世の中生きていればいろんなことが起こるものだ。たとえば、異世界からやってきたとかいう怪しい女に一目惚れをするとか。
光の加減によって僅かに金色がかった青い髪が特徴的なジルコニアンは、ユレアイト国聖遺騎士団に勤めている。騎士団を束ねる騎士将軍であり、その髪の色から碧の将軍と呼ばれている。剣の腕も魔法の腕も、将軍という地位に相応しい男だったが、その華やかな二つ名が全く似合わない感情表現に乏しい男でもあった。女性からは「何を考えているか分からない」と評されている。
ジルコニアンは、その日、夜遅くに執務を全て終え、気安い服に着替えようと上着とシャツを無造作に脱いだ。ずっと執務室に篭ってデスクワークだったし、騎士服が窮屈で仕方がなかったのだ。こうした仕事よりも、明らかに剣を振るっているほうがジルコニアンという男には向いている。
固まった肩をカキリと鳴らしてクローゼットへと足を向けた。そのとき。
コンコン。
小さなノックらしき音がしたのだ。
それは、いつも部下がこの部屋を訪ねるときの木製扉のノック音ではなかった。どちらかというと、硬質の音がする。しかも、部屋の中空から音がした。
どこから聞こえたのか。常とは異なる音と気配に、ジルコニアンはクローゼットに行く足を止め、腰の剣柄に手を掛けた。獣のような鋭い瞳が、音の聞こえてきた方向を捉える。
コンコン。
気配を伺っていると、再び、音が聞こえた。…そして。
ガチャリ。
金属性の、だが可愛らしい妙な音がして、目の前の空間が、割れた。
「……!」
ジルコニアンは抜刀を仕掛けるが、その空間から覗かせた顔が華奢な女だったことに驚き、手を止めた。少し俯いた女の黒く長い髪が、するりとその肩を落ちる。顔を縁取る髪があまりにも黒いから、その肌の白さがより引き立つようだった。軽く一礼していたらしい女が顔を上げ、思わずその顔を見やる。
女の黒い黒い濡れたような瞳が、自分の瞳と、合った。
『―――――――――…。』(※1)
黒い髪の女は、ものすごく怪訝そうな顔をして、呪文のような意味の分からない言葉を何かしら紡いでそのまま身を引いた。言葉の意味はもちろんだが、いいニュアンスか悪いニュアンスかも、さっぱり分からない微妙な発音と言い方だった。その状況に、ジルコニアンともあろう人間が…戸惑った。次の反応を完全に逸していると、
パタン。
再び扉が閉まるような、だがやはり木製の扉が立てる音ではない音が響いて、空間が閉じる。
「今のは…なんだ?」
ジルコニアンは剣から手を離した。先ほど割れた空間のちょうど正面辺りに立ち、目を閉じ、自分の内側に魔力を高め、探索の糸を伸ばす。そのとき。
コンコン。
再び、先ほどの音と同じ音が聞こえた。ジルコニアンは眉をひそめる。耳を澄ませると、遠くから何か女の声が聞こえるようだ。
ガチャリ。
再び、空間が開いた。
女を確認すると同時にジルコニアンは、相手の腰に手を掛け引き寄せた。バサリと何かが落ちる音が聞こえるが、意に解さずに腕に力を込める。相手の両手が抵抗しようと自分の身体に触れたが、強引に自分の身体を密着させることでそれを防ぐ。
女の声が聞こえたので、もう片方の手でそれを塞ぎ、色を思わせるかの如く足と腰を絡ませた。左手に触れている女の唇の感触が、思いのほか柔らかく熱い。
「お前は何者だ。何用でここにいる?」
押し殺したような低い声で問いかけると、不安と恐怖からか、目の前の黒い瞳が大きく見開かれ潤んでいく。女の口を塞いでいる手の感触と、自分を見つめ返す黒い瞳が、ジルコニアンの心を酷く騒がせた。
「ここで何をしているのかと聞けば答えられるか。」
声は低いまま、だが少しイラだった口調で再度問いかけた。だが相手は懸命に頭を振るばかりだ。揺れる髪が触れるほど、近い。
