『漆黒王と白妙姫』より、シグムントとヤトウィア。
剣国ラディスの王城、国王夫妻が居住する区画の居間に心地のよい毛足の敷物が敷かれている。背の低い背もたれの付いたクッションを置いて、そこに白い髪に銀色の瞳をしたラディスの王妃が座って、膝の上に小さな男の子を乗せてあやしていた。
「ヤト!ヤト!あしたね、りゅーしゅを、とっていいって」
「まあ、リューシュを?レシェクに取れるかしら」
レシェク……と呼ばれた子は、剣国ラディスの王子だ。国王シグムントと王妃ヤトウィアの実子だったが、諸事情あって、ずっと身分を知らないまま魔都ウラスロで過ごしていたところを引き取られた。やっと実の父と母と過ごせるようになったレシェクは、王城にも快く受け入れられ周囲の者達に大切にされていた。それもあって、レシェクが王城の暮らしに慣れるのはすぐだった。
ただ、少々過保護な気がある。国王のシグムント自身も、これまでの間父親らしきことを出来なかった分レシェクには甘い。そうした周囲の甘やかさを嗜めるのは、ウラスロから新たにやってきた侍女のヴァンダと、意外なことにヤトウィアだった。
今日の昼もシグムントとヤトウィアと共にリューシュという果実の飲み物を楽しんで、これを作る果物が中庭にあるのだとシグムントに教えられたばかりだった。レシェクははしゃいで見たいと騒いだが、中庭にそれを見に行った時に時間切れとなった。シグムントは執務に戻らなければならず、レシェクも勉強と称して本を読む時間が与えられている。それでもヤトウィアと一緒に……というと、しぶしぶレシェクは従った。その時に、シグムントがこっそりとレシェクに耳打ちしたらしい。
「あのね、とーさまが、かたぐるましてくれるって!れしぇ、とーさまのかたぐるまだいすき!」
「肩車……?」
危なくないかしら……とヤトウィアは首をかしげたが、レシェクがとても楽しみにしている様子に思わず顔をほころばせる。
「そう。じゃあ、今日はいい子で早く寝なければね?」
「えー。れしぇ、もうちょっとヤトといっしょにいたいな……」
むう……とレシェクが拗ねたような顔になって、ころんとヤトウィアの膝の片方に顔を埋めた。父であるシグムントと同じ黒い髪を優しく撫でながら、ヤトウィアは小さく微笑む。頭を撫でる一定の心地が気持ちいいのだろう、レシェクが、ふああ……と欠伸をした。
「ねえ、ヤト」
「なあに?」
「ヤトはれしぇのかーさま?」
ヤトウィアの手が止まる。シグムントのことは最初からレシェクの父親だと言い含めている。しかし、レシェクを産んでからこの城に迎え入れられるまで、ヤトウィアは自分が母である……ということを伏せていた。世話はしていたが母としてではなく「ヤトウィア」として、レシェクに接していた。だからレシェクはいつもヤトウィアのことを、「ヤト」と呼んでいたのだ。
城にやってきてからは、シグムントはもちろんのこと城の者達も、ヤトウィアがレシェクの母なのだと説明し、そのように扱っている。ただ、いまいちレシェクは理解していない様子だった。レシェクにとってヤトウィアは大好きな「ヤト」であって、それが「かーさま」という存在には結びつかないようだった。
そもそも「かーさま」という存在が自分にとって何なのか……というのが、よく分からないのだろう。しかし、年齢を経ればいずれ分かる時がくるはずだ。そう思って、レシェクがヤトウィアのことを「ヤト」と呼んでも咎めることはなかった。城の者達も最初こそいい顔をしなかったが、今では見守ってくれている。
レシェクの質問にヤトウィアは優しく笑った。親指でレシェクの頬をくすぐる。何か秘密めいたことを教えるように、そっとささやく。
「ええ、そう。ヤトはレシェクの母様よ」
「そっかぁ」
うふふ……とレシェクが頬を撫でるヤトウィアの指を握った。
「れしぇね、……れしぇ、ずうっとヤトがかーさまだったらいいなっておもってたよ」
「……レシェク」
「れしぇ、ヤトのことすきよ……」
だからヤトがかーさまだとうれしい……うとうとと言いながら、レシェクが静かに瞼を閉じた。やがて、すうすうと寝息が聞こえ始める。ヤトウィアはいつまでもレシェクをあやすようになでていた。
「ヤトウィア?」
いつの間にかすぐそばに漆黒の気配を纏わせた、シグムントがやってきていた。ヤトウィアははっと顔を上げて、シグムントを見上げる。
「ヤトウィア、どうした」
シグムントが膝を付き、声を潜めてヤトウィアの頬に手を当てた。そこには僅かに涙の跡があって、泣いていたことが知れる。心配そうなシグムントの声に、ヤトウィアが触れた手に己の手を重ねて、銀色の潤んだ瞳を震わせる。
「シグムント様。お仕事はもう終わったのですか?」
「ああ。ヤトウィア……?」
微笑んで見せても涙声は誤魔化せず、シグムントは眉根を寄せる。だが、ヤトウィアは大丈夫です……とシグムントに重ねた手を擦るばかりだった。そうした様子をシグムントはいまだ心配そうに見つめていたが、膝の上のレシェクが眠っているのを見て、それを抱き上げた。
