腹:回帰(『鷹と楽師』)

『鷹と楽師』より、鷹と楽師。


男が獅子に最初にまみえたのは、獅子を生んだ女が死んだ時だった。男はまだ若く、組織の長ではなかった。

権力などとは無縁の、静かな女だった。伏目がちで朝靄のような肌と、澄んだ美しい声。傅かれることにいつまでも慣れず、どのような者であれ敬意を表わし、その慎ましさが常に夫を癒していた。時折、彼女が夫の許しを得て共に陽王宮の中庭を歩く時にだけ、その姿を見ることが出来る。静かに寄り添い、瞳を上げるとその眼差しの奥に愛情という強さを持つ、そんな女だった。

後宮で静かに暮らしていた彼女は、やがて夫の子を身ごもり、産み、そして亡くなった。

死んだ女の夫……獅子の父親の苦しげな声が、男のまことの名を呼んだ。

長以外の人間に男の名を許すのはこれが初めてだ。膝を付いている男を前に、弱々しく息を吐いている。額を押さえて苦しさを滲ませ、搾り出すようにその名を呼んだのは、皇帝と称される男。だが今は愛する女を失い、その女の忘れ形見を胸に抱くただの寡夫だ。皇帝が一瞬でもそのような姿を晒すのは、男が皇帝の影であるからだろう。

「……この子を」

「……」

皇帝はぎり……と歯を食いしばる。愛する女を失った悲しみはまだ癒えぬ。だがいつまでもその悲しみに浸っているわけにもいかない。皇帝はひとつ息を吐くと、いまだ首も座らぬ幼子を片手に抱えて背を伸ばし、厳しい眼差しで男を見た。

皇帝の纏う雰囲気が変わる。

次に皇帝が男の名を呼んだ時は、すでに声に乱れも揺るぎも無く、容赦のない王者の威厳を纏わせていた。

男が深く頭を下げる。

「余が皇帝の間これを守り、これが皇帝となった暁に……お前の眼に叶うならば」

皇帝が男を見下ろし、男もまた皇帝の群青色を見返した。

「……その時は、これの影となり仕えよ」

「御意に」

一切の躊躇い無く男が答えた。

****

とある高級娼館から、リュートを爪弾く音が響く。楽師の奏でる細かな音と澄んだ声が娼館の一部屋を彩っていた。楽師がその爪弾く手と声を止めると、今度は華やかな声を上げる娼婦達が楽師の真似をする。あでやかな恋歌は楽師の好む歌ではなかったが娼婦達には人気の演目で、彼女らが歌うと楽師が歌うよりも艶めいていた。

楽師は娼婦達の歌を聞きながら、見えぬ瞳を移ろわせた。

娼館の外では、この国の皇帝が寵愛する妃の話で持ちきりだった。皇帝がよく使うということで有名だった娼館はお呼びが掛からなくなったらしいと、女将が笑っていた。滅びた小さな国からやってきた女王は月になぞらえる姫君で、皇帝は大層愛でている、だから娼婦など要らないのだという。

そうした皇帝の動きは、僅かに貴族達の均衡を動かす。貴族達は娼婦遊びを止め、自分の奥方や意中の人へと眼を向け、……そして、一部の者達はこうした人間を使って暗躍する。

楽師が身を置く娼館もまた、そうした動きに飲まれていた。静かに暮らす楽師にすら、時折届く不穏な声。帰って来る者、来ない者。それでも表面上は静かに、華やかに、娼館の時間は過ぎていく。

光を失い何も映さぬ瞳を、ゆっくりと閉じた。

ここ最近、自分のところに楽を聞きに来なくなったあの人は、……あの、鷹のような男は、無事なのだろうか。

待つことしか出来ない楽師は、そうした己の身を嘆いた事は無い。
ただ、あの鷹がどうか無事に羽を休ませることが出来ますようにと祈るだけだ。

楽師はその日、竪琴ではなくリュートを奏でていた。皇帝の妃がかどわかされ、枢機卿によって救出された。そうした報が国を走り、皇帝の身辺を騒がせていた貴族達がいっせいに粛清されたのはついこの間の話。楽師の待つ男がそれに関わっているのは明白で、今しばらくは落ち着かぬだろうと、その安息を心配していたころだった。

あの男が好みそうな穏やかな曲を演奏したいところではあったが、ここ最近必要とされる曲は全く異なる。獅子のような皇帝と月のような妃の顛末は美しい恋物語となって、吟遊詩人らがどのように謳い上げるかと腕を競い合っている。娼館で娼婦が好んで奏でる曲もまた、愛らしい恋の曲が多いのだ。

そうした曲を練習がてら控えめに奏でていた時、ノックの音が聞こえた。

楽師がリュートの手を止める。いつものように返事をしてソファから立ち上がると、鍵を閉める音が聞こえた。

「そのままで」

年齢を感じさせない、抑揚の少ない静かな声だった。その声こそが、楽師が待っていた声だった。いつものように「何かお飲み物を」と言おうとしたが、歌を歌っていたわけでもないのに喉が詰まり、言葉が出ない。男もまた、いつもならば「立たなくてもよい」……というのだが、なぜかいつもと違っていた。近づく気配は鷹のように鋭く、引き寄せる腕は鋼のように硬い。覚えのある男の香りに抱き寄せられて、ただそれだけで、楽師の心は満たされる。

