泣き虫王女と寂しがり屋の護衛

君といっしょの時間

オルディナとスレンが出会ってすぐの頃のお話。


オルディナの宮の側には小さな中庭を挟んで森があり、陽射しは木々を通して柔らかく部屋に差し込んでくる。スレンとオルディナはそうした陽の光が心地よい部屋で、2人並んで本を広げていた。いつもは書庫の机で勉強しているのだが、今日は天気がいいからと、居間のテーブルを使っているのだ。

緑に近い小さな宮は、昼の少し過ぎた時間にもなると太陽の香りが心地よい。オルディナと一緒にこの中で過ごす時間が、スレンは大好きだ。勉強さえなければ、だが。

2人の勉強を見ているのは、家庭教師のレイクである。家庭教師といっても、家令のフレク……メーア・ヴェンターナに仕えるウサギの従神フュレクゲーリが化けた男で、男のくせに女が着るような肩が剥き出しの服を着て、つまりは女装をしている。意味が分からない。

「レイク、ここの問題は?」

うんうんと唸りながら帳面ノートとにらめっこしていたオルディナが顔を上げ、何かしら書き付けたものをレイクに見せている。

「ああ、その計算ね。ふふ、ひめは、あんまり計算得意じゃないわね」

「うーん……」

レイクがオルディナの帳面を覗き込んだ。長くくるりと巻いた白と茶色のまだらの髪が、今にもオルディナに触れそうだ。それを見て、スレンは思わず声をあげる。

「ディナ! ワタシが教えてあげる」

「え?」

オルディナが可愛い顔を上げて、きょとんと首を傾げる。スレンは得意げな顔をした。

「計算は得意だ」

同じ年頃であればそうそう簡単に出来るような問題ではないが、スレンはこう見えても普通の12歳ではないのだ。数の理など容易いもので、今やっている問題もスレンにとっては子供のお遊びのようなものにすぎない。

そんな様子のスレンに、オルディナが少しだけ拗ねた風に唇を尖らせた。

「スレン、こういうの得意でいいなあ」

「ディナにはワタシが教えるから、大丈夫だよ」

スレンがどうだと言わんばかりに見上げると、話を聞いていたレイクは肩をすくめて小さく笑った。「それなら、スレンが教えてあげて」と一歩退いて場所を空ける。スレンはいそいそと椅子を寄せてオルディナの側に陣取って、オルディナの指し示す問題を確認する。

もちろん、メーア・ヴェンターナに出来ぬ問題ではない。

問題を解くコツと数式を教えると、真剣に聞きはじめるオルディナの真っ直ぐな瞳がとても可愛いくて心が浮き立つ。しかし、一通り教えると、すぐにオルディナは手元の問題に集中し始めて少しつまらない。ただ、懸命に何かしら書き留めているオルディナを見ているのは、それはそれで楽しかった。12歳の姿になったスレンの楽しみは、こうしてオルディナと一緒に勉強したり、勉強が終わった後のおやつを食べたりする事だ。

スレンは自分も問題を解くフリをしながら、ちらちらとオルディナの横顔を盗み見る。教えた部分を一生懸命解いているオルディナの横顔はいつもよりも真剣で、見ていると思わず笑みが溢れた。真剣な横顔というのは、どうしてこんなにも綺麗なのだろう。オルディナはまだたった12歳だが、真面目に取り組む表情は少し大人びて見える。

「ほーら、スレン、何よそ見してるの」

「なんだよレイク」

「なんだよじゃありません。ちゃんと問題解いて」

「別に問題解かなくても分かるだろ!」

「知りません、そんなの。ほら、ひめはもう終わったわよ」

じっとオルディナを見ていると、ぬっと視界が遮られた。見上げると、レイクがオルディナとスレンの間に割って入り、指示棒でトントンとスレンのノートを指している。

「ひめは終わったから、スレンを置いて先におやつにしちゃおうかしら」

「何だよそれ!!」

「ほらほら、早く問題解きなさい」

「……」

調子に乗るなレイクめ。そう思ったが、オルディナの手前変なことを言う訳にもいかない。スレンは、むう……としかめ面すると、いやいや目の前の問題に目を向ける。

「スレンの方が早く解けると思ってたのに」

くすくすとオルディナが笑っている。顔を覗き込みたくても、レイクが邪魔をして見られない。ますますむう……として、急いで問題を解く。

「おやつ、待っててあげる。一緒に食べよう」

「うん」

「ほーら、スレン、ニヤニヤしない」

「もう! 邪魔するなよ、 レイクはうるさいなあ」

オルディナの声にニンマリしたり、レイクのお小言にムッとしたり、スレンの表情も大忙しだ。人の歴史ほどの長い時間を生きてきた神とも思えぬ、まるで普通の少年のようなスレンの顔に、レイクが瞳を優しく細くした。

****

夜になると、寝室にオルディナの姿は無かった。その代わり、いつものようにスレンフィディナのところで眠っている。

すうすうとオルディナの寝息が聞こえてくる。夜のブラッシングの時、スレンフィディナにぎゅっと抱き付いたオルディナは、そのまま眠ってしまったのだ。

オルディナの可愛い寝顔が見たくて首を捻ってみる。

だが、オルディナはちょうどスレンフィディナの首を抱き締めるように眠っていて、なかなか首を動かすことが出来なかった。動くと、オルディナが目を覚ましてしまいそうだからだ。