ジルコニアンはもう一度、手の中の女を見下ろした。
白いと思っていた肌はかすかに黄身がかった象牙色だ。まっすぐな黒い髪が肩より少し長い程度で、何よりもその黒い瞳がジルコニアンを落ち着かせなくさせた。女が唇を動かし、吐息を零す。それが左の手の平に伝わり熱い。動いている唇に指を入れて、大人しくさせたいという欲望がちらりと浮かぶ。そしてそんな欲望が浮かぶ自分に動揺した。
見返していると、手の中の女が少し大人しくなり、こちらを伺うように見上げてきた。空気がほんの僅かに落ち着き、ジルコニアンは先ほどのやり取りを反芻する。
女は何かこちらの分からない言葉を話していなかったか。分からない言葉。他国の言葉か。
ジルコニアンはそっと手を離してやった。
「俺が何を言っているのか分からないのか?」
ジルコニアンは女に問いかけた。だが、言葉が分からなければこの問いかけの意味すら分かるまい。
黒い瞳と再び目が、合う。同時にジルコニアンは目が離せなくなった。その瞳の奥に何かを探りたくて、じっと見つめてしまう。女の形のよい眉が怪訝そうに歪み、柔らかそうな唇が動いた。思ったよりも落ち着いた、しっとりとした声だった。
『―――――――――…。』(※2)
今の状況に動揺しているのか、声は僅かに震えていた。怯えさせたくない。そして、その声をもっと聞きたい。驚くほど純朴な思いが自分に浮かぶ。思わずその瞳を見つめると、不意にその視線が逸らされた。その仕草が妙に無防備だ。先ほどまで自分の瞳を無垢に見つめていた黒が、もう一度潤むのを見たい。ジルコニアンは自分がこの女に抱く思いが倒錯していることに気付いたが、気付かない振りをした。
声を聞くには、意思の伝達が出来なければならない。それならば。
「わが言葉をあたえる陣よ」
ジルコニアンは女の首筋にゆっくりと唇を寄せる。女が肩を震わせたのに気づいたが意に解さず、耳元から首筋にかけて、象牙色の肌に唇を這わせた。女の黒髪から花のような香が漂って鼻腔をくすぐる。
「ユレアイト国聖遺騎士ジルコニアンの名において力を止めよ。」
呪の言葉を紡ぐ声は甘く、首筋を濡らす自分の唇を止めることは出来なかった。女が何事か言いながら、抵抗するように自分の肩を押している。だが、鍛えたジルコニアンの身体を離すほどの力にはならない。むしろその抵抗が可愛らしく、ますます自分の心の内を騒がせる。もちろん女を、それも見ず知らずの怪しい素性の女を襲う趣味など全く無い。だが、この女に対しては別だ。男としての凶暴な一面に、身を任せてしまいそうになる。ジルコニアンはそれを押さえた。
「ん…っ…。」
首筋が弱いのか、ジルコニアンが理性を押さえているのにも関わらず、喘ぐような女のくぐもった声が響き、当然のように煽られた。女を抱き寄せる腕に力が入る。女の動きを封じるために絡めた下半身だったが、別の目的で動かしたくてたまらない。そんな理性が途切れる一瞬前に、魔力の源となる一点を見つけた。言葉を与えるならここがいいだろう。
本当は、手で魔法陣を刻むつもりだった。
だが。
ジルコニアンは一度唇を大きく離した。魔力の糸を自分の舌に集中させ、舐めるように肌に這わせる。何度か肌の感触を味わうように舌を動かして、唇を付けると強く吸い上げた。
男の腕の中で女の身体がびくりと震え、自分を掴む腕に力が入ったのが分かった。ジルコニアンは一瞬我を忘れそうになったが、それに耐えるようにぐっと目を閉じ、開く。手を女の身体に這わせそうになるが、1つ大きく首筋を吸い直して離した。ちゅ…と、小さく乱れた音が響く。そこに赤く魔法陣が刻まれていることを確認して、長いため息をついた。息が乱れていて、身体が熱い。そんな自分の身の内を鎮めるように、女から身体を離してやりながら問う。
