ある信心深い国があった。
その国を守る神は多くの戦を重ねて国を守ったといわれる戦神で、片目を失い利き腕を失い、なお戦いに吠える勇猛な神であったという。神は戦いに明け暮れるうちに血を浴び、血に酔い、血に狂い始めた。
戦いはじき終わった。
しかし戦いが終わって平和になった国に戦に吠える神は要らず、血が足りずに暴れ狂う神に民は一人の女を与えた。
血を浴びた神の姿を恐れぬ、盲いた処女を巫女として。
これが戦神の伝説。
巫女が生きている間は戦神は神殿へと降臨し、戦神が満足すれば巫女は戦神と共に天に還る。
巫女が召されれば次の巫女が生まれる。
ゆえに、この国にて全盲の娘子が生まれれば、親から引き剥がされて神殿の奥深くへと連れ去られ、巫女として育てられる。
神が満足し、その娘を天に召すまで。
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男は神官であった。
男が仕える神殿は国でもっとも大きな神殿であったが、男は神殿にはほとんどいなかった。男は巫女狩りの神官である。その仕事は国を巡り、街を巡り、村を巡り、盲いた処女を探すことだ。
先代の巫女が召され、10年もの間、巫女の空位が続いた。
巫女の空位が長ければ、戦神が血に狂い始める。徐々に国には不穏な空気が流れ、何かに急かされる様に諸外国はこの国に目をつけ始めた。戦が始まる気配は、戦神が血を求め始める気配。一刻も早く、処女を探さねばならぬ。
そんな折、男はとうとう見つけたのだ。
立ち寄った村に滞在していたときのことである。村のとある夫婦に子が産まれた。どうか産まれた子に祝福をくださいと頼まれて、子供に恵まれた若い夫婦が愛しげに抱く娘子に男は祝詞を与える。ふええふええと弱々しく泣く子は目がまだ開いてはいない。その顔を見て、男にはとある予感が走った。
男は村から立ち去らず、1月ほど経ったある日のこと。若い夫婦から相談を受ける。…子の目が光を追わぬのだと。男はただ「そうか」と言って、若い夫婦が抱く子の顔を覗き込んだ。
美しい玉のような薄い琥珀色の瞳がそこにあったが、夫婦の言うとおり子の瞳は光を追ってはいなかった。「目がみえておらぬ」…男はそう言って、夫婦から子を取り上げた。
「よろこべ」
男は言う。
「この娘子は、神に選ばれた」
男は自らの肩にかかる法衣を脱ぐと、抱いている赤子のからだをくるんだ。
「これより娘は他の男の目に触れさせてはならぬ」
なぜなら、これから娘は戦神の妻となるのだから。…そう言って、さらに神の妻を産んだ若夫婦とそれをはぐくんだ村には、一生を安泰に生きられるほどの褒賞が与えられると約束して、村を立ち去ろうとした。
やめてやめて、その子をつれていかないで、どうか。娘の母が男にとりすがったが、男は決して娘を離さず、ただ冷たい一瞥をくれて黙って村を去った。
男は娘から親を奪ったのだ。
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巫女が月のものを迎えて女になり、戦神の妻となるまでは、巫女をその目に映す人間は最低限でなければならぬ。ゆえに、巫女を連れ去った男はそのまま巫女の世話役となった。それが巫女狩りの神官の次の役割だ。
獣の乳を与え、下の世話をし、言葉を教え、戦神の教えを説き、巫女の役割を教える。巫女は戦神の妻となり、戦神と交わるためにあるのだと。
こうして男の手によってすくすくと愛らしく育つ巫女の成長はまぶしい。素直でしとやかで従順で、神に捧げる歌を澄んだ声で歌い、神に捧げる詩を一字一句間違えることなく暗唱しては、誇らしげに男へと笑う。髪は薄い金色、光映さぬ瞳の色は薄い琥珀色、唇は薄桃色。
陽に当らぬその柔肌は真白。
男は毎日巫女の湯浴みの世話をする。成長するに従い柔らかく膨らむ胸や、戦神のためにある滑らかな腰の曲線に手を滑らせて巫女へと教えた。
「この胸も、腰も、神と交わるためにあるのです」
「そうなのですか」
「いずれその時がくれば戦神が教えてくれましょう」
