闇の界は案外近くに

「悪魔と召喚主シリーズ」用小話。「小さなお菓子と訪問者」にリンク。
「魔王様は案外近くに」とのコラボ話注意。


ウィーネがアシュマと共に闇の界に降り立った時、そこはウィーネの想像とは少し異なって、荒涼としているが殺伐とはしていなかった。

眼前にあるのが悪魔の根倉だというが、巨大な城でも荒れ果てた城でもない。壁か何かを思わせる垂直に切り立った崖に、いくつもの灯りがゆらゆらとともっている。空間を支配している濃密な魔力に恐怖は無いが、月の無い夜空のような深い闇の奥には、心をうずうずとさせる何かがあった。それは決して嫌なものではなかったが、なぜかウィーネはそわそわする。

「王が帰還しているから、闇の魔力が濃いな」

「王?」

「どうでもいい話だ」

興味なさそうにアシュマが言って、ウィーネを引き寄せる腕を強くする。まるで子供のように腕に乗せられて、抱き寄せられていて落ち着かないが、この腕の中から離れるのも少し不安だ。珍しく大人しいウィーネにアシュマは満足だった。ウィーネは初めての闇の界で頼りなく、すがりつくものはアシュマ1人。いつになくアシュマに腕を回して身体を寄せてくる、その身体を遠慮なく抱いて、安心を与えるように唇を寄せてやった。

何故安心など与える必要があるのかは、分からない。

しかし怖がるウィーネが、アシュマの腕の中でほう…と身体を解き、筋肉を緩めるのが伝わると何とも言えぬ満足感があるのだ。

「怖いか、ウィーネ」

「……! 別に、怖くないわよ」

言って、ぷいとそっぽを向いたので、アシュマは腕を緩める。すると、慌ててぎゅうとしがみついた。

「や、ちょっと、アシュマ、離さないで」

離さないで?

うむ、実にいい響きである。

「よかろう、ウィーネ。我はお前を離さぬ」

「え? ちょ、と」

言ってアシュマは、ばさりと羽を広げた。とん、と地を蹴る振動にウィーネの身体が揺れて、突然の浮遊感に襲われる。

「うひゃっ……!!」

「ウィーネ?」

バサッ、バサッ…と音がするたびにふわりと身体が浮く。「急にとば、とばないでっ!」と身体を強張らせたウィーネを、一際やさしく抱き寄せながら、「ああ」と頷いた。なるほど、羽を見せた事は何度もあるが、ウィーネを連れて飛んだのは初めてだ。

「すぐ着く。我にしがみついていろ」

むうむうと言いながら必死でアシュマの首に抱き付いて、肩に顔を埋めるウィーネをじっくり堪能しながら、アシュマは崖に灯っている灯りの中でも、一際高く明るい位置にある場所へ滑り込んだ。

到着した場所がどういう部屋なのかも確認する暇無く、ウィーネの身体は、ぼふん…と柔らかな何かに沈められて、そのままアシュマが圧し掛かってくる。

「ちょっと、アシュマ、ここどこよ、いきなりな、」

なにするの。

……問う前に、唇が塞がれる。じたばたと暴れる足と足との間に大きな身体を置かれると、ウィーネの足は閉じられない。アシュマはウィーネの小さな頭を両手で抱えて黒い髪に顔を埋めると、耳をぱくりと齧った。

「あ」

耳元が濡れた感触、そして熱く湿度の高い息を中に感じて、たやすくウィーネの身体の動きが止まる。

その様子に気をよくしたアシュマが、唇と片方の手でウィーネの頭を支えたまま、もう片方の腕でウィーネの太ももを抱えた。

言葉にすることすらもどかしいほど、たった今ウィーネを貪りたくて堪らなかった。

人間の界とは比べものにならないほど混じり気の無い闇色の世界は、アシュマの魔力が生まれた場所でもある。しかも、今は闇の界を成している王の機嫌が極めてよいらしく、かなり上質な魔力で満たされている。アシュマの長い生の中でも、これほどの魔力で界を成している時はなかっただろう。闇の界を満たす浮ついた魔力に、アシュマもむず痒くなる。

