『魔女と盗賊』より、盗賊と魔女。
※流血描写があります。
ずっと1人で生きてきた。
砂漠では誰も助けてくれやしない。皆、1人で生きて、1人で死んでいく。
砂漠に吹く風は誰の上にも平等で、誰も彼も乾かして、砂漠の夜は誰も彼も凍えさせる。そこに動く生き物は、他の動く生き物の狩られる対象だ。
そうやって、砂漠の誰もが生きていた。
だから、商隊を見つけて少々食べ物を拝借したからって、とがめられなければ罪ではないのだ。自分が商隊にもぐりこんで食べ物とお金を盗んで、その商隊が他の盗賊から狙われて、商人達は散り散りに逃げるか死ぬかして、……そうして今、その盗賊達に見つかって、犯されるかもしれず殺されるかもしれない状況に陥ったって。
それはこの砂漠ではよくあること。
****
殺される。
盗賊のはしくれとさえ呼べない盗賊の少女は、頭上で高らかに響く別の盗賊の笑い声に、ぎゅ……と目をつぶった。ヒュ……と鳴ったのは、自分の頭を切り落とそうとする刃の風切音だろう。
だが、振り下ろされると思った刃は自分には届かなかった。代わりに聞こえたのは「ギャ」という耳障りな悲鳴と、どさりと砂の上に何かが倒れる音だ。
恐る恐る瞳を開けると、禍々しいほど大きな月を背に男が1人、立っていた。
少女を見下ろす瞳は隻眼で、片方の眼には刀傷が重なり閉ざされている。だらりと下ろした両手には反りの浅い刃が握られていて、片方からは水が……いや、恐らく血が、滴り落ちていた。その血の持ち主は男の足元に倒れている。さっきまで少女を追い掛けまわしていた盗賊だ。少女は言葉を発する事も出来ず、隻眼の男を見上げた。隻眼の男も何も言わず少女を見下ろしている。少女が乾いた喉をごくりと鳴らし、何か言おうとしたその時。
オアシスの大きな岩の上から、隻眼の男に向けて黒い影が伸びるように跳躍した。
「……あぶな……っ」
隻眼の男の背後を狙ってその影が落ちてくる。少女の目にははっきりと、刃を上に振り上げる男の姿が見えた。「あぶない」……そう、少女は言おうとしたがそれもまた、声にならなかった。いや、正確には声になる前に勝負が着いた。隻眼の男が振り向きざまに刃を避け、そのまま影の腹に蹴りをいれたのだ。影が地面に倒れた。ぐ……と唸り声を上げて地面に転がるそれに、隻眼の男は片方の刃を突き立てる。まるで家畜を絞めるような、無造作な作業だった。
静寂。
気が付けば血の匂いが充満している。盗賊は数人いたはずだ。だが、今息をしているのは隻眼の男と少女だけで、全てこの隻眼の男が倒したのは明らかだった。
隻眼の男が振り向いた。
片方の瞳と眼があって、少女はこくりと息を飲む。砂漠では誰が味方で誰が敵か分からない。いや……むしろ全て敵だ。そう思わなければ、明日喉笛を噛み切られるのは自分。隻眼の男はこの場の人間を皆殺しにした。自分も……殺される。
しかし、あっけないほど隻眼の視線は少女から外れ、男は死体から己の剣を抜いてその死体が着ていた服で血を拭き取り、鞘に納めてその場を立ち去ろうとした。少女には何の言葉も掛けられず、そもそも興味すらも向けられていないようだ。置いていかれる。そう感じて、少女は何を思ったのか、隻眼の男の足にすがりついた。
「あ。ま、待って。まってよう!」
男の足が止まり、少女を見下ろす。その隻眼は鋼の色で、何の感情も読み取れない。
「お、おいてかないでよ。こんな砂漠でおいてかれたら死んじゃう!」
「……」
隻眼の男は何も言わない。ただ、少女の首根っこを掴んで引き剥がすと、ぽい……と砂の上に投げ出した。砂の上だからそれほど痛くはないが、荷物か何かのように扱われて腹が立つ。少女は意地になって、ふたたび男の足にかじりついた。
