世の中生きていればいろんなことが起こるもので、たとえば異世界トリップとか。
藤原美耶子の身に降りかかった出来事も、そういった、生きていれば起こる数あるいろんな出来事の内のひとつだ。
美耶子はどこにでもいるごくありふれた地方OLだ。
入社3年目。新人という名も脱却したばかり。とりたててモテるわけではないが、恋愛なんて知りませんというほどでもない。どちらかというと女に好かれるタイプで、お前女に見えない…と男友達にはよく言われる。
美耶子はその日、会社の諸規定集の改訂を行っていて、その修正をボス…支店長に見てもらうために、支店長室の扉を開けた。ここまではいつもと変わらない風景だった。
だが、それも次の瞬間一変する。
扉を開けたら、そこには、着替え中の半裸の青い髪の男が居た。
「おのれ腹筋自慢大会か。」
当時、美耶子が一番最初に言い放った台詞はそれだった。
人間というのはこういう場合、訳の分からない言葉が出てしまうものだ。まあ、扉を閉めれば夢で終わらせられるだろうという気安さもあった。扉を開けたら雑然とした支店長室で人のよさだけが取りえみたいな毒にも薬にもならない可愛らしいおっさんがにこにこしているのではなく、どっかの大統領の執務室みたいな部屋でガタイのいい中堅どころの男が服を脱ぎながらこっちを見ているとかどれだけ仕事しすぎなんだろう自分。妄想おつかれさまでーす。
美耶子は一旦扉を閉めた。
指差し確認。扉よーし。「支店長室」プレートよーし。会社の廊下よーし。窓の外はいつもの風景よーし。
再びノックし、扉を開けたら。
何者かに手を掴まれ、抱き寄せられ、聞いたことのない言葉でひとしきり喚かれ、「何しゃべってんのか分かりません」というと、怪訝そうな表情を浮かべられ、その後妙に色めいた瞳で首筋をきつく吸われた。これにはさすがに抵抗したが、腹筋男には叶わない。そう。そうしてきたのは例の青髪の男だ。
彼は首筋を吸ったあとはなぜか息も絶え絶え(のように見えた)、なぜか頬を赤らめ(たように見えた)、なぜか妙に熱っぽい(ように見える)瞳で見つめ返してきた。ああ、なんか初対面の女子にそんなにがっつくとか残念な仕様だな…と思ったのが第一印象だ。…いや、第二印象とも言うべきか。第一印象は「おのれ腹筋自慢大会か」だったから。
直後に言葉が通じるようになった。
後から聞いた話によると、首筋を吸われたのは「言語理解の魔法陣」という全くファンタジーな魔法陣を組み込まれたからで、いまだに美耶子の首筋にはその魔法陣が小さく刺青のように刻まれている。ならしょうがないのか…と、あの時暴れに暴れたことを反省した。後になって唇で吸い付く必要は全くなく、指でも刻める…と知った。それを聞いた後、美耶子の青髪の男に対する残念感が増したのはいたし方あるまい。
ともかく、支店長室だったはずの部屋はこの青髪の男の執務室で、後ろを振り向いたらもう扉は消えていて、さすがの美耶子もこれには参った。我慢したが堪えきれずに涙を零すと、青髪の男がぎゅう…と抱き締めてくる。その安心感がなんかイラッとしたので、とりあえずボディに一発入れておいた。まあ、ご立派な腹筋に入ったので痛くもかゆくもなかったらしいけれど。
こういうわけで、美耶子が今いるのは地球とか日本とかとは異なる世界。異世界ってやつだ。
さすがに青髪の男も1人では手に負えないと思ったのだろう。事情を相談したのは、濃緑の髪の魔法使いだった。魔法使いという職業自体がもはやただ事ではないが、何もかもがただ事ではないから、美耶子は半笑いで済ませておいた。この魔法使い、顔はいいのに、髪の毛が緑色でワカメみたいに見えるから損をしていると思う。「ワカメみたいな髪だな」って脳内で思うだけでも笑いがこみ上げてきて顎の筋肉が痛くなる。彼は丁度美耶子が持っていた「社員諸規定集」を見たときに、なにやら「日の出の国の姫君!」などとよく分からんことをのたまいながら、美耶子の手を取り頬ずりしてきた。「くっそ、また変態か!」と口に出したときには、青髪の男に激しくしばかれていたので美耶子はとりあえず溜飲を下げた。
