいひいおばあさまに、あなたをお嫁に欲しいと許しを請うていたのだよ。
……って。
これが私と彼の顛末。これからもう少しいろいろなことを経て、ようやく私と彼は、隣に並び合うことができましたの。
今、私を呼んだ声をお聞きになった? そう。今日、貴女を出迎えに出た私の主人がいますでしょう。彼の瞳はとても美しい紫水晶の色をしているの。あら、覚えていらっしゃったのね。そう。もちろん彼が、その紫水晶の方よ。
え? 彼は人間なのか、紫水晶の精霊なのか? ですって?
そうね、それについてもお話して差し上げたいのだけれど、でも残念だわ。外はもうこんなにも暗くなってしまいましたものね。どうやら雨があがったようですしお話の続きはまた今度、貴女が次に訪ねていらしたときにお聞かせすることにいたします。
今日は私の話を聞いてくださって、本当にありがとう。お気をつけて、帰ってくださいませね。