「ヤトウィア。……お前に、縁談の話がある」
誰も来なくなって久しい離れの宮に継母が侍女を伴ってやってきたのは、ウラスロがラディスとの小競り合いに敗北した……という話を耳にして、すぐのことだった。
本来ならば断れるはずが無かった。
都城の修道院や孤児院と交流を持ち、王女らしい年月を送っていなかった……と言っても、ヤトウィアは魔都の血を引く王族だ。婚姻を命じられれば、心に誰が住まっていたとて従わない訳にはいかない。だから、その前に修道院で髪を下ろしてしまおう……そう思った。だが、ヤトウィアの相手……とされる男の名を聞いて、その心は跳ね上がる。
ヤトウィアが輿入れするのは、先日ウラスロが膝を折ったラディスの王であるという。
ラディスの王がシグムント……という名で、漆黒王と呼ばれていることはヤトウィアにも知れていた。そして、それが誰のことであるかも。
ある夜、ヤトウィアの寝室に賊が忍び込んだ。調度品の割れる音が聞こえ、侍女と護衛が寝室に入った時には遅かった。寝台は乱れ、ヤトウィアの夜着は剥がされ、窓が開いてカーテンが揺れている。寝台の様子と僅かに残った血の染みで、何が起こったのかは一瞬で分かる。ヤトウィアの身に起こったことはひたすらに隠されたが、それでも人の口を完全に塞ぐことは出来ない。卑しい賊に穢された身という噂が立ち、ヤトウィアはこれまで以上に公の場に出ることが無くなった。
もちろん、ヤトウィアには自分の身に何が起こったのかを把握していた。
シグムントという名のラディスの戦士が、その賊の正体だ。
その戦士がラディスの王だと分かったのは、その直後に漆黒王が即位した話を聞いたからだった。
3年前のあの日、1ヶ月ほどの短い間ではあったが、静かに愛し合った旅の戦士。あの人の事に間違いない。名乗った名前と出身地。「必ず迎えに来る。それだけの力をつけるまで、待っていてくれ」と交わした約束。それは国の誰も知らぬことだ。
今まで以上に、ヤトウィアは口をつぐんだ。
宮廷からは、あれは誰か知った人間かと幾度も訊ねられたが、ヤトウィアは決して口を開かなかった。何よりも、シグムントの地位と名誉を守る為に、魔都の王女の身体を奪ったのが、当時は国交の無かった小国の王だと知られる訳にはいかなかったからだ。
その王が、ヤトウィアを望んでいる……という。だが、すぐにその手に縋りつくことも出来なかった。
「……かわいいヤトウィア。あの野蛮な男は、今まで何度もお前を欲しいと言って来たのだ」
甘い継母の……皇后の声が、ヤトウィアを引き戻す。
そして、こう、言い放った。
「殺しなさい」
「なに……を……」
ヤトウィアは白い髪を上げて、驚いたように皇后の顔を見た。その表情に満足げに、ニタリと笑う。
「……お前との閨であれば、あの男も油断するであろうよ」
「何のために……そんな、恐ろしいことを」
「何のために?……国のためぞ、ヤトウィア。……誇り高き我ら魔都の王族が……我らが、あのような蛮族に負けるわけにはいかぬだろう。まして、我が都の宮廷はあの国と懇ろになろうと画策しておる。なんと恥ずべきことよ。だから、私達が殺さねば。そうして、もう一度……今度は勝つのだ。魔都は、蛮族に」
「そんな……そんなこと、私に出来るはずがございません」
「大丈夫だ、ヤトウィア。何も難しいことはせずともよい。……ベスプリム」
呼ばれて、侍女が皇后の傍らから姿を現した。ヤトウィアが銀の瞳を向けたが、その視線に合わせることなく無表情だ。
「お前は、閨でほんの少しあの男を惑わせ、油断させ、気を失わせるだけでよいのだ。朝方になれば、ベスプリムがやってきてよくしてくれる」
「そんなこと、……できません」