そして美耶子は現在この世界で、聖司書…という仕事をしている。
なんでも、この世界には「日の出の国の言葉」という言葉で書かれた文献が数百冊以上あり、いまだにその文字は解明されていないらしい。「社員諸規定集」に書かれていた文字と、その「日の出の国の言葉」というのはどうやら同じで、つまり、「日の出の国の言葉」というのは日本語なのだ。
何故日本語の本がこの世界に存在するのかは分からないが、美耶子はその「日の出の国の言葉」を翻訳する…という仕事を、青髪の男とワカメ髪の男の下で行っている。
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「ミヤ! 今日はコレ! この本を翻訳してください!」
「いいよ、どれ。」
美耶子はこの世界では「ミヤ」と呼ばれている。将軍ジルコニアンの執務室で毎日、日の出の国の本を読むのが仕事だ。翻訳が仕事だが、読んで書いて…という作業は必要ない。便利グッズ「翻訳ペン」なるものがこの世界には存在しているのだ。綺麗なガラスペンの先に金色の鎖と小さな分銅が付いていて、それを首元にある言語理解の魔法陣と接続し、ペンを何も書かれていない本にセットすると、美耶子が読んだ日の出の国の言葉を、こちらの世界の言葉に翻訳してくれるのだ。読んだ言葉以外の言葉は記述されず、どうしても翻訳できない言葉や固有名詞は、表音文字で表現されるという念の入れようだ。便利すぎる。
つまり美耶子は翻訳の仕事といっても、本を読めばいいだけの楽な仕事なのだ。中には経済のハウツー本や数学の技術書など、得意ではないジャンルの本もあったが、できる限り簡単なものから翻訳していっている。翻訳する本は基本的に美耶子が選ぶが、たまにこうして、タンザニスが、変わった表紙の本やカタカナだらけのタイトルの本を探し出しては、緑の髪を振り乱しながら読めとせっついてくる。
「じゃあ、よろしくおねがいしますね!」
タンザニスは持ってきた本を美耶子の前に置くとそそくさと立ち去った。本当は日の出の国の言葉の成り立ちや文字の種類、文法などの話を聞きたくてたまらないらしいのだが、あまり仲良く美耶子と話していると今度はジルコニアンに睨まれる。
青い髪の逞しい将軍ジルコニアンは、言うまでもなく腹筋自慢のあの男である。1年かけてやっと美耶子を名実共に手に入れたばかりだ。名実共にっていうのがどういう意味なのかはよい子達なら分かると思うが、いろいろあった。主にジルコニアンが迫りすぎだった。
そもそも出会った初日から、お前は近眼か!…と突っ込みたくなるほど、話をするときの距離が近かったし、なぜか抱きついただけで下着のサイズを知られるわ、一緒に歩いていて転んだときに受け止めたら離さないわ、馬に乗せてくれるというので乗せて貰ったら、後ろから抱き締めた状態で何を思ったか言語理解の魔法陣の箇所を強く吸い上げてくるわ、本当にいろいろ行動がおかしいのである。
…魔法陣を吸い上げる行為については、なんでも、美耶子の後姿を近くで見ていると、ついあの時のことを思い出してそうしたくなるのだそうだ。「つい」で済ますなこの変態が…と思った…だけではなく口に出して言ってもみたが、ジルコニアンは全く平気な顔をしていた。あまつさえ、「そういうお前も悪くない」と全く理解できないことを口走りやがるのである。
ただ、さすがにジルコニアンが敵の襲撃を受けた際、美耶子が翻訳した本を守ろうとしたために大きな怪我をしたときは驚いた。タンザニスの治癒魔法の甲斐もあり大事には至らなかったが、出血量が多くて今までに無く弱っているから…と注意された。美耶子の本さえ守らなければ、髪の毛一筋の怪我もすることなく、敵を返り討ちにしたに違いない。それが美耶子を苦しくさせた。
