海辺の街はからりとした暑さだと思われるだろうが、その夜はまるで目の前で乱れる女のように濃密な湿度だった。
安い連れ込み宿に娼婦を連れ込んだ男は、女の身体を寝台の上にひっくり返すと背後から己を添わせた。お偉い貴族が呼ぶような高級な女とは違って化粧臭い女だったが、挿れて揺らせば多少は楽しませてくれるだろう。男は別段この女を抱く為に連れ込んだわけではなかったが、女がわざわざ身体を開いたのだからそれに興じたとて悪い事ではあるまい。金はこの女の相場よりも、余分に払っている。
女の腰を掴んで引き寄せる。
多産系の豊満な腰だ。ただ肉付きはいいが締まりはそれほどでもなさそうだ。しかしまあ、贅沢は言えない。
高湿な気温が女の身体から発する雌の匂いを一層強くする。
なるほど、好みの女でなくても抱けそうだ。
何度か手を動かして勃ち上げた自身のものを押し付け、ぐ…と力を入れる。
…と、その時。
女の熱い蜜壷に男の先端が入ったか、入らなかったか…というところで、男の動きが止まった。
「くそっ…」
男が毒付き、女の身体から手を離す。怪訝に思った女が、男を振り返った。
「…? お客さん? どうかし…」
ぐ…と女の唇を男の手が塞ぎ、何かをねじこまれる。小さな丸薬だと認識すると薬草の香りが一気に喉に流れ込み、女は気を失った。さらに、男は女の首に掛かっていた首飾りを引き抜く。
「……あの女」
ち…と盛大に舌打ちして、男は首飾りを持ったまま寝台から降りた。服はまだ身に付けていたので、身形を調えるのにさほどの時間は掛からない。一瞬で萎えた己の物もさっさと服の中に戻すと、男は部屋の扉ではなく窓辺へと近付いた。
一切の躊躇い無く、ひらりと窓の外に出る。隣の建物の屋根の上に音も無く飛び移り、鞭のようにしなやかに身を翻して誰もいない雑踏へと飛び降りた。
****
その酒場は港街でも一番格の低いところだ。庶民の中でも金の無い者たちが、それでもなんとか酒と名のつくものを口に入れようとやってくるような場所である。酒場の中は常のように騒然としていて、一体誰が何を注文したのか把握できているのかも怪しい。酒と、労働者の汗と、香辛料を付けて焼いただけの肉の匂いとが混ざっているが、それはこうした酒場にはめずらしいものではない。
その雑然とした酒場の奥に、静かな佇まいの客が1人居た。ローブを目深に被り顔は伺えない。女か男かは分からないが恐らく旅の人間なのだろう、持ち物らしい大きな荷が側に置かれている。
その客は丸椅子に座り、壁を背もたれ代わりにくつろいでいた。あちこちで口喧嘩やら酔っ払いの激昂が飛びかうなかで、まるでそこだけ時間が流れていないかのようにゆるりとしている。
ガシャン!……と音がして近くで喧嘩していた酔っ払いが、客の飲んで居た卓に倒れこんだ。客はすばやくテーブルの上に置いていた蜂蜜酒とグラスを手に取り、せっかくの酒を床にぶちまけるという難は逃れる。
「あん、すまねえな、にいちゃん」
へへっ…と倒れこんできた酔っ払いは、その客の肩になれなれしく手を回した。客は別の卓に酒を置くと、絡まれた手を黙って払いのける。
酔っ払いは大袈裟にふらふらと客から離れ、またふらふらと近付いた。
「ひゃあ、これはこれは……にいちゃんかとおもったら、ねえちゃんじゃねえか。どうだこっちきていっしょに……」
「やめとけ」
ぐ…と酔っ払いの襟首を後ろから誰かが掴む。ぐえ……と蛙のようなうめき声を上げると酔っ払いは後ろに引っ張られた。そのまま捨てられるように床に落とされ、倒れた酔っ払いの横を黒い長靴が通り過ぎる。
「なんだてめえやんのか」
倒された酔っ払いが頭を振りながら絡むと、長靴が止まり、その持ち主が冷たい瞳で酔っ払いを見下ろす。
「ああん?」
随分とその男は不機嫌な様子だ。長身の身体を黒い装備で包み、まるで剃刀か何かのような鋭い体躯が見て取れる。雰囲気もまた鋭い。まだそれほど歳を取っている風ではなかったが、しばらく剃っていないのか無精髭が顎を彩っていて、男の年齢をよく分からないものにしていた。
鋭いその風貌に、酔っ払いの背が一気に冷える。
泡を吹くように這って酒場の騒ぎの中に酔っ払いが消えていくと、男は絡まれて居た客の卓を挟んだ斜め横の椅子に座った。
「何、クソみたいな男に絡まれてるんだあんたらしくもねえ」