「言葉は分かるか?」
目の前の女が、大きく目を開いて1つ頷いた。
****
女は『ニホン』という国から来たらしい。そして自分の名前らしき不思議な言葉を紡ぐ。反芻するが、上手く言えない。「ミヤーコ」…だと思ったのだが、「どこの猫ですかそれは」…とよく分からない事を言われ、なぜか呆れた顔をされた。それでも名前を呼びたくて「ミヤ?」…と省略すると、「それでいいです」と半ば諦め気味に頷いた。
ミヤが、唐突に後ろを振り向いた。恐らく自分が来た空間を確認したのだろう。そこに扉は、既に無かった。ジルコニアンはそんなミヤの姿を見ながら、「こちらに『ニホン』という国は無い。」…という意味のことを話す。途端に、気丈に話していたミヤの身体からがくんと力が抜けた。思わず腰に手を回して支えてやると、その腕に寄りかかるように立ち上がりながら、ミヤがジルコニアンを見上げる。
「どうして…! 帰る方法はっ…!?」
「ミヤ…」
なぜミヤがここにいるのかも分からないジルコニアンに、帰る方法が分かるはずが無かった。言葉に窮していると、不意にミヤの瞳からぽろりと涙が零れた。「すみません」と言いながら顔を逸らすミヤを見て、ジルコニアンはその涙を…身体で受け止めた。思わず自分の胸に抱き寄せ、きつく腕を回したのだった。すると、「ちょーっと待ったあああ!…離してっ…」…ミヤの声が荒ぶり、
ドスッ
ジルコニアンの腹筋にミヤの一発が入った。
ああ、忘れていた。
自分は、今、上半身裸だった。
女が抗うのは当然だ。しかし、まさか拒否反応がボディに来るとは思わなかった。それにしても…ミヤの力はなんとも弱い。痛くもかゆくもなかった。むしろ腹筋に触られたか撫でられたか…という感慨の方が強い。ミヤは、これで自分に抵抗しているつもりなんだろうか。今の一撃は渾身の一撃なんだろうか。そう思うと何故か可笑しくなって、ジルコニアンは静かに笑った。女という生き物はこんなに弱かっただろうか。しかも弱いくせに、あろうことか碧の将軍たる自分に精一杯の抵抗をしてみせるミヤという女が…。
ああ、なんて可愛いらしい女なんだろう。
…不味い、止められない。
こうして、碧の将軍は恋に落ちた。
****
「閣下。ゾーイ碑石の調査について、魔道士を再派遣の件についてですが。」
「その件は、今朝タンザニスに任せたはずだが。」
「では、魔道将閣下にお伺いすれば?」
「ああ。数名、指導を兼ねて新人騎士を入れておきたい。その件については、俺が持っていこう。」
「はい。護衛を数名?」
「ベテランを入れねばなるまいな。」
副官の声に答えるジルコニアンは、厳しい眼差しを団員に向けながらも心中は非常に機嫌がよかった。今日は夕方から執務が空く。明日は休みで、街に出る予定だ。街に出るのは昼前で構わない。夜早めの時間から朝遅い時間まで寝台にいても咎める者は誰もいない。腕の中に可愛いミヤを抱いて、時折その柔らかな身体をまさぐりながらその先に進んで、昼までそうやって堪能してから街に出て、甘いものが買いたいと言っていたミヤに合わせて、それからそう…頼んでいたあの品物を…
「閣下。何名ほど?」
「魔道士もいるのだからそれほどは不要だ。全体的な規模で小隊の半分。隊長は魔道士の者を指名している。」
「了解いたしました。タンザニス将に確認を。」
「そうしてくれ。」
ミヤ…というのは、1年ほど前にジルコニアンの執務室に突然現れた黒い髪の女のことだ。ミヤは「ニホン」…この世界において「日の出の国」と呼ばれている異界の国の出身だ。どのようにしてこちらに来たのか、詳細は分からない。彼女のことは、ジルコニアンが将軍を務める聖遺騎士団が保護した。そうして、この国に伝わっている大量の「日の出の国の言葉」で記述されている書籍を翻訳する「聖司書」という仕事に就いている。
