喉:欲求(『傭兵将軍の嫁取り』)

『傭兵将軍の嫁取り』より、ジオリールとシリルエテル。


ケテン砦から半日も掛からず馬を飛ばしたところに、グレゴル領内では有名な温泉がある。ここには森林地帯を切り出したところに小さな集落と湯番所が置かれていた。宿も兼ねてある湯番所は、中年の夫婦が2人で切り盛りしており、街道から少し外れてはいるが、旅人や商隊などがわざわざ立ち寄ることも多く、それほど寂れてはいない。

ジオリールは義父の墓参りをしたいと言った妻を連れ出して、そのままこの場所まで馬を飛ばした。あらかじめ家令に言いつけて用意させてあった荷物をまとめて、夫婦みずいらずでこの地を訪れたのだ。

いつも邪魔ばかりする仔リスのような侍女も今日はいない。黙って出てきたので今頃大層ご立腹だろうが、副官のラクタムによく言い含めておいたのでまあ、大丈夫だろう。そもそも連れ出してしまえばこちらのものだ。

「これは、ジオリールのぼん!どうしたんだ久しぶりじゃねえか」

「おう。元気だったか」

「あたりめえだ。こんな宿屋やってるくらいでくたばるか」

馬をつなげ、シリルエテルを下ろしていると、宿の建物から杖をついた初老の男が出てきた。ジオリールに対して随分と気さくなこの男は宿屋の主人で、引退した古参の傭兵である。アシュラル卿が傭兵将軍だった頃の人間で、戦争で片足を潰したのをきっかけに、傭兵を辞めて宿屋の主になった。そのよしみもあってか、グレゴル伯爵が率いる傭兵隊は昔からこの宿屋によく世話になっている。義父が生きていたころも、砦に帰らなくとも、この宿の料理と湯を楽しみに訪ねたりしていた。

主人はジオリールの大きな身体の影から出てきたシリルエテルの姿を認め、ぎょっとして頭を下げた。

「ありゃあ。奥方さんも?こいつぁ、こんな田舎によくお越しで」

既に領内には、ジオリールとシリルエテルのことは広まっている。夫婦2人の顔をきょろきょろと交互に眺めている主人に、シリルエテルが優雅にお辞儀をした。

「いいえ。急に来てしまって」

「とんでもねえや!なんもないとこですのに来ていただいて、光栄なこった」

「2人で来ておりますので、そんな風に気を遣わないで」

シリルエテルの所作に若干慌てている主人の様子に、ジオリールがはっと笑った。

「なんだ、俺には気ぃも使わねぇくせに、シリルエテルにはぺこぺこしやがって」

「うるせえな。お前も偉いさんになったんなら、来るときゃ先触れくらい出しやがれ。奥方さんに、美味いもんも出せやしねえだろうが」

「ここの料理はいつ来ても美味いだろうが」

「今更褒めたって何にも出やしねえぞ、おい、おまえ!隊長のところの坊が来たぞ!」

主人が照れたようにそっぽを向いて、宿のほうに声を荒げる。足を引きずって杖を振りながら怒鳴ると、主人の妻らしいふっくらとした女性が出てきた。宿屋の主人を嗜めるような表情になっていたが、ジオリールとシリルエテルの姿を見つけると「あらあら」と暖かな笑顔を向けた。

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こうした田舎にしては大きくて立派なこの宿屋は、個室や大部屋のほかに、主人いわく「偉いさん」が泊まる少し広い部屋が用意されている。少し広いといっても、本当に少しだ。寝台も設えの家具も他の部屋とほとんど変わらない。ただ他の部屋と異なるのは、この部屋専用に湯を引いていることで、他の客と鉢合わせずにゆっくりと温泉を楽しむ事が出来る。

もちろん、ジオリールとシリルエテルはこの部屋に入った。

折角ジオリールが来るのなら、鹿を仕留めるか、川でいい魚を取るかしたのにとぶつぶつ言う主人は、そうは言ったってどうせ料理するのはあたしだろうがと女将に怒られていた。そうした仲のよい主人夫婦とおしゃべりを楽しみながら味わう料理は、山菜が中心の素朴なもので美味しく、シリルエテルとジオリールを大層喜ばせた。何日か滞在すると伝えたら、宿の主人が、それなら集落の奴らにも言って聞かせようと随分と張り切っていたようだ。

主人がジオリールを引っ張って集落の者らに話を付けにいっている間に、女将とシリルエテルはお手製の焼菓子スイートケーキをいただきながら、女同士仲良く話が弾んだ。

足を傷めた傭兵が湯治に来た折、世話してくれた女将に惚れこんで居座った……という昔話をすっかり聞いた頃に、ジオリールと主人が帰ってきた。明日は川魚、明後日は鹿肉だと約束したところで、やっと夫婦2人きりになる。

まったく、あの主人め……とジオリールは苦虫を噛んだような顔で、湯に浸かってシリルエテルを抱き寄せた。

「いつまでも、坊、坊と。何歳になったと思ってやがる」

今日は2人きりでもあるし、湯宿だからでもあるのだろう。いつもなら2人での湯浴みを渋るシリルエテルも大人しくジオリールの腕に抱かれ、その身体に身を預けている。少し硫黄の成分が混じった独特の湯の香りに包まれて、妻の肌に触れるのは極上の心地だ。

「アシュラル卿の縁の方なのですね」

「俺が隊長になったときには、もう引退してたがな。俺もあんまり詳しくは知らねぇ」

ジオリールも若い頃はアシュラル卿と年代を同じくする傭兵達に相当叩き上げられたのだろう。ここを訪ねて養父を知る人間に坊と呼ばれるのも、ジオリールなりにアシュラル卿を偲ぶ一環なのだ。

それを思って、ほう……とシリルエテルは幸せなため息を吐いた。

グレゴル伯爵領や傭兵達、ホーエン侯爵やアシュラル卿。こうして夫が荒々しくも大切にしているものにゆっくりと触れ、それらに混じって認められていく過程で、自分が内も外も妻になっていくような気がした。それだけではなく、夫のことをもっと知りたい……自分のことをもっと教えたいという思いも湧き上がる。

それは、なんて。

「なんて贅沢なのかしら」

「ああ?」

こんな田舎料理と湯しかないところなのに?そう言って笑うジオリールには答えずに、代わりにシリルエテルは逞しい肩に頭を乗せて夫の喉に口付けた。

「シリル?」

ジオリールもまたそれに応えて、シリルエテルの身体を抱えなおす。

幸いなことに、ここに滞在している間は領主の仕事もなければ小煩い使用人たちもいない。単なる男と女が2人きりで過ごすだけ。砦に帰ればまた忙しい日常が待っているのだろうが、それまでしばらくの間こうした時間を堪能したとて、罰は当たらないはずだ。

大きな男の身体がより一層女を抱きしめ、湯の表面が音を立てた。


【後書き】

喉、……ちょっと悩みました。いろいろシチュエーションは思い浮かぶのですが、これこそ何か情緒を絡めたく……。温泉で夫にもたれながら、妻から……みたいな図がいいなあと。

最終話でお墓参りした後、温泉に連れ去られる奥方の図。きっとこの後、夫婦2人でしっぽり温泉を堪能したに違いありません。
ちょっと素直なシリルエテルもいいなーと思います。旅先で開放的になったらなおよし。

湯治に来た傭兵が女将に惚れて居ついた、みたいな地方エピソードも傭兵将軍のお話では思い付きやすいです。