頬:親愛、厚意、満足感(『獅子は宵闇の月にその鬣を休める』)

『獅子は~』より、シドとフィルメール、……と、おまけ。


「フィルメール。こちらに掴まって」

小さなせせらぎを飛び越えようとしたフィルメールに、凛々しい声が掛けられる。

「ほら、危ない。こうした道は歩きにくいだろう、手を貸して」

フィルメールが少し歩くたびに、そんな風な声が掛けられる。こんな道、フィルメールには造作もないのに。

「フィルメール」

楽しげに掛けられる声は、帝国騎士のシドのものだ。でもフィルメールは素直に楽しめていなかった。

現在の帝国は、皇帝が即位した後、身内の反乱を治めたばかりだ。大規模な人員の入れ替わりが行われ、傍目には国内は安定しているとは言い難い。さらにその隙をついて小競り合いを仕掛けてくる国は多く、それらの鎮圧に帝国の有望な騎士達は手柄を上げ、皇帝自身もまた前線に立ち、帝国の強さを諸国にしらしめていた。

そうした動きの中、シドも若い皇帝に最も近しい騎士として戦いに赴いている。今日は帰還したばかりなのにフィルメールを誘い出し、帝都郊外の丘陵地区に連れ出してくれたのだ。

それだけならば嬉しいはずだった。だがフィルメールの気分は何となく晴れない。

シドはいつも小さなフィルメールを子供扱いする。

今日だって折角、ずっと会えなくて寂しいって思っていてくださるかなと少し期待していたのに、いつもと同じ態度で大人びた扱いはしてくれない。ちょっと歩くと「危ない」とか「転んでしまう」とか、そんなことばかり言うのだ。

ドレスが色気のないものだからだろうか。だが、丘陵地区に出かけるのにひらひらしたものは着られないし、靴だっていつもの小さな可愛らしいものではなくて、編み上げのしっかりした長靴ブーツだ。夜会のように綺麗な格好は出来ていないけれど……。

フィルメールはため息を吐いた。

どうしてこの人はいつもいつも、こうして自分の元に訪ねてきてくれるのだろう。訪ねてきては、手をつないで散歩をしたり、踊りの練習に付き合ってくれたりする。折角踊りの練習をしたから……などという子供っぽい理由で夜会に連れて行ってくれたりもするが、そのくせ他の人とは踊らせてくれない。ドレスを作る相談をしてみると、最近流行っている肩紐の細い形だとか、首にリボンを掛けるタイプだとかはあまりいい顔をしない。折角誘ってくださったのですから、綺麗な格好をしたいのです……と言うと、困った顔をされてしまう。

こうして歩くときもそう。

「フィルメール」

ふわりとフィルメールの身体が横抱きにされる。

「シド様!私、歩けます。これくらいの川、なんともないんだから」

「重くはないから大丈夫だ」

「歩きたいの!」

「ダメ、歩かせない」

川の流れ、大きな段差、歩きにくい道。そうした障害物があれば、必ずシドはこうする。フィルメールだってもう18歳で結婚できる年齢だ。それなのにシドからすれば、道も満足に歩けない小さな子供なのだろうか。

……それも無理はないのかもしれない。シドは今、一番有望な騎士だ。遊び慣れた貴婦人方にはお固い方と称されているらしいが、結婚相手としては引く手数多。真面目で浮いた話がないのもあって、夜会に出れば年頃の令嬢ばかりではなく、そうした令嬢の父親や母親からも声を掛けられる。自分のようなさほど身分の高くない、それも子供っぽく見られる女など、シドの隣に立つのにふさわしいとは思えない。

「子供あつかいしないで!」

ついつい声を荒げてしまうがシドは決して動じず、穏やかに、だけど意地悪に笑うだけだ。

「私がいつ貴女を子供扱いしたのだ」

「今、こうやって抱き上げて、私はちゃんと歩けますのに」

「女性は男性にこうして抱き上げられるものだ」

「それは、こういう時ではないでしょう?」

「うん?では、どういう時ならばよいのだ」

どういう時……なんて問われて、フィルメールは不意に恥ずかしくなった。例えば……例えば?