「修練用の槍を受け取っておけ。それから魔法付与師団との勉強会についてだが、」
「希望者はほぼ全員ですね。」
「魔法を使えないものも含めてか。」
「はい。」
副官へ懸念事項を確認しながら、ミヤのことを考える。一目ぼれだった。自分に一目ぼれ…などという事象が起こるはずがないと思っていたが、それは間違いだと思い知らされた。無愛想で堅物だと言われてきたジルコニアンだったが、一目見たときから、自分はこの女を手に入れてどうにかしたいと身体が動いたのだ。猫のようにするりと逃げるくせに、潤んだ(ように見える)瞳でこちらの気配をうかがい、懐いたかと思って距離を詰めればまた離れる。抱きしめればか弱い力で精一杯抵抗し、こちらが弱っているときはそっと寄り添ってくる。愛らしい。一目ぼれどころではなく、二目も三目も、ミヤの新しい部分を見つけるたびに深みにはまる。
そのミヤをこの手にしたのは、つい最近。
敵の襲撃にあって、不覚にも手傷を負ったときだった。ミヤが翻訳した本を守りたくて、一瞬気が逸れたのが原因だった。怪我自体はどうということもなかったが、そもそも怪我をした…という事実が、部下らを驚かせてしまったらしい。大丈夫だというのに寝台で休めといわれたのが…幸いだった。
ミヤが看病してくれたのだ。
そのとき、いくら押してもなびかなかったミヤがジルコニアンの手を握って涙を零した。そして言ったのだ。「ジル、あんなに強かったのに、私のせいで。…ごめんね。早く強いジルに戻って。」…と。
その瞬間、理性が切れた。
気がつくと、ジルコニアンはミヤを寝台に引っ張りあげて組み敷いていた。見下ろしたミヤの瞳が黒く潤んでいて、少し首をかしげている。耳元に唇を寄せてそっと聞いてみる。「ミヤ、強い俺がすきか?」と。言葉に窮した(ような気がした)ミヤは、何事かを言おうとしたが(※3)ジルコニアンの耳には届かなかった。言葉が返ってくる前に、その唇をふさいだからだ。
その後は…とても素晴らしかった。夢のような心地でミヤの身体を蹂躙し何度も愛を囁くと、最初は戸惑っていたものの、徐々にそれに答えるようになった(※4)。ミヤがジルコニアンの愛情を受け止め、受け入れたのだ。初めて女を知った男のように、ミヤの全てを離せなかった。それからは、ミヤは碧の将軍ジルコニアンの恋人となった。
「閣下は、今日の夕刻から明日は非番ですね。」
「ああ。」
ああ、そうだ。それだ。もうこれで今日の業務は終わりだ。今から、執務室にミヤを迎えに行って、ミヤに与えている聖司書の部屋で過ごすか…それとも、館に連れ帰るか。ジルコニアンは2択で葛藤していたが、館に連れ帰ることにした。王城に居たらいつ部下に呼び出されるか分からない。
館に連れて帰ったら何をしようか。ミヤは本当に可愛い。あんなにも可愛いのに気が強いところが、また、いい。ジルコニアンが変な気を起こすと、すぐに引き離そうと必死でもがいたり、胸板を叩いたりしてくるのがなんともいえない。そうしているくせに、ぎゅう…と抱きしめて優しく頭を撫でてやると(諦めたように)大人しくなる。あんなに気が強いくせに寝台の上では従順で、自分の手管に絡みつくように反応するのだ。挿れればとろりと柔らかく、それでいて吸い付くように締め付けてくる。感度もいい。もちろん、相性も抜群だ。どちらからでも、どのような角度で攻めても応えてくるのがこれまたいじらしい。声も羞恥に紛れてどうしても零れるらしく、その様子がまた啼かせたくなってしまう。さらに、その口で咥えて、必死で奉仕してくれるのが…
「閣下。」
「なんだ。」
「明後日の出仕時で構いませんので、新人10名の編成と通達をお願いいたします。」
