オルディナが目を覚ますと、そこは自分の宮の自分の寝台の上だった。いつもと違うのは、自分を抱き締めている腕がお腹にまわされていて、背中に誰かの胸板がぴたりと触れていることだ。もちろん自分を抱いている者の正体を、オルディナは知っている。
誰かの体温を感じながら眠る行為は、とても気持ちがよくて離れられない。オルディナは、身体に巻き付いている腕をそっと撫でた。男の骨格を感じさせる筋肉と硬い肌に、頼もしさと安堵を感じる。
「ん、ディナ……」
腕を撫でたからか、スレンが眠たげな声でもそもそとオルディナの身体を抱き直す。おさまりのよい場所を見つけると足を絡ませ、顎をオルディナの肩に乗せた。スレンの唇や鼻や長い睫毛まで、オルディナの首筋や頬に触れているのを感じる。
オルディナはいつも着ている薄い寝間着を着せられていて、スレンは下穿きだけ履いているようだ。明け方までの記憶はちゃんとあって、そこから記憶が途切れている。恐らく、眠ってしまったオルディナを、スレンが運んで着替えさせてくれたのだろう。
いろいろなことがあって、まだ少し頭の整理が出来ていない。しかし揺るぎない事もある。もう自分はスレンとスレンフィディナと離れる事は出来ないのだと知ってしまったし、共に居るのだと決めてしまった。
「一緒にいられるかな、スレン」
「いられるよ」
耳元からスレンの答えが聞こえて、オルディナは頬を染めた。枕からはいい香りがして、テーブルには柑橘水が置かれている。
オルディナはもう自分が孤独な王女ではないことを知っている。
****
「おかしくないかしら、ミーニア」
「よくお似合いです、オルディナ様」
「うん、ありがとう」
ミーニアがオルディナの髪を結い終わり、丁寧に仕上げを施す。
女性らしいドレスを纏い、豊かな黒髪を結わえたオルディナが鏡の前に立って己の姿を確かめていた。黒い髪を両側でまとめて結い、余った髪にリボンを編み込んで後ろに垂らす。たっぷりと布を使ったドレスは大げさでな形ではなく、しかし女らしさを損なわぬように身体の曲線に沿わせ、幾重にもギャザーを寄せて作られていた。胸元が開いているが、落ち着いた赤と奥ゆかしい襟元の刺繍のおかげでいやらしさは感じられない。
オルディナはいつも男の着るような形の上着としっかりとした形のスカート、乗馬服などが多いが、今日の雰囲気は少し異なる。衣装はアルフォールの女性の正装だ。
胸元に手をあてる。
そこに王から貰った馬の意匠のペンダントは無かったが、オルディナはもう怖くは無かった。
「オルディナ、きれいだね」
「スレン」
振り向くと、こちらもまた正装したスレンが立っている。長い金色の髪を後ろに撫で付けて少しきつめに編み、いつもは着崩している上着をしっかりと着込んでいた。温かみのある白地に、橙色にも見える濃金の飾りが華やかで、背の高いスレンの立ち姿によく似合っていた。
傍らにはフレクが控えていて、一礼して一歩下がる。その隣にミーニアが並んだ。ミーニアには、すでにスレンの正体と、そしてフレク……フュレクゲーリの正体が、家令のフレクであり家庭教師のレイクであり馬屋の少年ゲーリである……ということも教えてある。水に濡れて弱ったフレク声のウサギを助けていたミーニアは、案外すんなりと彼らの正体を受け入れた。
「スレンもよく似合ってる」
「ん」
いつものようにオルディナが手を伸ばし、襟から覗かせているスレンのスカーフの形を整えた。その手を途中で取って、スレンが口付けするフリをして、指先を少し咥えて離す。
「行こう」
オルディナが抗議を口にする前に、スレンがエスコートしようと手を引いた。フレクが扉を開き、ミーニアが後に続く。
いつも過ごしている宮を出て、オルディナは王に会いにいく。
