008.王の子

その日、シグムントはヤトウィアを自室に呼んだ。

ヤトウィアの……ウラスロの手の者を近くに寄せず、ラディスの人間だけが守る領域に囲むためだ。浴室も自室のものを使わせ、アンナという侍女に手伝わせて夜着もラディス風のものを着せる。そうして目の前に現れたヤトウィアは、ラディスを受け入れたのではないか……という錯覚をもたらすほどに、シグムントの心を騒がせた。

敷物の上でヤトウィアを抱いたときも彼女は嫌がらず、3年前のあの時の記憶が蘇る。蜜のような甘さで抱き合い、蕩ける様に果てたのは一度きり。その後は寝台へ連れて行き、その身体に酔いしれたように抱き寄せて眠る。

予測の範囲には違いなかった。
だが、確信があった。

元は皇后付きだったという侍女が側にあること。
ヤトウィアの持参した魔都の酒。

プロントからの報告。

だからこそ、全てを……ヤトウィアの口から話して欲しかった。ヤトウィア自身が付ける決着を、確かめたかったのだ。

もとより毒に慣らした身体ではあったが、さらに強い毒消しの薬を事前に口に含み、シグムントは酒を飲んだ。そのおかげだろう。多少のけだるさは覚えたが、それは酒の酔いのせいか毒のせいか、抱き合った余韻か、いずれが原因かは分からない程度だった。

そうして寝たフリをしていたのだ。

いくばくかの時間が経って、腕の中のヤトウィアが動いた。戦士たるシグムントは寝たフリなどしておかなくても、ヤトウィアが隣で目覚めれば分かる。それなのに、いまだ眠っていると思って安心しているのだろう。ヤトウィアの優しい口付けと告白に、今すぐにでも押し倒したくなる心を沈めていると、心地よい爽やかな香りが漂ってきた。毒が回らないようにする気付けの薬だと、すぐに分かった。

シグムントは瞳を開け、ヤトウィアの後ろから手を掴んだ。

「ヤトウィア。……どこへ行く」

そうして声を掛ける。静かで、有無を言わさぬ声にヤトウィアの背が強張るのが分かった。
ヤトウィアは小さな針を手に持って、寝台を降りようとしていたのだ。ヤトウィアは震える声で、答える。

「浴室へ……」

「今からか。ならば、俺も行こう」

シグムントは完全に身体を起こし、ヤトウィアを背後から強く抱き寄せて手に持っている針を離させた。

「その前に、これは何だ」

「シグ様……陛下、なぜ」

「この針はなんだ」

「陛下」

「答えよ」

シグムントは無理矢理ヤトウィアを自分の方に向かせ、両の手首を掴んで見下ろした。月明かりは僅かだ。だが、その僅かの中で自分を見上げる銀色を、離さぬようにと視線を絡ませあう。

何をしようとしているのかは、一目瞭然だった。針を持って、浴室へ行く。どのような薬が塗ってあるのかは知れないが、少なくとも、風呂に必要なものではあるまい。荒れ狂い始める自分の心を必死で抑えるが、掴む手に込めた力は抑えきれない。

「朝目が覚めたら、愛する女が浴室で冷たくなっているのを発見する……というわけか」

「へ、いか……」

低い唸り声にも似た音が自分の喉から込み上げ、怒りで吐息が荒くなるのが分かった。それでも、声を押し殺して問う。

「俺を殺さず、なぜ自分を殺す」

「シ、グ、さま……、手を……」

その声で我に返った。
恐怖ではなく痛みで手が強張り、軋んでいる。シグムントは慌てて掴んだ手を離した。ヤトウィアの顔は怯えてはいない。ただ、悲しげに瞬いている。

今度は力を込めぬよう、弱々しい肩にそっと腕を回した。

「ヤトウィア……」

「シグムント様、お願いです。離して……離してください」

「駄目だ。離さぬ」

「シグ様。お願い……」

「ならぬ」

自分の胸に押し付けたヤトウィアの頬に手を当てると、シグムントは自分に向かせた。

「シグムント様……」

「隣で」

シグムントは吐き捨てるように、言った。

「目覚めた時に愛する人間が死んでいたら……お前は耐えられるのか」

ひゅ、と息を飲む音が聞こえて、みるみるうちにヤトウィアの銀色の瞳に涙が溜まり、ぽろりと零れた。

「わ……たし、は……」

「隣に俺が死んでいても耐えられるのか、お前は」

ともすれば愛されているという自惚れにも聞こえるだろう言葉だったが、シグムントにはその言葉しか見つからず、それはヤトウィアの心を深く抉った。抱き合って眠ったその暖かな腕が、目覚めた時に冷たくなっていたら。