「ディナ、風邪を引いたりしないかな」

急に心配になった。

以前、オルディナがスレンフィディナのところで眠ってしまった時、フレクが言ったのだ。「このようなところで毛布も持たずに眠られては、風邪をお召しになってしまいますよ」と。その時以来、オルディナはスレンフィディナのところに来るときは、きちんと毛布を持ってくるようになった。来るのを止めるのではなく、毛布を持ってくるようになったことにほっとしたものだが、しかし今はどうだ。ブラッシングするために来たから毛布は持っていない。そのくせ薄い部屋着のままだ。風邪を引いてしまったらどうしよう。

スンスンと鳴いてみたが、オルディナが起きる様子はなく、スレンフィディナはフレクを呼ぼうとして、やめた。

気持ちを落ち着かせ、魔力を集中させると、周囲の綿花がふわりと舞い上がる。

「ディ、ナ……?」

「ん……」

声を潜めて呼んでみると、オルディナの身体がころんとスレンの膝の上に転がった。頭を撫でてみたが、起きる様子は無くて安堵する。このまま膝の上に寝かせておきたい気もするけれど、スレンはオルディナの小さな身体を抱き上げた。

もちろん12歳の少年の姿で、ではない。今、スレンは相応の姿をとっていた。つまり、青年の姿だ。12歳の姿ではオルディナを運ぶ事は出来ない。かといってフレクに任せるのはどうしても嫌で、自分の意志で、青年の姿を取ったのだ。

この姿でオルディナを抱き上げると、オルディナの小さくか弱い姿が身に染みた。

なんて軽くて小さいのだろう。

オルディナはこんなにも小さいのに、わざわざ馬をとらえに聖苑にやってきたのだと思うと切なくなると同時に、奇跡を感じずにはいられない。幼い身体で森を歩くのはどんなに恐ろしかっただろう。

オルディナはこんな小さな身体で馬に乗ったり剣を習ったりしている。とても危ないのではないだろうか。剣を持ってオルディナを守るのは自分の役割にしなければ……スレンは心に決めた。

小さな身体は恐ろしくて、スレンは恐る恐る、大切にオルディナの寝室に運ぶ。

そうっと寝台に寝かせて、しばらくオルディナの寝顔を見つめた。どれだけ見つめていただろう。寝返りをうったオルディナに我に返ると、頬におやすみなさいの口付けをして、柔らかな毛布をかけた。

いまだオルディナは安らかな顔で眠っていて、スレンもまた、安らいだ気持ちでその顔を眺めた。少しだけなら大丈夫だろうか、そう思って、スレンはオルディナの傍らに身体を横たえて頬杖をつく。スレンの強い指がオルディナを起こしてしまわないよう、おっかなびっくり触れて、オルディナの髪を指ですくう。昼間の丁寧に結わえて赤いリボンを結んだ髪も可愛いけれど、何もしないままの髪もまた可愛らしい。

そんな風にオルディナの髪に触れていると、突然、ぎゅ、とスレンの指を握った。

慌てて身を退こうとしたけれど、でも、あともう少し見ていたい……。そう思う気持ちもあって、葛藤の末に、息を潜めておとなしくする。

目を閉じると指先から小さな温もりを感じる。

あと少し、あと少しだけ、この小さなオルディナのそばにいたい。そう思っていると、スレンはいつのまにか眠ってしまった。

****

森に降りた煙るような朝靄の隙間から、柔らかな陽射しが寝室に差し込む。その眩しさを目覚ましに、スレンは瞳を開けた。

腕の中のまろやかで柔らかな身体も、今にも目覚めそうに身じろぎする。

「ディナ、ディーナ」

「ん、スレン」

銀色の瞳がいまだ眠そうにゆっくりと開き、スレンの声に小さく笑って、安心したように再び目を閉じる。スレンもまた嬉しくなって、オルディナの身体を抱き直して目を閉じた。

子供の頃、小さなオルディナを寝室まで運んだことがある。

青年の姿だったことを忘れてしまって、そのままうっかり眠ってしまった。目が覚めたとき、オルディナがこちらをじっと見つめていて、飛び上がるほど驚いたものだ。

しかし幸いなことにスレンの姿はそのとき偶々、少年の姿に戻っていた。オルディナからは、「どうして一緒に眠っているの、一人で眠れなかったの?」……などとさんざん聞かれてしまったのだ。あわてたスレンは、スレンフィディナのところでオルディナを見つけて、フレクに言って運ばせて、そのときオルディナが自分の指をつかんだから動けなかったんだと(半分だけ)嘘をついた。それを聞いたオルディナは、顔を真っ赤にしていて可愛かった。

今、オルディナはあのときと変わらない笑顔で、しかし二人の関係はもっと深く甘くなって、こうして一緒に朝を迎えている。

いつの間にかオルディナが瞳を開けて、スレンの翠色を覗き込んでいる。

「スレン、おはよ」

「ん、おはよ、ディーナ」

スレンが期待顔でオルディナを見つめると、くすくす笑うオルディナの腕がスレンの首に回る。

そのまま、頬にオルディナの唇が触れた。

「起きる?」

「起きる」

あのときと同じように、2人で迎える朝。けれど全く違う一日が、聖苑を守る小さな館で、今日も穏やかに始まる。