****
先導するフレクに連れられてやってきたのは、王城の王の家族だけが出入りできる居間の扉の前だった。12歳で突然宮に入るまでは、オルディナもここで家族と共にお茶を飲んだり、兄にねだって本を読んでもらったりしていた。見回せば記憶にある場所とほとんど変わりがなく、本棚はウィスリールと一緒に読んでいた馬の画集がまだ並んでいて嬉しくなる。
王はオルディナの姿を見ると息を呑んで立ち上がった。
「オルディナ……」
居間に漂う緊張感にオルディナの身体も強張った。手放しで喜んでくれることを期待していたわけではないが、ここに来てはいけなかっただろうかと一瞬足が竦む。
しかし、自分から足を踏み出さなければ。そう心に決めて、スレンから手を離す。
「お父さ、……」
「ディナ……!」
そのとき、王が……父が駆けるように近付いて、躊躇う事無くオルディナの手を引いて抱き締めた。ぎゅっと抱き締めたまま、一度、二度、小さな子供にするように背中を撫でる。
「フレクと……ティワルズ王子から事情は聞いた、無事でよかった……!」
「お父様……」
身体を離し、改めて父の姿を見る。父は記憶にあるよりも少し渋みを増したようだ。父はオルディナに大きく頷いて笑ってくれた。
「お前からの書簡を読んだよ。フレクからも、説明を受けた」
「フレクが?」
フレクが何を説明したのか……と、王は言わなかった。オルディナが書簡にしたためたのは、オルディナがこれまで宮に入らねばならなかったのは何故かという問いと、これから王女としてどのように生きたいかという自分の気持ちだ。それを受けた王は、王自らの言葉でオルディナに全てを話した。聖苑に出向く戦士だけが知っている掟と、触れると神の気配が移るという金色馬の伝説を話して聞かせる。
馬の側近くで生きなければならないアルフォールの王族に、過剰な神の気配は危険だった。王達も神官達もオルディナが宮から出られる何かよい方法はあるかと調べたが、スレンフィディナの力と気配は想像以上に強く、オルディナに触れた王が近付くだけで、何日もの間馬が怯える。そのために宮から出す訳にはいけなかった。
王は言い訳はしなかった。それがオルディナのためだとも言わなかった。ただ王としての判断で、王女と馬の自由を犠牲にして、王城の安全を確保したのだと言った。
いや、ただ一つだけ、言い訳をした。
「ずっと、私達は怯えていたよ」
「……怯えていた? 私に、触れる事を?」
「いいや、違う」
オルディナの少し硬くなった声に、王は静かに首を振る。
「お前がメーア・ヴェンターナに奪われるのかもしれない、お前は私達を恨んでいるかもしれない、それを怯えていた」
王がそう言ったとき、スレンの手がオルディナの手をぎゅっと握った。その瞬間、室内であるはずなのに草原を駆ける風が吹く。驚いた王が一歩下がり眩しさから身を守るように瞳を細める。
「護衛のスレン……メーア・ヴェンターナか……」
「スレン……!」
オルディナの声に王が目を凝らすと、スレンが居たはずのそこには美しい体躯のメーア・ヴェンターナがいた。カツ、カツ……と蹄を鳴らし、王を見下ろしている。その姿は確かに神と見紛うばかりの鮮やかさを放ち、見る者に畏怖を植え付けた。
しかしオルディナがスレンフィディナの顔を見上げると、愛馬は痛みを堪えるような瞳でじっとオルディナを見下ろしている。不安そうな表情を見て、オルディナの硬くなった心がふっと柔らかくなる。
「お父様。私……スレンフィディナに奪われたりしません」
「ディナ……」
「お父様達を恨んだりもしてない。するはずがないわ。フレクやミーニア……それから、大事なスレンと一緒にいる宮をくださって、私に王女としての仕事もくださった」