首を振って後ずさるヤトウィアを、皇后はゆっくりと追い掛けた。常識的に考えて、そのようなことが出来るはずが無い。
もし出来たとて、その後ウラスロとラディスの国交は最悪となるだろう。ヤトウィアもただでは済まされず……それだけならばまだしも、ウラスロとラディスの間に戦火が開かれることもあり得るのだ。
だが、それこそが、皇后の狙いだ。
魔都ウラスロは誇り高き古い血統の国。そのウラスロがラディスに負けたとき、皇后バルバラはこれではならぬと激昂した。これから愛息が王として力を持ち、誇り高きその血筋で治めるべきウラスロ。そのウラスロが、国として何代も数えていない蛮族に負けるなど……バルバラにとって、あってはならないことだった。だから、次こそは勝利を収める。しかし、それに一番邪魔なのはあの漆黒の王だ。
まずはそれを排除する。最も確実で、残酷な方法で。もちろん、やれと強行する切り札が皇后にはあった。「出来ない」と言い張るヤトウィアの声は無視して、壁際に追い詰める。その白い髪を梳き、うっとりと笑った。
「そうだな。……期限をやろう」
「期限……?」
皇后は、ヤトウィアの下腹に触れた。いかにも楽しいことを思いついた……とでもいうように、機嫌がよい。
「ここに、あの蛮族の子を孕むまで……というのはどうだ」
「な……」
「蛮族といえど王の子。……『次の』子が出来れば、汚れた『最初の』子など、要らなくなるだろう?」
汚れた「最初の子」など不要。それが、皇后の切り札だ。この脅しはヤトウィアに最も効果のある脅しだと、皇后には分かっていた。しかし、もちろん無期限……というわけにはいかない。そこで、「次の」子……だ。漆黒の王に愛されれば愛されるほど与えられる期限は短くなり、ヤトウィアは追い詰められるだろう。追い詰められれば、ヤトウィアのような弱い女でも心を決めるはずだ。
その言葉に、ヤトウィアの身が切り裂かれた心地がした。皇后から身体を離し、自分の下腹を押さえる。銀色の瞳に激しい光が宿ったが、たちまちそれが潤んだ。それでも気丈に皇后を見返し、奥歯を噛み締める。
「なぜ……それを」
「馬鹿め。知らぬとでも思ったか。ヤトウィア」
急に低く鋭くなった皇后の声に、ヤトウィアが恐怖で青ざめた。手も唇も心臓も、何もかもが冷えていく。その様子を楽しげに眺めながら、皇后は打って変わって、甘い声色で微笑んだ。
「大丈夫。子を可愛く思う気持ちは、ようく分かっているよ。わたくしにも息子がいるからね」
「お、かあさま」
「なあに、ヤトウィア」
「……手を、……あの子に手を出さないで。お願い……」
「おやおや、なんのことだろう。でも、それはお前次第であろうよ、ヤトウィア」
『最初の』子。
3年前のあの日に宿し、産んだヤトウィアの子。
その子を殺すも殺さぬもお前次第。
それが、ヤトウィアと皇后との取引だった。
成立した取引に満足げに高く笑って、皇后はヤトウィアの肩を抱き寄せた。
「ベスプリムが見ているからね。おかしな真似をしようなどと思わぬことだ。……あの蛮族を篭絡するのは閨だけにしておきなさい。もちろん、他の者にも心許してはいけないよ。……もっとも」
耳元で皇后の声が響いた。
「誰が父とも知れぬ汚れた子など、王族には不要と笑われるだろうよ。お前の味方は誰も居はしないのだ」
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「ぐっ……!」
ベスプリムが剣を振り上げた瞬間、肉がぶつかる音がして、血が吐かれて床に人が倒れる。床を這ったその人物は、苛立った声で舌打ちした。
「……な、ぜ、」
その声に追い討ちを掛けたのは、低い男の声だ。
「ヤトウィアはこのシグムントの妻だ。俺を裏切りはしない」
