オルディナとスレンが出会ってすぐの頃のお話。
オルディナを乗せて森を歩くのは心地が良い。聖苑を駆けぬける気持ちよさはもちろん無かったが、オルディナの小さな手がスレンフィディナを誘導する度に首筋を撫でるのは大好きだ。
「スレンフィディナ、ちょっと休憩よ」
スレンフィディナとオルディナが森を駆けることのできる範囲は決まっている。その境界線近くまでやってくると、オルディナはスレンフィディナの背から降りた。
馬に馴れているといってもまだ12歳のオルディナは、身体の具合もそれほど出来ているわけではない。高い馬の背から降りるのは危ないと、スレンフィディナは足を曲げて身体を低くしてやると、オルディナが拗ねて抗議した。
「もう、そんなに座り込まなくてもちゃんと降りられるわ」
そうはいっても、先日はスレンフィディナの背から降りようとしてうっかり鐙を踏み外して落ちてしまったのだ。あの時は本当に驚いて、ヒンヒンと鳴いて暴れかけた。フレクが魔力の揺らぎに気付いて出て来なかったら、人間の姿に戻ってしまっていたかもしれない。
もう2度と落とすまい。そう思って、オルディナの乗り降りの時にはスレンフィディナは身を屈めることにした。オルディナは、立ってる馬にも乗れるようにならなきゃと憤慨したが、言う事を聞くつもりは無い。せめてオルディナの背がもう少し高くなるまで。
スレンフィディナがすっかり座り込んでしまったので、オルディナも諦めて渋々鞍から下りる。スレンフィディナは賢くて、そして時々とても頑固だ。ニンジンは絶対に食べないし、夕方遅くに馬に乗りたいと言っても乗せてくれない。
そんな賢いスレンフィディナが大好きで、そんな綺麗なスレンフィディナが狭い宮に閉じ込められているのが気にかかって、オルディナはいつも森に遊びにくる。せめてスレンフィディナがほんの少しでも走ることが出来るように。
しかし、いくらスレンフィディナが賢いといっても、まだ少女のオルディナに長い時間の乗馬は負担になる。特にスレンフィディナはオルディナが見た事のあるどのような馬よりも大きく立派で、背も高くて逞しい。
つまり、馬に乗るのは楽しいのだけれど、ほどほどにしないととても疲れてしまうのだ。
オルディナはスレンフィディナの鞍に括り付けていた水筒を外すと、お気に入りの樹の根元に座りこんで口をつけた。疲れた身体に侍女が持たせてくれた柑橘水はありがたい。冷たい温度が喉を通って、潤していく。
「スレンフィディナもお水を飲んでくる?」
ひとしきり自分の喉を潤して、オルディナは首を傾げた。水を飲ませるなら泉に行こうかと思案したが、スレンフィディナは一度立ち上がったものの、オルディナの隣に座り込んだ。スンスンと呼吸しながら、オルディナの肩に鼻を擦り寄せる。
少し駆けて体温の上がったスレンフィディナにお互いもたれていると、身体が疲れを思い出す。
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オルディナのおしゃべりが聞こえなくなり、呼吸の音が安定する。身体にかかる圧力と体温が、温かなものに変わったのを感じた。
「ディナ、眠った?」
答えが返って来ないことはもちろん知っている。知っているからこそ、声をかけたのだから。オルディナは疲れて眠ってしまったのだ。
気持ちを許し、自分に預けられた重みを感じるのは幸福で、だが同時に物足りなさと切なさに胸が締め付けられた。
こうしてくれるのはスレンがスレンフィディナである時だけで、自分が物言わぬ馬であるからだ。
涙を流すときも、兄の死に触れた悲しみを打ち明けるのも、家族に会えなくて本当は寂しいのだと訴えるのも、スレンフィディナが何も答えぬ馬だと知っているからこそ、オルディナは安心して気持ちを預けてくる。
同い年のスレンでいるときにオルディナと同じ視線で遊ぶのは楽しかったが、彼女を守れぬか弱い手を恨めしく思う事も多かった。スレンはメーア・ヴェンターナという名の存在だ。逞しい青年に姿を変えれば、オルディナを抱き上げる事など容易に出来るはずなのに、それが出来ないのはひどくもどかしい。
「ディナ」
かわいいディナ。スレンはそっと、その頬に手を伸ばした。
あどけない薔薇色の頬に、今は涙は流れていない。本当はこの瞳が涙に濡れないのが一番いい。でもオルディナは泣き虫だから、もし涙を流す事があったら、手を伸ばして、受け止めて……。
手……?
「……!」
そのとき初めて、スレンはオルディナに手を伸ばしている事に気が付いて、慌てて引っ込めた。手は節ばった逞しい男の手で、見覚えはあるが身に覚えの無いものだ。
つまりスレンは本来の姿……青年の姿になってしまっていたのである。
「まず……っ」
今オルディナが目を覚ますと相当不味い事になる。スレンは慌てて、思わず周囲を見渡すが、こんな時に限って……いや、オルディナと乗馬に出掛けたのだから当たり前ではあるのだが……フレクは居ない。
戻らなければ……とスレンは力を集中する。だが、そのとき、オルディナがぎゅっとスレンの服の裾を握った。
「スレ、ン」
「うわ……!」
まさか目が覚めたのか? そう思ったが、オルディナは愛らしい寝顔で幸せそうに笑っている。
「スレ……スレン、んふ、ニンジン食べなきゃ……」
「ディ、ディナ……?」
オルディナの寝言がスレンフィディナではなく、スレンだったことに何故か驚いて、馬に戻らなければという意識を一瞬忘れる。
ほんの少し、触るくらいなら……そう思って、オルディナの頬に手を伸ばした。
青年の手はいつものスレンの手よりも硬く、オルディナの頬はあっというまに包み込まれた。いつものスレンの手で触れるよりも、オルディナの頬は柔らかく繊細なものに感じる。少しでも力を入れると壊れてしまいそうだった。
「スレン……」
小さく息を吐くのはとても幸せそうに笑うオルディナで、スレンフィディナの時に見せるような痛ましい涙は無かった。しかし、その代わりスレンと向き合うときの楽しげな口許があった。スレンフィディナの背から落ちてしまうと怪我をしてしまいそうな、まだ少女のオルディナ。青年スレンの強い手では、すぐにつぶれてしまいそうなか弱いオルディナは、同い年の幼馴染みと一緒であれば、一緒に勉強したり、ダンスの練習をしたり出来るのだ。
そうだ、ダンスの練習。……背の高いフレクにだってその相手は出来ない。同じ年頃のスレンだから、手を取って、一緒にステップを踏む事が出来る。
「ディナ。ディーナ……」
スレンはオルディナの頬にそっと口付けて、ゆっくりと頭を撫でる。しばらく満ち足りた気持ちでその寝顔を見つめていたが、睫毛が震えた様子に名残惜しく、立ち上がった。
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「ん、スレンフィディナ?」
ほんの少し、眠ってしまっていたようだ。なんだかとても優しい夢を見たような気がするけれど、内容までは思い出せなかった。怖い夢ではなかったのは、スレンフィディナが側にいたからだろうか。
きょろきょろと見渡すと、すぐに賢くて暖かな翡翠色の眼差しが現れて、オルディナの肩に甘えるように身体を擦り寄せてきた。どうやらオルディナの眠っていた樹のすぐ裏側に居たようだ。
「そろそろ帰らなきゃ、フレクが心配するわね」
ふああ、と欠伸を一つして、オルディナは手を伸ばす。
ぎゅ、とスレンフィディナの首筋に抱きついて、オルディナだけの金色の毛皮を優しく撫でた。