オルディナは書簡にしたためていた内容をもう一度問う。自分が王女として……いや、スレンフィディナと共に在るオルディナとして、出来る事と出来ない事を相談したいのだと。
「スレンフィディナ……スレンと、これからも一緒にいることを、許してくださいますか? 出来るならば、私は……」
そのオルディナの言葉を最後まで言わせてもらえなかった。スレンフィディナが大きく嘶き一歩前に出て、身を退いていた王の元に近付いたのだ。
身を退いていた王だったが、オルディナの言葉と眼差しを受け止めて、ゆっくりと息を吐いた。オルディナを安心させるように頷き、スレンフィディナに応えるように前に出る。
「王よ」
王に語りかけようとするスレンフィディナの首筋を、オルディナが心配そうに撫でた。そんな1人と1頭の前に、背筋を伸ばして王は立つ。王の顔に浮かぶ畏怖の色は消えないが、身をすくませるようなことはもう無い。オルディナとスレンフィディナの様子を見比べて、スレンフィディナに視線を留める。
スレンフィディナは王の顔を覗き込むように、少し顔を下げた。王はこの時、初めてスレンフィディナの瞳の色を見る。スレンフィディナの瞳は聖苑の輝きと同じで、王城にいるどんな馬にも見た事の無い美しい翡翠色をしていた。
その翡翠色の瞳で王をじっと見据え、スレンフィディナが低い声で宣言する。
「……アルフォールの末娘オルディナはメーア・ヴェンターナが貰う」
「オルディナ……メーア・ヴェンターナ」
「メーア・ヴェンターナは、オルディナを聖苑に遣わした英雄ウィスリールとその馬ファング、そして我らの宮を整えたアルフォールの王に感謝を示すだろう」
そう言って、金色の馬は蹄を鳴らした。王は息を呑み込むと、静かに祈りを捧げるような姿勢を取った。
オルディナが、ぎゅ、とスレンフィディナの首を抱き締めて、顔を上げた王と……父と、見つめ合う。
父は問う。
「オルディナは、それでよいのだね」
娘は頷いた。
「はい。オルディナは、……スレンフィディナと共に在ります」
メーア・ヴェンターナではなく、スレンフィディナと共に在る。アルフォールの第三王女はそのように宣言し、ほっと安堵したように笑った。父も娘が選ぶ事ならばと「あいわかった」と頷く。
「ディナ」
オルディナの抱く首の感触が無くなり、今度はオルディナが抱き締められた。光の混じった風が吹いて、一瞬のうちにスレンが人の姿に戻る。風に解けたスレンの髪がオルディナの頬をくすぐった。
「ちょ、っと、スレン!」
「うん」
すー……とオルディナの香りを吸い込むように深呼吸して、きゅう、と抱き締めた後、スレンは腕を緩めて……そして、意を決したような表情でオルディナの身体を王の方に押しやった。王とオルディナが、スレンを見てきょとんとする。スレンは王の側に行くと、上着のポケットから何かを取り出して目の前に差し出した。
「これは……」
王が思わず手に取ると、それは宮に入る時に12歳のオルディナにやったものだった。馬頭を意匠にした金色のペンダントは、メーア・ヴェンターナを模したもので、王自身が王の父から貰ったものだ。聖苑で馬を得た者に近親者から贈られる贈り物、それをオルディナに用意してやれなかった王が「お前は王の娘だ」と、願いを込めてオルディナに渡した。
それを何故、スレンが持っているのだろう。
その疑問には、オルディナが応えた。
「これ……黒泥が壊して、飲み込んだ……」
黒泥がティワルズに取り憑き、再びオルディナの前に姿を現したという話を聞いたときには心臓が凍り付いたと思ったものだ。ペンダントはどうやらその時に一度鎖が切れたらしい。
スレンはどこか拗ねたようにそっぽを向いて、ぼそぼそと言った。
「直したんだ。本当は、ワタシから贈ったものを身に着けさせたいけど、でも、オルディナがとても大事にしているから……それだけは、許してやってもいい」