ごまかすように、身体を動かす。

「もう、からかわないで下さいませ!」

「からかってなど」

シドはいつもの困ったような笑顔で、川を渡るとフィルメールを下ろしてくれた。そうして子供のように手をつないで、歩き始める。

フィルメールは何度目かのため息を吐いた。折角シドが帰還して早々に自分のところに来てくれたのに、またこんな風に機嫌を悪くしてしまった。シドは、怒っていないだろうか。

「あの、シド様」

静かになったシドに急に不安になって、フィルメールがきゅ……とつながれた手を強く握った。途端に、シドの握られた指がフィルメールの手の甲をさする。さわさわと心地よいその感触に顔をあげると、いつもより真剣でどこか焦ったようなシドの表情が、フィルメールを見下ろしていた。

「シド様?」

「あ、いや。……どうした、フィルメール」

いつもと違う表情は、怒ったのだろうか、それとも呆れたのだろうか。本当は、こんな事を言いたかったわけではないのだ。もっとちゃんと、戦いから帰ってきた騎士を労いたかったのに。

戻ってきたらすぐに訪ねると言った言葉をきちんと守って、疲れているだろうにこうして自分の元に来てくれたシド。妹みたいな存在を心配させないように……という配慮なのかもしれないけれど、折角の心遣いに不機嫌な顔をしていてはダメだ。

「シド様」

フィルメールが意を決したように、シドを強い眼差しで見上げる。それを受けて、シドが僅かに目を見張る。

「背が高いですわ、シド様」

「え?」

「シド様、少し身体を低くしてくださいますか?」

「こうかな?」

シドがフィルメールのそばにしゃがんだ。

たくましい肩に手を掛けて、フィルメールは身を乗り出す。

シドの頬に、ちゅ……と唇を付けて、真っ赤になりながらこう言った。

「おかえりなさいませ、シド様」

****

「破壊力高っ!!!」

陽王宮でフィルメールとシドの馴れ初め話を聞いていたリューンは激しく仰け反った。

この後、フィルメールは無事に帰ることが出来たのだろうか、ものすごく、ものすごく気になるが、むしろシドにそれを聞いてみたい。ニヤニヤ笑いながら聞いてみたい。

「あー、もう、シド将軍だってそんなことされたら、もうあとは口説くしかないですよね、ほんと」

「私、そんなつもりではなかったのですけど……」

そう言って、フィルメールの顔が真っ赤になる。おお、この反応は、この反応は!?ひとりリューンが興奮していると、その様子にコーデリアがくすくすと笑った。

「リューンもしてみればよいではないか。いい実験台が近くにいるだろう」

「え、ええええ!?なんの実験ですか」

「頬に口づけされたら子供扱いは止めて、もう後は口説くしかなくなるかどうか……という実験だな」

「まあ、コーデリア様ったら」

なぜかオリヴィアが少し頬を赤らめた。リューンとその実験台がいかに仲睦まじいかは、帝国の要人ならば誰もが知っている。子供扱いなどとんでもなく、人目を憚らずに抱き寄せるなど日常茶飯事だ。こんな実験などしてみなくても、結果は目に見えているではないか。

「ん?オリヴィアもそう思うだろう」

「……ふふ。リューンと陛下ならば、もうすでにそんなこと要らないっていうくらい仲睦まじく見えますけど」

「だからこそ、それがどうなるか見てみたいと思わんか?」

あらあら……と、オリヴィアが肩を揺らして笑い、ネタにされたリューンは顔を真っ赤にして首を振った。

「いやいやいや。無理無理。私そういうのしたことないし」

「え?」

フィルメールが、意外……と言った風に首をかしげた。

「リューン様は、そういうことをなされませんの?」

「え、何それ、だってどういうタイミングにするの!?っていうか、フィルメール様はいっつもし、してるんですか?」

「え……それは、その……。おかえりなさいませと、いってらっしゃいませの時に……」

フィルメールがそう言って、再び頬を染める。

「だってそんな……。あ!ねえ、オリヴィア。ヴィアのとこはどうなの?」

「えっ」

リューンはコーデリアと一緒に笑っていたオリヴィアを見てみる。オリヴィアは最近、あの腹黒宰相と結婚したばかりだ。いってみれば新婚夫婦。……に聞いたのが悪かったのかもしれない。オリヴィアはもじもじとしながら、頬に手をあてた。