「予定にいれてある。10名に告知は?」
「朝一番に執務室へ。」
「お前も共に。」
「はっ。」
「それから、聖司書ミヤ殿に…」
ジルコニアンの眉がピクリと上がって、少し低い位置にある副官を見下ろす。
「ミヤが…どうした。」
声が低い。副官があからさまにしまった…という顔になった。
「あ、いえ。その、お、王太子殿下夫妻から子供向けの絵本をまた貸してほしいと…」
「ああ。伝えておこう。」
「お、お願いします。」
「では、後は任せた。」
びし…と敬礼する副官にジルコニアンは背を向けた。颯爽としたその背中を周囲の騎士は、憧れの瞳で見送る。ただし、副官は知っている。かの鉄面皮の将軍閣下も恋人である聖司書ミヤの話になると、妙に緩い表情になったり、あるいは血の凍るような目つきになったりするのである。
****
「ミヤ。ここに居たのか。」
「ジル。仕事終わったの? 早いのね。」
「執務室に居ないから心配した。」
「うん。だから、仕事終わったのって聞いてるの。」
「仕事は終わった。ミヤ…。」
執務室にミヤがいなかったので、ジルコニアンは日の出の国の書物…聖図書の置いてある図書室へ足を向けた。案の定、ミヤはいた。ジルコニアンの目の届かないところに居らず、執務室で本を読んでもいないときは、ミヤは大概ここに居るのだ。ジルコニアンは有無を言わさず、ミヤの身体を抱き寄せる。黒い髪に頬を寄せ、口付けを1つ落としてから腕を緩めた。
「ジール! ちょっともう、分かったから腕離して。」
「まだ新しい本を読むのか。」
「時間があったからちょっと見に来ただ…け、…って」
後ろから抱き寄せた姿勢で、首筋に手を這わせ耳元まで撫で上げる。耳元をくすぐりながらもう片方の腕は腰の低い位置を抱えて、自分の下半身へと深く引き寄せた。いい具合に、身体の線が密着する。出来ることなら、このままミヤの服の中に手を入れたい。
「ちょ…っと!」
ぺチン…とミヤの手がジルの脇腹を叩いた。拳を作っていたので割と強めに叩いたようだが、相変わらずなんともない。しかも、これまた可愛いことに、ミヤは少しばかり力加減をするのだ。本気で叩いたとて、ジルコニアンの身体はなんともならないだろうに。
だが、ジルコニアンは腕を緩めてやった。くるりとミヤがジルコニアンを振り向いて、その顔を見上げる。両手でばしんとジルコニアンの胸板を叩き、怒ったように睨みつけてきた。
「ところかまわず触らないでよ変態。」
そんな顔もまたいい。…そう思って無言で眺めていると、きゅうに、ふい…とミヤが顔を逸らした。それを合図にジルコニアンがミヤの髪に指を通しながら話しかける。
「何か読みたい本があったのか?」
「別に、何か無いかなって思っただけで。」
「王太子殿下夫妻が、また子供向けの絵本を見繕って欲しいと仰られていたそうだ。」
「そう? じゃあ、また何かオススメを選んでおくよ。」
「ああ。」
ミヤは、もうジルコニアンから意識を離して真剣な表情で本棚を見上げている。そういった真剣な表情も魅力的で、ジルコニアンは邪魔をしないようにそっと後ろから肩を抱き寄せた。そうしていると、ふと、腕の中でミヤがジルコニアンを振り返って見上げる。
「そだ。前から聞こうと思ってたんだけど、ジルは、何か読んで欲しい本とかない?」
「俺が?」
そういえば、以前ミヤが『最高責任者執務室の秘密―愛欲に濡れた側近の暴かれた花弁』(※5)…という、男の上長とその女の側近があらゆる場所で性行為を行い、段々と女の方が男の手管に堕ちていく、という小説を翻訳したことがあった。内容は全く面白くなかったが、その状況や描写は興味深い。
それをジルコニアンが言うと、ミヤは盛大に顔を顰めて即答した。
「却下。」
