005.魔の都

何時に無く心地よいけだるさの中で、ヤトウィアは目が覚めた。夢の中で、ヤトウィアは愛する男に優しく抱かれていた。だが夢であることは分かっていた。昨日の夜は、その人に激しく求められて幾度も登り詰めさせられたのだから。そこに夢の中のような優しさは微塵も無かった。それでも、全てを教え込まれた自分の身体は、いくら拒んでも反応してしまう。当たり前だ。愛する男にあれほど巧みに触れられているのだから。

ヤトウィアは何も身に付けていない自分の肌を見下ろす。

生白くて嫌だと思っている肌には、赤い痣がいくつも散っていた。全てあの人が残したものだ。それすらも今となっては愛しくて、自分が狂ってしまったのではないかと思える。漆黒のあの人の愛情を受け入れたい、でも受け入れられない、その葛藤で。

ヤトウィアは枕の下に手を伸ばした。たちまちその表情が凍りつく。

「無い……?」

ああ……そうか。ヤトウィアは瞳を閉ざした。侍女は、ベスプリムはまだ来ていない。そして隣にあの人はいない。

知れてしまったのだろう。いよいよ、漆黒のあの人を怒らせてしまった……いや、傷つけてしまったに違いない。いっそ憎んでくれればよかったのだ。あの日、魔都ウラスロで再会したあの人の姿を見て、自分を憎んでくれればいいと思って選んだ言葉は漆黒の人を傷つけた。

口を閉ざしたのは自分。

思い出せばつらいから、必死で堪えていたのに。昨日の夜、夢の中で思い出した。愛したときの、あの気持ちを。

あの人の姿をもう少し側で見ていたかった。
でももう限界だ。
すべてを手放す時が来たのだ。

****

シグムントは執務室で、手の中の短剣を眺めていた。

昨晩、夢のような心地で抱き合ったあと、枕の下から見つけたのだ。急速に冷えていく心を留めたのは、腕の中で身動ぎをして縋るように自分の名を呼んだヤトウィアだ。あの時の言葉が嘘で、自分を騙すためのものだとは思いたくなかった。ヤトウィアは、あのような嘘がつけない純朴な女だ。ただ頑固で……。

「ヤトウィア。……何を考えているのだ」

自分を殺すつもりだったのか。だが、ヤトウィアのような女が、自分相手にそのようなことが出来るはず無いではないか。

「だから毒……か」

鞘を抜けば、短剣の切先にはご丁寧に毒が塗ってあった。塗り込められた様子から、昨日今日に用意した短剣だと知れる。短剣が用意できるのは誰か。あの時は、自分は先触れなく部屋に入った。ということは、毎日用意していた……ということになる。

出来る人間は限られている。ヤトウィアか……、

「侍女……」

だが、証拠が無い。昨日、避妊薬を飲ますまいとしていた様子も、主思いの侍女よと錯覚しそうなほどだった。宰相に調べさせている件が重なれば、何か分かることがあるかもしれないが、あれは元々皇后付きだった侍女だ。ウラスロとの今後を考えても、今の段階で無理矢理捕らえるのは得策では無い気がした。

そう。避妊薬。……あれが本当に子を孕まぬようにする薬ならば、何のためにそれをヤトウィアは飲んでいたのだ。いや、理由は明白だろう。シグムントの子を産みたくない……それだけだ。レシェクという名の男も気になった。プロントはいまだ戻らず、情報は手に入らない。

ヤトウィアが自分に相談してくれれば解決するが、現段階で恐らくそれは望めない。自分の予測は、自分に都合のいいものばかりだ。

「なぜ、俺に相談しない」

1人呟いたときに、ノックの音が聞こえた。入れ、と短く命じると、親衛隊隊長プロントの来訪が告げられる。シグムントは漆黒の瞳を厳しく細めた。プロントが帰国した……ということは、何かしらの情報を得ているに、違いない。

****

時は、10日ほど前に遡る。

シグムントから「レシェク」という名の人間について調査を命じられていたプロントは、ウラスロの兵に紛れ込んで魔都の都城に残っていた。だが、「レシェク」という名を持っている人間はおらず、まず調査の範囲を都城の人間から外す。シグムントの様子から、ヤトウィアに関連する名であることに違いない。そこで、プロントはヤトウィアが住まっていた離れの宮に侵入したのだ。

侵入といっても、見回りの兵士を装えば離れの宮に入ること自体はたやすい。問題は、どこから何を調べるか……だ。ヤトウィアの部屋に入ることが出来れば一番早いのかもしれないが、主がいないとはいえ、一国の王女の部屋にそう簡単に侵入できるとは思えない。一通り宮の周囲を調査していると、思いがけない人間に捕まった。

「……先ほどから、何をしているの」

女の声だ。気配を感じた……と思った瞬間、窓から滑るように出てきて細身の剣を突きつけられた。しかしプロントとて、ラディスの王の親衛隊をまとめる男だ。その程度の事で冷静さを失うほどの人間ではない。

「こちらに配属されたばかりで、道に迷いまして」

「こちらの宮に新規の配属は無かったはずよ」

当然、プロントの言葉が嘘だと分かっているのだろう。プロントも信用されるとは思っていない。緊張感を含んだ空気が落ち、女の声が命じる。

「疑われたくなければ兜を取りなさい」

プロントは溜息を付き、大人しく兜を取った。黒に近い濃い茶色の髪に、こげ茶色の瞳。端整だが抜け目の無さそうなその顔を伺って、女は首を傾げる。プロントも、自分の顔を覗き込んだ女の顔に覚えがあった。

