自分が拠点にしている砂漠の街の、安い酒場に盗賊は居た。早い時間だったが、既に何人か出来上がっている人間もいる。この時間から酒場にいる人間だ。ろくでもないものも多いが、それは日常の風景だった。
盗賊が手の中で遊ばせているのは、黒曜石の短剣。刃の部分を黒曜石を切り出して作ったものだ。実用的ではないのだろうが、切れ味はよさそうだった。何よりもその黒い艶が、触れれば切れる短剣の刃だというのに、手に柔らかな魔女の黒髪を思い出させる。
不意に、酒場に淀む男達の埃と酒精の混じった匂いとは、全く異なる別種の繊細な香りが盗賊に届いた。
それに気付くと同時にコトンと音がして、盗賊の前に小さな器が置かれる。
「また会ったな。」
盗賊の正面に、魔女の住みかで見かけた旅人が座った。旅人は、飲めと言わんばかりに置いた酒盃を顎で指し、自分は片手に持った器を軽く挙げて、ニヤリと笑う。初めて対峙したときは布に覆われていた顔は、今は晒されている。歳の頃は、盗賊とほぼ変わらないだろう。盗賊の風貌が豹のような鋭さだとすれば、旅人のそれは狼のように抜け目の無いものだった。
「どうした。魔女に囚われでもしたか。」
「どういう意味だ。」
「分かっているんだろう。」
旅人が自分の持っている酒盃に口を付ける。
「どこでどういう風に会って、あれに手を出したのかは知らんが、深く関わる気が無いなら構うのはやめておけ。」
「別に構ってはいない。気まぐれだ。」
「軽い気まぐれで踏み込めば、囚われるぞ。」
「お前のようにか。」
「そうだ。俺のように。」
旅人の淡い褐色の瞳が、盗賊の隻眼を面白そうに見返した。
「あれは砂漠のものだ。触れたいなら自身も砂漠のものにならなければならない。」
「何を言っている。」
「まあ聞け。『1度抱けば忘れられず、2度抱けば虜になる。3度抱けば離れられず、4度目には魔女のものとなる。』聞いたことは無いか?」
盗賊の眉間に深い皺が刻まれた。初めて旅人が置いた酒盃を手に取り、一口煽る。旅人はそれを是と取った。
「あれはあながち嘘ではない。3晩触れ続ければ、魔女の香りで身体が満たされる。魔女と同種の存在になるということだ。」
「どういう意味だ。」
「気付いているだろう。自分の身体を徐々に満たす、抗えない、魔女の香に。」
確かに盗賊は気付いていた。自分を取り巻く魔女の香。常に側近くに魔女が居るような気配は、魔女ではなくて自分自身だ。狩りと称して人を斬っても、濃い血の香りを上回るほどに魔女の香は濃厚だった。日がたてば薄れていくが、それが薄まっていくことに不思議な焦りを感じてしまう。
「自由に生きたいならもう構うな。魔女の香が薄れれば、やがてその心も別のことで満たされるだろう。だが。」
旅人は、自分が手にした酒盃を全て煽った。
「もし魔女を得たいならば、4度目は決して迷うな。」
酒の無くなった杯を、トン…とテーブルに置いて音を鳴らす。
「あれらは逃げる。」
「逃げる?」
「ああ。」
旅人は肩を竦める。
「魔女に囚われた者…いや、魔女を得た者は、その存在が魔女に縛りつけられる。魔女の孤独を唯一癒すが、魔女の生死と自分の生死が一体になる。魔女を得たい者にとってはあまりにも甘美な契約だ。だが、魔女は…自分の孤独を癒す方法だと知りながら、それを厭う。」
「何故、厭う。」
「人という生き物から生死の自由を奪うと魔女は考える。人から何かを奪うことを、魔女は相当嫌うのさ。」
「それを望んだとしても、…か。」
「その考え方がもはや間違いだ。普通の男は魔女を望まない。どんなに美しい獣を見ても、それに性欲など沸かないだろう。それと同じだ。」