なぜ却下なのか。タンザニスが持ってきたときは、快く翻訳していたのに。しかも、あの本は2人の間で大いに役に立った。あの本を翻訳した時、ジルコニアンは小説の男が言ったように少しばかり意地悪な言葉を囁きながら、小説にあったように執務室でミヤを堪能したのだ。少し胸に触れただけなのに、吐息が甘くなって下着を解くとそこは題名の通りに濡れていて…
「無いならいいよ。」
いや、それはつまらない。折角、ミヤがジルコニアンの要望を聞いてくれるというのに。
「いや、別に性交の本でなくても構わない。できればミヤの国に伝わる性交の技も知っておきたいが、無理にとは…」
「もうーーー性交性交言わんでよろしい!」
「まあ、待て。折角だから選ぼう。」
「変な本選ばないでよ。」
性交の本がダメなのならば、剣の話などはないだろうか…と、ミヤの目の届かなさそうな上の方の背表紙に視線を滑らせる。かといって、日の出の国の言葉で書かれた文字は読めないから、どのような本かは分からない。しかし、その中でも、以前にミヤから教えてもらった文字が書かれていた書があった。
その背表紙に目が止まる。
ミヤには、日の出の国における数字を教えてもらったことがある。1つは日の出の国の文字、もう1つはミヤの異界で共通で使われている文字だそうで、2種類も使い分けていることに感嘆を覚えたものだ。その数字が書かれた背表紙を見つけた。確か…。
「ミヤ、これは?」
人差し指を引っ掛けて、手元に引き寄せる。その背表紙を見て、ミヤの瞳が丸くなった。
「や、ちょ、それは…!!」
「どうした?」
パタン…と手元に落とした本の表紙に視線を落とす。
****
そういう本でなくてもよい…と言っていたではないか。
それなのに、なんでよりによってその本を手にかけるのか。…つくづく、このジルコニアンという男には驚かされる。ミヤは、額に手をあてて溜息を付いた。真剣な無表情でジルコニアンは、ぱらぱらと本を捲っている。本の表紙には男女が絡み合う絵が描かれていた。
『表裏大江戸四十八手に学ぶ愛のかたち パートナーとの楽しい夜の生活を』
どういうことだ。この引きの良さは。
さては寝かせない気かこの腹筋男。
そもそもなんでこんな本がさりげなく並んでいるんだ。
ジャンルフリーもいいとこだろうが。
「ミヤ、これは…」
「却下。」
「しかし」
「却下だって!」
「『最高責任者執務室の秘密―愛欲に濡れた側近の暴かれた花弁』は翻訳しただろう。」
「それとこれとは別! そういう本じゃなくてもいいって言ったじゃない!」
「言ったが、折角手に取ったのだから。」
ジルコニアンが後ろから緩くミヤを腕に囲う。ミヤの背中を自分の胸にもたれさせ、2人で見えるように眼前で本を開いた。そこにはニホンで言うところの大正浪漫な美しい枕絵と、さらに詳細な図解とで、江戸四十八手の性交体位の説明がなされていた。枕絵の図柄はとても綺麗で綿密だ。芸術品としても評価の高い絵をふんだんに使っているのが売りらしく、どうでもいいがフルカラーだった。
「ミヤ。これも、日の出の国に伝わる本なのか?」
「伝わるっていうか。」
「数字は見たことがある。48だろう。ということは、48のパターンがあるということか。」
なぜそこだけ自慢げに言うのだこの男は。しかも、48のパターンて。正確には裏表だから九十六手ですねってやかましいわ。…ジルコニアンはミヤと一緒に覗き込むように、『大江戸四十八手に学ぶ愛のかたち パートナーとの楽しい夜の生活を』を興味深げにパラパラとめくりながら、後ろから恋人の黒髪に擦り寄って耳元に唇を寄せた。
「これはミヤの国に伝わる、性交時の体位の図解か。…参考になるのではないか。」
「なんの参考よ!」
「決まっているだろう。俺とミヤとのセ」