頭を抱えた掌の広さと、耳の少し上をくすぐる男の吐息を感じる。

「常より、遅くなった」

「こうしてお声を聞かせてくださるだけで」

「待ってはいなかったか」

ふ……と笑うような声が楽師の髪を揺らす。その空気の震えに楽師が声を詰まらせて、ためらいがちに男の腕を掴んだ。

「……いえ、いいえ……お待ちしておりました」

楽師の腕に答えるように、男の抱く腕が深くなる。その日は結局、男のために曲を奏でることはなく、何もかもを吐き出すような抱き方をする男の手を、楽師はひたすら受け止めた。

****

男は相変わらず吐息のひとつも乱れず、楽師の身体に触れる。声を掛けることもないが、声を出せとも言われない。いつも互いの服を脱がせる音と、肌が重なる音、そして寝台の上の寝具が乱れる音が聞こえるだけだ。じきに、そこに吸いつくような音や、そして楽師の奥を暴こうとする密やかな水音が聞こえはじめる。

自分だけが溺れてしまっているようで、楽師はいつも戸惑う。せめて男を楽しませたいと思ってさまよう手は、たやすく捕まえられてしまう。それでもやっと男に触れることを許されたのは、いつだっただろうか。楽師がおずおずと男の下半身に顔を下ろし、熱く主張するそれを口に含んでも止められなかった時、楽師はなぜか安堵した。

楽師がそれに吸い付くと、ずっと平静だった男の気配が僅かに揺れる。楽師の髪……白に見えると言われた銀の髪に指が通るのを感じ、少しだけ押さえ付けられる。その気配に導かれるように強めに吸い付いて舌を動かすと、髪を梳く手が止まる。気のせいだろうか、溜息が聞こえたような気がして思わず喉の奥へと進めると、顎を支えられて止められた。

は……と楽師が息を吐いて口を離す。もう少し触れていたかったのに……と、もう一度顔を下ろそうとすると身体を引っ張り上げられた。

そのまま寝台に沈められて抱き寄せられると、がくんと甘い衝撃を受ける。身体が貫かれた衝撃と悦に思わず楽師が強くすがりつくと、男もまたその身体を受け止めた。抽送が始まり寝台が揺れる。男の強さを楽師がもっとも感じる時だ。

楽師が手を差し伸べて、男の顔に触れる。

耳に触れ、額に掛かる髪に触れ、鼻筋を通って唇に触れると、男がその手を取って頬を寄せた。そのまま楽師の手を男の首に回させて、さらに結合を深くする。男が楽師の足を持ち上げて、もっと奥を突き上げた。思わず楽師が声を上げると優しく唇が重なって、吐息すらも持っていかれる。

ずっと触れていて欲しかった。

****

その日、男にしては珍しく長く楽師の身体を離さなかった。男が吐き出す熱を受け止めて、それよりも多く楽師は高みへ連れ去られた。そうしてやがて、楽師の身体の奥から、男がゆっくりと出ていく。

見えぬ楽師にはこの瞬間がもっとも怖く、もっとも心が震える。触れられている間は男が側にいることを感じるが、離れてしまうと楽師の手などすぐにすり抜けてしまう気がするからだ。離れて欲しくない……と思ったが懇願は出来ず、ただ、「あ……」という吐息になってこぼれた。それが聞こえたのか男の動きが止まり、なだめるように身体が近づく。

男の乾いた指先が、楽師の弦を弾いて硬くなってしまった指先に重なり合った。

自分の中に男は居なくなったが、体温はすぐ側にあった。それを分からせるように男が楽師を引き寄せる。鷹がまだ自分の側にいることに安堵していると、男の顔が楽師の身体を這い始めた。何をしているのだろう……と思いつつ、髪と唇がくすぐる感触に息を飲む。

やがて男の熱い吐息が楽師の柔らかな腹で止まり、軽い音を立ててそこに唇を付けられた。

え……と思った瞬間、唇を付けた場所を舌がゆっくりとなぞる。赤子がそこで眠るようにしばらくの間、男はそこに頭を乗せていた。

腹に感じる温かな心地と重み。思わず楽師が絡まっていた片方の手を外して、男の髪に指を埋める。撫でていると男の気配がふいに優しくなり、穏やかになった。この鷹のような男は今、少しでも安らかであるだろうか……。そのように願って楽師の口元が笑みを象ると、それを覆うように男の身体が楽師を包み込んだ。

しばらくして、いつものように男の規則正しい吐息が聞こえ始める。
それに誘われるように、楽師も瞳を閉じた。

時折、楽師は思う。

自分の瞳がもし男を見ることが出来たのなら、今、男はどのような顔をしているのだろう。自分は何を伝えたいと思うだろう。そのようなこと願ったとて叶えられるはずもないのに、それでも思わずにはいられない。だから懸命に気配を追う。吐息を、手を、肌を、追いかける。そしてたった今、男が安息を得られているのか……わずかでも自分のことを求めてくれているだろうか……そのように願ってしまう。

背中にまわした手を強めないように、楽師は少しだけ男の方に身を寄せた。首筋に感じる吐息は安定していて、一切の乱れは無い。男は必ず楽師の元で決まった時間眠り出て行くのだが、それが出来るだけ先であるようにと楽師は願う。

その時間が来るまで、鷹はもうあとわずか羽根を休める。
この場所だけが鷹に許された唯一の安息の場所であることを、楽師だけが知らない。


【後書き】

これもすぐに思いつきました。

『鷹と楽師』の話はリクエストが多かったのですがなかなか投稿の機会が無く、今回の企画には必ず入れようと思っていました。何気に人気ですね、鷹の人。いえ、私も好きですが。いつもの通り行間は皆様の妄想にお任せしつつ、鷹にとって楽師が、今まで「また来る」場所だったのが、「戻ってくる」場所になればいいなあ、などと思いながらの投稿です。

それにしても、お腹にキスする男の人って、なんか可愛い気がしますな。