「連れて行こう。お前はここにいろ」
シグムントはヤトウィアの額に自分の額でこつりと触れて、静かに立ち上がった。隣室に控えている乳母へとレシェクを預けて、すぐに戻ってくる。
戻ってくるとヤトウィアはいくつも置いたクッションと背もたれに身体を預け、優しい表情で月の明かりを見上げていた。シグムントもその横に座り、ヤトウィアを抱き寄せる。
「どうした。ヤトウィア」
先ほど泣いていたことを聞いているのだろう。変わらず心配そうな声をにじませている。その様子にヤトウィアは身体を預けて、シグムントを見上げた。
「レシェクが、リューシュを取るのだと喜んでおりました」
「ああ」
こっそりと約束したからだろう。決まり悪げに頷いて、すぐにふ……と笑った。
「肩車をしてやったらレシェクが喜ぶ」
「高いところが珍しいのでしょう」
「あれもすぐに背が高くなる」
「本当に」
くすくすと笑うヤトウィアの頭を愛しげに撫でていたシグムントは、急に体勢を変えた。ヤトウィアが身体を起こすと、ごろりとその膝に頭を乗せる。子供のようなシグムントに、ヤトウィアが首をかしげた。その表情を追いかけながら、シグムントはヤトウィアの膝の上から白い髪に指を絡める。シグムントは何も言わなかったが、何か問いたげな気配を感じ取ったのだろう。ヤトウィアが子供にするように、そっとシグムントの額を撫でて、笑んだ。
「レシェクが」
「うん?」
「ヤトがかーさまだったら、うれしい、って」
それだけ言って、ヤトウィアは黙った。シグムントも「そうか」とだけ言って黙る。しばらくの間、シグムントはヤトウィアの撫でる手を楽しんでいたが、不意にその手を掴んだ。
「ヤトウィア」
「はい、シグムント様」
「お前は俺の妻だヤトウィア」
「シグ様?」
「……レシェクも、お前と俺の子で、ラディスの王の子だ」
「ええ」
「お前は……もう俺から離れなくてもよいのだ」
それでも、ウラスロという故郷から離れて寂しい心地をしてはいないかとシグムントはいつも気遣う。ほんの僅かの気持ちを見落として、再びヤトウィアを失うのがシグムントには何よりも恐ろしいのだ。しかし、ヤトウィアにとって自分の居場所はとうに決まっている。
「……ウラスロにいて幸せだと思った時もありました」
「ヤトウィア」
「……シグムント様がいらしたあの時と、レシェクを腕に抱いている時だけ……」
細々と孤児院の世話をして、常は忘れられていて……ただ「王女」という宮廷の札として生きていくだけだと思っていた。だがそんな日々に一時だけ、胸が痛いほど幸福だった時があった。傷ついた旅の戦士を助けて共に過ごした時間、愛する男の子を腕に抱いて鼓動を感じる瞬間。
「シグ様。……ヤトウィアは……ウラスロから離れて、やっと生きた心地がしているのです」
「……」
「ですから、私は……私とレシェクの居場所はここなのです、シグムント様」
そう言って微笑むヤトウィアにシグムントは大きく頷き、まぶしげに瞳を細めた。急にごろりと寝返りを打ち、ヤトウィアの柔らかな腿に布越しに顔を埋める。
「シ、シグムント様?」
急に太腿に熱い吐息を感じて、ヤトウィアが羞恥に頬を染めた。傅くようにそこを抱え、大きく吸うように口付ける。口付けた箇所を、ついと指で触れて、ふん……と笑った。
「……レシェクにばかりここを取られるのは気に食わんな」
「まあ、シグ様」
「ヤトのここは俺のものだと言っておかねば」
「シグ様、あ、」
シグムントはヤトウィアの夜着を開いて腿の白肌を露にすると、今度は直接唇を付けた。シグムントの頭を振り落とすことなど出来ないのをいいことに、這い登るように小さな音を立てていく。
「ヤトウィア」
シグムントがヤトウィアの腰を抱え、漆黒の眼差しで見上げる。
「お前の居場所はこのシグムントの腕の中にある。他の者にも明け渡さぬ。忘れるな」
「はい、シグムント様」
シグムントの身体がヤトウィアに重なり、2人の影は絡まりあうように敷布の上に倒れこんだ。何度確かめたかしれない。不安で不安で、これからも何度も確かめてしまうかもしれない。だが、それでもいいではないかと2人は思う。離れていた間は、確かめることすら出来なかったのだから。
2人だけの夜はこれからも続くだろう。ずっと交わされなかった言葉を今、埋め合わせるように2人は交わす。
【後書き】
リューシュは柑橘系の果物です。柑橘系ですが、樹は野生的で背が高いイメージ。
これも地味にリクエストが多かった作品です。
物語的にすとんと完結してしまったので、なかなか小話的なものを投稿する事が出来ずにいました。「お前の膝枕は俺のもの」がやりたかった、とも言います。あと、膝枕してもらいながら寝返り打って太腿にちゅー……っていうのをやりたかった、とも言います。
ラディス風の夜着は上下分かれた着物みたいな形なので、袷に手をやるとぱかっと開くんですよね。だから実に太腿を愛でやすい。いい作りです。