短編

鷹と楽師

ある国に、家族を無くした盲目の楽師が居た。

両親は居らず、彼女の妹は瑣末な理由で殺された。最後の家族を奪われた楽師は妹の敵を討とうとしたが、結局自らの手でそれを行うことは叶わなかった。敵を討とうとしたその瞬間、別の争いごとに巻き込まれて、自身は火の中で放逐されてしまったのだ。目の見えぬ自分に逃げることは出来まい。もとより捨てようと思っていた命だった。静かに死の覚悟を決めたとき、掬い取られるように救われた。

自分を救ったのはある1人の男だった。この国の王を主とし、影のように従う者達の長だという。その雰囲気は鷹の如く鋭い。盲目の楽師にその男の姿が見えることは無かったが、年齢の分からぬ静かな声色をしていた。

彼と彼に従う者達は、自分に仕事を与えて生かしてくれた。

そして今、楽師は娼館の娘たちの世話をし、楽を教えて生きている。
娼館の女将は隠密達の事情も把握している人で、何かと自分の世話を焼いてくれる。
娼婦の経験もある楽師にとって、こうした仕事は苦にならない。好きな楽に触れることも出来、目の見えぬ自分達にも隔てなく接してくれる友人も多く出来た。命を救われた恩にはとても足りぬように感じて、思い悩んでしまうほどだ。自分も娼館の部屋に出ても構わない…と女将に言ってみたこともあるが、それは許されなかった。この館はかなりの上位貴族も利用する高級な娼館だ。自分のような盲目の女は雇わないのかもしれない。それならば、…自分は出来る限りのことをするほか無い。

与えられた部屋で楽師が楽器の手入れをしていると、ノックの音が聞こえた。その直前に足音がしなかったので、娼婦達ではないようだ。返事をして立ち上がると、扉が開く音と共に窘めるような声がした。

「立たなくてもかまわない。」

その声に楽師はソファに座り直した。男の声だ。高くも無く、低くも無い。感情を抑えた、だがそれゆえに耳に心地よいと楽師は思う。その声の主は他でもない、自分を救ってくれた隠密の声だ。彼はこうして、時折楽師を訪ねてくる。そして必ずこのように聞くのだ。

「…何か不便は無いか。」

「不便など、ありません。皆さん、よくしてくださいます。」

そっと気配が近づき、ソファの片方が沈み込む。楽師の隣に座ったようだ。この男は隠密だ。気配を消すこともできるはず。だが、ここに来たときは足音を立て、何かを話しかけながら楽師の下までやってくる。男の声に抑揚は無く冷たく思われがちなのだろうが、そうした心遣いを折に触れて感じ、楽師は心が安らいだ。

王からの命令といえど闇に生き、人知れず誰かを殺すことすら生業としているこのような男に、そうした感情を持つのはおかしなことだろうか。

「何か、曲を頼んでも?」

「どのような曲にいたしましょう。」

「任せる。」

そして、こうしたやり取りも常の事だ。楽師は弦を持つ楽器ならば何でも扱うことが出来たが、このときだけは、自分が最も好きで最も得意な竪琴を手に取った。手入れしたばかりの、小さな竪琴を抱えて弦の張りを調える。

少しだけ沈黙し頭の中で曲目を選ぶと、弦に手を置いた。

爪弾く曲は古い子守唄だ。だが、歌は歌わず旋律だけを竪琴にのせる。まどろむような音色が部屋に満ち、それは娼館全体にも響いているだろう。あまり音程の高低は無く、速さもゆるやかだ。そんな旋律がしばしの間流れ、やがて静かな余韻と共に終わった。いつものように楽師は隣の気配に一礼し、感想を貰う前に口元を綻ばせる。

