『甘えん坊さんだな、ディナは』
泣きたくないけれど涙が出てしまうのは、オルディナが甘えん坊だからだろうか。甘えん坊さんだな、と言われるのはあまり好きではなかったけれど、そう言われる時に決まって頭を撫でてくれる手は大好きだった。
だが、そんな風に撫でてくれる手はもう無い。
王城に居るときは、夜眠る時であっても何かしら気配がしていた。近衛が外を見回る気配や、遅くまでそこかしこを世話する使用人達、近くの部屋には夜更かしをする兄達が居て、怖いなどと思った事は無かった。
それなのに今は夜がとても恐ろしい。
宮に人の気配が少ないからだろうか。……いや、それだけではない。闇はあの化け物を連想させ、黒い色は布に包まれた2つの塊を思い出させた。静寂の向こうに泥を踏む音が聞こえるような気がして、目を閉じてもそれは消えない。
オルディナは寝台に潜り込んで、首に掛けた金色の鎖を手繰り寄せた。そこに付いている金色馬の意匠をぎゅっと握りしめ、出来る限り身体を小さく丸める。
ペチャリ、ペチャリ……と、泥を踏む音が聞こえる気がした。
閉じた瞼が見せる闇の向こうに、真っ黒い泥がいる気がする。
「う……っ」
涙を我慢しすぎて、お腹が痛くなる。思い切り歯を食いしばっていて、顎も喉も痛い。そうしていると自分の心臓の音がばくばくと聞こえ始めて、その音までもが怖かった。
オルディナは、もそりと起き上がると上掛けを被ったまま静かに寝台を降りる。
「ス……スレ、フィディナ」
ぐす……と鼻をすすり、涙声で愛馬の名前を呼ぶ。こっそりと廊下に出て誰もいないことを確かめ、小走りに目的の場所まで駆けていった。
小さな扉の前までやってきたオルディナは、そうっと扉を開けて部屋の中を覗き込んだ。すると、まるで彼女がやって来るのを知っていたかのように、一頭の馬が側近くまでやってきていて、オルディナを迎え入れてくれた。
「スレンフィディナ……」
オルディナがスレンフィディナの鼻をぎゅう……と抱き締める。何もかも分かっているかのようにスレンフィディナの長い首がオルディナの身体をそっと押しやって、ふかふかの綿花が敷き詰められた寝床に座った。オルディナもその隣に腰を下ろすと、スレンフィディナの首にぽふん……と凭れ掛かる。
「1人でいると怖いよ、スレンフィディナ」
我慢していた涙がこぼれる。
「どうしていいか分からない」
オルディナは持ってきた上掛けをぎゅっと握りしめ、スレンフィディナの毛皮に額を押し付けた。こうしていると、ぱさぱさと尻尾の揺れる音が聞こえて、吐息に上下するスレンフィディナの身体の動きを感じる事が出来た。大好きな生き物がすぐ側にいるという感覚に、ようやく1人ではないのだ……という実感が沸く。
オルディナがスレンフィディナを連れ帰って、宮から出られないのを変だと思って一度王城へ出かけ、馬に嫌われたのだと分かってから数週間が過ぎた。生活に不自由は無い。王城で食べていたものと同じ食事が出て、王城で飲んでいたものと同じお茶が淹れられ、王城で読んでいたものと同じ本が並べられて、王城で世話をしてくれていた侍女が今まで通り世話をしてくれる。
けれど、侍女以外に家令のフレクと家庭教師のレイク以外、全く人の気配のない異常さと、それに対して何の説明も無い孤独さが、12歳のオルディナにはとても堪えた。こうした事態を招いたのが、スレンフィディナを連れて帰ったからだということも何となく分かり、かといってスレンフィディナと離ればなれになるのはなおさら怖い。
いっそ「何もかもオルディナのせいなのだ」と誰かに怒られれば、思う存分泣く事が出来たのかもしれない。しかし、オルディナを責めるものは何も無く、それが逆にオルディナを追い詰めた。
もう赤ん坊ではないのだから、暗闇が怖くて眠れないとか、辛くて苦しくて泣いてしまうとか、そんなこと誰にも言えなかったし、言ったらみんなを心配させてしまうだろう。
「あったかい、スレンフィディナ……」
悲しむ場所すら与えられなくて、オルディナにはスレンフィディナだけだった。