「でもとても尊いかたなのでしょう」
「あなただけが戦神の心をお鎮めすることができます」
言いながら、男は手ずから巫女の肌に香油を擦り込んだ。男は自ら連れ去った娘の白い肢体を、戦神のために毎日磨く。
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とうとう男が巫女から離される時が来た。巫女が月の物を迎えたのだ。
「これより、あなたに触れる事が出来るのは戦神のみとなられます」
「神官さまには会えないのですか?」
「会えませぬ」
「湯浴みのときも、食事のときも?」
「教えたとおり、なさいませ」
湯浴みも食事もずっと男が世話してきたが、ひとりでもこなせるようにとも教えてきた。もう男が巫女に手を触れることはなく、巫女に会える事はなくなる。食事は窓から差し入れられるだけとなり、湯浴みや着替えの用意は巫女の目に触れられぬところで行われる。
このような時がくることは男には分かっていた。巫女にも教えてきた。この瞬間は巫女狩りの神官となった者の宿命なのだ。15年間、神の妻を愛でることと引き換えに与えられる、それは罰だとされていた。男とて覚悟していた。巫女となる娘を初めてその手に抱いた瞬間から、別れの時に向かって15年を歩むことを。
それなのに。
「神官さま、神官さま」
扉が閉ざされようとした時、巫女が初めて泣いた。追いすがるように、目の見えぬはずの巫女が、男に向かって手を伸ばす。
「巫女…」
名すら知らぬ互いの手は触れることなく、扉は閉ざされた。
****
大神殿の神官長が代替わりした。王族に連なる若く力を持った男が神官長となり、男を呼んでのたまった。
「巫女が病に臥せっている」
巫女が病に。
大切な、大切な、あの白い巫女が?
食事方は何をしているのか、湯浴み方は何をしているのか、服に悪い菌でも付いたのか、ひとり寝に慣れずに風邪を召したか。男が付いていればそのようなことはあるはずがなかったのに。
男が目を見張り、神官長に頼み込んだ。
「会わせてはもらえませぬか」
「それはならぬだろう」
「しかし、いまだ神は現れてはおりませぬ。今ならば」
男の言う通りだった。今代の巫女の許にはなぜかいまだ戦神は訪れていない。戦神は新たな巫女が捧げられたことを知らぬのかもしれない。神官長は頷く。
「このまま巫女が弱ってしまえば、戦神も悲しまれるであろう」
「ならば」
「しかし、巫女の間の鍵はここには1つしか無いのだ」
巫女の間を開ける鍵は2つある。1つは国の王の許に、1つは神官長が持っているのだ。神官長はため息を吐く。
「陛下は信心深いお方。ただで鍵は渡さぬだろうな」
「ならば、どうすれば…」
「さて」
それ以上は言葉を紡がぬ神官長に男は焦れ、たちまちのうちに神殿を飛び出した。
巫女狩りの神官は狂うという。
離された巫女恋しさに、あるものは月夜に慟哭し、あるものは狂ったように女を抱くのだ。
では、この男は。
狂ったように、鍵を探した。
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ある夜、血の海の中で、男は鍵を握りしめたまま捕らえられた。
目のまえに転がるのは王の首。男を捕らえたのは神官長であった。
「謀反の者を捕らえろ」
男はたちまちのうちに、王を殺した謀反者として捕らえられた。神官長は男を牢獄に入れると、王を失った玉座で宣言した。
「王を殺した謀反者は捕らえた。王を失った悲しみは深いが安心せよ。王の唯一の弟であり、神殿の長であるこの私が、神の名の許にこの国を治めよう」
こうして神官長が新しい王となり、神殿が国政を担う事となった。神事は政治と一体化し、王は神と一体化する。
戦神の化身を名乗る新王は、まずはその第一の憂いを取り除くこととした。先の王を殺した謀反者を処刑することにしたのだ。
新王は、両の腕を後ろに縛られて押さえつけられた男の髪を引っ張り、自らの方を向かせて笑う。
「愚かな巫女狩りの神官よ、礼を言うぞ。お前のおかげで王となれた。…お前の巫女は私がもらう」