寝台の上掛けを素早く退けて、そこからベスプリムの腹を遠慮なく蹴ったのは、漆黒の王だ。伏しているベスプリムの傍らに降り立ち、その身体を冷たい瞳で見下ろす。既に夜着ではない。軽装ではあるが愛剣を腰に佩き、手には立ち回りやすい短剣を構えている。
油断していた。
ヤトウィアの一挙投足をベスプリムは見張っていた。少しでもシグムントに心許す様子を見せれば、警戒してヤトウィアを脅す。そのような視線を光らせていたはずだった。シグムントに対して閨でも昼でも、その存在を頑なに拒否したことも知っている。2人で居るときは必ず側に控え、聞き耳を立てていたから妙な話をしていたということも無い。
……ただ、昨日はヤトウィアの部屋に訪ねてくるのではなく、シグムントの部屋に呼ばれた。
ヤトウィアは心の弱い女だ。怖気づいて失敗してしまうだろうことも、容易に想像が付く。だから、昨日は一層激しく追い詰め、薬を入れた酒を持たせたのだ。弱々しいといえど王族の女が、たった一晩で、粗野な蛮族と共に自分を罠に陥れるとは思えなかった。
しかし、このまま掴まるわけにはいかない。
「ヤトウィア様……」
ベスプリムは儚げな声を上げてみせた。
「たすけて……助けてください……ヤトウィア様」
「ベスプリム……」
「この後に及んで、愚かな。……ヤトウィア、動くなよ」
ベスプリムの声に反応したヤトウィアを手で制して、シグムントはすぐに声を張った。
「お前たち、入れ!」
その声を合図に、シグムントの親衛隊が部屋に乗り込んできた。ベスプリムは舌打ちする。……何もかも手を回していたか。道理で、ここに来るまでの見張りの目が少ないと思っていたのだ。力で押すしかない蛮族と侮っていたが、間違いだったようだ。あの男を、……漆黒王を殺すという想いに急いて、目が眩んだ。
そうだ。漆黒王を殺さなければ。
何があっても、せめて、……一太刀だけでも。
「お助けを……ヤトウィア様、どうか……」
その哀れな声にヤトウィアが一歩踏み出す前に、シグムントはヤトウィアを振り返って抱き寄せる。ベスプリムは跳ねるように起き上がりその背に向けて、駆け出した。
「死ね! 蛮族の王が!」
「シグムント様!」
手に持った刃を再び振り上げる。親衛隊とヤトウィアの声が部屋に響いたが、その刃もまたシグムントには届かなかった。背を向ければ駆けてくるだろうと予測していた。シグムントは振り向きざま、ヤトウィアを自分の背に引き寄せて、片方の手を後ろに回してその身体を守る。そうしておきながら、もう片方に持った短剣でやすやすとベスプリムの刃を弾いたのだ。弾かれた力は強く、さらに親衛隊の剣がベスプリムの喉元に突きつけられた。
親衛隊の戦士達に両手を押さえられ、剣を奪われる。何もかもが決まった。しかし、それでもなお、シグムントを睨みつけるベスプリムの瞳の輝きだけは異様に高揚していた。その眼差しを受けて、シグムントは短剣を収める。
「俺を殺したくて仕方が無い……という顔だな。ベスプリムとやら」
「……蛮族、が……」
「その蛮族風情に、恨みでもあるのか。それとも、皇后バルバラに忠実な下僕か」
「貴様には関係無い」
シグムントが瞳を細めた。そこに新たな気配が姿を現す。扉の外の人影に、シグムントがちらりと瞳を向けた。
「魔都ウラスロのベスプリム殿。これはキエフの短剣と毒ですな」
姿を見せたのは宰相クラクスだった。老獪ながら油断なら無い立ち居振る舞いで、シグムントとベスプリムの間に身を置く。その手にはヤトウィアの寝台に隠していた短剣が握られていた。クラクスの言葉にベスプリムは瞳の下に皺を浮かべ、女とは思えないほどの激しさで吼える。
「黙れ……黙れ!」
「お前はキエフの出身らしいな」
「黙れ、けだものが!」