「お願い。一緒につれていって。ねえ、あんたのためならなんでもするから!」
「……」
なんでもする。その言葉には色を含ませて、少女はじっと男を見上げた。生き延びるためには女にだってなるという打算、それに……この、隻眼の男だったら自分を守ってくれるかもしれないという、女の勘。少女でありながら既に身に付けている、男に対する女の色が、たった今、この男にすがりつく……という行動を取らせた。情欲に飢えている男なら、大概がここで脱落するはずだ。命の危険を救ってもらったという刷り込みに近い行動だったが、少女とて必死だった。これを逃すと隻眼の男にはもう2度と会えないし、次同じ目にあったとて、助けてもらえるとは限らない。
しかし隻眼の男は少女を再び掴むと、自分から引き剥がして砂の上に放り出した。
とりつくしまもないその行動に、少女は瞳を潤ませる。
「うっ……ううっ……ねえ、お願いよう。死んじゃう。死んじゃうよう……」
今度はしくしくと泣き始めた。だが隻眼の男は少女を無視してさっさと歩いていってしまった。嘘泣きをやめて顔を上げると、男の向かう先には黒い砂馬がひづめで砂を蹴っている。横面を男が軽く叩くと、馬はゆっくりとその場に座った。隻眼の男は完全にこちらを見ていない。泣いてもダメ。すがってもダメ。呆然としていると男が振り向いて、着ているマントを脱いで少女に向かって放り投げた。
「3刻眠ったら出る」
初めて聞いた隻眼の男の声は低く、少女の腹にぞくぞくと響いた。少女は嬉々としてマントに包まって男のそばに駆け寄ると、岩を背に座った男の腹に抱きつこうとした。しかしそれも拒絶された。軽く足を掛けられその場に倒される。男が立ち上がったから助けてくれるかと少女は期待して顔を上げたが、再び服を掴まれて馬の近くに放り出された。近寄るな……といわんばかりだ。
「あっためてやろうと思ったのに……なんて冷たい男」
思わずぽつりと口から出た言葉に、隻眼の男が、ふ……とため息を吐いた。
「……生きていけぬなら、このような場所をうろちょろしないことだ」
「……」
その言葉は、暗に、「生きていけるからこのような場所にいるのだろう。俺の手は不要だ」そう言っていた。何もかもを見透かされていたようで、少女は恥ずかしくなった。だが、打算を利かせて何が悪い。……そうすごんでみせれば、隻眼の男が僅かに笑みを含ませる。
「男がみな女の打算に付き合うと思うな」
あんたなんか悪い女にだまされて死んじゃえばいいんだ。……そう言って、少女は男のマントに包まって地べたに転がった。男が寄ってくるかと思ったが、誰のぬくもりも側にはやってこない。砂漠の夜は冷える。だが男のマントはどういうわけか、外気を遮断し寒くは無かった。男はどうやって砂漠の寒さをやりすごしているのだろう。自分がマントを取ってしまったら、男は凍えて死んでしまうのではないだろうか。……そこまで考えて、ハッとする。周囲には盗賊の死体が転がっているはずなのに、血の匂いが全くしない。それどころか、何か甘い香りすらする。
包まったマントから少しだけ瞳を覗かせて、外を見てみる。男が岩を背に座っているのが見えた。ああ、同じ場所に居る。どこにもいっていない。そのことにホッとしていたら、もう1人、別の人影が見えた。
どくりと心臓が跳ね上がり、少女が目を見張る。
もう1つの人影は女のようで、美しい黒い髪が砂漠の風に揺れている。隻眼の男の傍らに膝を付き、男が女を迎えるように頬に手を伸ばしている。女が自分の頬に伸ばされた手を取ると、不意に男がそれを引いた。女の身体がバランスを崩して、どさりと男の上に倒れ込む。