そんな中、目の前にはアシュマのもっとも好む魔力とその魔力を宿す身体があるのだ。

「ウィーネ、足を開け」

「あ、あ、アシュマ、ちょっと、や」

「我慢できぬ。待てぬ。ウィーネ」

「だから、あの、」

悪魔の手に吸いつくような肌、愛らしい声、柔らかな黒い髪、舐めると甘い頬。自身を植え付けて、その瞳に自分だけを映して、その声を自分だけのものにしたい。その願望にすでにウィーネの魔力は関係無く、ただ己の欲望に忠実になり、それを止めることが出来なかった。もちろん、止めるつもりなど最初から無いが。

が、しかし。

「待って、って。ば、なんなのよ、突然、もうちょっと、アシュマ!!」

ぐぎぃ……と音がしそうなほど、ウィーネがアシュマの顔を押しのける。雰囲気も何も無い行動に、アシュマが僅かに理性を取り戻して不機嫌そうにウィーネを見下ろした。

「何だ、ウィーネ」

「何だ、じゃないわよ、ここどこなの、急に何なの!」

「ここは闇の界の東城だ」

ふん……と息を吐いてアシュマはウィーネを抱いて、身体を起こした。仕方なく我侭なウィーネの背を撫ぜながら、ブラウスのボタンに手を掛ける。

「って、だから何してるの!」

ぺちんと手を叩かれて、アシュマはむっとした。

「服がしわになるのが嫌なのだろう。仕方が無いから脱がせてやる」

「ちがうでしょ!」

「ウィーネ」

アシュマは大切な女の名前でも呼ぶかのようにそっと、だが悪魔の重低音でささやいた。

「この界に連れてきてやったのは、誰だと思っている」

「え?」

「これは糧だ。あまり我侭を言うな」

低い声と、いつもの悪魔の超理論にウィーネがいつものように呆気に取られる。その隙に、再びウィーネを漆黒の寝台へと沈めた。とろんと闇の魔力に落ちていくような柔らかさでウィーネの身体が受け止められ、仰け反る白い喉を悪魔がかぷかぷと甘噛みし始める。

その時。

ぐるる…と悪魔が喉を鳴らして、ウィーネから視線を外した。

つられてウィーネがそちらに視線を動かすと、開け放たれている入り口らしき場所から大小さまざまな闇の生物がこちら見ていた。どことなく期待と興味と欲望に満ちた視線であったことがその一瞬で分かったが、ウィーネが悲鳴を上げる前に、それらはアシュマの低い命令で退く。

「死にたいか、貴様ら」

僅かに少女を見る視線すら許されずに、それらはアシュマの唸るような恐ろしい一言で蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。

彼らが東城の魔に仕える悪魔族だということは、かなり後になってウィーネは知る。

****

闇の界の自らの根倉でしっかりと糧を味わったアシュマは、実に満たされた思いでウィーネを腕に抱いている。帰還といってもそれほど間を空けていたつもりは無かったが、やはり闇の界は自身に馴染むのだろう。本性を現した己に交わるウィーネは、どれほど触れても飽きることはない。むしろ感じるほどに欲しくなった。

抱いているウィーネの身体はまろやかで実に心地がよい。魔力だけではなく、その触り心地が気に入りだ。柔肌に肌触りのよい大きな上掛けを用意して自分の身体ごと包むと、アシュマは最初にこの部屋に滑り込んだ大きな窓に視線をやった。

そこには角の生えた毛の無い犬に羽だけが生えたような、闇色の異形の生物が座っていた。

「何か変わりは無いか」

「か、かわ、変わり、は、ありませぬ。……お館様、そ、そ、その、人間の娘子、は」

じゅるっと音がして、異形の口元から涎が垂れた。

その様子に、一瞬で城全体の気温が低くなり圧が重くなった。城のあちこちから、ギャアギャアと小さな悲鳴が響き始める。目の前の異形も「ぎゃっ」と小さな悲鳴を上げて、恐怖にぷるぷると震え始めた。

「す、す、すみませぬ!!」

「分かっておるなら退け。その眼を潰されたくないならな」

「し、し、しかし、その魔力……少し、少しだけ、かじるだけでも!」

「馬鹿げたことを。これは我のものだ」

ふん、と鼻を鳴らし、きわめて不機嫌な重圧はそのままに瞳を据わらせる。ほんのわずかでも距離を詰めようものなら、消し飛ばされそうなほど攻撃的な魔力が部屋に充満していて、小さな異形は少しも動く事が出来なかった。それでも、目の前の上位二位の魔の主が抱いている人間の娘から香る魔力は芳醇で、口の中から涎が溢れる。