「……私は、その、ライオエルト様がうれしそうになさるから……」

「ヴィアまでっ……」

リューンはその様子を見て愕然とした。この婦人方の反応……。オリヴィアですら、あの腹黒宰相閣下にそんなことをしているのか。あの腹黒め……自分ばっかり、毎日毎日オリヴィアのいってらっしゃいおかえりなさいのキスを受けているなんてうらやましい。……いや、そもそもフィルメールといい、オリヴィアといい帝国の貴婦人のたしなみなのか。……リューンは恐る恐るコーデリアに視線を向けた。

「こ、コーデリア様は……」

「ん?」

親しい者達しかいないからだろう。コーデリアは少々行儀悪く頬杖を付き、ニッと笑ってリューンを見やる。

「バルバロッサに練習台を頼んでやろうか?」

ぶほっ!……と、鼻から紅茶が出そうな勢いで、リューンが噴出した。顔を真っ赤にしてぶんぶんと両手と首を振る。

「や、いや、いいですいいです!!」

「おや、バルバロッサは残念がりそうだが」

「コーデリア様!」

「ずいぶん楽しそうにお話をされているが、私も混ぜてくれないかな」

茶目っ気たっぷりのコーデリアにそんなことを言われて目を白黒させているときに、丁度いいタイミングで穏やかで渋みのある声が聞こえた。現れたのはコーデリアを迎えに来た、バルバロッサその人だ。真紅の髪に濃灰ダークグレーを基調にした礼装は、公務としてではなく私的に皇帝のもとを訪ねてきた証である。フィルメールとオリヴィアが、バルバロッサの紳士ぶりについつい居住まいを正して、顔を見合わせて微笑む。リューンは1人取り残されて、顔が真っ赤なままだ。

「リューン殿、どうかしたのかな?お顔が赤いが」

「いえ、なんでも!」

「ふふ。バルバロッサ、リューンはな……」

「コーデリア様!!」

バルバロッサが穏やかな笑みをたたえたまま、ん?と不思議そうに首をかしげる。うっは、揺るぎねえ!……などと思いながらバルバロッサの笑顔を直視できないリューン。そんなリューンの可愛らしい様子に楽しげに笑う3人の貴婦人の声が、陽王宮の中庭に響いた。

****

いや、ほら、実際のところ海外とかでよくみる頬にキスっていうのは、ほっぺをすりあわせて、ちゅって口で言うエアキスだって言うじゃないか。だからそんな気合入れなくても……ていうか、やれって言われたわけじゃないし!別に夫婦仲悪いわけじゃないし!

すでに湯浴みを済ませたリューンは、落ち着き無く寝室をうろうろと歩き回っていた。その様子にアルマが首をかしげる。

「……リューン様?陛下をお待ちになるのならば、お酒でも持ってきましょうか」

「アルマ!」

「は。はい!?」

……リューンは、がっしとアルマの肩を掴んだ。アルマはどうなのだろうか。いってらっしゃいとか、おかえりなさいのちゅうをしているのだろうか。いや、でもアルマの場合はお相手が同じ職場だし、いってらっしゃいもおかえりなさいも無いのではないか。じゃあいつするのだ。何でも無い時にするのだろうか。それは……

「アルマ、ハードル高い!」

「ハードル?」

主のよく分からない反応に首をかしげながら、こういうときのリューンはそっとしておいたほうがいいのだと解釈して、アルマはアルハザードの好む酒の準備だけをして部屋を下がった。

