脛:服従(『魔王様は案外近くに』)

『魔王様は案外近くに』より……?


人間界における魔王の居住。とあるマンションの一部屋で、魔界の姫君サーナリオンの「きゃー!」という声が聞こえた。

「沙奈!?」

その声に驚いて飛んできたのは、皮膚の全てが美しく細かな青い鱗に覆われていて、巻き気味の髪はそれよりさらに深い青の、人間ではない姿の男。今は仮初の姿を解き放ち、本性をあらわにしている魔王の侍従……大海蛇レヴィアタンだ。レヴィアタンは、たった今、魔王夫妻の子供……サーナリオンの子守をしているのだった。

ここまでこぎつけるのに大変な苦労を要した。子守などしなくてもいい連れて行く……という魔王ルチーフェロをしつこく、それでいながら怪しまれないように説得し、置いていかないといけないのならば私だけでも残りましょうかという葉月を魔王に押し付けて、何とか子守の座を獲得したのはつい1時間前。2人は夫婦水入らずで出かけている。

こうして、やっと沙奈と2人きりになれた。寝顔も笑顔も僕のもの。……そう思ってうきうきしていたら、思いがけない珍客がやってきたのである。

ワフンっ!!

魔王の番犬ケルベルスである。

宰相シャイターンの差し金だ。あの老人、何を勘付いたのか、あるいは単に沙奈のためか。沙奈様お1人ではつまらぬでしょうと、時折こうしてケルベルスを送り込んでくるのだ。ケルベルスの大きさは狼よりもさらに大きい。沙奈など一口で食べられてしまいそうだ。それなのに沙奈は全く怖がりもせず、それよりもむしろ、ふかふかの毛皮が大のお気に入りで、ケルベルスがいるといつもくっついて離れようとしない。

ケルベルスもまた沙奈の前では忠犬で、魔王の居城よりも遥かに狭いマンションの一室にぎゅうぎゅうと押し込まれているにも関わらず、ちょこんと大人しい。3つの鼻先で沙奈を転がしながら寝かしつける様子は、まだ慣れないレヴィアタンよりも優秀な子守だ。それがまた、なんとも腹立たしかった。

そのケルベルスが大きく尻尾をふりふり、沙奈とじゃれて遊んでいる。

どうやらケルベルスがじゃれて、沙奈がこてんと転んでしまったようだ。だが、それが楽しかったのだろう。沙奈は「キャッキャ」と大きな声を上げて笑っている。

「ちょっとケルベルス!沙奈に何してるのさ!」

「けるー。なーにー?」

ワフンワフン!

魔界の類稀なる姫君サーナリオンから「ける」という呼び名を戴いているケルベルスは、さらに喜んで沙奈を鼻先で転がした。ころんころんと転がりながら、沙奈はかなりご機嫌だ。だが、レヴィアタンはハラハラだ。沙奈がいつ頭をどこかにごっつんするか知れない。

「ちょっと、ケルベルス!」

レヴィアタンが沙奈を抱き上げたそのときだ。クワ!……とケルベルスの真ん中の頭が大きく口を開けて、沙奈の左足を。

ペロン。

……と舐めた。ちょうど脛のあたりだ。「くちゅぐったー!」と笑いながらレヴィアタンの腕の中に収まった沙奈を見上げて、ケルベルスがお座りの格好をした。

「ケルベルス!お前ねえ、今、沙奈を、沙奈を味見したでしょう、僕もしたことないのに!!」

「あじみー」

わふー。

さて、何のことだか……というような顔で、ケルベルスがそっぽを向いた。3つの首がそれぞれ別の方向に顔を背けている姿に、レヴィアタンがカチンとくる。

「なにそっぽ向いてんのさ。お前ね、分かってるの?僕の方が上位の魔族なんだよ?」

ぶしゅんっ!

……とケルベルスの左側の顔がくしゃみで答える。

「何その態度。ちょっと沙奈と仲良しだからって、あんまりちょうひひのっひぇるひょ……ちょっと、さな!」

後半、沙奈にほっぺたを引っ張られてレヴィアタンの呂律が回らなくなった。沙奈を見下ろすと、むむぅ……と唇をとんがらせた沙奈が、レヴィアタンを見つめている。

「れうぃたん。けんか、めー!」

「け、喧嘩じゃないよ、沙奈、これは……」

「め!さーな、れうぃたん、きあいって、ゆー」

沙奈はこの年齢で、既にレヴィアタンを脅迫することを覚えていた。つまり、「沙奈はレヴィアタンを嫌いって言う」……それを聞いたレヴィアタンはぶんぶんと頭を振って情けない顔をした。

「ちょ、ちょっと待ってよ、僕のこと嫌いって?やめて、そんなこと言わないで!」

「……けんか、め?」

「……喧嘩してないってば!」

「ける、けんか、め?」

沙奈がケルベルスを見下ろすと、三つ首の忠犬は、クウン……としおらしく伏せのポーズを取ってみせた。

「けるとれうぃ、なかよし?」

なかよし?……と沙奈が首を傾げると、レヴィアタンはうぐぐ……と言葉を詰まらせた。「なかよし?」……ともう一度腕の中の沙奈が問う。その愛らしい声にレヴィアタンはがっくりと膝を付き、ケルベルスの身体を撫でた。

「ほらほら、ほーら、仲良しだよ。ねー、ケルベルス?ほらね、沙奈。だから、僕のこと嫌いじゃない?」

仕方なしといった風情でケルベルスが右側の顔を上げて、レヴィアタンの頬をペロンと舐めてやった。チッ……!とレヴィアタンが舌打ちし、ふんっ……とケルベルスが鼻を鳴らす。だが、その様子に沙奈は大きく笑って頷いた。

「ける、れうぃ、なかよしー!」

言いながら沙奈が鼻を突っ込んできたケルベルスの三つの頭をそれぞれナデナデして、自分を抱っこしているレヴィアタンの青い髪をいい子いい子した。その小さな手の愛くるしさにレヴィアタンの胸がほんのりとあったかくなって、思わずほっぺたを寄せる。その仕草に、あはーと沙奈が笑った。

「れうぃー?さな、なかよし?」

「そうだよ。レヴィアタンと沙奈は仲良しだよね」

「なかよし!」

「沙奈、レヴィアタンのこと好き?」

「しゅき!」

その答えに満足げに、レヴィアタンの口元が笑みを描く。……だが、その次の瞬間「けるもしゅき!」と沙奈が言って、この勝負は引き分けた。

魔王の侍従長大海蛇レヴィアタンと魔王の番犬三つ首のケルベルスが、魔界の姫君サーナリオンの寵愛を競い合っていることは、今のところ、誰も知らない。


【後書き】

沙奈とレヴィアタン。……と見せかけて、まさかの沙奈とケルベルスでした。キスって言えるのこれ?っていう反論は受け付けません。だって、私がレヴィアタンにいい思いさせるわけないじゃないですかー。それに脛を味見したなんてパパにバレると一大事ですもの。

ちなみに、沙奈の「しゅき」は次のようなランクに分けられます。

だいしゅき!!:葉月、ルチーフェロ
しゅきー!!:じーじ、ベルゼビュート
しゅき:レヴィアタン、ケルベルス

まさかの最下位です。応援してあげてください。
じーじは言わずもがな。ベルゼビュートはすごく好かれてます。手がたくさんあるのが面白いみたい。