「ならば、一口舐めるだけで……」

アシュマは今度は言葉無く、視線を動かした。その一睨みで周囲の温度が一気に冷たく、そして熱くなる。焼け付くような恐怖の魔力に異形は平伏して「すみません、すみません」と繰り返した。

「これに手出しは許さぬと命じる。これに危険が及ぶ時以外は一切触れるな。他に触れさせることもならぬ。これに手を出せば、全員に罪が及ぶぞ」

「は、はっ」

「ただし、危険があれば必ず守れ。我と同じだけ重んじよ」

「は、はい……」

それでもまだ名残惜しそうにウィーネに視線を向ける異形に、アシュマはぴくりと瞼を動かし付け加えた。

「飢えた眼差しで見るのも禁ずる」

言ってアシュマは上掛に包んでいるウィーネを覗き込むと、少し持ち上げて口付けを落とした。その様子を眼を潤ませるほど羨ましげに見ていた異形だったが、やがてしょんぼりと諦めて羽を下ろす。

「報告は」

アシュマが短く促すと、お座りの格好のまま、ぴし、と背を伸ばして姿勢を正した。

「王が妃を連れて帰還されているのはご存知かと思いますが」

「ああ」

「妃は魔を持たぬ界の人間族の女ということで、王城を人間界の様式と、妃の趣味に合わせたものにする試みで浮かれております」

「魔を持たぬ人間に、人間界の様式…?」

闇の界の王にもその妃にもアシュマは関心が無かったが、「人間界の様式」という部分には興味を惹かれたようだ。小さな魔から内容を聞いた悪魔は、闇の界に充満している随分とはしゃいだ王の魔力の様子に思案を巡らせる。人間の妃……つまり人間の女の趣味ということか。

****

アシュマの住まいだという東城から再び一瞬で移動した先は、これまでの荒涼とした闇色の崖の城と異なり、素朴ではあるけれど美しい花々の咲いている明るい庭らしき場所だった。きょろきょろと辺りを見渡してみると、近くには綺麗なお屋敷のような壁面が見え、本当に同じ闇の界なのだろうかと目を疑うほど…ウィーネの住んでいる界と変わりが無い。

しかし、その小綺麗な様子と相反するように緊張した魔力が満ちた。

視線を前に向ける。

そこには漆黒の6枚羽根を持つ褐色の肌の男が、黒い髪の女性を抱き寄せてこちらを睨み付けていた。熱い魔力は恐らく眼前の男から放出されているが、馴染みのある強い魔力がウィーネを囲っている。

「久しいな」

ウィーネの顔の側から、低く重い声が響いた。悪魔の発したその声に眼前の男が、腕の中の女性を守るようにさらに腕に力を込めて答える。

「ぬけぬけと……随分遊んでいると聞くぞ、ア」

だが、ウィーネが気になったのは待ったく別のことだった。

ここは闇の界のはずだ。

それなのに、目のまえに居る6枚羽根の男の人、ではなく、その男の人が大切そうに抱えている女性は、ウィーネと同じ人間に見えるのだ。魔力など全く無いようだし、羽が生えていたり身体に変な模様が入っていたりしない。

「うわあ」

しかも、とっても綺麗な人だ。

闇の界で人間に会えるなんて……どんな人なのだろうとウィーネの興味は俄然そちらに向く。頭の上では、何か悪魔がぶつぶつと6枚羽根の男の人と話をしているが、そんなことよりもウィーネは女の人と話がしてみたかった。

「ねえ、アシュマ、下ろして?」

「王よ。ぬしこそ魔力無き人間に現を抜か」

「下ろして、アシュマ、ねえ、下ろしてって。ねえ! 平気だから! 下ろして!って!ば!」

しかし、アシュマはちっとも腕を緩めてくれずに、こちらの話を聞いてくれない。女の人がどこかに行ってしまったらどうするのだ。心配になって、アシュマと女の人をちらちらと見比べながら「おーろーしーて!」と要求する。そうしていると、女の人がこちらを向いて微笑んでくれた。

「制服かしら、可愛い」

ほら、可愛いって言ってくれた。ウィーネがぺちんぺちんと自分を抱く腕や肩を叩いていると、ふんぞり返って6枚羽根の男の人が「伴侶を見つけたのだ」とかなんとか、自慢げに言っている。伴侶ですって! と思って、いよいよ女の人と話してみたくて、ウィーネは強引にアシュマの腕から抜け出した。