だが、それを欲したということは、もはや魔女と同種の存在ということだ。しかし、まだ間に合う。普通の男として自由に生きていく機会は、盗賊には残されている。
旅人はガタンと席を立ち、荷を背負い直した。
「もっとも、そういった美しい獣に興味本位で交わりたいと思う、変態やごろつきどもはこの世に多くいる。分かるだろう。」
「ああ。」
「砂塵の魔女も例外ではないだろう。魔女とてそういう者達に容赦はしないが、俺達にとってはああいう人間が居ること自体、気分が悪いことこの上ない。」
盗賊の顔が苦いものになった。
「さて、俺は行く。どうするかはお前さんの自由だ。」
「待て。」
「何だ。」
「何故、それを俺に教える。」
旅人は首を傾げ、座っている盗賊を見下ろした。
「何故?」
「お前は、魔女の男なのだろう。」
「ああ。」
ふ…と、旅人が笑んだ。
「俺から、お前と同じ香がするか? …俺がこの身を捧げる魔女は…」
旅人が何かを言った。隻眼が不意に怪訝そうに歪められ、それに答えようとしたが、それを聞く前に「じゃあな」と片手を振って、旅人は酒場の出入り口に手を掛ける。盗賊の隻眼が思わずそれを追うと、酒場から出ようとする旅人の隣に、旅装に身を包んだ女が並んだ。旅人の横顔が微笑み、隣に並んだ細い身体を導くように抱き寄せる。ふと、女がこちらを振り向いた。旅装のローブから零れ落ちる髪は鮮やかな赤。瞳は遠くから見てもそれと分かるほど、美しい銀色をしていた。一瞬盗賊と瞳が合うと、にこりと笑って旅人とともに酒場を後にする。
旅人は言っていた。『俺がこの身を捧げる魔女は…。』
『流浪の魔女。』
盗賊は酒盃に残っている酒を煽ると、席を立った。
****
「魔女が居たっていう噂は本当だったようだなあ?」
「噂?」
「滅びた砂の王国に、バカ高く売れる薬を作る女がいる、っていう噂があってな。」
「それで?」
「大人しく渡してもらおうか。ついでに、俺達の身体も満足させてもらう。」
3人の男が、下卑た笑いを浮かべて、砂塵の魔女と向き合っていた。
魔女の住まう砂の王国に、魔女自身を狙ってくる輩が来るのはそう珍しい出来事ではない。魔女は静かにため息を付いた。
「帰りなさい。」
「ああ? 死にたいのか? それとも犯されたいのか?」
「どちらもお断りよ。…正当な取引か、私の気まぐれ以外では、何も渡さないことにしているの。」
「訳の分からない事言いやがって。…魔女が。」
1人の男が舌打ちをして、剣を抜いた。
「おめぇら、どれだけ傷つけてもいいが、殺すんじゃねーぞ! 行け!」
2人の男が魔女に飛び掛るように剣を抜いた。魔女は一歩退いて、杖を構える。1人がその杖に、剣の刃を合わせる様に腕を振り上げた。
だがそれは届かなかった。
飛び掛かった男が、カクンと横に倒れる。声すら聞こえなかった。倒れた男の首には短剣が深く刺さっている。残り2人のうちの1人が、「何者だ!」…と、叫ぶその前に、建物の上から何者かが飛び降り、男の背中に圧し掛かった。地面に倒され、踏みつけられた衝撃であばらが軋み、動けない。声を出す前に、背後から喉に刃を回される。それに気付くのと、その刃が引かれるのは同時だ。全てを認識する前に、2人目の男は事切れた。
残る1人の男を、鋼色の隻眼が見上げた。
魔女を襲おうとしていた3人のうち、2人を倒したのは、隻眼の盗賊だった。
生き残った男は、この男を誰だか知っている。