「おや、私がどうにかする前にお前がどうにかしてくれたのかと思った」
「つーか、お前なあ…好い所だったのに、なんなんだよ!」
だんっ…! と卓を拳で叩いて、男が客を睨みつける。男を相手にしている客がローブから僅かに覗かせる唇が小さく笑みを象り、わずかに首をかしげる。美しい声は女のもので、女はおやおや…と肩をすくませた。
「好い所? 何の話だ」
「もう少しであの女とヤルところだったのに、てめえが呼び戻したんだろうが!」
「ん? 最後までしていなかったのか?」
「女連れ込んで半々刻(15分)で呼ばれたら、抜けるもんも抜けるかよ!」
「それだけあれば充分だろう。さっさと抜かないお前が悪い」
「はあ? なら、お前がヤラせろよ」
「早漏は嫌いでね」
「ってっめえ…!!」
女は自分が使っていた杯を男の前に置くと、蜂蜜酒を注いでやった。
「まあ、そう怒るな。それで、ケレク、上手くやったのか?」
「当たり前だろうが。ほらよ」
ケレクと呼ばれた男が片方の手を差し出す。その手を包みこむように女が握ると、ケレクがそこで力を緩めた。ケレクの手にあったものが、女の手の中に渡る。女は受け渡されたものを自分に引き寄せると、ちらりと視線を落としてすぐにケレクに返した。
「よくやったな、これはお前が持っておけ、ケレク」
「ああ? 折角盗ってきてやったのに何だよ」
「さて、…知りたい?」
「美味い話か?」
「お前にとっては美味いかもな」
突き返された物をケレクは憮然としながら懐にしまう。逆に女は悠然と笑って杯をすすめた。
****
ケレクは蜂蜜酒をぐ…と煽った。相棒の女はよく飲んでいる酒だが、実のところケレクはあまり好きな酒ではない。喉の奥に絡みつくような重たい甘味が苦手なのだ。ケレクは一気に流し込んで、その後妬け付くような酔いが回る酒が好みだ。
大概こういう酒場で飲む酒というのは安物で、この蜂蜜酒も例外ではないようだ。かなり薄めていて古臭い味がしている。相棒の女を横目でちらりと見てみると、案の定あまり口を付けていない。不味い酒を飲ませるな馬鹿が…と思ったが、女に口答えする気はケレクには無い。
ケレクの相棒の女はハウメア……という。
昔ケレクがヘマをして牢に入れられていたとき、牢を破ってケレクを助けた女がハウメアだったのだ。相棒…といっても、様々な不可抗力…とケレクは思っている…が重なって、たった今、彼女は男の主となっている。女は剣士でもあるが魔法使いでもあり、女のかけた呪いによって、ケレクはハウメアの命令には逆らえない。つまり、ハウメアがご主人様でケレクはその忠実な従者だった。
従者は問う。
「…で、次はそのカーネ遺跡とやら、ってわけか、どこにあるんだよ」
「アウリイ諸島だ」
聞いたことのある島の名前にケレクが、眉を寄せる。しかし、聞いたことがあるといっても、それは伝承や寝物語の中でだけだ。この辺りの海辺に住んでいるものならば誰もが知っている、女神が隠れ住まうという伝説のある島だ。
「ああん? 女神リューリューの王冠があるってか? おとぎ話だろうが、あれは」
「おとぎ話では無いらしいぞ、ケレク。…次の仕事は、そのアウリイ諸島までの海図を盗んでくること」
ケレクは思いきり胡散臭そうに顔をしかめたが、ハウメアの表情は至って涼やかで真面目なものだ。ハウメアはこの手の目的地選びに失敗したことはない。恐らく、そのアウリイ諸島も実在し、そこにある何かを手にしようと画策しているのだろう。
しかし、そう分かっていても口答えしたくなるのがケレクという男の性格だ。
「また仕事かよ、人使いが荒いんだよてめえは」
「その海図がある場所は、この街にあるイアール聖堂の地下墓地でね。名も無い船乗りが一番奥にまつられている。その棺の蓋の裏に、海図が描かれているらしい。それを写してきてくれないか?」
「ちょっと待てよ、そんなもんがすぐそこにあるってのになんで誰も暴いてねえんだ?」
「開ける鍵が必要でね、長年いろんな冒険者が追ってきたんだが、謎とされていた」
「開ける鍵?」
「そうだ。……船乗りが愛した女にくれてやった護符。ケレク……お前が盗んできたそれが棺を開ける鍵なんだと」