「……貴方は、ラディスの親衛隊の……?」

「ヤトウィア様の、侍女……か」

確かヤトウィアが出発するまでの間、ずっと付き従っていた侍女だ。共にウラスロに行くのかと思っていたが、それは許されなかった。それにしても、この侍女と顔を合わせたのは、確かヤトウィアの宮を主と共に訪ねた夜に1度だけだ。内心舌打ちしそうになった。

知れてしまったからには言い逃れはできないだろう。

それならば、下手な駆け引きは無い方が分かりやすい。プロントもラディスの民だ。こうした諜報よりは、王の横で剣を振っているほうが得意な男だった。

「……何を調べているの」

「ヤトウィア様の、身辺を」

ふ……と、侍女が笑う。

「漆黒王の命令で?」

「……」

「随分、ご執心なのね」

侍女の問いかけには答えなかったが、それを答えとしたのだろう。主の執心については、プロントも否定はできなかった。実際、腹心である自分にも、ヤトウィアにあれほど執着するシグムントの理由が分からないのだ。それに侍女の口調から言って、シグムントはあまりいい印象を持たれていない様子が見て取れた。当然だろう。婚儀も挙げぬうちからウラスロの地で、ヤトウィアの身体が立てぬまでに抱いたのだから。

人の気配がした。

侍女もそれに気付いたのか、「こちらへ」……と短く言って、窓の中にプロントを招き入れる。

そこは離れの宮の侍女部屋のようだ。鋭い身のこなしで窓を閉め、カーテンを引く。この女も恐らく手練れなのだろう。姿勢も向けてくる視線も、戦い方を知る者のそれだ。プロントは僅かに感嘆を覚えながら、壁の方へ身を置く。侍女も周囲の気配を伺いながら、その隣に並んだ。

侍女の名はヴァンダと言った。色合いの薄い金色の髪と灰色の瞳、細い面は魔都の民の特徴だ。ヤトウィアと乳姉妹なのだという。己の名のみを言い合う手短な自己紹介が終わり、プロントは単刀直入に聞く。

「『レシェク』という名を知っているか」

ヴァンダが険しい瞳をプロントに向けた。線の細い流麗な顔であることも手伝ってか、刺すような視線だった。

「知らないわ。何のために、それを調べているの」

「知らないならば、教えられない」

プロントもまた、頑なな瞳をヴァンダに向ける。武勇の民らしい重く容赦の無い気配だったが、それを緩く流すようにヴァンダは溜息を吐いた。

「貴方の主は……」

「何だ」

「漆黒の王は、ヤトウィア様に関して、どれほど信頼できるの」

「どういう意味だ」

「何があっても、ヤトウィア様を守れるかしら」

「シグムント様は、ヤトウィア様の身を害するようなことはない」

ヤトウィアは、女に執着したことが無いシグムントが初めて求めた女だ。シグムントはもともと気性の激しい男だが、情を知らぬ人間ではない。無下には扱わぬだろう。

ヴァンダは葛藤しているようだった。整った顔を苦しげに潜め、息を付く。

「明朝、朝5つの刻にこちらに来られる?」

「ああ」

「その時に」

****

翌朝、2人は再び侍女部屋で落合う。プロントは離宮付きの護衛の服装に姿を変えさせられ、荷を持たされて宮を出た。それほど歩かないところに、小さな建物が見える。確か、魔都の都城は敵から真っ先に弱きものを守るように……と、修道院や孤児院が併設されているのだ。その一種なのだろう。そこには数人の子供がいるらしく、朝の早い時間だというのに元気に水を汲んだり、馬の世話をしたりしていた。

子供達の輪の中に、年嵩の夫婦が居た。ヴァンダの姿に気付くと、男の方が柔らかく頷いて声を掛ける。

「やあ、早いな」

「おはようございます、お父様。今日はお砂糖を持ってきましたわ。焼き菓子も」

「ああ、いつも助かるよ。子供達が大人しくなるから。……こちらの方は?」

「今日は荷物が重くて。手伝ってもらいましたの」

「そうかそうか。初めまして。さあ、こちらへどうぞ」

夫婦が2人に穏やかな笑みを向け、施設の中に案内する。

****

プロントのまとめた報告書を読み、途中でシグムントはぎりぎり……と痛いほどに拳を握った。喉の奥から絞るように出した声が震えてしまう。

「これは、……まことか」

「はい」

「確かめたのか」

「この目で、確認を」

「見張りは」

「気配を伺ったところ、複数があるようです。今はヴァンダ……ヤトウィア様の侍女とその両親が控えていますが、強行すれば戦闘は免れないでしょう。こちらが気付く程度の手合いのようですが、それでも早急に戻りたく。……シグムント様」

「戻りたい」……と言ったプロントの意図に、シグムントは焦ったように僅かに視線を逸らした。主君は驚くほど動揺している。その漆黒に、プロントはそっと声をかけた。

「我々に、隠していることがあるのではありませんか?」

「………………クラクスを呼べ」

プロントの問いにシグムントは答えず、ただ荒く息を吐いた。