その砂漠には、砂の内に滅びた王国があったという。乾いた石造りのいくつかの住居跡と、かつては栄華を誇った王城や神殿が、砂に朽ちていくのを待つのみになっているその王国跡には、いつからか、1人の魔女が住んでいた。
いつから住んでいるのか、魔女が一体何の目的で存在するかは分からない。
だが、砂漠を渡る旅人達は、時折魔女に助けられ、魔女と取引を交わしていた。
魔女とて、人との交流が無いわけではない。人との交渉を持ち、依頼によって薬を作り、見込んだ者に与えて生きているのだ。
砂塵の魔女が住んでいる、と言われている王国跡に、2人の男の姿があった。
1人はとある旅人だった。
人がいなくなり久しい年月が過ぎたこの場所は、大半の建物が風化して砂に混じりかけている。だが、よく目を凝らすと、王国跡の最奥に、一箇所だけ人が住んでいるのだろうと思しき建物があるのだ。旅人は、そこを訪ねたのだった。
****
「何をしに来た。」
「ほう。何をしに?…お前に言う必要が…?」
かつて人が住んでいたころは、賑やかだっただろう開けた通りで、旅人と隻眼の盗賊が向き合っていた。互いに得物(武器)を抜いて対峙している。頭に幾重にも布を巻いた旅人と、今は鋼色の髪を晒している盗賊の間には、一触即発の空気が漂っていた。旅人の問いかけに、盗賊の鋼色の片方が不機嫌に潜められる。旅人は再度口を開いた。
「お前こそ、何をしにここに来た。…お前の目的を満たすものがここにあるのか。」
「お前に言う必要が?」
自分と同じ返事をした盗賊に、旅人はふんと鼻を鳴らして唇の片方を上げる。それを合図に、盗賊が一歩足を踏み出した。
風が変わったのは、そのときだ。
2人の間に舞い降りるのは、刃のような鋭い空気をとろりと包みこむ甘い風の流れ。
柔らかく吹いたその風に混じり、鼻腔をくすぐる魔女の香。
盗賊が顔を少し上げる。旅人が瞳を細めて剣を引いた。
「貴女のか、砂塵の。どうりで。」
口を開いたのは、旅人だ。盗賊の片方の瞳が、怪訝そうに歪められた。
「人聞きの悪いことを言わないで。」
「そうか? せっかく来たが…そういうことならば、邪魔はしたくない。」
旅人の声は笑みを含んでいる。その声は、不意に現れた魔女に向けられていた。
魔女は対峙している2人の間に割って入ると、杖から降り立ち、盗賊に背を向け旅人に向き合った。ローブで隠された顔からは、表情はうかがえない。旅人が少し位置をずらして、魔女ごしに盗賊を伺った。
「2回目といったところだろう。囚われたくないなら、立ち去れ。」
「…。」
「何故、分かる、という顔かそれは。」
盗賊が舌打ちをした。自分に背を向けたままの魔女に、近づくように一歩踏み出す。それでも魔女は微動だにせず、ローブの下から旅人を見つめていた。
「俺は囚われた方だからな。」
旅人からの声に、盗賊の隻眼がはっきりと相手を見返した。そこに揺らめくのは、嫉妬か、戸惑いか。それをどこか満足気に受け止めて、旅人は、ヒュ…と指笛を鳴らした。すぐさま蹄の音が響き、砂になりかけた建物の間を縫うように、砂馬の姿が現れる。旅人はひらりとそれを跨ぐと、魔女を見下ろした。
「また来る。」
魔女は、静かに頷いて、旅人が去るのを見つめていた。しばらくその行く先を見つめた後、ゆっくりと振り返る。盗賊へと首をかしげ、ローブから覗く口元が僅かに動いた。
「何をしに来たの?」
…と。
****
「俺のような人間がやることは決まっている。」
「奪うこと?」
「そうだ。」
「今日は何を奪いに。」
「分かっているだろう。」
盗賊が一歩動いても、魔女は退かない。それゆえ、近づいた二人の距離。