「スレンったら……でも、これはお父様の、大切なペンダントなのでしょう? 戻ってきてよかった、お返しして……」
「いいや、それは違う、オルディナ」
王は小さく笑って、ためらうことなくオルディナの首にペンダントを掛けてやった。綺麗に直されて磨かれたペンダントが、いつものようにオルディナの胸元にちょこんと納まる。
「折角メーア・ヴェンターナよりお前に贈り物を贈ることを許されたのだ。この機を逃すわけにもいくまい」
「お父様……でも」
「金色の馬はお前によく似合う」
そう言って、王が再びオルディナを抱き締めた。
オルディナと王との邂逅を、スレンは少し離れた場所で見つめていた。あれはオルディナの家族でオルディナを奪う者ではないと分かってはいるが、いまだに少し落ち着かない。オルディナの満面の笑顔がスレン以外に向けられているのも気に食わなかったし、ああした血縁や家族などの輪が理解できないのも少し心細かった。だが、スレンは堪えた。団欒は理解出来なくとも、大切な存在の意味は理解出来るからだ。あれらはオルディナの大切な人達だ。オルディナにはスレン以外の大切な人達がいるのだ。……置いて行かれるのではないかという不安に、スレンは今にも飛び出していって、オルディナを引っ張りだしたくなるのを我慢した。
しかし。
「スレン!」
オルディナが王の腕から抜け出して、つまらなさそうに見ていたスレンのもとに駆けてきた。
「ディナ……!?」
ドレスに足を取られて転びそうになるオルディナを、スレンは慌てて受け止める。少しほつれた髪を指先でそっと直してやると、スレンの腕の中でオルディナが顔を上げた。そこに銀色の瞳から溢れる涙を見つけて、スレンが驚いて目を見張る。
「ディナ、どうしたの? 涙……なんで泣いてるの? 悲しいの?」
慌てるスレンにオルディナが涙を浮かべたまま笑って、首を振った。スレンの上着の襟を引いて、コトンと額を預けた。
「違うわ、いろんなことが、嬉しくて」
「ワタシのことも?」
「スレンといられることが、一番嬉しいの」
「そうか……うん、ディナ……よかった」
オルディナの結わえた頭をスレンが恐る恐る撫でて、唇が額にそっと触れた。感じる息の温かさに、オルディナの瞳からますます涙がこぼれる。もう涙を我慢する必要は無い。どうして泣いてはいけないなんて思っていたのだろう。
「メーア・ヴェンターナ、……娘を、託します」
オルディナの父からの言葉に、スレンはちらりと視線を向ける。オルディナの肩を抱いたまま、むっとした顔で言い直した。
「その名前は嫌いだ。……ワタシは護衛のスレンだ、スレンフィディナ。オルディナの父親ならば、……スレンフィディナと呼んでもいい」
「スレン……スレンフィディナ。……娘を頼む」
恐る恐る王が名を呼ぶと、スレンがようやく満足そうに笑みを浮かべて王に向かって頷き、オルディナもそんなスレンを見て微笑んだ。
もうそこには寂しがりやの少年も泣き虫の少女も居なかった。
****
聖苑に爽やかな風が吹き抜けて、馥郁とした深い緑の香りと爽やかな草露の香りが、鼻腔を楽しくくすぐる。
「ディナ、お腹空いたね」
「フレクの作ってくれたサンドイッチがあるでしょう?」
「……フレク、あいつ、わざとニンジンいれるんだよ」
顔をしかめたスレンにオルディナが笑いながらバスケットを開く。中にはフレク……ウサギ耳の老紳士……お手製サンドイッチと、ミーニアが作ったレモネードが入っていた。サンドイッチには卵と糸のように切って炒めたニンジンが挟んである。フレクの嫌がらせだとスレンはぶつぶつ言っていたが、オルディナの好物なのでそれは弱い主張に終わった。
しかもオルディナが美味しく食べているので、スレンも仕方なく頬張る。