新王は神など信じていなかった。しかし戦神の化身の振りをして巫女を妻に迎えれば、民はどのような者でも王と認めざるを得ないだろう。新王はそのために男を利用したのだ。神官の地位を得た後で王である兄を殺し、国と神を同時に手に入れる。今代の巫女が、自分と婚姻するに丁度よい頃合の女であったのも運がいい。
巫女狩りの神官は巫女に狂うという。その話を利用したのはほんの戯言だった。王が鍵を持っているとけしかければ、王の身辺を騒がせる虫くらいにはなるだろうと思っていたのだ。まさか本当に殺してくれるとは。
笑って、新王は戯れに男の左目を抉る。
しかし、男は苦悶の表情すら浮かべなかった。
腐った牢獄の中でも、男の心はいまだに巫女の間を開ける鍵を求めていたのだ。
鍵は王が持っている。
神官長が王となった。
目の前の男が、新王が、戦神として、
巫女を
妻に
刹那、男の残った瞳が爛ときらめき、この世の終わりかと思うほどの悲鳴が処刑場に響いた。後ろ手に縛られていた男は首に振り下ろされた剣を避けた。利き腕が飛んで、その代わりにもう片方の腕が自由になる。自由になった方の腕で新王の首を掴み、そのまま喉を潰して殺した。
男は吠えた。
自らの首を落とそうとしていた剣を片方の腕で奪うと、既に事切れている新王の首を刎ねる。同時にそこに掛かっていた鎖が飛んで、シャリンと音を立てた。地面に落ちたそれは2つの鍵だ。男は獣のように鍵に飛びつくと、俊敏な動きで処刑場を横切った。
兵士達が取り囲む。
しかし、男は神官だったとは思えぬほど動きで目の前の人間たちを剣で屠る。まるで戦神が乗り移ったかのように、片方の腕でなんの躊躇いもなく血に染めた。
2度目の血の海は処刑場。
処刑されたのは、巫女を娶ろうとした偽りの戦神であった。
****
神殿の巫女の間は、常のように静かだった。
血に染まった剣をぶらさげ、罪人の襤褸を纏い、片腕と片目を失った男に神官としての面影は無く、しかし、神殿を守る老いた神官達はまるでそれを戦神の化身のように迎え入れた。
血を吹いていた男の左目と利き腕の血は、なぜか神殿に足を踏み入れると止まったが、男はそれを不思議とは思わなかった。ただ、病に倒れたという巫女の安否だけが男の頭を占めていたからだ。
巫女。
私の巫女。
2つの鍵で巫女の間を開けると、部屋の真ん中で何か縫い物をしている巫女があった。決して開く事のない扉が開いた気配に、巫女が顔を上げる。
薄い金色の髪、薄い琥珀色の光映さぬ瞳、真白い肌。細やかな身体は男の記憶よりも少しやせている。臥せってはおらぬ様子に男が安堵の息を吐き、それは同時に感嘆のため息となった。2人が分かたれてから、3年の時が経っていた。幼児から子供、子供から少女へと男が育てた巫女は、少女から美しい女へと成長していたのだ。
巫女がゆっくりと立ち上がり、気配のする方へよろよろと歩き始める。男はカランと剣を取り落とし、目が見えぬのに歩こうとする巫女を片方の腕で抱き止めた。
「戦神さま?」
男が息を呑む。
巫女は、男を戦神と思っているのだ。開けられることのない扉を初めて開けた男のことを、自分を迎えに来た、夫だと。
男の鼓動が、欲望が、どくりと熱く動いた。
「やっと来てくださいましたのね」
「…」
「わたくしが至らぬばかりに、もう来てくださらぬのかと思っておりました」
男の心に何者かがささやく。
神はいまだ降臨していない。このまま戦神のフリをして、巫女を妻にしてしまえ。巫女が処女で失くしてしまえば、巫女は神の妻にはならず…男のものだ。この巫女の間に閉じこもれば、巫女が神に召されるまで食事が運ばれ、湯浴みの用意も為されるだろう。暮らしに不自由する事は無い。
この巫女の間で、死ぬまで2人きり。
「戦神さま?」
「…遅くなって悪かった。私の巫女」
「いいえ、いいえ」
男は巫女の身体を片方の腕で支えると、そのままさらう様に寝台へと連れて行った。
巫女と戦神のために設えられた柔らかな寝台の上に巫女の身体を下ろすと、おずおずと巫女が服を脱ぎ始める。男がずっと戦神のために磨き続けた巫女の裸体が、いまや男のために暴かれている。