鋼色の盗賊は、両手で魔女の腰をさらって自分の身体へと引き寄せた。強引に揺らされた魔女の身体は、ぶつかるように盗賊の胸の内に収まり、ローブを剥がされた。露になった黒い髪が風に揺れ、魔女の香がさらに濃くなる。
盗賊は魔女の顔を上に向かせると、その唇に舌で触れた。
魔女はそれに応じなかったが、拒みもしない。だが、そんなことはどうでもよかった。
以前、無理矢理魔女を奪ったときのような情欲に塗れた性急さは無く、まるでそうするのが当たり前であるかのように、有無を言わせぬ率直な口付けだった。
やがて、盗賊が唇を離す。
魔女の顔を上に向かせたまま、頬をなぞるように、唇を魔女の耳元まで動かした。
「お前の寝床はどこだ。」
「それを聞いてどうするの。」
盗賊は身体を離し、思案するように首を傾げる。
「お前の作る、薬を。」
「何と引き換えに?」
魔女の銀の瞳が、盗賊を見つめ返した。盗賊の鋼色の隻眼がそれを受けて、眩しげに細められる。盗賊は片方の手の平を、魔女の首筋に手を充てて胸元へと撫で下ろした。魔女の胸の膨らみの間に、触れるか触れないかのところで、それを止める。
「お前のここに下がっていた、石と。」
魔女は盗賊から視線を外した。盗賊の身体をふわりと押して、距離を離す。
「それならば、こちらへ。」
風に揺れる魔女の黒い髪。
砂に埋もれた朽ちた王国の、かつては栄華を誇った通りの道へ、いつの間にか魔女の手から離されていた杖が導くように誘った。魔女の黒い柔らかな髪と、盗賊の鋼色が、その奥へと消えていく。
****
魔女が暮らしている家は、砂の王国の一部。広く、しっかりとした石造りの家屋だった。他の同じような建物と違い、人の手があるからだろう。傷みは少ない。
盗賊は魔女に誘われるように、その住まいに足を踏み入れた。
いくつも棚や机が置いてあり、その上にも中にも、所狭しと美しい小瓶が並んでいる。中身が入っているものもあれば、空のものもあった。また、その隙間には、盗賊が以前奪ったような鉱石が無造作に置かれている。さらに様々な書籍、植物を植えた鉢なども並んでいて、雑然としていたが居心地は悪くは無かった。もっとも、居心地は悪くない…と感じる自分の機微に気付き、盗賊は思わず顔を顰めた。
盗賊は壁に背を預けて、魔女の動きをじっと見つめている。魔女は外されたローブを被り直すと、壁際に置いてある何色かの小瓶を机の上に並べ始めた。
「何が必要なの。」
「何がある。」
「何でも。」
「何でも。」…という魔女のその言葉に、盗賊はふと、最初に会った夜、魔女から奪った薬のことに思い至った。
「あの薬は。」
「あの薬…?」
「魔女の治癒薬…という。」
ローブの下から伺うような視線が盗賊を捕らえた。何をどう言うべきか、少し思案している様子だ。その魔女の様子を盗賊はしげしげと眺めている。その視線を気にすることなく、魔女は棚のガラス戸を開けて、小さな瓶を取り出して最後に並べた。それは盗賊が奪った瓶の色と同じだ。
「解毒、暖を取る薬、暑さを控える薬、それとこれが、治癒薬。出せるのはこれだけね。」
机の上に、4色の瓶が1本ずつ並んだ。盗賊は壁から体を離し、魔女にその身を寄せるような距離に近づき、テーブルに乗せられた瓶に指で触れた。「治癒薬」と呼ばれた瓶を手に取ると、光にかざすようにその隻眼で覗き込む。
「これは、どのような効果がある。」
「試していない?」
「訳の分からないものは飲まない。」
魔女の声の苦笑を帯びた響きに、盗賊が憮然と返した。唇を重ねたときよりも、感情を伴ったやり取りだ。
「飲まなくてもかまわない。酷いときは飲んだほうがいいけれど。」