アルマにすげなくされ、1人にされてしまったリューンが今度はソファの上で考え込んだ。フィルメールは言っていた。「おかえりなさいの時に」……だが、おかえりなさいといっても、同じ王宮内にいるし、出勤・帰宅……というのとはちょっとニュアンスが違うような気がする。妙に細かいところを気にするリューンは、いろいろ考えた末に、よし、と決断した。日本人ならばこれで、これしかない。帰ってきたところを歓迎する風に近づいて、「おつかれさま」これだ。

脳内シミュレーションを繰り広げていると、程なくアルハザードが執務を終えて寝室へとやってきた。

「リューン?起きていたのか」

テーブルの上に用意されていた酒に視線を向けながら、首をかしげる。リューンはアルハザードの執務が遅くなった時は、大概、先に寝台に入ってしまう。それなのに酒を用意して待っているというのは珍しいことだ。

「アルハザード!」

「リュー?」

アルハザードがソファの傍らに来たタイミングで、唐突にリューンが立ち上がった。なぜか仁王立ちになって、黒い瞳が険しい表情でアルハザードを見上げている。機嫌が悪いのだろうか。思わずリューンの頬に触れようとすると、がっしとそれを掴まれた。

「アル、ちょっと、しゃがんで」

「……しゃがむ、こうか?」

アルハザードがリューンに促されるように少し身を低くする。何の遊びだ……とアルハザードが思うまもなく、柔らかな唇が頬に押し付けられた。ちゅ……と小さな音がしてすぐに離れる。思わずアルハザードがリューンの顔を見ると、困ったようにうるうるした瞳で、「あ……」と息を吐いた。

「おやすみなさい?」

「……」

数秒の沈黙。

成功した!……と思ったリューンだが、黙ってしまったアルハザードの様子に不安になる。よくよく反芻してみると、自分は今さっき「おやすみなさい」と言わなかっただろうか。どう考えてもこれはおかしい。

「アルハザード」

「何だ」

「おかしいよね、今の」

アルハザードは、再びしばし沈黙し、怪訝そうにリューンを見下ろした。

「確かにおかしいな」

そう言った瞬間リューンの腰に腕が回り、そのまま寝台へと引きずるように連れていかれた。押し倒されるようにリューンの身体がアルハザードごと、寝台に沈められる。

「……え、ちょっと、アル?お酒、お酒は?せっかく用意したのにっ……」

「おやすみなさいと言ったのだろう」

「い、言ったけど、間違い!」

「……ほう、なんの間違いだ」

「おつかれさまって……ちょっとアル、アルハザード!」

「リュー……お前は……」

リューンを組み敷いたまま、アルハザードがやれやれ……と長いため息を吐いた。執務から疲れて帰ってきたら寝ていると思ったリューンが起きていて、しゃがんで……とリクエストされて頬に吸い付かれたら大方こうなるだろう。疲れているのだ。リューンの肌が欲しいに決まっている。そのアルハザードに対して、「おやすみなさい」は間違っている。

「……あんなことを俺がされて、おとなしく休ませると思っているのか」

そもそも、獅子相手にほっぺにちゅう……ということ自体が間違っている……とリューンは思い知った。まだまだリューンには知らねばならないことが多いようだ。


【後書き】

ほっぺにちゅう……となると、シドとフィルメール夫妻しか思い浮かばなかったわけでして、本当はリューンが仰け反るところまでで終了させる予定だったのですが、なんとなくリューンとアルハザードが出張ってきました。んで、長文になりました。なんなのこの2人……。

書いてしまってから、ほっぺに……っていうのはいろんなカップルが考えられるなーって思いました。バルバロッサに練習台になってもらってもよし。ウィルヘルミアとアルハザードでもよし。リュケイオンとアデリシアでもよし(そして、それを見てショックなライオエルトとかどうよ)

女の子が背のびして頬に……っていうの萌えます。ちなみにこの2人、第1子はフィルメール19歳の時です。ニヤニヤ。