しかし話の末路はそんなロマンスのあるものではなかった。船乗りが愛した女は帰って来ない海の男に業を煮やし、さっさとその護符をどこぞに売ってしまったのだそうだ。高価な護符であったのにも関わらず下町のうさんくさい小間物屋に売られたそれは、100年の間にやはり価値は上がることなく、時に下級兵士の幼馴染の女への贈り物になったり、時に猟師の妻へのご機嫌取りの手土産になったりしていたらしい。巡り巡って、この港街の娼婦が持っていた……というわけだ。少し話を伺えば、自分の情夫からもらったものだという。
その情夫とやらが女にとって如何ほどのものかは知らないが、目が覚めた後で護符の無いことに気付かれたところで、それに罪悪を感じるような2人ではない。
「しっかし、このくそ暑い時に墓暴きかよ。気が進まねーな」
「あそこの修道士は下衆が多くて、地下に相当溜め込んでいると聞いたぞ。適当に持って帰ったらどうだ」
「ふん」
言われなくてもケレクはそのつもりだ。だが、ここ最近ハウメアの人使いが荒いうえに、先ほど女を抱けなかった…という燻りが身の内に残っていた。
「なあ、報酬は?」
「報酬?」
いつもはその場でくすねた金目の物が全てケレクの報酬だった。それに、そもそもケレクはハウメアにかけられた主従の呪いのゆえに、逆らうことなど出来やしないのである。だが、ケレクはそれを分かっていて報酬を要求する。戯れだ。
ハウメアはローブから覗く口元を楽しげに緩めて頬杖を付く。
「何が欲しい、ケレク」
「あんたが欲しい、ハウメア」
「ほう」
さあ、一体主はどう出るか。そんな楽しみも含めた、従者の要求だ。ギシ……と軽く背もたれに体重を掛けて腕を組み、ケレクは試すような視線を滑らせる。
「あんたを抱きたい」
「おやおや、従者のくせに随分と強欲だこと」
目の前の主人の顔はローブに隠れているが、薄くほんのりと赤い唇が美しく弧を描いた。その表情を追いかけるようにケレクもまた薄く笑みを浮かべ、卓に膝を付いて僅かに身を乗り出す。ローブの中を覗きこむように顔を傾げると、誘惑するような低い声でささやいた。
「なあ、ご褒美をくれよ、ご主人様」
「いいだろう」
「は?」
挑戦的な応酬を繰り返して居た主と従者だったが、あっさりと主が頷いた。意外そうにケレクが顎を撫で、まじまじとハウメアを見ていたが、やがてゆっくりと舌なめずりをする。
「約束だぜ、ハウメア」
「ああ」
ガタン…とケレクが椅子を蹴るように席を立ち、まだ座ったままのハウメアに覆いかぶさった。
「ケレク?」
「前払いだ」
ハウメアが一瞬動きを止め、すぐさま唇に笑みを乗せた。ケレクが何をしようとしているのかを悟ったのか、先にその襟元をぐい…と引っ張る。
唇が重なるかと思ったが、ハウメアのそれはケレクの唇の側を通り過ぎて頬を滑り、耳元をくすぐった。
「今回は前払いは無しだ。いい子で行っておいでケレク。お前に盗賊神セトナの加護があるように」
美しく色めいた声が流し込まれて、ケレクの耳をぺろりと濡れた感触が這った。先制されたケレクは、ちっ…と舌打ちして乱暴にハウメアから離れる。「明日の夜には戻る」…そう言って、後は振り向かずに酒場を出て行った。
勢い余って脱げたフードを被り直しながら、ハウメアはケレクが飲んでいた酒杯に蜂蜜酒を入れると一気に煽る。
「ああ、これは不味い酒だこと。…さて…。成功したら美味い酒でも飲ませてやろうか」
言いながらハウメアは知っている。
金貨5000の賞金首である大盗賊ケレクが、たかだか聖堂の地下に忍び込む程度の仕事で失敗するはずが無いのだ。
****
安い宿屋の一室で女が1人書物を広げている。
顎のラインで切りそろえられた黒い髪に、睫毛の長い瞳。古代文字を追うその瞳は切れ長で、時折考え事をするように動く唇は薄いが艶めいて潤んでいる。
傍らには陶器で出来た蜂蜜酒のボトルと水が置いてあった。その銘柄は、今取っている部屋に後30日は泊まれるだろう高級なものだ。女は指で唇をなぞりながら書物を読んでいたが、やがて顔を上げると蜂蜜酒を杯に注いだ。
女は書物を閉じ、水の入れてある入れ物を握った。何かしら美しい呪い語を唱えて、それを蜂蜜酒を入れた酒盃に返すと、カランと音がして氷になったそれが沈む。
魔法で作った氷の冷たさを唇に乗せ、蜂蜜酒を喉に少しだけ流し込んだ。