「美味しいわ」
「ニンジン以外はね」
スレンは、ふん……と息を吐いて、いそいそとサンドイッチを飲み込むと、ミーニアお手製レモネードをオルディナのカップから貰って飲んだ。スレンが嫌いなものを急いで食べて飲み込む様子は、オルディナが12歳の時から変わらない。神様なのだから、嫌いなものなんて食べない……という我侭だって言えるはずだ。それなのにスレンはオルディナが食べるものは、必ず自分も食べる。大概は美味しいというが、ニンジンだけは何故かダメだ。
先に食べ終わったスレンが草原の上にころりと横になった。慌ただしく食べた様子にオルディナが困ったようにくすくす笑う。
「もう、スレンって本当にニンジン嫌いね」
「ニンジンきらい」
言っている言葉とは裏腹な視線で、スレンは寝転がったままオルディナをうっとりと見つめている。
そんなスレンの隣でオルディナはゆっくりと味わった。しばらくの間2人に言葉は無かったが、そんな沈黙も心地よく過ぎていく。
あれから、……オルディナがスレンとともに王城を訪ねて王と再会した後、不思議な事が起こった。あれほどオルディナとスレンフィディナを畏れていた馬達が、ぴたりと暴れなくなったのだ。オルディナと会った後の王が自身の愛馬に近付いてみたが、暴れる事無く平静を保っていた。後日改めてオルディナが馬に近付いてみると、いまだびくびくしながらも、暴れて手がつけられなくなるということは無くなった。
これまでのスレンフィディナは、オルディナを奪われたくないあまりに力を噴出し、オルディナに触れたいと思う動物の全てに嫉妬を向けていた状態だった。しかしオルディナを得たことによってスレンの力に余裕ができて安定し、「少しくらいならオルディナに触れてもいい」……という落ち着きを取り戻し、強烈な嫉妬を向ける事は無くなったのだ。
そのため、オルディナも国誕祭に参加する事が出来た。美しく成長して皆の前に姿を現したオルディナと、結婚して城を出ていた姉達が戻ってきて、城を守る王子達と、国を治める王と王妃……7年ぶりに王の家族が揃った姿に、国民は祝福の歓声をあげた。
ティワルズ王子については、スレンと共にオルディナと面会し、正式な謝罪を受けることになった。
なんでもティワルズは幼い頃に父王に連れられて、中庭で遊んでいるウィスリールとオルディナとファングを見た事があったのだという。ウィスリールとは友人で、何度か一緒に馬に乗ったことがあるらしく、その影響からかティワルズは馬が大好きなのだそうだ。オルディナに求婚したのは黒泥の陰謀ではあったが、ウィスリールの自慢していた可愛い妹姫に興味を持ち、もしよければ会いたい……というのは本心だったそうだ。
それを言った時のスレンは苦虫を噛んだような顔になり、今にもうなり声を上げんばかりの表情でオルディナを抱き締めて隠したが、その様子をティワルズは大らかに笑って祝福した。
『オルディナ姫を巡る勝負はスレン殿に預けますが、我がフレイスリクとアルフォールは長く友人であらんことを願います』
そんな風に言ったティワルズを家令のフレクは大いに褒めて、再びスレンをむっとさせたのは余談である。
こうして馬達を怯えさせる事の無くなったオルディナは、家族と共に王城に住まう事が出来るようになったのだが……実は王城には戻らなかった。
オルディナはスレンと共に、聖苑を治める任を与えられたのだ。
聖苑を治める……と言っても、そこは馬しか住まうものの居ない土地だ。オルディナはこの地を守り、聖苑にやってくる戦士達を導くことになった。オルディナの提案とメーア・ヴェンターナの許しを得て、聖苑はかつてのように王族にのみ開かれるのではなく、王の認めた戦士達や、王族の女子達にも、運命の馬と出会う機会が与えられるようになる。以後、アルフォールの歴史が続く限り、聖苑の馬を得る事はアルフォールの戦士達の最高の栄誉となった。