****
オルディナの吐息がすうすうと安定し、スレンフィディナはほっとした。自分の毛皮に溢れる涙と、触れる生き物のあたたかみがじんわりと染み渡っていく。オルディナはスレンフィディナのことを「あたたかい」と言っていたから、自分の体温もきっと伝わっているはずだ。
このぬくぬくとした温かさはまるで麻薬のようで、もっと受け止めたくてうずうずした。スレンフィディナは懸命に首を動かし、オルディナの身体が目一杯自分に凭れ掛かるように調節する。オルディナが「んー……」と身体を動かして、スレンフィディナの身体と首の境目にすっぽりと嵌り込んだ様子にようやく満足する。
だが、本当は両手でぎゅっと抱き締めてみたかった。いつも泣いているオルディナの涙を掌で受け止めて、そのまま頬を包み込んで拭ってやりたかった。この小さくてか弱い生き物を誰にも渡さずに守って、自分は味方なのだと言って聞かせたい。
それなのに、スレンフィディナはオルディナにとってただの馬だ。メーア・ヴェンターナであるスレンフィディナであれば、いつだって人間になってオルディナの頭を撫で、抱き上げて腕に乗せる事が出来る。しかしオルディナはそれを求めていないはずだ。そもそも、そんなことをしてオルディナに気味悪がられたらどうする。オルディナは誰よりも可愛いのに、誰よりも恐ろしい存在だった。
だから今はオルディナがぎゅっと抱きつく腕だけで我慢する。
「ディナ、ディーナ」
ぽつりとオルディナの名前を呼んでみる。その声が届いたのか、オルディナがむずがるように、もぞもぞと身じろぎをした。
温かくて、眠くなってくる。
神としては短くとも、地に生ける者としては長い時間を生きているスレンフィディナだったが、誰かに触れていながら眠くなる……という体験はオルディナと過ごすようになってから初めて経験した。凭れるオルディナの体重を感じていると心が安らいで、うつらうつらと眠りに誘われる。
長い睫毛の瞳をしぱしぱと瞬かせながら、もう少しオルディナの温度を感じていたいという気持ちと戦う。
こうしていつのまにか、眠っていた。
****
「坊ちゃん」
窓から差し込む太陽の光に瞳を開けると、家令の姿をしたうさぎの従神がスレンフィディナを覗き込んでいた。スレンフィディナは耳をふるんと揺らし、きまり悪げにそっぽを向く。
フレクは眠っているオルディナと、むすりとしているスレンフィディナとを交互に見つめて、小さく息を吐いた。オルディナの側に膝を付き、遠慮がちにそっと囁く。
「姫、オルディナ姫」
「ん……」
銀色の瞳を瞬かせてオルディナが目を覚ました。寝起きのぼんやりとした顔でフレクを見上げ、頬に感じるすべらかな毛皮に我に返る。
「あ……」
「おはようございます、姫」
「あの、えと、おはよう……フレク」
オルディナがおどおどとフレクから視線を逸らし、スレンフィディナに隠れるように身体を縮こまらせた。スレンフィディナの側で起きるのはこれが初めてではない。いや……この宮に来てからは、スレンフィディナと一緒に眠る事の方が多いくらいだ。しかし、侍女も家令も決して怒らなかった。寝台で目が覚めたときと同じように「おはようございます」を言ってくれる。
「こちらに朝食を持ってきますか? それとも自室に戻られますか?」
「……部屋に戻ります」
「かしこまりました」
本当はスレンフィディナと一緒に居たかったが、あまり皆に心配をかけるのも手を患わせるのもよくない。ふしゅ、とスレンフィディナがどことなく機嫌悪そうに息を吐いたが、そんな鼻面をなだめるようにぽむぽむと撫でた。
「また後でね、スレンフィディナ」
すりすりとスレンフィディナが頬を寄せてきて、それをぎゅっと抱き締めると、フレクにエスコートされるようにオルディナは立ち上がった。
「あの、フレク」
怒られないだろうか。迷惑をかけていないだろうか。けれど、そんなことすら今のオルディナは問いかけるのが怖い。オルディナが片眼鏡の老紳士をおどおどと見上げると、フレクが優しい眼差しで微笑んだ。
「今日の朝ご飯はサンドイッチですぞ」
フレクはとても器用で、どんなことだって出来るのだ。そんなフレクが作るサンドイッチは絶品で、オルディナは「ん」と頷いた。思い切って、話しかけてみる。
