耳:誘惑(『魔王様は案外近くに』)

『魔王様は案外近くに』より、八尾と葉月。


ビジネス用のキャリーに何着かスーツを詰め、ネクタイも色と柄を選んで皺にならないように丁寧にしまっていく。ワイシャツ、それから下着。出張の準備をしている葉月の背中をうらめしそうに見ながら、八尾はため息を吐いた。

「葉月……」

「高司さん。服はホテルのフロントに出してくださいね。必要なものは向こうに揃ってると思いますけど……」

「葉月」

「高司さん、聞いていますか?」

八尾は振り返った葉月ににじりよると、こてんと肩に額を預けた。はふん……と2度目のため息を吐く。

「葉月、どうしても、……どうしても行かなければならないか」

「高司さん、出張はお仕事でしょう?」

「当然だ。向こうの会議には出る。だが、……それ以外の時間は家に帰りたい」

前半は常の課長の声で、後半はしょんぼりとうなだれるように言った。

八尾は明日から1週間ほど仕事で出張が決まった。1週間。葉月のいないホテルで1週間である。朝ご飯も一緒でないし、お弁当は作ってくれないし、晩ご飯も無理、おまけに会社帰りのデートも無理。それになにより1人寝だ。性交できないならばまだしも、寝台の上で1人なのである。世の中の夫はみなこうした苦行に耐えているのだろうか。無理だ。自分には出来そうにない。

堪え性の無い寂しがり屋の魔王は顔を上げると、妻の葉月に泣きそうな顔で懇願した。

「……俺ならば、ここまで一瞬で帰ることができる。だからだな、会議には出るが、それ以外はこの家にいてもいいだろうか」

「いいわけないじゃないですか」

「なぜだ!」

「……予定の中には懇親会もありましたし、山下クンもいるのだから晩ご飯くらいは一緒に食べてあげてください」

「……なぜ俺が山下と一緒に晩飯を食べなければならないんだ……じゃあ、そのときは葉月も一緒に」

「いきなり私がそこに登場したら、どう考えてもおかしいでしょう。どれだけ離れていると思っているんですか?」

「だから、一緒にいたいのに……」

もう一度葉月の肩に倒れこみ、拗ねたようにぶつぶつと訴えている。だが、ハッとした表情で身体を起こし、爽やかな笑顔で笑った。

「弁当は作ってくれるか?」

その顔を見た葉月は苦笑しつつ、ズレてしまった八尾の眼鏡の両脇を押さえて直してやった。

「ダメです。お昼は会議中でしょう」

「……会議に出てくる弁当なんかより葉月の作った弁当の方がいい……」

お弁当まで出てくる会議なのだからかなりいい待遇だと思うのだが、八尾にはそんなものは関係ない。そんなものより結婚してから時々作ってくれるようになった、葉月とおそろいのお弁当がよいのである。毎日は大変だろうということで、時々作る、という約束にしている。お弁当のない日は一緒に会社の社員食堂で食べたり、近くのお弁当屋さんで買ってきたりする。そういう時間も楽しいのに、それも出来ない。

「……そ、それじゃ、朝は?朝飯は……」

「ホテルに付いているのでしょう?朝早く起きなかったら、山下クンに怪しまれますよ?」

「寝起きが悪いといっておけばいいじゃないか」

「……折角付いているのだから、楽しんで来たらいいのに」

「葉月と一緒に食べるほうが楽しい……」

しゅーんと萎れた。

なんといっても新婚なのだ。……城に居れば、こんな風に理不尽に離れることはなくどこにでも葉月を連れて行く事ができるのに、人間というのはかくも不便なものなのか。初めて人間の新婚夫婦であることに対して、不満が募った。

しょんぼりとしていると八尾の頭をふわりと柔らかい手が触れた。葉月が優しく頭を撫でている。

「高司さん。帰ってきたら、好きなもの何でも作りますから」

「唐揚げも」

「はい」

「……野菜はほうれん草がいい」

「了解です」

人間界に来てこれは美味しいと感じるものはたくさんあった。総じて葉月が作る物は美味しいのだが、その中でもひときわ揚げたてのから揚げが美味しい。そして、ほうれん草のおひたしが美味しい。揚げたてだったらなんでも美味しいですよとか、手の込んだものじゃないのに……と葉月は言うのだが、美味しいのだから仕方が無い。葉月が作れば煮物系もシチュー系も美味しいのだが、あまり贅沢は言ってられない。

しかし、何より1番美味しいものが食べられないだなんて。

八尾が葉月の背中に手を回して、ぎゅー……と抱き締めた。
柔らかい身体。甘い香り。滑らかな髪。温かい吐息。優しい声。

「あー無理。無理だ無理。絶対無理」

「何がですか」

「やっぱり夜だけ帰る。寝るときだけでいいから帰る」

「高司さん!」

「枕が変わると眠れないんだ!葉月、葉月は俺が出張中に寝不足で体調を崩してもいいのか!?」

急に強く出られて、葉月が押し黙った。身体を起こした八尾がいたって真面目な顔で葉月を覗き込む。

「城の寝台か、この家の寝台でなければ眠れない。だから、夜だけこちらに戻ってくる」

「高司さん」

「……ホテルの部屋はどうせ1人なんだからいいだろう。もう無理だ。これ以上は譲れない」

そういってもう一度、今度は優しく葉月のことを抱き寄せた。八尾がぺろ……と葉月の耳を味見して、頬を擦り寄せた。葉月は八尾にこうされると弱いのだ。……そもそも、城かこの家の寝台でなければ……というが、新婚旅行のときも温泉旅行に行ったときもぐっすり眠っていたではないか。そう思ったが、魔王はこういう時は絶対に譲らないのを葉月は知っている。どのみち葉月がダメだといっても、夜にこちらに戻ってくるのは葉月の力ではどうしようもない。

「高司さん」

「……なんだ、もうこれ以上は……」

「夜だけです。ちゃんと朝と晩は山下クンに怪しまれないようにしてくださいね?」

葉月がそう念を押して、夫の真似をして、ちゅ……と八尾の耳元に口付けた。頬を染めた八尾が「葉月!」と言いながら、覆いかぶさる。葉月はそれを向こうに押しやりながら、……それならば着替えはそれほど持って行かなくてもいいか……などと頭の中で計算した。


【後書き】

何ですかこの犬属性。

耳とか誘惑とかあんまり関係ない犬話になっちゃいました。

本編では新婚の八尾がやっと出張から帰って来る……という最終話でしたが、そのエピソードです。ちなみに八尾は葉月を抱っこしていればどこででも眠れます(いろんな意味でむしろ眠れない……という話は置いておいて)。
八尾って、人間界の食べ物では子供っぽい食べ物が好きそうなイメージ。ちなみに葉月は別段料理が得意というわけではなく、あくまでも人並み。シチューもカレーも、市販のルーで作る派です。お弁当には冷凍食品だって使います。