もちろん、これまで通り王女として民に言葉を掛けたり、荘園の書類に目を通す……という仕事もある。住まう場所が小さな宮から、聖苑のすぐ側に建てられた小さな館になっただけで、暮らしはそれほど変わらない。フレクも(もちろんレイクとゲーリも)、ミーニアも一緒に来てくれた。しかし、1つだけ大きく変わった事がある。もうオルディナは何の躊躇いもなく家族に会う事が出来るようになり、家族達もまたオルディナの元にやってくることが出来るようになったことだ。
窓の外に聖苑の美しい草原が広がる館には、時折、王や王妃、兄や姉達が遊びにやってくる。自らの愛馬を聖苑に放ち思い切り駆けさせながら、健やかな団らんの時間を得て帰っていくのだ。
そして何よりも、オルディナの側にはスレンがいる。
「ディナ、ディーナ」
草の上に寝転がっているスレンが、オルディナの服を引っ張った。オルディナも笑いながらスレンの隣にころんと横になる。
スレンの綺麗な金髪は柔らかな風が太陽の光を映したようで、翡翠色の瞳は草原の色だ。思わずスレンの髪に手を伸ばして触れると、くすぐったそうにぎゅっと瞳を閉じて、開いて……真似するようにスレンもオルディナの髪に手を伸ばした。
オルディナの蕩けるような艶の髪は夜のようで、銀色の瞳は月の色だ。肩に腕を回して引き寄せると、オルディナは抵抗することなく、すんなりとスレンの腕と胸の中におさまった。
「もうワタシはオルディナと一緒にいられたらそれでいい。オルディナを守る事ができたら、それでいいよ」
「スレン?」
「メーア・ヴェンターナなんて、どうでもいい。そんなワタシを、オルディナは軽蔑しない?」
神と呼ばれる身でありながら、オルディナのためならばスレンはメーア・ヴェンターナなどという名前は簡単に捨てるだろう。自分は偉大な存在などではなく、先代とは異なる馬鹿な2代目で、民を導く志なども無い。ただオルディナという女を守りたい男だ。
「ワタシなんて居なくても、アルフォールの人間はか弱く、しかし真っ当に生きていくだろう」
「スレン……」
「でも、ワタシはオルディナが居ないと寂しくて頭がおかしくなってしまう、ただの馬なんだよ」
人間達は弱く、力のあるメーア・ヴェンターナという金色馬を今も畏怖している。しかし実際はどうかというと、オルディナを守るだけが精一杯の、力の使い方を知らぬ未熟な存在だ。今後もきっとそうだろう。メーア・ヴェンターナは……いや、「スレンフィディナ」が自分の力を知り、安定して行使するのは「オルディナ」という存在のため、ただそれだけだ。
「スレンは私を守ってくれたわ。危険からも、孤独からも」
「オルディナがワタシを守ってくれたんだよ」
もしもオルディナが居なければ、スレンフィディナは一体どうなっていたのだろう。それを考えるだけでも恐ろしくて孤独で震えてしまう。誰よりも力を持っているはずなのに、オルディナがいなければスレンフィディナは誰よりも弱いのだ。
「ディナ、……<お前は私をとらえた娘>」
「え?」
オルディナを抱えたスレンが、耳元で不思議な言葉を囁いた。オルディナの聞いた事の無い音、空気が震わせるそれはとても美しいが、どこか厳かで、深く聞いてはいけない音に聞こえた。
首を傾げたオルディナに、神の言葉を囁いたスレンは笑う。
「人間の言葉で、愛してる、って意味だよ、オルディナ」
「スレンったら」
くすくすと笑って、オルディナがスレンの背中に腕を回した。ぎゅっと抱きついて、少しだけ照れて、オルディナも同じ言葉を囁く。
聖苑に広がる翡翠色の草が風に吹かれ、まるで水面のようにさわさわと揺れる。
その翡翠の草を寝床に、2人の身体が絡まり合った。