そう言われて、ヤトウィアは自分が間違ってしまったことを初めて知った。

「もうしわけありませ……」

喉が痛み、涙が止まらなかった。自分が想うのと同じくらい、シグムントもまた、ヤトウィアを想っているのだ。しかし……、ならばどうすればよかったのか。誰が生き残ればよいのか。自分が生きれば利用され、シグムントを傷つけてしまうのに。

シグムントはヤトウィアを再び抱き寄せた。ヤトウィアの震える身体と零れる涙に、自分の心が急速に静まっていく。決して、不安にさせたいわけではないのだ。

「ヤトウィア。まだ俺に、……俺に話していないことがあろう」

「……シグムント様……」

ヤトウィアの口から、自ら話して欲しかった。そのために、自室に呼んだのだから。

「ここには俺とお前だけだ。もとより俺は侍女部屋にも侍従部屋にも、誰も控えさせては居らぬ」

だから言え。そう静かに囁いて、シグムントはヤトウィアの涙を拭ってやった。自分を見上げる瞳は不安と恐怖で満ちている。何に対する不安なのか、恐怖なのか、それを取り除いてやりたかった。

いつまで頬を撫でていたのか。時を忘れるほど見つめあい、……やがてヤトウィアが意を決したように瞬きをする。

「ヤト……」

「子を孕むまでに……シグムント様、を……殺せ、と。おかあさま、が……」

口にするのも恐ろしいこと。そのようなことが出来るはずも無いのに。搾り出すような掠れた声で口にした言葉に、ヤトウィアの瞳から再び一筋涙が零れる。その涙が顎を伝い落ちる前に、言葉を続ける。

「そうでなければ、……を」

零れ落ちる涙を受け止めるように、俯いたヤトウィアの頭に大きな手が回されて、シグムントの胸に引き寄せられた。

「次の子が出来れば、最初の子など、い、要らぬだろう……と」

そう言ったヤトウィアから嗚咽が漏れた。何かと引き換えにシグムントを殺せと命じられていただろうことは、おおよそ知れていた。その「何か」が自分の子であるだろうことも。

1週間ほど前、プロントが持ち帰った報告。それは、確かに「レシェク」という名の人間についての報告だった。

「最初の子」レシェク。
2歳と少しになる黒い髪と黒い瞳の男の子供だという。
それと聞くだけで、何者であるかが分かった。

「レシェク、か。俺の子であろう」

なぜそれを知っているのか……と、ヤトウィアは視線で問うた。とめどなく溢れてくる涙を大きな手で受け止める、シグムントの漆黒の瞳は酷く静かで……苦しげだ。

「最初の夜に、眠るお前が言ったのだ」

「……え」

「何者かをどうしても知りたくて……調べさせた。お前の侍女、ヴァンダと言ったか。あれの力を得て、親衛長のプロントが調べをつけた」

「ヴァンダが……?」

「それを知ったとき、俺がどれほど嬉しかったか分かるか」

「……シグムント様」

それと知れたとき、嬉しく……そして激しく後悔した。あの時、無理矢理にでもさらってラディスに連れて帰るべきだったのだ。

「次の子を孕むまで。それで、俺を拒んだか……」

レシェクの存在と、それについている数名の見張りの話を聞き、ヤトウィアが誰かに脅されているのではないかと予測は付いた。次の子を孕むまで……などという条件には考えが至らなかったが、側にはベスプリムが控えている。子が出来ればその命を、第二の人質として掌握するのもたやすい。だから、あれほど頑なに自分との閨を拒んでいたのか。

ヤトウィアの口からそれが知れると、それを命じた皇后への怒りが増した。皇后は……ヤトウィアの夫の命と、子の命を天秤に掛けさせたのだ。漆黒の王は白妙姫に執着している。その執着の末、やっと手に入れた妻を愛でれば愛でるほど、ヤトウィアは追い詰められるという筋書きだろう。

しかし、いくら追い詰められたとて、ヤトウィアにそのどちらかを選ぶことなど出来るはずも無いのだ。

「ならば、何故俺に言わなかった」

「陛下……」

「俺の子であるのに、何故相談しなかった」

ヤトウィアはそっと自分の下腹を押さえた。

「……賊に汚された女の宿した子は……誰も要らぬと笑われる……と」

「皇后が?」

ヤトウィアは俯くように頷いた。

「俺が、お前との子だと信じぬと?」

思わず苦々しく言ってしまい、言った直後に後悔する。シグムント自身、一瞬なりとヤトウィアを疑った。他の男に……居るはずのない男に嫉妬を覚えた夜とて、一度や二度ではないのだ。