「…お耳汚しを。何か飲むものをご用意しましょう。」

しかしその日の男の返答は、いつもとは異なっていた。

「喉は大丈夫か。」

「…?歌ってはおりませんから。」

楽師は首をかしげて竪琴を横に置くと、飲み物を用意するために少し腰を浮かした。

「座れ。」

それを制するように男の声が聞こえて、ぎし…とソファが軋んで沈んだ身が傾く。傾いた肩は男の手に抱えられた。その強い手を感じた途端、身体が引き寄せられる。男のもう片方の手が楽師の頭を後ろから包み込むように押さえられ、唇に吐息がかかった。近づいてきた男の距離に楽師の身体が強張り、解ける。触れそうな位置に相手の唇があるのが分かった。男は一度躊躇ったようだが、楽師が抵抗しないことを感じ取ると、かすめるように触れる。

物言わぬまま口付けが始まり、やがてゆっくりと舌が絡めいれられた。しばらくの間、唇と舌で2人が繋がりあう。少し離れると、掠れがちの男の声が届く。

「嫌ではないか。」

「嫌ではありません。」

男が自分を求めるのは、初めてのことだった。嫌どころか…楽師は嬉しかった。楽を届けるだけでなく、他にこの男の役に立てることが出来るのであれば、それがこの身体を捧げることであったとしても、もし娼婦の経験が役に立つのであれば本望ではないか。

「年甲斐も無く『仕事』の後で昂ぶっているだけの男であるのに?」

「それならなお、…私でお役に立てるのなら。」

壮年はとうに超えているだろう男の声に、躊躇うことなく楽師は答える。「仕事」の後、昂ぶる気持ちを静めるのに自分が必要なのであれば、自分がこの隠密達に拾われ生かされている意味が見出せる。いや、それは言い訳かもしれない。自分の生きる意味や、役に立てるか…など関係なく、この鷹のような男に触れていたい。

やがて男の手が楽師の身体を滑り始めた。目の見えない楽師が頼るものは、声と吐息と男の身体だけだ。巧みなその手に身を委ねそうになる自分を戒めると、せめて男を愉しませようと楽師もその細い手で男の身体を弄り始めた。だが、その手は男の手に掴まれた。男の頬が寄せられ、苦笑を帯びたような吐息が耳元に掛かる。

「何もするな。」

「し、かし。」

「今日は、かまわない。」

「…あっ…」

男は手を掴んだまま楽師の背中に回す。手を拘束されたまま抱きしめられたような形になり、男の身体に包み込まれた。そのまま首筋を男の唇が蹂躙し、噛み付くように歯が立てられる。楽師の息が上がり始めると、行為は止められ身体を横にされた。そのまま横抱きに、寝台へと連れて行かれる。

****

楽師とて娼婦の経験があり、男を悦ばせる手を知らぬわけではない。だが、男との時間はその手のどれもが役に立たなかった。楽師の手はやんわりと掴まれ寝台に押さえられるか、男の手に導かれて背や腰に回され、暗に動きを封じられる。それだけではなく、楽師が男のために何かをしようと思う暇も無いほどに、途切れることの無い甘い手管を男は与えてくる。

楽師が声を上げるのを我慢しているのは喉を痛めないようにとの配慮だったが、それが知れたのか、先ほどから男は楽師の唇を塞いだまま、濡れた奥を指でねっとりと探っていた。男の指の形がはっきりと分かるほど、自分の内奥が絡み付いている。まるで水あめでも掻き混ぜているように、そこをじっくりと嬲られていた。

やがて男が片方の手で押さえていた楽師の手を離すと、細い背中に手を回して身体を起こした。手の動きが繊細になり…そして、激しくなる。楽師の身体が弾かれるように反れた。解放された手で思わず男の顔に触れると、男はそれを咎めずその手に頬を寄せて指を咥える。楽師の細い指は男の口に含まれ、舌で弄ばれた。目の見えぬ楽師は手で男の顔をはっきりと感じ、触れた口腔内の温かさに酔いしれながら、男の手で高みに連れて行かれた。