「ちょっとおろしてってば!」

「我とて遊んでいたわけではなく、召喚主の」

「ねえ、ちょっと高司さん離して、あ」

アシュマの背は高くて、ウィーネが飛び降りるとこてんとバランスを崩して膝を付いた。「うきゃ」と変な声が出てしまって慌てていると、いつも助けてくれる大きな悪魔の手よりも先に、細くて綺麗な女の人の手がウィーネに届く。転倒してしまうなんてみっともない、少し恥ずかしくてウィーネの頬が赤くなった。

「あ、あの、ありがとうございます」

「いいえ、大丈夫だった?」

女の人は涼やかな雰囲気でやさしく笑ってくれる。それがとても嬉しくて、ウィーネの口元も綻んだ。

****

庭に降り立った後、ウィーネが女の人と話してみたい! と興奮気味にアシュマに訴えていると、お茶に誘ってくれたのだ。アシュマは最初いい顔をしなかったが、最後には「すぐに戻ってくるから大人しくしていろ」と言ってどこかへ行ってしまった。勝手に消えたアシュマに今度は王という人がぎょっとして、後を追うように姿を消す。

それを見ながら、もしかしたら王様だけど上位1位とかではないのかもしれない…などと思いつつ、出された香りのいいミルクティーを飲む。そのミルクティーは、ミルクティーのはずなのにウィーネが知っているものより少し風味が異なった。

「おいしい。ちょっと変わった香りがするのに、あっさりしてます」

「大丈夫だった? ちょうど豆乳で作ってもらったところだったから……」

「大丈夫です。トーニューって何ですか?」

なんでもダイズという豆から搾ったミルクのような液体なのだという。ミルクよりもずっとカロリーが低くて、風味は変わっているがあっさりしているところが好きなのだそうだ。

綺麗な女の人は闇の界の王の妃なのだという。

…それならば、やはりあの時この女性を大切そうに「伴侶だ」と言っていた男の人が王様…ということだ。闇の界の王様の伴侶が人間…というのにも驚いたけれど、その人 がちっとも魔力を持っていない…というのもウィーネには驚きだった。それに、あの王様という人の優しそうなことと言ったら無かった。アシュマに比べてちっとも怖くないし、優しそうな表情で…というよりも、なんだか溶けそうなうっとりとした顔でお妃さまを見つめていて、17歳の少女にはそれがとてもうらやましく映る。

「いいなあ、あんなに優しそうで真面目そうな王様が旦那様だなんて」

「真面目そう?」

妃はウィーネの純朴な感想に何故か微妙な表情をしていたけれど、概ね嬉しそうに微笑む。そうして問い返した。

「あなたにも、守ってくれる魔族がいたじゃない?」

ぶほ! …とウィーネはミルクティーを噴出する。慌てて首が千切れるほどに振って否定した。

「ちがう、ちがいます! そんなの、あんなの! べつに恋人とかそんなんじゃ…いっつも勉強の邪魔するし…」

あんなのだなんて……と、妃は小さく笑った。

「恋人? とは聞いてないわよ」

「あー、もう!」

むう、と拗ねてみせたウィーネの表情に妃はまた笑って、着ている制服を見てみる。

「これは学校の制服? 学生さんなの?」

「そうです。魔術学校の」

なんでも妃の住んでいる人間界には魔法とか魔術などが存在しないのだという。そもそも魔族などという存在すらも空想上のもので、初めて王様の本性を見たときはびっくりして気を失ってしまったのだそうだ。それでも、アシュマのほうがまだ人間離れした様子で、平気だったのかと心配そうに聞かれた。

「最初はびっくりしたけど…でも普段は同じ学校の生徒のフリしてるんです」

「じゃあ、同級生なのね。あ、これ食べてみる? マカロンというの」

「うわあ、ありがとうございます!」

目の前にあってずっと気になっていた、綺麗な色の丸い焼菓子をすすめられて、ウィーネは嬉しそうに大きく笑った。オレンジ色のマカロンとやらをひとつとって、ぱくりとかじってみる。