ジルコニアンを看病しながら、「いつも力強いジルがこんな風になるなんて…」と、その手を握り締めて涙を落としたのが間違いだった。寝ていたと思ったジルコニアンはそのまま美耶子を寝台にひっくり返し、「ミヤ…力強い俺が好きか」と囁かれ、「ちょっと意味分かりません」…と、返答する前に唇を塞がれた。その後返答する暇も無く、<中略(R18)>…で、今に至る。返答させる気がないなら質問するなと思ったが、言い返す気力が無い程度にへとへとになった美耶子は、それでも「腹筋だけはすばらしい残念な変態」…から、「腹筋がすばらしい変態」…まで、彼の存在が格上げになっていた自分の心の内に気付き、ジルコニアンの求愛行動を受け入れたのである。
それはどうでもいい。
話はタンザニスの持ってきた本に戻る。
美耶子は片方の手でお茶を口に運びながら、もう片方の手で本を取った。表紙には波打つような文様と水に濡れたバラの花が描かれていて、タイトルにはこう書かれている。
『社長室の秘密―愛欲に濡れた秘書の暴かれた花弁』
鼻からお茶が出るかと思ったわ。
あのワカメ魔法使いめ、殺す気か。
そもそもなんでこんな本が、この異世界に伝わってるんだ。しかもあのワカメはこれをどういう選択基準で持ってきたんだ。表紙? 表紙なのか? 確かに、官能小説にありがちな妙に色っぽい女が脱ぎかけてるような絵柄ではなく、言ってみれば抽象的なエロスを表現する絵柄だった。一見すれば官能小説だとは分からない。でも、濡れた薔薇て。「ほら! 表紙が綺麗でしょう?」とか言いそうだ。あのワカメ…じゃない、タンザニスならば。
これ訳すべきなんだろうか。っていうか読め…と。これを、真昼間から読み上げろ…と。もはやどこから突っ込めばいいのかちょっと分からない。
げふげふとむせる美耶子の様子に気が付いて、ジルコニアンが飛んできた。
「おいミヤ!大丈夫か!?」
「いや、大丈夫じゃない。」
「つわりか!」
「ちがうわ。妊娠しとらんわ!」
「ではなんだ! 呪いか! 呪いの本なのか!!」
「あーもーごめんごめんつい口が滑った。概ね大丈夫だから。抱き上げないでいいから。首筋関係ないから。うなじ触らなくていいから。腰を押し付けなくていいから! ジル、もうホントに大人しくしてよ!」
「しかしだな!」
「大丈夫だっつの!」
隙あらばこうなるジルコニアンを引き剥がし、執務机に追いやりながら、美耶子はどうしたものかと考える。
「まあいいか。読もうか。んで、もう許してくださいって請うまで、タンザニスに音読させてやる。」
「読めないような本なのか?」
「いや、多分楽勝で読めると思うけど。」
「何か問題が?」
「まあ、内容がちょっとね。」
「他の本に変えさせるか?」
「いや、別にいい。」
怪訝そうなジルコニアンを適当にあしらいながら、美耶子は翻訳ペンをセットして読み始めた。
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『社長室の秘密―愛欲に濡れた秘書の暴かれた花弁』
男は自らの執務室で女を押し倒していた。
後ろから抱すくめ、白いブラウス越しに少し胸に触れただけで女の息が上がるのが分かる。
「どうされたい…?」
言いながら、男は女のブラウスをスカートから引き出し大胆に捲り上げた。ざらついた男の手が柔らかな女の柔肌を這い上がっていく。
「…ふぅ…あっ…しゃ、社長ぉっ…」
女の声はその先を期待して上がっている。男はもう片方の手をゆっくりと女の足と足の間に入れていく。下着の上から触れても濡れているのが分かる。布越しに擦りあげるとそれだけで女の腰ががくんと落ちた。
「おっと…、もう耐え切れなくなったのかい?…いけない子だな。」