昨晩、女が酒場で口にした安物とは全く異なる芳醇な味だ。醸造するときにハーブと果実を漬け込んでいるらしく、濃厚な蜂蜜の甘味の奥に爽やかな苦味があってすっきりとした後口だ。度数もそれほど高くは無く、喉に流し込んで熱さは感じない。しかし、ゆっくりと飲んでいると徐々に心地よい気だるさを誘う。
カタン…と音がして、窓から黒い影が部屋の中に滑りこむ。
侵入者の気配にも女は驚くこともなく、視線を移した。
「ケレクか。お前の部屋は隣だったと思うが?」
「どうせ同じ部屋になるんだ。手っ取り早いだろ」
女…ハウメアは呆れたように酒盃を傾けた。カランと澄んだ音が部屋に響く。
「俺の分は」
「お前は蜂蜜酒は嫌いだろう」
「またそれかよ」
ケレクは机の上に置かれた蜂蜜酒の銘柄を見て、「高けえもん飲んでるな……ったく」と悪態を付いたが、ハウメアが持っている酒盃を奪った。ハウメアは大人しく手を離し、酒はケレクの手に移る。こくんと飲むと、仕事明けの喉に冷たい氷が心地よい。
ケレクはついさっきまで黴臭い聖堂の地下墓地に侵入していたのだ。しかもこの蒸し暑い夜に…だ。黴臭さは湿気で生臭さに変わり、大した敵はいなくても熱気と汗は気分を滅入らせる。
仕事は簡単だったが、端的に言うと面倒な上に辛気臭い仕事だったのだ。
狭い宿屋の部屋で立ったままカラカラと酒盃を傾けるケレクに呆れた視線を向けながら、ハウメアも立ち上がった。
「酒ならある。私のを飲むな」
「ケチくさいな、お前。…何があるって?」
「テーウ地方の蒸留酒だ」
「はあっ!? テーウ?……お前、その蜂蜜酒といい、テーウの酒といい、そんな高い酒手に入れるくせに、なんでこんなくそ安い宿屋に泊まってんだよ! ったく」
「いい酒を飲んで寝てしまえば、宿屋なんぞどこも一緒だ。飲みたいなら身体を拭いてこい。黴臭いぞ」
「……墓暴きをやれっつったのは、お前だろうが」
ぶつぶつといいながらも、ケレクはハウメアが顎で指した衝立の向こうに姿を消した。そこには浴盥が用意されていて、今は夏だからだろう、冷たい水が張られている。ハウメアは人使いの荒い主人ではあるが、美味い酒と美味い飯を用意する、悪くない雇い主だ。
ケレクがさっさと服を脱いで水を使っていると、ハウメアが声を掛けてきた。
「それで、首尾は」
「首尾? ……大した仕事じゃなかったぜ。ほらよ」
ハウメアがカラカラと氷を作っている音を聞きながら、ケレクが衝立の向こうから何かを放った。それは一冊の古びた本で、その本の間にケレクが写し取ってきた海図が挟んであった。ハウメアは珍しく瞳を大きくして、驚いたような顔を見せる。
「おや。『太陽と水銀第三章』? これはまた、いいものを盗ってきたではないかケレク」
その機嫌のよいはしゃいだ声に、ケレクの口角があがった。主人のハウメアにいつもケレクはしてやられている。たまにこうしてハウメアを驚かせるのは気分がいい。自身の声も跳ね上がりそうなのを自覚して堪えながら、なんでもないことのように返す。
「そうか? 船乗りの棺の中に入ってたぜ。年代は……」
「恐らくその船乗りが棺に入れられたのと同じだ。……偉いなケレク!」
「お褒めの言葉はいいから報酬を上乗せしてくれよ」
「報酬?」
なんのことだ? とでも言いたげなとぼけた口調のハウメアに、思わずケレクが素っ裸で衝立から出てくる。
「……おい、ハウメア、約束が違うだろうが!」
「身体を拭いて何か着ろ。暑苦しい」
「はあ? どうせ脱ぐんだから一緒……」
しかし男の裸にハウメアは動転することもなく、言葉が終わる前に拭き布が放り投げられた。拭き布を被って沈黙したケレクは、仕方なくその柔らかな布で全身を拭きながら一度衝立に戻る。下穿きだけ身に着けて出てくると頭を拭きながら寝台に座った。
「で、合格かよご主人様?」
「上出来だケレク。これでアウリイ諸島まで行けるだろう」
「だが、海だろ? 船はどうやって手配するんだよ。半端な船じゃあ行けねえぞ」
「それについては考えがある」
ハウメアは氷と蒸留酒を酒盃に入れると、ご褒美にと、ケレクに渡した。受け取って、一気にそれを流し込む。
水のように喉を通り、次の瞬間、焼けるように喉が熱くなった。その温度が胃に落ちたかと思うと、すぐさま穀物と木の実の香りが鼻腔に駆け上がってくる。ケレクの一番好きな酒だ。それも、一番上等な水と上等な材料で作られたものだ。
「美味いな」