巫女の身体の香りは変わっていなかった。肌は少し張りがあり、胸は大きくふくよかになったようだ。男は巫女に手伝わせて服を脱ぐと、互いに何も身に付けることなく寝台に横たわった。
かつて巫女の身体を磨くために手を滑らせたそれとは全く異なる手つきで、男は巫女の身体に触れる。男の唇が巫女のわななく唇に重なり、首筋を這い、乳房を吸った。片方の手で巫女の足を開かせ、蜜を掬い出して味わうと、巫女は知らぬ刺激に翻弄されるように愛らしい声をあげる。
男の身体が巫女の肢体(からだ)を貫いた。
破瓜の痛みに震えていた身体が、今度は男の与える悦に震え始める。
男の欲が巫女の柔肉の刺激に負けて、解放の時を待った。その瞬間、巫女の名を呼ぼうとして男は驚愕した。自分は巫女の名を知らない。
当然のことだった。名を与えられる前に親から引き離された巫女は名前を与えられず、ただ「巫女」と呼ばれ、夫となる戦神に始めて名を与えられるのが習わしだ。男は悦に震える巫女の身体をきつくきつく抱き、心に浮かぶ名を呼ばう。
「―――…」
鈴のような巫女の嬌声が上がり男もまた、堪え切れずに己を吐き出した。
****
王を立て続けに2人も失った国に跡継ぎは無く、王族に連なるあらゆる系譜が我こそはと立ち上がり、国を荒らした。しかしとうとう国の王は決まることなく、土地も民も近隣国に吸い尽くされて滅びた。
そのような中、戦神と巫女を祭る大神殿だけは犯されずにあった。
なぜならば、いかような兵が来ようとも、戦神が乗り移ったかのような隻眼隻腕の男がひとりでその全てを血に沈めたからだ。その様子に諸国は戦き、やがて諦めた。
いつからか、その大神殿には神が肉体を持って現れ出で、妻と共に暮らしているのだと言われるようになった。国が亡くなっても信心は亡くならず、その大神殿には参拝客や仕える神官が途切れることはなく、しかし巫女の間の静謐だけは守られていた。
その巫女の間の敷き布の上に、ひとりの老いた男が背もたれにぐったりと身体を預けていた。その男のそばには、男ほどではないが幾分歳を重ねた美しい女が寄り添っている。
男は老いて死に逝かんとしていた。
分かっていた。
男が生まれたばかりの巫女と出会ったときには、男は既に成人していたのだ。男と巫女の年齢の差は、当時の男の年齢と同じ。どう生にあがいたとて、巫女を先において逝くのは男の方だ。
しかし、衣食住の全てを巫女に教え、自らを神と偽り巫女の夫となり、妻と夫の営みを巫女に教えた自分が死んでしまえば、巫女はひとりになってしまう。
巫女は知らない。自分が戦神などではなく、ただの人である事を。だから、死に逝かんとする夫を前にしても悲しみなどはなく、むしろ自分も一緒に連れて行ってもらえるものだと思っているのだ。
「―――」
男は戦神として巫女に与えた名前を呼び、自らの胸元に下がっている小瓶を巫女に与えた。
「これを飲め」
「あなたさま?」
「もう私は天に帰ろうと思う」
「はい」
「お前も一緒に来るだろう」
「もちろんです」
巫女は微笑み、何の疑いも無く小瓶を煽った。男は巫女の手を握る。男は巫女から親を奪い、国を奪い、処女を奪い、戦神を奪い、命を奪おうとしている。罪深いその男は、そして、とうとうずっと言うことのなかった言葉を口にした。巫女に教えていなかった1つの言葉。本来ならば、戦神から教えられるはずだった感情を。
「愛している」
これが男の最後の罪。
この気持ち、巫女を思うその心。
これが愛だと教えた事が。
*
*
*
*
罪を背負っていくはずだった。
それなのに。
「私も、愛して、おります」
事切れる直前に、巫女が言ったのだ。
「神官さま。愛しております」
…と。
男の老いた隻眼から、涙が一筋零れ落ちた。
ああ、巫女は。世間など、嘘など、知らぬと思っていた自分の妻は、男の愚かな嘘に気付いていたのだ。女は戦神ではなく、男を愛してくれていたのだ。
神のフリをした愚かな巫女狩りの神官は、片方の腕で妻の身体を抱きしめて、やがて…。