「どういう意味だ。」
魔女は、盗賊が、あ、と思う間もなく腰に佩いた短剣を抜いて、それを自分の掌に宛てた。その刃が魔女の白い掌を滑る瞬間、盗賊の手が魔女の腕を掴みその行為を止めさせた。思いのほか強く掴まれた腕と引き寄せられた身体に、はらりとローブが落ちて、驚いたような表情の魔女の銀色の瞳が現れる。その瞳を、盗賊が僅かに焦った色で見返し、怒ったような口調で短剣を奪った。
「何をしている。」
「どのような効果があるかと聞いたから。」
「手を傷つけるつもりか。」
「治るわ。」
「ダメだ。」
「効果は…」
「もういい。」
気がつけば2人の距離は無くなっていた。盗賊は魔女の身体を引き寄せたまま、誘われるように再びその唇に自分の唇を重ねる。やはり魔女は拒むでもなく、受け入れるでもなく、盗賊に触れられるがままになっていた。盗賊の手が魔女の顎を掴み、その口付けは深まっていく。響く水音に互いの息が高まりあい、押し付けた身体に魔女が倒れてしまわないよう、盗賊がもう片方の手を相手の背に回した。
どれくらいその唇を吸っていただろうか。やがて、盗賊は唇を少し外すと、一瞬だけ熱を帯びた隻眼で魔女の瞳を見、強くその腕を引いて部屋の奥へと連れて行った。
****
「女の身体を求めるならば止めておきなさいと言ったはずよ。」
「お前が魔女だからか。」
「そう。」
「嫌ならば何故抵抗しない。」
「それは…。」
魔女は口ごもった。躊躇うように顔を逸らし、それがまるで軽い拒絶のようで盗賊は不機嫌な表情になった。拒絶されるのが当たり前の状況なのに、そうされるのは納得がいかない。
しかし、身体を重ねる2人の様子は、それだけであればまるで愛し合っている恋人のようだ。互いの服は全て剥され、小さな寝台の上で、細い華奢な肢体の上に、盗賊の剃刀のように鍛えられた身体が重なっている。
盗賊の手が魔女の足と足の間に割り入って、数本の指がそこをかき回していた。もう片方の手は魔女の頭を抱えるように支え、その舌は今は魔女の耳元を濡らしている。互いの肌が触れ合っている箇所も、何かを求めるように動いていた。2人の喘ぎ声にも聞こえる呼吸の音は掠れて響き、それにあわせるように水音が重なる。その水音は、盗賊が舌で魔女の耳元を嬲る音なのか、それとも秘所を探る音なのか、あるいは両方なのか。
「あの男は何者だ。」
「あの男?」
「お前を訪ねて来たのだろう。」
「あれは…。」
盗賊が魔女の身体から指を抜くと、そこは糸を引くほど濡れていた。今度は魔女の身体を後ろから抱き寄せ、その秘裂をなぞるように、盗賊が己を宛がい動かし始める。まだ入ってはいない。だが、魔女の息は徐々に荒くなり、シーツをぎゅ…と握り締めた。その手に盗賊の手が重なり、愛する女とでもするように指が絡まりあう。後ろから首筋に唇を這わせ、時折そこを吸い上げた。
「魔女に囚われた、哀れな男。」
「哀れか。」
「そ…う…、……ああっ…!。」
瞬間、今までのじっくりとした行為が嘘のように激しく、盗賊の身体が魔女を貫いた。その衝撃に、思わず魔女から声が零れる。なんという美しい、色めいた声だろう。やがて盗賊は何かの箍が外れたかのように、激しく動き始めた。その動きは逆上したようにも見えるし、焦っているかのようにも見えた。ただ獣のように本能に任せているようにも見えたし、己の激情を見せ付けるかのようでもあった。
後ろから激しく突き上げながら魔女の身体を起こし、片方の乳房を片手に掴む。荒々しくそこを揉みながら、もう片方の手は腰を抱えるように回す。盗賊の動きは大きく激しく、魔女の髪も柔らかな胸もその動きに合わせてゆれ、息もこれまでに無いほど上がっていた。