「そうか? 私は喉が焼けてしまうから、あまり好きではない。まだ飲むか?」
「ああ」
ケレクが氷だけになった杯を浮かせると、向かいの椅子に座ったハウメアがキュポンと蒸留酒の栓を抜いた。トクトクと酔いを誘う音をひとつふたつ響かせて注がれたそれを、今度は一気に煽らずに一口二口、味を楽しむ。
水を使って一度冷えた身体だったが、蒸せる湿気は相変わらずだ。
いつも涼しげなハウメアも流石に暑いのか、肩に届くか届かないかの黒い髪が、白い首筋に汗でまとわりついている。その姿に、ケレクは腹を空かせた獰猛な獣のように瞳を細めた。
残った酒精を、く、と喉に流し込むと、唇を拭って立ち上がる。
立ち上がったケレクを、ハウメアが見上げた。
「どうした、もう要らないのか?」
「いや、その前にあんただ」
「酒より私とは、お前も道理が分かるようになったね」
「いちいち口の立つ女だな」
ケレクはハウメアの襟元を掴んで引っ張り上げた。一見乱暴に思えるようなその行動だったが、ハウメアは抗うことなく、引っ張られるままに立ち上がる。
細い腰にケレクの腕が回される。持ち上げるように強く抱いて、唇を重ね合わせた。
ぬるりと舌を絡め入れると、ハウメアはそれを難なく受け止める。濡れた舌同士が触れ合った唇の中で、互いを探り合った。ぬるぬるとした唾液は、それぞれの好む酒の味がする。その味が無くなってしまうと、ケレクは一度顔を離した。
片方の腕でハウメアの腰を捕まえたまま、机に置いてあった蒸留酒の瓶を掴んで煽る。……そして、一口口に含ませた。
含ませたまま、再びハウメアに唇を重ねる。
「ん」
初めてハウメアの喉から色めいた吐息が漏れる。喉の奥にケレクから流し込まれた酒精が通っていく。そして入らなかった酒の雫は、つう…とハウメアの唇の端から零れ落ちてしまった。首筋から胸元へと落ちていく冷たい滴の感触に、ハウメアが苦笑する。
「零すな、もったいない」
「そうか? じゃあ全部飲んでやるよ」
ぐい…と腕を引っ張り、ケレクはハウメアの身体を寝台に沈めた。下になった主人を組み敷いて、従者はその服に手を掛ける。ゆっくり暴きながら、酒の滴った箇所に舌を這わせた。
ケレクの瞳はいつもの軽薄なそれではなく、ぎらぎらと飢えた獣のようだ。
「ケレク」
「ああ?」
「上乗せ報酬が欲しいのではなかったか?」
「へえ?」
ケレクの腕が緩む。今度は体勢を変えて、ハウメアがケレクの上に乗った。ケレクの手でハウメアの服は半ば剥がれていて、ゆるりと揺れる胸が露になっている。惜しげもなく晒されたそれにケレクが思わず手を伸ばすと、ハウメアの身体もしっとりと汗ばんでいるのが分かった。
ハウメアの細い指先が、今度はケレクの硬い肌を這う。引き締まり、無駄の無いケレクの硬い腹に触れてくるその手に任せながら、ケレクはハウメアの豊かな胸を下から持ち上げて弾力を確かめた。昨日の夜抱こうとしていた娼婦の身体と違って、戦うことを知っているハウメアの身体は実用的な肉付をしている。腹周りは引き締まり無駄な贅肉が無いくせに、胸は罪深いほど柔らかい。
「あんたも人間なんだな」
「ん?」
「汗ばんでる」
「そういう女は嫌いか?」
「いや。折角暑い夜に女を抱くんだ。湿った身体を楽しまなくてどうする」
「お前にそういう伊達な物言いは似合わないね」
「たまにはいいだろうが」
ハウメアはケレクが身体を撫で回す手をそのままに、サイドテーブルに置いてあった……今度は蜂蜜酒の酒瓶を取り、それを一口口に含んだ。
何をするのか分かって、ケレクが口元を緩めた。近付いてくるハウメアの背中を引き寄せる。
「…っふ」
くぐもった吐息はどちらのものだったのか。ケレクの喉に、濃い甘味の…それでいて爽やかな苦味のある酒精が流れ込んできた。長く続く酒を帯びた口付けを受けながら、ケレクの手が脱げ掛かっていたハウメアの服を全て取り去った。
まろやかな腰の丸みに手を這わせながら、口腔内を探ってくる舌と駆け引きする。ハウメアの舌がやわやわとケレクの息を煽り、酒混じりの唾液が流し込まれる。反撃にケレクがハウメアの舌をかるく甘噛みすると、一度離れて、唇を誘うように舐めてくる。ケレクは再びそれを追い掛ける。
弾力と柔らかさが絶妙な胸が、ケレクの硬い胸板に乗っていた。手で触れようと身体を浮かせると、ハウメアが腕をケレクの首に絡めて引き寄せるからうまくいかない。指で互いの身体の間を探れば、ハウメアの柔らかい胸に指が沈む。