男は執務机に女の身体をうつぶせに倒すと、完全にスカートを腰まで上げ下着をずり下ろした。女の背を押さえつけて、既に愛液がしとど溢れている蜜壺の中に指をゆっくりと入れていく。
****
3時間ほど静かに読書していただろうか。美耶子は一冊きちんと読み終わり、かなりの疲労感と徒労感に苛まれた。読んだ小説は延々、鬼畜社長が無理矢理美人秘書といろんなプレイをする…という内容で、どこにでもある男性向け官能小説という感じだ。それにしてもよくあれだけのシチュエーションを取り揃えたものだなと妙に感心する。野外や窓辺はもちろんのこと、椅子に座って挿入されながら電話の応対とか、社長が執務室で他の社員に応対しているところで実は机の下で口でさせられてるとか。
正直、へー…と思うが、こういうプレイされるほうは迷惑この上ないよね。あー、はいはい。ファンタジーファンタジー…などと身も蓋もないことを考えながら、一息ついた美耶子は席を立った。ちらりとジルコニアンの机を見ると、真面目に大人しく書類に目を通している。お茶でも淹れてやるかと執務室の茶器を置いてあるところに歩いていく。
それにしても、タンザニスはあの本をどこから持ってきたのだろう。…読み終わった本からジャンル別に整頓していってはいるが、未整理・未翻訳の本にあんな本あっただろうか。
不意に後ろから、大きな腕が美耶子を抱き寄せた。
「ミヤ、今日はこれを翻訳していたのか。」
はやっ。いつの間に自分の執務机から美耶子の机に移動して、本を手にいれここまで来たのか。同じ部屋にいるのに、動いている気配を一切感じなかった。でかい図体をしているくせに、さすが将軍ともいうべきかこういう身のこなしは玄人だ。というか、こんなことのために玄人臭い動きを使うなと言いたい。100回言いたい。
「読んだの?」
迂闊。美耶子はジルコニアンの腕の中で振り返る。案の定、ジルコニアンは片方の手に、先ほど出来上がったばかりの、異世界版『社長室の秘密―愛欲に濡れた秘書の暴かれた花弁』を手に持って、ぺらぺらと目を通している。ちなみにこちらの世界でも「社長」とか「秘書」みたいな地位はあるらしく、きちんと翻訳されていた。
返してと手を伸ばすと、ジルコニアンは美耶子の手に届かないように本を持った片方の手を持ち上げる。本を持ってないほうの手は、美耶子の腰を抱いたままだ。
「椅子に座って…というのは分かるが、<デンワ>というのは何だ。」
そこ読んだのかよ!
ジルコニアンは美耶子の腰をずるずると引き寄せながら、執務室に置いてあるソファに腰掛けた。当然、ジルコニアンの膝の上に美耶子も乗る。ジルコニアンは手に持った本を置いて、後ろから美耶子を抱すくめると、布越しに両の胸をやわやわと揉み始めた。
「ちょっと…何す…。」
「ミヤ、…どうされたい?」
熱い吐息が耳元を擽る。抗議の声は無視して、ジルコニアンは美耶子の服を捲り上げ始めた。剣蛸の出来たごつい手のひらが、美耶子の柔らかな肌をざらざらと這い登っていく。
「ん、ぅ…、ジル…仕事中でしょ、止めな、さ…」
「今は休憩中だからかまわない。」
ジルコニアンの手が美耶子の下着を掴み、強引に引き下ろした。遮るものの無くなった両の胸を柔らかく刺激していく。
抗議の声は、堪えきれなくなったジルコニアンが美耶子をソファの上に押し倒し、唇を奪うことによって紡がせない。
その後、じたばたと奮闘も空しく、美耶子はソファの上でジルコニアンから愛の言葉を囁かれながら、『社長室の秘密―愛欲に濡れた秘書の暴かれた花弁』ごっこをさせられることになった。
「…で、<デンワ>というのはどこでどういう風に使う道具なのだ。」
だから、ここでこういう風に使う道具じゃないというのに!
満足気なジルコニアンの声に、美耶子は「ワカメ魔法使い覚えとけ、音読させてやるからな!」…と決心したとか、しないとか。