砂漠で、獲物を襲った直後の盗賊を獲物にしているという、盗賊の盗賊。その隻眼に一度眼を付けられれば、決して逃れられないという。生き残った男は、じりじりと後ずさった。隻眼の盗賊がそんな男の目を見ながら、ゆらりと立ち上がる。魔女と男の間に立つ盗賊は、返り血の一滴も浴びては居ないが、その瞳は確実に血に染まっていた。
「た、助けてくれ。」
命乞いが盗賊の前でどれほど意味があるのかは分からないが、男の喉からやっと絞り出た声はそれだった。盗賊は答えず、足元に倒れている2人目の死体が持っていた剣を拾い上げた。後ずさる男が不穏な空気を読み取り、慌てて盗賊に背を向けた瞬間、叫び声を上げて倒れる。盗賊が拾った剣を逆手に持って、盗賊の背に投げたのだ。脇の少し横に刺さったため即死は免れたが、男を地面に倒し、苦しめるには充分だ。盗賊がその男に近づき、止めを刺そうと刀を振り上げる。
「…くそっ、死ね!」
男は剣の刺さっていない側に自分の身体を転がし、仰向けになった瞬間短剣を投げようと腕を持ち上げた。だがそれもやはり叶わなかった。盗賊がもう片方の手で男の腕を掴んだのだ。それを見て、男の顔がニヤリと笑う。掴んだ瞬間、盗賊の腕にもう片方の手で別の短剣を刺した。それを見て、盗賊の眉がピクリと上がる。盗賊はふん…と鼻を鳴らして振上げていた刀を傍らに放ると、掴んだ短剣を男の心臓に突き立てた。
絶命した男を見下ろす盗賊の腕から、血が流れ落ちた。
****
盗賊は刀を拾いながら立ち上がり、魔女を振り返った。
戸惑うような風が吹く。
その風に乗って盗賊の鼻に届くのは、魔女の香。
盗賊は刀を鞘に戻すと、怪我をしていない方の手で魔女の腕を引いた。当たり前のように、口付けのために顔を寄せる。だが、魔女はそれを避けた。盗賊の抱き寄せる腕をすり抜け、だらりと下がったほうの腕を取る。盗賊はされるがまま、魔女の行為を見つめていた。魔女が小さな瓶を取り出し、中身を盗賊の怪我に振りかける。すると瞬きするほどの間に傷は消え、切り裂かれた服だけになった。
魔女は盗賊の治った腕をそっと下ろすと、何も言わず立ち去るように身を退いた。だが、その手を盗賊が掴んで、自分の方に向かせる。
盗賊の隻眼を魔女の戸惑うような銀色の瞳が見つめ返した。
常とは違う表情だったが、それを無視して盗賊は顔を寄せた。
唇が触れ合った瞬間、びくりと魔女の身体が揺れる。
『普通の男は魔女を望まない。』
ならば、魔女を望む自分は普通の男ではないのだろう。
今まで足りないものを探すかのように生と死に飢え、片目を失うほど刀を振るい血に染まってきた自分は、この身を捧げる者を見つけたのか。
魔女を得て、魔女に自由を奪われ、魔女と生死を共にして、魔女を癒す唯一の存在に成り得る。
あの旅人が言った通り、なんという甘い契約。
魔女はそれを嫌がるという。人の自由を奪うからという理由で。
「来い…魔女。」
「貴方はまだ間に合う。」
「もう間に合わない。」
「いいえ。」
「俺が望むことだ。お前が気に病むことはない。」
魔女は視線を逸らした。その魔女の顔を掴み、無理矢理盗賊の方に向かせる。片方だけの鋼色の瞳は、射抜くように強いが、恐ろしいものではなかった。
「俺達の場合は、既に決まっている事だ。そうなのだろう。」
いつか、魔女に旅人が言った言葉だ。魔女に囚われたものが、真っ先に理解するそれは理。
「違う。」
「違わない。」
「貴方は人として自由に生きる権利があるわ。」
「違うな。俺にはお前を選ぶ自由が与えられている唯一の人間だ。それを俺から奪うな。」
「自由を奪うな。」…と、最後通告のような盗賊の言葉に魔女が震えた。