2人とも酒に弱いわけではない。しかし徐々に心地よく脳内が痺れてくるのは、酒の匂いを纏わせた互いに酔いしれているのかもしれない。じっとしているだけで汗ばんでしまうような夜は、逆にその肌触りが心地よい。ぺたりと吸い付き合い、絡み合う感触が極上だ。
ケレクの唇の端から零れた蜂蜜酒を、ハウメアが舐め取った。
しかし、じりじりと下へ下がっていく細い手を掴むと、女の腰を抱いて再び寝台へひっくり返した。
元の通り、ケレクが上になる。
不敵な笑みを浮かべるケレクを見上げ、ハウメアもまた負けぬ勝気な目で楽しげに笑んだ。
「ん? 上乗せ報酬が欲しかったのではなかったか?」
「それはまた後だ。まずは目的の物をもらわないと、あんたは油断がならないからな」
「用心深いこと」
ケレクはハウメアの腕を掴んでひとまとめにすると、硬い枕に押さえつけた。いつもは逆らえぬ主人の身体を、こうして抱くのは初めてだ。いいねえ、興奮する。ぐぐ…と喉から楽しげな唸り声が上がる。
「胸に毒なんぞ、塗ってないだろうな」
「確かめたらどうだ」
「なるほど。そうさせてもらう」
男は女の柔らかな胸に顔を下ろし、張りのあるそれを口に含んだ。もちろん毒なんぞは含まれていない。この女自身の、肌の香りに酔いしれる。弾力の違う箇所を舌で探り当てて吸い付き、転がす。もう片方は指で挟んで、揉む感触と同時に味わう。
そうしているうちに、ケレクの下穿きの中にハウメアの手が入り込んだ。じんじんと熱く溜まっているそこは、まだ始めたばかりだというのに待ちきれないと言わんばかりだ。ハウメアの指先がなだめるようにそこを撫で始めたが、なだめられるはずもない。
さあ、互いをどうやって味わおうか。
啜るか、噛みつくか、吸うか、舐めるか。
美味い酒も、互いを引き寄せる湿っぽい夜も、極上の女を抱くいい刺激だ。
****
「おい……」
目が覚めた時は、空が白み始めたくらいの時間だった。まだ相当早い時間のはずだ。
「おい、ハウメア」
男の腕の中にはいい香りのする女がいる。腰も足も引き締まっているが、胸と唇の柔らかい女だ。身体はいい具合に気だるい。その気だるい心地に長く息を吐きながら女の太腿に手を這わせた。
「……やらせろ」
「もう出すものも残っていないだろうが。それよりも起きろ」
ケレクは舌打ちした。既に目は覚めている。こういう時は大概朝も遅くまでこの柔らかさを堪能するのだが、目が覚めてしまったのには理由があった。
宿の階下で僅かに不穏な気配がする。
港街の朝は早いといっても、この宿屋は港から少し離れた下町だ。仕入れの時間にはまだもう少し早く、この辺りの人間は完全に寝入っている時間のはずだ。
鎧を外して静かに行動しているようだったが、吊っている剣と軍靴の音がかすかに響いている。…ということは、国の騎士かその辺りか。
それにしても。
「……ハウメア、騙したな?」
「ん……?」
「なんで俺は報酬も貰わずに呑気に寝てんだよ……」
「くれてやったろう、十分過ぎるほど。まったく、どれだけ抜かせてやったと思ってるんだ、けだものめ」
ハウメアもまた起き抜けの、完全に覚醒しきっていない色っぽい声をしている。その中に楽しげな色も含ませながら、ケレクの抱き寄せている腕と、足と足の間を探ろうとしている手を退けて身体を起こした。その言葉を聴いて、衝撃を受けたケレクは起き上がる気になれない。
「……んだと?」
「おや、覚えていないのかい? まあ、随分と飲んでいたからね」
「いやまて、いくら飲んだって俺がヤッて忘れるわけが……」
と、言い掛けて黙った。身体に残る…特に下半身に感じる気だるさと、惜しげも無く裸体を晒して寝台を降りるハウメアの背中についた赤い痕を見て、わずかに思い出す。確かに酒を飲みながらヤッたが、そんなのはいつものことで、酔いが回って女を抱いたことを思い出せ無いなんて事は今まで無かった。
柔らかい唇も覚えている。
筋肉のついた滑らかな腹周りも覚えている。
胸に指が沈み込む弾力も、その指がケレクのものに触れたのも。
指だけじゃない、ハウメアの唇も触れて、飲み込まれるかと思うほど巧みに舐められて、我慢できずにひっくり返して、押し付けて……。
