お花見悪魔と召喚主

「魔王様は案外近くに」とのちょっぴりリンク注意。


悪魔にとってウィーネの身体など羽の如く軽いものだが、抱いている時に感じる腕の圧と柔らかみは、か弱い人間であるくせに、何者にも代え難い存在感がある。今宵もまたその身体を寝かせて腕に抱きながら、悪魔は己の界の入り口を小さく開いた。

コトン、と音がして窓辺に小さな影が映る。

おすわりをした犬に羽が生えたような形のその影は、口に何かを咥えていた。

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ウィーネが部屋に帰ると、寝台の横のサイドテーブルに白に近い薄桃色の花が置いてあった。この間食べた卵のお菓子クレムリュレが入っていた瓶がとてもきれいだったので洗って取っておいたのだが、どうやらその瓶を花瓶に見立てて飾られているようだ。寮の自室はウィーネ以外立ち入る事が出来ず、立ち入るとしたらそれはあの悪魔に違いない。しかし、あの悪魔に花を愛でるような風流があるとも思えず、ウィーネは首をかしげた。

「なんだろ、これ」

鞄を置いて制服の上着ジャケットをハンガーに掛けると、寝台の上に寝そべった。少々お行儀悪くうつ伏せになって頬杖をつき、置いてある花をよく見てみる。

多分あの悪魔が用意したものだ、何かおかしなものなのかもしれないと思いつつ、その細やかな美しさにウィーネはしばし見とれた。

「うわ……かわい」

それは草花ではなく、木の枝に花のついた花木のようだ。緑色の葉はついておらず、五枚の花びらで一つの花を為している。その花がさらにいくつか小さな束になって、華やかなのに落ち着きのある様子で、なんとも不思議な雰囲気だった。ウィーネの見た事の無い花だ。

「なんていう花だろ」

魔術学校のある学園都市にも花の咲く樹木はたくさんあるが、その中にこんな花はあっただろうか。それとも闇の界にこんなきれいな花が咲いているのだろうか。ウィーネは恐る恐る手を伸ばしてみた。

「あ!」

ほんの少し触れただけだったが、はらりと1枚花びらが落ちてしまった。

「わあ」

しかし、落ちてしまった花びらの形がとても可愛くてそっと手に取ってみる。楕円形で先の方が少し欠けていて、花になっているときはきれいな薄桃色に見えたのに、花びら1枚になると、白と桃色とほんのすこしだけ青みがかった冷ややかな色をしていた。

「気に入ったか」

「うひ!」

突然、うつ伏せになっているふくらはぎの上に容赦の無い非情な重みを感じてウィーネは飛び上がった。正確には、肩がびくっとして背中が仰け反りそうになっただけだったが。

その重みは遠慮なくウィーネの背中に覆い被さった。「重い重いいい!」とじたばたしているウィーネの身体に腕を回し、頭に乗せるように顎をこつんと触れる。

「ちょっと、重いってば!」

「まあ、待て」

さわさわとアシュマの手がウィーネの腹回りを探り始めたので、慌ててウィーネが暴れた。拘束を逃れている手を伸ばすと柔らかい枕を掴み、ぎゅううう……と抱き締めるように引き寄せる。途端にアシュマは黒い鋼の面の表情をむっすりとしかめて、身体を起こした。枕を掴んでいるウィーネを掴んでいるアシュマ、という体で寝台に並んだのもつかの間、アシュマはウィーネの枕をすっと引き抜いてバーンと投げた。すっと抜いてバーンと投げる、見事なすばやさだった。枕が浴室の扉にぶつかって、ぽむぽむと床に落ちる。

「枕を抱くなといつも言っている」

「なんでよ! ちょっと離して」

「あきらめろ。それよりウィーネ、この花は気に入ったか」

「え?」

アシュマの手には、いつのまにか先ほどの花枝が生けられた瓶が握られていた。少し揺らしただけで、はらり、はらりと花びらが落ちていく。花びらがアシュマの黒い鋼の肌の上に落ちたのを見て、ウィーネが慌てる。

「あ、ダメよ揺らしちゃ。花が落ちちゃう」

「落ちてはダメなのか」

「ダメ、せっかくきれいなのに」

「しかし、この花は散る姿が美しいと言っていた」

「誰が?」

散る姿が美しい、と言っていたのは、闇の界の王の妃だという。もちろんアシュマが直接聞いたわけではない、あの花枝を持ってきたアシュマの眷属がこっそり盗み聞きしていたのだ。ちなみに花枝は、何本か部屋に飾るために要らぬ枝を剪定したものが城に飾られており、その1本をこっそり盗んできたのだそうだ。