達した身の内に、はあ…と、息を荒く吐く。濃密な愉悦に揺れる楽師に比べて、男の声は全く乱れていない。光差さぬ瞳には、男がどのような顔で自分を抱いているのかも見えない。ただ、腰に触れる大きく屹立した男そのものだけがこの交わりに相手が反応していると伝えてくれる。男という生き物は、女であればそれが誰であってもそうなると教え込まれた。だが、今、この鷹のような男の相手が自分であることに楽師は幸せを感じるのだ。ああ、しかし、娼婦としては体験したことの無い、…まるで愛されているような錯覚は、なんと危ういことだろう。楽師がうつ伏せに息を整えていると、背中に男の胸板が触れた。後ろから被さられたようだ。

言葉も無く、ゆっくりと男が楽師の深い所に沈んでいく。「年甲斐も無く」などと言っていたが、その身体は引き締まっていて鋼のようだ。貫くそれは猛々しく身体の奥の奥まで入り込み、大きく引き抜かれて、再び奥を突く。決して激しくは無い。しかし、力強く深い抽送が、理性を溶かし感覚だけを際立たせていく。手を動かすことを許されぬほど抱きしめられ、何度も角度を変えられ、何度ももどかしげに唇を吸われ、飽きぬのかというほど胸を柔らかに揉まれて、喉の詰まりそうな甘い時間は楽師が再び達する前に止められた。

密着した身体が横向きにされ、片方の足を持ち上げられてそれごと拘束される。

今度は今までの動きが嘘のように、攻め立てられた。奥まで届いてなお、その先を求めるほどの男のものに大きく抜き挿しされ、その動きが早くなる。楽師の身体はしっかりと後ろから抱きしめられたまま、男の腰だけが女を求めて獣のように動いていた。

乱れを見せなかった男の吐息が初めて荒くなる。

楽師ももう限界だった。

小さな嬌声を上げて楽師の身体が震えると、その揺れに合わせて中が小突かれた。猛りが脈打っているのをはっきりと感じる。注がれた精の熱さも、うなじに感じる男の息の熱さも、楽師の身体に与えられた全てが悦びだった。

たとえ、これが男の一時の劣情だとしても。

****

深い交わりの後、息を付く楽師の身体を労しげに男が抱き寄せた。

「少し眠る。」

「は、い。それならば…」

男は一言だけ告げたが、隠密の者が眠るのに自分の身体は厭わしかろう。そう思って楽師が身を退こうとすると、抱き寄せる腕に力が込められる。

「こうしていてくれ。」

「しかし…。」

「嫌か。」

「いえ、いいえ。…このまま、…こうしていて、ください。」

「それでいい。」

楽師からの小さな懇願に微かに笑ったような声で応え、やがてゆっくりと規則正しい呼吸を始めた。こうした生業の人間に抱き枕のようにされるなど、まるで野生の獣を膝に寝かせているような心持だった。ほんの僅かにでも身動ぎをすれば起こしてしまうのではないかと気が気ではない。それでも。

…この鷹のような男が、ほんの僅かの間だけでも身体を休めることができるのならば。

楽師は心からそう願った。

****

眠れないかと思っていたが、楽師はしばしの間眠ってしまっていたようだ。
隣で動く気配にすぐに意識を浮上させ、寝台の上で身を起こす。

傍らで衣擦れの音がした。男が身を調えていたのだろう。眠っている間に行かれなかったことに大きく安堵していると、足音が響いて男が振り向いたことが分かる。

「寝ていろ。」

「行かれるのですか?」

「ああ。」

「……お気をつけて。」

掛ける言葉はいつもの言葉だ。そして、それに応じる男の言葉も、いつもと同じ。

違ったのは、男の足音が近づき、楽師の頬に硬く乾いた手が触れたことだ。

肌の近づく独特の気配、次に感じる甘い吐息、そして唇に何かが重なる感触。湿った音をたててそれが離れると、いつもと同じ言葉を男は言った。

「また、来る。」

「はい。」

楽師の返事もいつもと同じ。
男が立ち去る足音も、扉の閉まる音も、まるで何事も無かったかのようだ。

ただ、今まで振り返ることなく部屋を立ち去っていた男が扉の前で振り返り、楽師を見つめた。
その視線を楽師のもの見えぬ瞳は捕らえることなく。