「挿れたか…? 俺?」
「ほんとうに覚えていないのか? …折角の報酬だったのに、それは残念なことだ」
「いや待て、覚えてる、覚えてる……が」
そう、覚えている。覚えている、が、どこか曖昧でふわふわとしている。相当好かったことだけは覚えているが、具体的に何をしたとか、ハウメアの好さそうなところとか、そういう一番重要な部分や感覚は、夢で見たか何かのように曖昧な記憶になっている。
「覚えているのならいいだろう」
「よくねーよ!」
心底呆れたように言いながら、ハウメアの美しい腰周りが服で隠れる。弾力のある肌が徐々に隠れていく様をいささか残念そうに見遣りながら、ケレクも身体を起こした。
…それにしても、一番好い女との一番好い時と一番好い所を覚えていないなどと…どんな失態よりも大失態だ。
「おいちょっと待てよ、お前、薬か魔法使っただろう」
「男と寝る時にそんな気色の悪いもの使うわけがないだろう。ケレク、早く着替えろ。場所を変えるぞ」
「くっそ…そんなことより、報酬についてだな…」
言いながらも、ケレクもようやく寝台から降りる。すばやく身支度を調えながら、雰囲気は常のように鋭く、敵を前にしたときと同じ隙の無い視線に戻る。先ほどまで情事のことで気だるげにしていたのが、嘘のように2人の雰囲気が切り替わった。
「4人か?」
ハウメアが問う。
「いや、5人だな。別の方向から1人来てる。……目的はなんだ」
「海図だろうな」
身形をすっかり調え終わったケレクは荷を担ぐと、南側の窓を静かに開ける。こちら側は屋根が無くてすぐに路地に降りられる場所だから、案の定、見張りの気配は無いようだ。金具と魔法で出来た綱の両側に鉤を付けながら、ケレクはハウメアを振り向く。
「目ぇつけられるようなヘマをしたのか?」
「さてね。ここは軍も停留するような港だから。……おいで、<つぐみの騎士カイム>」
ハウメアが呪い語を唱えて手の平を上に向けると、ハウメアの使い魔 ――小さな黒いつぐみの形をしている―― が降り立った。ハウメアがケレクに頷くと、ケレクは小さな使い魔に綱に付けた鉤を渡す。
「この時間なら南西の見張り塔だ。間違えんなよ」
それを聞いた使い魔は、鉤を咥えてぱたぱたと南西へと飛び立った。
やがて、シュ…と音がして2本の綱が銀色に煌きながらどこからか、ピンと張られた。ケレクは、張られた綱の空いた方の鉤爪を窓の上に引っ掛ける。南西の見張り塔と宿の窓を、2本の銀色の直線が通った。
同時に階下から足音が聞こえてきた。とうとう何者らが宿屋に突入したらしい。それでも2人は全く落ち着いた様子で窓辺に立つ。
「ほら、お手をどうぞ、ご主人様」
ケレクが差し出した手にハウメアが手を乗せ、再び呪い語を唱える。それは2人の身体を軽くして、重力から逆らい空を舞う魔法だ。
ケレクは張った鋼の綱に別の金具を取り付けて、何度か引いて張りを確かめた。身体にハウメアの掛けた魔法が効いているのを感じると、腕に主を抱く。
「忘れものはないだろうな」
「ああ」
トン……とケレクの足が窓のフチを蹴ると、2本の綱の内、1本が2人の身体を強く引いた。鋼が擦れる音を響かせながら南西の見張り塔まで滑るように、ケレクとハウメアの身体が明けかけの空を抜ける。
あっという間に到着すると、塔の裏へと飛び居りる。
軽く金具をひくと、シュルリと音がしてケレクの手中に鋼の綱が一気に戻ってくる。パタパタとつぐみの騎士が鉤爪を落とし、ハウメアの元にやってきた。
つぐみの騎士がハウメアの手元に吸い込まれるように消える様子を見ながら、ケレクはあることに気付く。
「おい、ハウメア。海図を入れてたあんたの鞄は?」
「ああ、忘れた」
事もなげに言い放った。それを聞いて、ケレクの瞳も口もぽかんと空いた。
「はあ!?」
「机の上に広げて見ていたんだが、忘れてしまったな。お前が急かすから」
「いやいやいやいや、なんだそれ、俺が、あんなに、苦労して、写してきてやったのに!?」
「仕事は簡単、報酬は十分のいい仕事だったはずだが?」
「だからって、お前……」
ぎゃあぎゃあと喚くケレクに、しい……とハウメアが人差し指を唇に当てる。ケレクの主人は、美しくも意地の悪い笑顔で従者に言った。
「見ていろ。あと1週間もすれば、この国の騎士団が一番力のある海洋商人に依頼して船を出すぞ」