「俺も…哀れだと…?…くっ…う…」
「あ、なたはまだ、間に合う…。……んっ…。」
互いに、それ以上の言葉は紡ぐことなく盗賊は魔女の身体を奪っていく。愛の言葉や快楽の確認は、そこには無い。ただ2人分の喘ぐような声と、身体の触れ合う荒々しい音が響く。
初めて会ったあの夜と、同じように。
****
あの夜とは異なっていることが1つあった。
朝まで魔女の身体を蹂躙し続け、やはり盗賊は眠ってしまっていた。だが、腕の中で魔女もまた、眠っていたのだ。盗賊は一瞬慌てたように、隻眼で魔女の眠っている顔を見下ろした。扇形の整った睫は伏せられ、寝息は規則正しい。その淑やかな頬に盗賊はそっと触れようとして、止める。
『1度抱けば忘れられず、2度抱けば虜になる。3度抱けば離れられず、4度目には魔女のものとなる。』
盗賊の脳裏に浮かんだのは、あの時の娼婦の言葉。
『魔女に囚われた、哀れな男。』
そして、抱いている途中で魔女が言った、自分以外の男の話。
魔女に囚われるとはどういうことか。「間に合う」とは何なのか。
盗賊は、魔女の身体を揺らさぬように静かに寝台を降りて、服を身に着ける。
魔女が眠っている寝台の上に、薄桃色とも薄紫色ともつかぬ石のついたペンダントを落とし、テーブルの上に置いてあった4本の瓶を掴むと、魔女の住みかを後にした。
そのすぐ後、魔女の銀色の瞳がそっと開いた。
****
「どうするつもりなんだ、あの男。」
「私ではどうにもできない。」
「踏み込んできたのはあの男か。忠告しなかったのか。」
「女を求めているならば止めておけと…。」
「俺の時と同じことを言う。嫌ならば追い出せばよいだろうに。」
「追い出したら、違う結果が得られていたかしら。」
「いや、同じだろう。」
「…。まだ間に合うわ。」
「どうかな。もう既に、あれほど魔女の香が移っている。」
ふ…と、男の言葉に笑みが混じる。
邪でなく、正当で信頼に値する取引ならば、必ず魔女は応じる。そういう生き物だ。盗賊との邂逅を魔女が許容したのであれば、それが2人の間で正当なものだったということだろう。だが、それは2人の間でしか分からないことだ。
魔女と旅人は向き合っていた。素朴なマグカップに、花のような芳香の茶が入っている。色素の薄い亜麻色の髪はまばらに伸びていて、旅装であることを感じさせた。瞳の奥は淡い褐色で、魔女を労わるように優しげに細められている。
その視線を受けて、今はローブを脱いでいる魔女の瞳が苦々しく伏せられた。この魔女は感情の動きが読み難い。こうして困ったような顔をするのは珍しいのだ。感情を伴うその瞳を見れば、あの隻眼の男はどう感じるだろう。旅人は苦笑した。
「男を持つのは嫌か。それだけが自分を癒す方法だろうに。」
「それがどういうことか、貴方はよく知っているはずよ。」
「俺がそれを後悔していると?」
「いいえ。けれど、それは結果論だわ。」
「違うな。普通の男と女とは違う。俺達の場合は、既に決まっている事象だ。そうだろう。俺達のような男が側にいるのと、魔女がその場所にあるのと、理屈は同じ。」
盗賊に何を言われても揺るがなかった魔女の銀色が、戸惑うように切なげに揺れる。旅人は茶を飲み干すと席を立った。
「約束の品はもらって行く。交換の品はそこに置いておくから取っておけ。」
テーブルに置かれた細工の無い小箱を取り、扉へ向かって足を向けた。
「望み通りに行くことを願っているよ、砂塵の。」
誰の望みなのか。どのような望みなのか。
旅人はそれを言うことなく、魔女もそれを聞くことなく、旅人は魔女の元を立ち去った。