「おいしい!」

「私と夫が好きなお菓子なの」

「旦那さん、人間界にいたのですか?」

「ええ、人間のふりをして…同じ職場の、私の上司だったのよ」

「職場結婚!」

ほう……とあこがれのため息を吐いて、ごっくんとマカロンを飲み込む。さわやかな柑橘系の味の中に、まったりとした甘味が混ざり込み、口の中でほろりと崩れる感触が不思議でとても気に入った。

「魔族さんも、人間のふりをして一緒にいるのでしょう?」

「一緒にいるなんて! 別に私が許可したわけじゃないのに無理矢理なんですよ、いっつも付きまとうし。…使い魔のくせに全然言うこと聞いてくれないし……」

「使い魔?」

「あんなの呼ぶ予定じゃなくて、本当はこんな小さなつぐみの子を呼ぶ予定だったの。なのに、あ、あ」

言って、契約時にされたことを思い出し、ウィーネは急に真っ赤になった口を閉ざした。その様子に少しだけ妃が首を傾げる。ウィーネはなんでもないです、と首を振って、とにかく! と話を改めた。

「王様は優しいですか? すごく大事にされてるみたい」

「そうね。……やさしいし、大事にされているわ」

だけど少し強引で押しが強いときがあるのよね、と困った顔をしている。だが、妃はとても綺麗に頬を染めていた。そんな横顔をウィーネは憧れの目で見つめる。

「いいなあ。あんなにやさしそうな旦那さんが居て」

「使い魔さんは、やさしくない?」

「やさしくないです! そりゃ、ミルクティとか持ってくれたり、闇の界に連れてきたりしてくれたりするけど……」

「ミルクティを?」

「この間なんて、自習室に勝手に入ってきて勝手にミルクティ持ってきて、褒美くれって言うんですよ!」

ぶふっと小さく妃が吹き出したが、ウィーネはかまわずに続ける。何しろアシュマが上位二位の悪魔で、自分の使い魔で、生徒に化けてウィーネに悪戯するだなんて、向こうの世界の誰にも言えないのだ。

「それに、実家にまで押しかけて、お父さんと仲良くなってるんですよ、勝手に! 普段は俺さまのクセに、家族の前ではいい人みたいに振舞って」

ぷーと頬を膨らませるウィーネを、可愛らしいものでも見るような瞳で妃は眺めている。どう見ても少し強引で押しの強い男の子からのアプローチに困っている女の子のようで、あの漆黒の体躯の異形がどのような顔をして女の子のためにミルクティを持ってきたり、褒美をねだってみたりしているのだろうと思うと楽しかったが、それは口に出さなかった。

他にも、アシュマがどんなに強引で俺様なのかというエピソードを、いかがわしい部分は省いてウィーネは盛大に愚痴った。それから、王様は猫舌なのだとか、休みの日は人間の界の家でまったりしたり散歩したりするのが楽しいのだとか、闇の界の人達はみな親切なのだということを聞いて、楽しく過ごす。

お菓子をもっとどうぞとすすめられて、ウィーネは白地に灰色のつぶつぶが付いているものを手に取った。口に含むと香ばしい甘さが広がる。ウィーネの食べた事のない、不思議な味だ。

「これもおいしい!」

「それは、夫が一番好きな味よ」

「あ、食べちゃった」

「たくさんあるから大丈夫」

くすくすと女2人で笑いあって、悪魔や魔族は強引すぎるからもっと遠慮してほしいという結論に至った。

そんな風に話し合っていると、大きな魔力のうねりを感じて、唐突にアシュマが姿を現した。同時に旦那様という人もやってくる。黒い羽はよく見ると、2組はカラスのような黒い羽毛で1組はアシュマと似たようなコウモリ羽だ。

よかった、置いてけぼりにされなくて……とほっとして、うふふと妃に微笑む。妃もまた、うふふと微笑み返して、先ほどおいしいと言ったお菓子を勧めてくれた。

ありがとうございますとお礼を言って、きれいな薄いブラウンのそれをつまむ。あーんと口を開けると、冷たくアシュマが見下ろした。非常に不機嫌そうな表情で、ウィーネは思わず手を止める。どこに行ってたのかと問えば、まったく別の答えが返って来た。

「それはなんだ」

「え?」

「もらったのか」

「うん」

あっさりと答えると、再び不機嫌な顔になる。よくよく見てみれば、アシュマは手に何かを抱えているようだ。しかし一体何に対してそんなに機嫌を損ねているのか全く分からず、「誰にもらったのか」という質問には、目の前のお妃様にもらった事を正直に話す。