「……どういう意味だよ」
軽い口調をケレクが止めて、すぐに仕事の話をするような感情を抑えたものになる。
「あの海図を狙っているのは、国…ってことだ」
「……んで、そいつらが出す船に便乗するってことか」
「物分かりのいい従者だね」
ケレクが海図を盗みに行っている間に、ハウメアは騎士団にこっそり情報を流した。つまり海図を持った怪しい旅人が宿屋に泊まっている…と。安い宿屋は少し金を持たせてやれば、客の情報などすぐに喋る。海図を探している騎士団は、その怪しい旅人が宿泊している部屋に踏み込むはずだ。追撃されていると知った旅人は慌てて窓から逃走する。……部屋を少し探せば、ごく自然に、何枚かの意味深な地図や呪文を書いた紙が置いてあって、そこにはあの海図も紛れ込んでいる……。
お目当ての海図を手に入れた騎士団は、その海図を検討するだろう。本物であれば、さてどうするか。
「それに私にはこれがある。…海図はね、この本の中にもあるんだよ」
そういいながら、ケレクがついでに盗んできた『太陽と水銀第三章』を嬉しそうに抱きしめた。なんでも、その本の中に例の海図を解読できる図式と文面が記述されているのだそうだ。それならば、あの死体の眼前で、棺の蓋に張り付いて海図を写し取ってきた作業は一体なんだったんだ。そう思ったが、ハウメアの本に対するはしゃいだ態度に、少しだけ機嫌を直す。
しかもハウメアの描いた筋書き通り、1週間後に船は騎士団を乗せて出立し、自分達はそれにこっそり……もしくは堂々と乗り込むのだろう。そのための算段も主は考えているはずだ。何をどう反論しても……いまのところ、ケレクはハウメアには叶わないのだ。
とりあえず、今のところは。
「んで、ご主人様。…これからの優雅な1週間にあてはあるんだろうな?」
「ああ、グリュヌーズ旅館に入るぞ」
「ああん?」
その名前は、ケレクすら知っている港街一番……いや、この国一番の高級宿だ。並の階級では滅多に泊まれない超上宿で、泊めている客の情報は、国家の人間にすら明かさない一流の場所のはずだった。
「そんな上宿に一週間も泊まれるんだったら、船の一隻や二隻雇えよ!!」
「それが、この辺りの商人の船は騎士団に全部通じられててねえ。……あれらに追撃されながら船に乗るより、一緒の船に乗った方が平和だろう?」
「お前なあ……」
くそっ……と毒付いたが、すぐさまケレクは常の調子を取り戻した。そんな高級宿に1週間も泊まるなら、褒美の続きを貰うにはいい具合だろう。そう考え直したのだ。ケレクは主の腰を後ろから抱き寄せた。耳元に唇を寄せて吐息で温め、色を思わせる声で誘いを掛ける。
「じゃあ、もう一度報酬をくれよ。一週間分、たっぷりいい仕事をするぜ、ご主人様」
「ほう。それはなかなか忠義な心がけだね」
犬がするように、ぺろりとハウメアの耳を舐めた。主の味に満足を覚えて、さわさわと柔らかな胸を持ち上げるように手を添える。一瞬、ハウメアがケレクに全ての体重を、心地よいそれを掛けてきた。ケレクはその重みを受け止めて、上を向いた柔らかな唇に吸い込まれるように、触れて……。
「痛”ぇ…!!」
思い切り脛を蹴られた。
「仕事はまた考える事にしよう。私はお前のくれたこの本を読むのに忙しくてね」
「ちょっとまて、じゃあ、その本の分の報酬をだな……」
「上乗せはしただろう?」
「大して覚えてねえんだよ!!」
苛立たしげに訴えながらハウメアの後を付いていく。ハウメアはケレクを振り向くと、実に楽しそうに瞳を細くした。思わずケレクが見蕩れるほどの、無邪気で……色めいた笑顔だ。
「酔って気をやってしまうほど、私の身体がよかったか?」
「……っせえ! さっさと行くぞ」
一瞬でも見蕩れた自分の気恥ずかしさに、ち……と舌打ちして、ケレクはハウメアを追い越して歩き始めた。これだから女っていうのは……いや、この主人は……油断ならない。
****
そんな暁の逃亡劇があった、一週間後。
この港街から大きな商船が、騎士団の精鋭を乗せて船出した。同時にグリュヌーズ旅館に1週間近くも滞在して居た上客が1組、チェックアウトした。さらに、その2ヵ月後、噂に名高い女神リューリューの王冠がとある人物の手に渡るのだが、それにケレクとハウメアが関わって居たかどうかは……定かではない。