「フレクが作ったの?」
「たまには料理のひとつもこしらえないと、腕がなまりますからなあ」
そんなことを言いながら、フレクはこう見えて身のこなしも軽いし背筋も真っ直ぐで、衰えた様子は全く無い。物言いがおかしくて思わず笑うと、フレクがオルディナの頭を撫でてくれた。
「さあ、参りましょう、姫」
「はい。またね、スレンフィディナ」
フレクと共に出て行くオルディナが、スレンフィディナに手を振る。翡翠色の瞳は、オルディナが扉の向こうに消えるまで、じっと切なげに見つめていた。
****
オルディナに触れる事はいつだって出来るのに、ここのところ物足りなくてうずうずとしていた。フレクがオルディナの頭を時々撫でるのが、羨ましくて仕方が無い。自分もつやつやとしたオルディナの髪に指を通してみたかった。
そんな思いが募りに募ったある日のこと、オルディナがスレンフィディナの身体をブラッシングしてくれていた時の事だ。
オルディナが自分を責めながら、それでもスレンフィディナと一緒にいたい、居て欲しい……と、そう懇願する。銀瞳から溢れる涙を見て、どうしてオルディナの頭を自分は撫でられないのか、その小さな手を握れないのか、誰よりも強い力を持っているはずの自分なのに、なぜそんな些細な事が出来ないのか苛立ち、同時に胸が痛んだ。頭を撫でてみたくて、必死にオルディナの頭に顔を摺り寄せる。
なんてもどかしくて苦しい感情なのだろう。
そう思ったと同時にスレンフィディナは駆け出した。ぐるぐると力が渦巻いて、これ以上オルディナの側にいたら、オルディナを怯えさせてしまう。他の馬や人間と同じように、オルディナが自分をよそよそしい瞳で見たらどうすればいいのだろう。怖い、怖い、そう思って慌ててオルディナから逃げ出したのだ。
来ないで欲しいのに、オルディナは先ほどまで泣いていたのを忘れたかのように楽しげに追いかけてきた。スレンフィディナは思わず樹の影に隠れて、両手をぎゅっと握って身を潜める。
「え……?」
両手?
感じた違和感に、握った両手を広げて見つめた。スレンフィディナ……メーア・ヴェンターナは、もちろん人間の姿を取る事も出来る。人間の姿も馬の姿も、いずれも自分を現す本性だからだ。今代のメーア・ヴェンターナの性は男で、特に意図せず人間の姿を取れば、それは成年の姿になるはずだった。それなのに、自分の手の平は記憶にあるよりもずっと華奢で、細くて弱々しく見える。
しまったと思った瞬間、オルディナに追い付かれた。
「あれ……?」
目の前には不思議そうな顔をしたオルディナがいる。いつも見下ろしているはずの銀色の瞳は、ちょうどスレンフィディナの視線と同じくらいの位置にあって、あんなに小さいと思っていた身体は自分と同じくらいに見えた。
これはどういうことだ。自分は一体何になってしまった?
そのように気が付いた時には、もう遅かった。
自分の姿はオルディナに見えているようで、今までスレンフィディナに見せた事の無いようなぽかんとした表情でじっとこちらを見つめている。気味悪がられたらどうしよう、怖がられたらどうしよう、そう思うと何も言い出す事が出来ず、ただただ、オルディナを見つめていた。
「えっと、君は、だあれ?」
きみは、だあれ、なんて言い方で初めて話しかけられて、どう答えるべきか、咄嗟には言葉が出て来ない。今、オルディナの目に自分はどんな風に映っているのかが分からなくて怖い。
だから、聞かれた言葉を反芻した。
「君、は」
再び困惑する。声がいつもの自分の声ではない。成熟していない子供の声で、オルディナの可愛らしい声とさほど変わらない幼い音程に、もごもごと口を動かす。
そんな様子のスレンフィディナに……オルディナには愛馬には見えていないはずだが……オルディナは、少しお姉さんぶった表情になった。これも今までに見た事の無い顔だ。
「わたしは、オルディナよ」
それは知っている。王が親しげに「ディナ」と呼んでいたのを覚えている。自分も呼んでみたかったのだ。
「知ってる。ディナ」
恐る恐る呼んでみたら、オルディナは何でもない事のように頷いて、「君は?」と問いかける。
君は?