「ちょーーーーーー!」
うるっさい変態!…ミヤはジルコニアンの腹筋に肘を入れたが、余裕でガッチリと跳ね返された。「ふむ…」とジルコニアンは唸る。書かれてある文字は分からないが、美しい絵は情緒的だし、図解は大変分かりやすい。さっと見たところ複雑なものは無く、試してみれば楽しそうなものばかりだ。それに、これがミヤの国に伝わる技なのであれば、ミヤにとっても親しみやすい形のはずだ。取り入れるのに越したことは無いだろう。
ミヤは腕の中で何事かを言っている。
「翻訳しないし! するにしたって、絵とかは写せないから意味ないし!」
「大丈夫だミヤ。絵を見るだけで大体分かる。ああ、しかし名前が付いているのであれば、それは知りたいが…まあ贅沢は言わない。お前に聞けば分かるのだろう?」
「説明なんかしな…」
本を取り上げようとしているミヤを片腕で拘束する。本を持ったまま、ミヤの身体をこちらに向かせて顔を下ろした。何事かを言おうとしたミヤの唇をそっと舐め、開いたそこに舌を差し挿れる。咄嗟に引き剥がそうとした身体は、もちろんミヤの力では外れるはずもない。だが、それほど濃厚に侵略はせず、緩やかに外してミヤを見つめる。一瞬呆気に取られていたミヤが、また、つ…と視線を逸らした。この視線を逸らす表情が、ジルコニアンは好きだった。追いかけろと言っているようなものだ。
さて、このような本を手に入れたからには一緒に読まなければなるまい。
「ミヤ?」
「もう、そういうので誤魔化さないでってば」
そういうの…というのは、唇を重ねたことだろう。少しだけ頬を染めている様子を可愛らしく思いながら、ジルコニアンはミヤの頬に指で触れる。本当はもう少し大胆に触れたいが、ここは図書室だから自重した。
「ミヤ。早く帰ろう。早く試したい。」
「は、…試す?」
「俺の家に。…それともお前の寝室の方がいいか?」
「いや、試すって何よ。」
「決まっている。」
「決まってない、ジル! ちょっと、明日街に連れて行ってくれるって約束したじゃない!」
「大丈夫だ。忘れていない。それは連れて行く。だから早めに」
「はや、早めって何をよ!」
「だから、決まっているだろう。」
ジルコニアンは至って真面目な顔でミヤを諭した。
そうして片手にミヤ、片手に『表裏大江戸四十八手に学ぶ愛のかたち パートナーとの楽しい夜の生活を』を抱えて図書室を出る。本当はこのまま執務室に設えている仮眠室か、ミヤに与えている聖司書の部屋にでも連行したかったが、我慢した。珍しく我慢した。家に帰って誰にも邪魔されることなくゆっくりと。ミヤを膝に抱いて一緒に楽しく読んだ後で、試してみるのがいいだろう。
相変わらずの無表情でジルコニアンはミヤと共に城を後にした。
…いや。
すれちがった部下達の話によれば、ジルコニアンは口元を僅かに綻ばせていたという。
****
「ミヤ。…こうだろう。」
「ちょ…と。あ…んまり動かしちゃ、や…」
「<ウキハシ>は、動かす様子が…と言っていたではないか。」
「…は、…あ…」
ジルコニアンは寝台の上で座り、横抱きにしたミヤの身体を後ろからじっくりと攻めている。不安定な姿勢で、ミヤがうなだれるように上半身を寝台に沈ませ、そんなミヤをジルコニアンが抱えて揺らしていた。
「ん…。」
「ミヤ…ああ…。」
やがてミヤから自分を引き抜くと、今度は後ろから抱きしめて足と足を互い違いに絡ませた。下半身の昂ぶりとそこに触れる濡れた柔らかさに任せて、そのままじわりと奥へ動かすと、容易に温かさに包み込まれる。両の手でミヤの柔らかな胸を手繰りながら、ゆっくりとした抽送を始めた。ああ、この胸。自分の手にすっぽりと収まるくせに、触れ甲斐のある柔らかさだ。そこから流れる細身の滑らかな曲線に手を這わせ、また胸の膨らみを手に収める。