キエフ国。ラディスを小国と侮り、国境の小さな所領を陵辱するように攻め込んできたのはシグムントが即位してすぐのことだ。ラディスは国を守る為に応戦して勝利を収め、さらに逆上して追撃してきた兵士達も追い返して、国の立場的にはキエフの上位に立つこととなった。
ベスプリムはそのキエフの出身だ。兄が戦いに参加し、帰らなかった。
よくある話であり、それだけに、シグムントにべスプリムが恨みを持つのは当然の成り行きだった。どちらが攻めたか、どちらが悪いか……などというのは、単に国同士の事情に過ぎない。ベスプリムにとって、ラディスとの戦に参加した兄が蛮族に殺されて帰らなかった、ただそれだけだ。
シグムントにとっても、そういった恨みを向けられることはよくあることだ。だからこそ、言い訳をするつもりは毛頭無い。ラディスとて戦いを挑まれれば無傷では済まされないのだ。それなりの報復は受けてもらうし、それによって相手が二度とこちらに手向かえぬほど叩き潰すことに躊躇いは無い。
それを切り抜けてこそ、今の自分と国があるのだ。
ただ、たった今、事情を知ったであろうヤトウィアの身体を少し強く抱き寄せた。
その気配に、は……とベスプリムは笑う。
「……はっ……おのれを殺そうとした女を、よくもそれほど庇うことよ。よほどその身体がよかったか」
「貴様!」
逆上した声を上げるのは、親衛隊達だ。敬愛する王を侮辱され、許せぬ風に突きつける剣を深くする。シグムントはそれを制して、ヤトウィアの身体をなお一層自分の身体に包み込む。
「言いたいことは、それだけか」
「……卑しい賊に身体を許した愚かな女……頭は悪くても身体だけはいいらしい。せいぜい、苦しめ。……自分の妻が、他の男に奪われた事実をお前は嫌でも知ることになる」
「ほう。……それはどういう意味だ」
「知っているだろう。3年前に、賊にその女は身体を奪われた。それは噂ではない。真実だ」
「それで?」
「……その賊の、……お前の女を奪った男の痕跡が、魔都で生きている。お前にそれは殺せまい。だが、愛せもしないだろう。苦しめ。汚れた子を前にして……!」
激しい言葉に、シグムントの腕の中でヤトウィアが恐怖に身を怯ませる。だが、シグムントは落ち着いていた。一度漆黒を瞑目させたが、ゆっくりと開いて静かに笑う。
「残念だな」
「何……?」
「その賊とは、この俺だ」
ベスプリムが瞳を驚愕に開き、シグムントとヤトウィアを見つめる。短く述べた言葉の意味。一瞬の内にそれを把握し、すべての計算が違ってしまったことを悟る。最初から、シグムントとヤトウィアは……。
なるほど……と、ベスプリムが笑った。なぜ、そのような簡単なからくりに気付かなかったのか。
最初から、愚かしいほど互いを。
「は、は……。2人とも、愚か……ということか。だから、それほど執着し、狂ったように愛したか」
その言葉にシグムントは片方の眉を動かしたが、何も言わなかった。ベスプリムがぎり……と唇をかみ締め、顎に力を入れる。それを見て、身体を動かしたのはヤトウィアだ。激しく動き、シグムントの腕を逃れようとした。
「ベスプリム、やめなさい!」
「お前の子の真の父親は誰だろうな! 男に簡単に体を許すような女だ、蛮族の子とは限らぬぞ。そうだろう、ヤトウィア!」
「ベスプリム、やめ……」
「ヤトウィア!」
ベスプリムを止めようとしたヤトウィアの身体を素早くシグムントが抱きしめ、その瞳を後ろから塞いだ。一気に場が騒然となる。「口に手を入れろ、死なせるな!」……珍しい宰相クラクスの怒号が響いて、床に数人の身体が伏せられる音。
膨らみあがった気配は、すぐさま沈静化して嘘のように静かになる。
奥歯に仕込んだ毒を噛み切って、ベスプリムは自害したのだった。