キスの日小話。
ミヤがその日翻訳したのは、タンザニスのリクエストで少女向けの小説だった。なんでも奥方にお願いされた……とかで。なぜ、奥方がそんなものをリクエストしたのかと問えば、市井の女性達がどのような恋愛をしているのか興味がある、とのことだった。不思議な夫婦である。
そんなミヤが選んだのは、女子中学生の甘酸っぱい恋愛小説である。小学生の時に引っ越しで別れた幼なじみと中学校で再会し、学校の不思議を解き明かしながら、少しずつ心の距離を近付けて行く……という、あらすじを読むだけでお腹がいっぱいになる恋愛ものだ。
半ば嫌がらせくらいの意気込みで翻訳してタンザニスに渡すと、思いがけないほど熱心に読みふけっていた。
もちろん読みふけっているのは、ジルコニアンの執務室である。ジルコニアンの執務室はミヤの仕事場でもあるのだ。
そして案の定、ジルコニアンは書類を読むフリをしながら、タンザニスに「お前邪魔」という視線をギラギラと送っているのだが、こういう時のタンザニスは本は読めても空気は読めなかった。
「ミヤ! この! この接吻日、というのはなんですか!?」
「ああ、キスの日?」
小説の題材に、キスの日……というネタが使われていた。5月23日がキスの日らしい。由来は書かれていなかったが、ともかく、つきあい始めた2人が、「キスの日」……という単語を漏れ聞いて、妙に意識してしまい、何かの拍子に唇が近付き、ヒロインが思わずヒーローを突き飛ばし、気まずい雰囲気になってしまう、というべたべたなシーンがあったはずだ。
「いや、知らない」
知らないものは知らない。あっさりと首を振るミヤに、タンザニスはしょんぼりと肩を落とした。ワカメがなんだかしなびて見える。
「タンザニス」
しょんぼりしていたタンザニスに、今まで書類を読んでいたジルコニアンが声をかけた。記述の終わった書類をとんとんと整理し、ぴらりと差し出す。
「終わったぞ、持っていけ」
「あ、うん」
魔道将のタンザニスに依頼されていた書類を渡すと、「早く持っていけ」と顎で扉を指した。もちろん、タンザニスはその書類を受け取って、自分自身の仕事に戻るために席を立つ。
「ミヤ、ありがとう。ちょっと読んでみるよ」
「ん。奥さんによろしくね」
「うん!」
ちょっとした悪戯心で翻訳した本だったので、そんな風にお礼を言われたらそれはそれで困りものだ。だが、タンザニスはかなり興味津々の顔で本を抱えて行ってしまった。あれを夫婦でどんな顔して読むのだろうと思うと、面白味もあるというものだが、もちろんそんなプライベートまでミヤは突っ込んだりしない。
タンザニスが部屋を出て行ったのを見送り、ふああー、と伸びをすると、ミヤの身体が陰った。
「ミヤ」
「んなっ!?」
ガタン、と仰け反った身体を素早く起こす。目の前にのっそりと現れたのは、ジルコニアンの頑強な腹筋であった。いや、もちろん腹筋だけではなく、ちゃんと手も足も顔も付いているし服も着ているが。
「な、なに」
「ミヤ……接吻日、とは何か」
「え?」
「する日か」
ミヤの机に手を置いて、ジルコニアンがぐっと身体を近付けて来た。おそるおそるジルコニアンの顔を見上げると、ものすごく真剣な顔でジルコニアンがミヤを覗き込んでいる。言っている事はおかしいのに、あくまでも真剣で誠実な視線を見ていると、……目が離せなくなってしまうのだ。
……というと、非常に雰囲気がよく聞こえるが、言ってみれば視線を外したら負け、的な様相なのである。
「する日、というわけじゃないわよ。単なる記念日」
「……口付けの記念日を作るのか」
「知らないわよ」
「……ミヤ、お前の国では口付けの記念日を作るのだな」
「だから、そういうわけじゃなくて……あーもー、なんて説明したらいいのかな」
「ミヤ、説明は要らない」
じりじりとした緊張が解けて、ふ……とジルコニアンが口許を緩めた。ミヤが、ヤバい……と感じると、それではもう遅い。
「説明は要らない。だがそれがミヤの国の文化なら、俺たちもそういう日を……」
ちゅ、と音がする。
ガタン、と椅子が傾く音がして。
「……って、待った、待ちなさい!! 落ちる、あの、椅子から落ちる」
「ミヤ、暴れるな、椅子から落ちる」
「さっきから言ってるでしょ、分かってるわよ!」
もちろん、ミヤの身体は椅子から落ちる事無くふわりと浮いた。巨体にしては素早い身のこなしで回り込んで来たジルコニアンが、ミヤの身体を持ち上げる。
ミヤの国で接吻の記念日があるのならば、ミヤの国の文化に合わせて自分達の間でもそれを定めるべきだろう。いや、口付けはいつだってしていたいから、毎日記念日でも構わない。なんという素晴らしい文化だろう。
今日の日をとりあえず接吻日と定めよう。今日じゃない日ももちろんするが。
ジルコニアンは胸中に浮かんだ素晴らしい思いつきに満足しながら、さっそく第1回接吻の日を楽しむべく、作業に取りかかった。