身体を繋いでいるにも関わらず、抱き合ってゆっくりとまどろんでいるようでもある。
この体位はジルコニアンも好きだったが、日の出の国の言葉で言うと、窓から見える月を、2人で愛でながら愛し合うことができる…という体位らしい。なんと情緒的なことだろうか。
「ミヤ、可愛いミヤ…愛してる。」
「…あ…ジル…。」
「ん…?」
「明日街に行くって約束、わ、忘れな、いで。」
「心配するな。覚えているから。…くっ…あ。…ミ、ヤ、…そんなに甘いものが、食べたいのか?」
ミヤの身体の方が充分に甘いのに。ゆっくりとした抽送のリズムはもどかしく、ギリギリまで大きく引き抜き、こつんと奥まで挿れる。時折、ちゅうと音を立てて耳や首筋に吸い付き、甘く噛んだ。
「…や、…じ、らさないで、」
「まだだ、もう少し…。」
長いことそうして揺らし揺らされ、心地よいような…それでいて、早く登り詰めたくてもどかしいような、そんなぬらぬらとした感覚に、2人は沈んでいく。
****
ジルコニアンの館に戻ったミヤは、夕食もそこそこに、ソファの上でジルコニアンの膝の上に乗せられ、『表裏大江戸四十八手に学ぶ愛のかたち パートナーとの楽しい夜の生活を』のフルカラー図解の翻訳をさせられることになった。
恋人同士でアダルトビデオでも見ている気分だ。
…などと思ったのが間違いだった。
何を見てスイッチが入ったのか。
…いや、入りっぱなしだったのは薄々知っていたのだが、見ているジルコニアンが無表情で淡々としていたので油断していた。
一際大きく腰に何か当たったな…と気付いたときには、ミヤはソファの上にひっくり返された。その後は当然のように寝室へと連れて行かれ、ジルコニアンが気に入ったらしい体位を、いちいち、「こうだろう」「ああだろう」「これはミヤの国ではこう言うのか。」「日の出の言葉で、名前がついているのか」…など、寝台の上で実地で試されたのである。
数度目の快楽の果てにミヤが息を荒くしていると、その唇にジルコニアンが指を入れて真顔で言った。
「ミヤ、<チドリ>の曲…というのは、どういう由来なんだ?」
だから、それはもうやらないというのに!
寝台の中でジルコニアンの腕に囲まれながら、ミヤはため息をついた。「ああもう、なんでこんな男を好きになっちゃったんだろう。」…だが、その台詞がジルコニアンの耳に届かなかったのは幸いかもしれない。夜は長いのだ。その攻めが激しいものになるか、甘いものになるか、激しく甘いものになるか、それはミヤの一言で左右される。
いずれにしろ、ジルコニアンは満足いくまでミヤの身体の柔らかさと締め付けを堪能し、ミヤは嫌というほどジルコニアンの筋肉と体力と猛々しさを堪能させられた。
こんな調子で碧の将軍ジルコニアンと聖司書ミヤが仲良く街に出かけられたかどうか…というのは、また、別の話である。
※1.「おのれ腹筋自慢大会か。」と言った。
※2.「何しゃべってんのか分かりません」と言った。
※3.「ちょっと意味分かりません」…と言おうとするも、途中で遮られる
※4.言い返す気力が無い程度にへとへとになった。
※5.『社長室の秘密―愛欲に濡れた秘書の暴かれた花弁』(原文まま)
浮き橋:座った男性が女性の身体を横抱きにして後ろから挿入する体位。女性の体をゆさゆさする様子が浮き橋、と呼ばれる。
窓の月:男女が足を互い違いに絡ませ、男性が後ろから挿入するいわゆる後背側位。
千鳥の曲:女性が横から男性の性器を口で愛撫する形。男性を琴に見立て女性は片手で跪いて琴の演奏を行う。もう片方の手は尺八の演奏に見立てている。
(『表裏大江戸四十八手に学ぶ愛のかたち パートナーとの楽しい夜の生活を』より抜粋)