途端にアシュマが睨みつけるような鋭い視線を妃に向けた。

しかしそのような視線から守るように、王が妃を抱き寄せる。

うわあ……すてき。

王と妃の仲睦まじい様子、特に王が妃をかばう様子を、ウィーネは憧れの眼差しで見つめた。いいなあ、ああいうの。あれこそが恋人だ。愛し合った伴侶って感じがする。

そんな妄想に浸っていると、全く関係のないことをアシュマが聞いてくる。

「どれを食べたのだ」

なんでそんなことが気になるのだろう。せっかく王様とお妃様の仲の良い様子を楽しんでいるのにちょっと鬱陶しいなと思いながら、食べた焼菓子をひとつひとつ指差した。

「このオレンジのやつと、黒いつぶつぶのやつ」

「オレンジ味と黒ゴマ味ね」

にっこりと笑って、妃が優しく補足してくれる。それに、うんうんと頷いたウィーネは、どうだと自慢するように、これから食べようとしているお菓子をアシュマに見せた。

しかし、ひょいぱく……とアシュマがそれをウィーネの指ごと口に入れる。何するの! と盛大に抗議して食べられた指を離す。一体何なのと指を拭いていたら、今度は抱えていた籠の中から同じ色の焼菓子を取り出して、無理矢理ウィーネの口の中に入れられた。

無理矢理食べさせっこさせられたのは腹が立ったが、口の中にさくさくふんわり広がったよい香りとミルクの甘い香りに、そんな気持ちはすぐに忘れてしまう。

そうしてアシュマは自分の手からお菓子を食べた様子に満足そうに嗤い、ウィーネにお菓子のたくさん入った籠を持たせて抱き上げた。来た時と同じようにアシュマの腕に乗せられて抱き寄せられる。

「かっこいい旦那様、仲が良くてうらやましいです」

お土産もたくさんもらってしまった。界を超える間際に2人にそういうと、王の腕の中で妃が本当に嬉しそうに笑った。

****

女子寮の自室に戻って来たウィーネは、ほう……とため息を吐いて寝台にごろごろと転がった。転がった身体をすかさずアシュマが抱えて、自分の膝の上に乗せる。ひとしきり、やめてとか離してとか繰り返して、疲れたところでおとなしくなるのはお約束だ。

「ねえ、あの黒い羽根の男の人は王様?」

「そうだ」

「すてきぃ」

ウィーネを腕に抱えて機嫌の良かったアシュマの表情が一気に凍り付く。

「何?」

「かっこいいし、奥様のことすっごく大事にしてた」

「……」

「かっこいい旦那様と仲の良いきれいな奥様。……あこがれるなー」

言って思い出すのは、愛されているという幸せ感満載の妃の優しい笑顔と、それを愛おしくてならないという風に腕に抱いて見下ろす6枚羽の王の姿だ。アシュマと違って抱き寄せる腕の優しそうなこと、眺める瞳の蕩けそうなことと言ったら!

自分が、アシュマと王を比較していることに気付かないまま、ほわわーんと思い出し笑いをしていると、急に身体が寝台に押し付けられた。

「な、なに?」

「ウィーネ」

「なに、なんなの」

「黙れ」

「ええええ!?」

これまでにないほど不機嫌な悪魔が、ご機嫌な妄想に浸っていた少女を組み敷いた。

闇の界四方位の王、東城の主、上位二位の悪魔アーシュムデウ・アクィナス・ラクシュリアスは、非常に今、不愉快だ。なぜならば、この使い魔を差し置いて、召喚主が別の魔を誉め称えているからだ。「すてき」だの「かっこいい」だの、アシュマですら言われた事のない単語を、ウィーネは容易く口にする。それもアシュマとは全く別の魔に。

しかも妃と仲が良いからあこがれる、など……。アシュマからすれば、闇の界の王とその妃の2人に憧れる要素などどこにもない。そもそもあの2人とアシュマとウィーネ、一体何が劣るというのだ。

しかし、それほど憧れるというのならば、アシュマもウィーネを愛でてやろうではないか。「仲が良い」などというあやふやな表現と関係に喜ぶのならば、いくらでも「仲良く」してやろう。

やだやだやめてとじたばたする召喚主の身体を裸に剥きながら、悪魔は舌舐めずりした。