男は女を自分の胸に抱いて、掴んでいた手を持ち上げた。細い女の手をうっとりと見つめ、大切なもののようにそっとその掌に口付ける。女の身体は男の腕の中で、男が自分の掌に唇で触れる様子をずっと見つめている。ひとしきり女の手にそうして触れて、男は女の身体を自分の膝の上に乗せ、しっかりと抱き寄せた。そこまで見て、少女は男のマントに再びもぐりこむ。
男は自分と違って寒くなんて無いのだ。
……男にはああして身体を温める女が居る。敵を果物みたいに軽く切って、年端のいかぬ少女であっても砂の上に放り出し、血しか映してないみたいな隻眼をしているくせに、子供みたいにすがりつく相手が。あんな手つきも出来るんだというほど、大切に触れる女が。あんな顔も出来るのかというほど愛しそうに眺める女が。
少女は事が始まるかと無粋なことを思って聞き耳を立てたが、マントの向こう側からは何の音も聞こえなかった。肌を重ねる音も、男のため息も、女の嬌声も、衣擦れの音すら。その雰囲気は静謐で、下世話に気配を窺う自分を恥じるほどだ。男が腕に抱く女と、興味ももたれぬ自分との差異が酷く惨めに感じられる。どんな女なのだろうか。あの豹のようなしなやかで孤独な男をあんな風にさせる女は。
濃密な香りが周囲を包み、死の匂いを消していく中、その重く甘い心地に安らぎを覚えて瞼が重くなっていく。
不意に思い出す。砂漠に住まうものならば、誰もが知っている。気まぐれに旅人を導き、気まぐれに旅人と取引をする、砂漠に浮かぶ黒い魔女の話。魔女は常に隻眼の男と共に在るという。
少女はふるりと震えた。あれは魔女なのだ。隻眼の男は……魔女の男なのだ。男から漂う香りは男の香りではなく、魔女の香り。それは血を纏いながら死の匂いをかき消していく。
たった3言の言葉を交わしただけの、自分を助けてくれた男。自分のことを守ってくれると思ったその腕と、一瞬で引き込まれた鋼色の隻眼。それらは全て、誰のものでもなく、魔女のものなのだ。少女は唇をかみ締める。言いようの無い焦燥感と、喪失感。これは一体何なのだろう。初めて経験するこの胸の痛みは何なのだろう。
胸の痛みとは相反して周囲に満ちるのは、優しい魔女の香。
それに誘われるように、とうとう少女は瞳を閉じた。
****
少女は寝過ごした。
気が付くと、砂馬に乗せられ隻眼の男に支えられて砂漠の上を走っていた。陽光の高い時間なのに暑さを感じないのは、男のマントに……いや、魔女のマントに包まれて、守られているからだろう。
どこに連れて行かれるのだろう。……そう思って、眠ったフリを続ける。男に運ばれている……男に運ばせている罪悪感はあったが、それ以上に、今はただこの隻眼の男の胸に身を任せていたかった。……ふと、男の胸に、男がするには可愛らしい色の石が下がっているのを認める。薄い紫と桃色が混ざったような不思議な色のその石は丸く磨かれ、鎖が網のように絡まっていた。思わず指を伸ばす。
「それに触れるな」
男の声が、した。
びくりと手を震わせて、触れようとした指が止まる。怒られた恐怖と、声を聞けた悦びが混ざって、今目の前にある石のような不思議な心地がしたと思った。すがりつくことも出来ず、かといって離れることもできず、ただ馬上の揺れに身を任せるしかない。
「……あんた、魔女の、男なの?」
隻眼の男は答えない。
「聞いた事が、あるよ。魔女」
砂漠を渡る旅人が、畏怖と憧憬を込めて「砂塵の魔女」と呼ぶ女。けれど、魔女を一目見ようと興味本位で近付いた男らは、何故か帰ってこなかった。だから、こう言われる。
「男を、だまして、食べるって」
言った瞬間、馬の足がゆるくなる。落とされる……と思って慌てて少女は顔を上げた。ごめんなさい。そう言おうと思ったが、男の隻眼が一切の言葉を許さず自分を見下ろしている。