自分は……風のようだから、オルディナと一緒の名前だから、スレンフィディナ……。けれどそれはオルディナの愛馬の名前だ。
「スレン」
ぽつりとつぶやいた響きに、オルディナが嬉しそうに笑った。
「スレンフィディナと同じね!」
そう言ってオルディナは笑う。そう、スレンフィディナと同じ。だが、別の名前だ。「スレンフィディナ」からオルディナを切り離して「スレン」……。オルディナと切り離されたからこそ、自身とオルディナとの新たな関係を予感させる。オルディナが「スレン」と呼ぶ音は、「スレンフィディナ」とは違っていて、胸がそわそわとした。
オルディナの瞳を覗き込んでみる。こんな風に真っ直ぐ、二つの瞳を合わせてオルディナを見つめた事が無かった。同じくらいの背の高さ、同じ視線の位置、オルディナの瞳が見ているものを、スレンもこれから見られるのだろうか。
「ディナ」
この喉で、唇で、オルディナの名前を呼ぶ。なんて心地がいいのだろう。スレンはそうっとオルディナの頬に手を伸ばした。どれくらいの力加減で触れればいいのかよく分からず、慎重に涙の跡を拭う。
初めて指で触れたオルディナの頬は、すべすべと心地の良い触り心地だった。
****
今度はオルディナの髪に触れてみようと手を伸ばすと、それが触れる直前に「姫!」と呼ばわる声が近付いてきた。オルディナが「あ!」と声を上げて振り向く。スレンの手には気が付かなかったようだ。
手を引っ込めて声のした方に顔を上げる。予想通り、片眼鏡の老紳士が早足でやってきて、オルディナを見、スレンを見た。
「……」
気まずげにムッとしているスレンを、やや驚いた風にフレクが眺めた。いつも落ち着きのある老紳士を装っているフレクがこんな表情をするのは珍しい。2人の間に流れる微妙な空気を不思議に思ったのか、オルディナがスレンを庇うように横にやってきて、おろおろとフレクを見上げた。
「あの、フレク、この子ね」
「……」
「迷っちゃったみたいなの、あの、スレンって言って」
「ほ、スレンですと?」
フレクが悪戯を見咎めたような顔をして、心配そうなオルディナと、拗ねたようにそっぽを向いているスレンを見比べている。しかし、すぐさま常の落ち着きを取り戻して、オルディナに頷いてみせた。
「ちょうどよかった。姫に紹介しようと思って探していたのですよ。すでに出会われたのですね?」
「え?」
疑問符を声に出したのはオルディナだったが、驚いた表情を浮かべたのはスレンだった。てっきり引き離されるかと思っていたのだ。宮には王が選出した使用人だけが出入り出来、オルディナの周囲には最低限の人間しか居ない。オルディナに触れる人間を極力減らすための措置で、それは恐らくメーア・ヴェンターナの力を恐れているからだろう。それなのにオルディナと同年代の子供が、宮への出入りを許されるはずが無い。
しかし、フレクの答えは予想外で一体何のつもりかと疑った。先代にも仕えていたこのウサギは、メーア・ヴェンターナに忠実ではあったが、スレンフィディナに忠実なわけではない。人間と関わろうとしないメーア・ヴェンターナをいつも嗜め、力の不安定な様子を嘆いていた。
それなのに。
「知っている子なの? フレク」
「ええ、私の1人息子です。姫のお話の相手になればと思いまして、行儀見習いに連れてきたのですよ」
「まあ!」
息子……?
一瞬何を言っているのか理解できなかったが、オルディナの嬉しそうな表情とフレクの落ち着き払った態度に、何とか挙動不審を気付かれないようにする。こちらを見てにっこりと笑うオルディナに、スレンもこくんと頷いた。
「さあ、お茶の時間にいたしましょう」
「スレンの分もある?」
オルディナが心配そうに問うと、フレクが片目をつぶって首を傾げた。
「姫の分が少し減りますが」
「ふふ、半分こね、平気よ! 」
朗らかに笑ったオルディナが、エスコートされてフレクの隣に並ぶ。オルディナの横に並びたいのはスレンだったが、どのようにすればいいのか分からなくて出遅れてしまった。いつもだったらオルディナの方から進んでスレンフィディナの隣に並び身体を寄せてきたのに、小さなスレンはかなり強引に自己主張しなければならないようだ。どうにも勝手が違う。
オルディナの横に並ぼうと慌てて一歩踏み出したスレンを、オルディナが満面の笑みで振り向いた。
「行きましょう、スレン」
伸ばされた手を、スレンが掴む。細い指先と笑顔を逃したくなくて、スレンはそれを絡め取るようにぎゅっと握った。