なんでも、今、闇の界の王城では、妃の生国から持ってきた樹花を愛でるという話でもちきりらしい。なぜかテーブルセットは置かずに青い敷物を敷いて座り、箱に詰めた食べ物をその木の下で食すのだという。

そんなに美しいのなら、花を終わらせずにおこうと王は提案したらしいのだが、妃が断ったのだそうだ。なんでもこの花は、つぼみが膨らんだかと思うと一気に満開になり、花びらが吹雪のように散り、やがて緑の葉が芽吹く、その様子が美しいのだと。だから出来ればそのように植えて欲しいのだと頼んだのだそうだ。恐らく今後は妃の国の時の巡りに合わせて花が開き、散っていくよう取り計らわれるだろう。

「王様の庭に植えられているの?」

「そのようだ。見たいか?」

「見たい!」

「ならば、東城の我の庭に植えたから見るがいい」

「ええー」

遊びに行きたいのにぃ……とウィーネがむっとしたが、アシュマは無視を決め込んだ。

しかしウィーネは、木の大きさがどれくらいなのだろう、木の下でご飯を食べるくらいだからすごく大きいのかしらとか、この小さな花がたくさん咲いている様子はどんな風なのだろうと気になって、王の庭にそれが植えられているという話に俄然興味を持った。ウィーネは、実は闇の界の王にも妃にも会った事がある。上位二位のアシュマよりもさらに上の魔の王は、どれほど怖い存在かと思ってたが、実際にはきれいで優しそうな妃を大事にしている素敵な旦那様だった。

「王様のお庭は、もうお伺いしてはダメなの?」

「ダメだ」

「どうして? 王様ご夫妻にもう一度会いたいな」

「絶対ダメだ。我の庭にも植えているから、行く必要は無い」

「でも」

急に機嫌を悪くしたアシュマが、グルルと低い唸り声を上げた。悪魔はウィーネが王のことを「すてきぃ」「かっこいい」と評価したのを忘れていない。そして、いまだにアシュマはウィーネからそのように言われた事が無いのだ。

「花を見に行かぬのか」

「い、行くよ!」

ウィーネはアシュマの腕を少し押し退けて、乱された服をいそいそと直した。アシュマの持っている花枝をアシュマの手ごとそうっと大事に包み、「この小さい方のお花は必要?」と首を傾げる。

ウィーネの細い手が優しくアシュマの手を包む様子に、悪魔は楽しげに瞳を細くした。唇を耳元に寄せ、常よりも甘く聞こえる優しいトーンでひそひそと問う。

「これはお前の部屋に置いておくがいい。散らぬようにしてやろうか?」

「え、と……」

この花は散る様子が美しいのだという。けれど、この小さな花枝から花びらが無くなってしまうのはとても寂しい気がした。

「そんなこと出来るの?」

「出来る。容易い事だ」

「それなら、……この花だけ……」

「よかろう」

アシュマは軽く花枝に手をかざして魔力で覆うと、すぐにサイドテーブルへと戻した。「今のでいいの?」と首を傾げたが、確かにサイドテーブルへと移動するときに花びらは落ちてはいなかったようだ。本当に容易いことなのだろう。

さて、ウィーネの小さなお願いは、この後、もちろん悪魔との糧の交換に至るのだが、今のところそれに気が付いているのは悪魔だけだ。悪魔は後でどのように糧を貰おうかとほくそ笑みながら、ウィーネの身体を抱き寄せた。

「あの花、闇の界でもちゃんと育ったの?」

「植物を研究している輩が、どうにかしたようだ」

「そんなのもいるの! 植物を研究って、すご」

「虫だぞ」

「えっ?」

「虫の将軍だ」

「む、虫の、しょうぐん……」

闇の界の魔が植物を育てている……と聞いて、珍しさにウィーネが瞳を輝かせたが、その魔が虫の種だと聞いて、虫が苦手なウィーネは鳥肌を立たせてぷるぷる震えた。その様子にまずは満足を覚えて、アシュマは羽を羽ばたかせる。

もちろん、食べ物を詰めた箱とやらも用意させておいた。「イナリズシ」とか「アツヤキタマゴ」とか「タコサンウィンナ」なるものが入っているらしい。王は妃と2人でそれらを食べようとして、「オハナミ」では皆と一緒に食べた方がよいと断られたそうだ。しかしアシュマはもちろんウィーネと2人きりでこれを楽しむつもりだ。まあ、多少、眷属どもに給仕をさせてもよいが、必要以上にウィーネの姿を見せぬようにしなければならぬ。

バサリと羽音を一つ響かせて、悪魔と少女の姿が部屋から消える。

悪魔の黒い肌に落ちていた薄桃色の花びらが、一枚、二枚、ひらりと舞った。