「……あれは、ただ孤独なだけの女だ。孤独を癒す方法を知りながら、それを選ぶことのできない哀れな女」
「女じゃない、あれは魔女だよ」
「そして、俺はあの女を癒す唯一だ。自分で望んで、そこに居る」
「……」
少女が息を詰めて黙っていると、隻眼の男が服を掴んで少女を砂上に落とした。少女のものではない荷物も、いくつか側に落とされる。最初に出会ったときと変わらない扱いに悔しくて、涙が滲んだ。だが、泣いていたってどうしようもない。
隻眼の男が馬上から声を掛けた。
「行け。あそこに見える街まで行けば、お前1人暮らすことくらいできるだろう」
振り向くと街壁が見える。気が付くと街のすぐ側まで来ていた。男は少女を街まで送ってくれたのだ。
「それからこれを持っていけ」
男が何かを放り投げた。少女が慌てて受け取ると、それは小さな箱だった。そっと中身を開けてみると綺麗な小瓶が3つ、並んでいる。これはなんだと少女が男を見上げると、……男の顔は逆光になって見えなかった。
「魔女が、お前に」
「哀れみ?」
「哀れみだろうが、気まぐれだろうが、必要なときに使えば役に立ち、売れば金になるだろう」
ただ一言そう言って、男は馬の顔を翻した。もうここで行ってしまう。そう思うと、少女は思わず声を掛ける。
「待って!」
男が立ち止まった。
「……ねえ、名前。あんたの名前は?あたし、あたし、ユイリン。砂漠に雨が降りますようにって……」
少女を見下ろす隻眼は鋼の色。頭に巻いた布から零れ落ちる髪もまた、鋼色だ。男は隻眼を鋭く細めた。
「俺の名前は魔女だけのもの」
ただ一言そういった。男が手綱を引くと馬が嘶き、そのまま身を翻して砂の上を駆けていく。あっという間に姿は見えなくなって、後に残るのは……。
「魔女の香……」
男は最後まで、少女のことは見なかった。
*
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砂塵の魔女が住んでいる、と言われている滅びた王国跡に黒い砂馬の嘶きが響く。駆けるひづめの音は大人しくなり、とっとっと……と優しい響きになって、砂に埋もれた王国の寂れた街路を抜けていく。
ふわりと一陣の風が吹く。
その風に混じるのは魔女の香。香りの先には、黒いローブに身を包んだ女の影が、ひとつあった。馬上の男の視界にその姿が入り、女が馬の気配を感じて出てきたのだということを知る。
男は馬から飛び降りた。馬に乗せた荷を下ろす時間すら惜しく、早足で女に近づく。
男が何か言いかけた女を喰らうように抱き締めた。そのまま壁に女の身体を押し付けて、言葉も無く強引に唇を重ねる。もどかしげにローブを引き剥がし、黒い髪を露にする。男が女の黒い髪に顔を埋め、ざらついた唇で耳元と首筋に噛みつく。足りないものを埋めるように男の手が女に触れた。
女の手が伸びて、優しく男の鋼の髪を撫でる。
早急な男の手が止まって、深くため息を吐きながら隻眼が女を見下ろした。
男が何かをささやく。
女が銀色の瞳を少し大きくして、普通の女のように頬を染めて……男の髪を愛しげに掻き上げた。
再び男が女に喰らい付き、……もどかしげに家の中に引っ張っていく。絡まりあう2人の身体は、縫い付けられたようにそう簡単には離れなかった。
【後書き】
ちょっと文字数多かったですね。
「魔女と盗賊」の話は自分ではかなり好きな話で、もうちょっと深く掘り下げて書いてみたいなあと思うこともしばしば。この話は、もともと「魔女と盗賊」を書いた時に、入れようかなと思っていたエピソードです。出てくるのは盗賊の少女っていうだけで、内容は全然違いますが。
こういう誇り高そうな男が女を請うて見上げる……みたいなシチュエーションは大好きです。