「私は、怖くて……」

そしてヤトウィアも、シグムントの言葉に声を詰まらせる。

シグムントはもはや旅の戦士ではなく、一国の王だ。迎えに来なくても仕方が無い……そう思おうとした。それでも胸の痛みは消えず、迎えに来ると約束したシグムントの言葉にすがってしまう。3年も迎えに来ないのは、もうヤトウィアのことなど忘れてしまったからではないのか……と、浅ましくも考えてしまう夜もあった。どんなに信じていても、離れている間のこの胸の痛みが消えることは無かったのだ。

「ああ……」

シグムントがヤトウィアの背をそっと撫でた。その一言で知れる。気を失ったあの夜も、夢の中で言っていたではないか。「ずっと待っていた」……と。ヤトウィアもまた、シグムントと同様に怖かったのだ。自分達の気持ちが、離れてしまうのが。それでも……。

「それでも、お前が死ぬ理由にはならぬ」

ヤトウィアは一度悲しげに瞳を伏せた。

レシェクの存在は、2人の間だけの問題ではない。
子はラディスにとっては王子。シグムントがそれと、認めれば跡継ぎにもなるだろう。だが、漆黒の王を敬愛する民は、それを納得するだろうか。戦に負けた国から妻として迎えた王女、その連れ子が自国の王の子である……と。

しかも、王女を襲った賊はシグムントだと公になり、それを受けたウラスロもどのように出てくるかは分からない。自分だけがそれを負うならまだいい。その渦中にレシェクもまた、巻き込まれてしまう。だが、ヤトウィアが居なくなればレシェクの存在は闇の中だ。

そう言ってヤトウィアはシグムントの漆黒を、見上げる。それは弱々しい儚い瞳ではなく、シグムントが心惹かれた頑なで気丈な瞳だった。

「ヤトウィア」

「レシェクを縛るのは、今はまだ、私だけです。ウラスロの王女が母でなければ、その命が盾にされることはありません。私が居なくなれば、お継母様とてレシェクを死なせるなどということは、しないはずです」

ヤトウィアが死ねば、レシェクに母は無くなる。父が誰かは謎のままになり、少なくとも政治的に利用されることはなくなるはず。恐らく、そのまま捨て置かれるだけだろう。その命の有無が第三者にやり取りされ、何かに利用されるより余程いい。本当は1人ひっそりと死ねばよかったのかもしれない。だが、自らの心の弱さのせいでそれもかなわず……結局この時まで、自分の命を引っ張ってしまった。

それを聞いて、シグムントは苦い思いを隠しきれなかった。それでも言わずにはおられない。

「お前との子を、俺は……いると知らずに過ごすところだったのだ」

「……そ、れは」

「いや、すまぬ。分かっている」

シグムントは首を振った。責めるつもりは無かった。ヤトウィアが沈黙したのが罪であるならば、シグムントもまた同罪なのだ。

ヤトウィアの言うとおり、シグムントがウラスロの王女と通じていたという事実は、誰も知らない。それは3年前、シグムント自身がラディスとウラスロの間に国交を通じるために黙したことだ。ヤトウィアを平和の内に手に入れるためと言えど、手紙も人もヤトウィアに寄越さず、ただ黙って政治の道と王としての実力を整えることに注力した。あの時、誰かにヤトウィアとの関係を打ち明けていれば、当然事態は動いて、子のことも手配できていたはずだ。少なくとも、レシェクの父親が誰か……などという、疑惑など上がらぬように出来ただろう。

2人とも離れてしまった恐怖にすれ違い、沈黙することで互いを守ろうとした。ならば最初から、その手を離さなければよかったのだ。
なんと愚かな2人なのか。

「俺が」

その愚かさに気付いて、シグムントは痛々しい溜息をついた。屈強の戦士であるのに、ヤトウィアの身体を抱き寄せる自分の手が震えてしまう。

「……あの時、お前を連れ去っておけばよかったのか」

「シグ様。それは違います。黙ってしまったのは、私なのです。私が……」

話すヤトウィアの唇を親指でなぞるように触れ、その言葉を止めさせた。小さく首を振って、漆黒を穏やかに細める。

「ヤトウィア。……よく話してくれた」

不安げに自分を見上げるヤトウィアの、瞳の端に口付ける。そのまま頬に唇を滑らせ、重ね合わせた。こうして唇に触れ合う時間も感触も、愛おしく貴重なものに思えた。

「3年前はお前を連れ去れなかったが……王となった今、俺はお前を離すつもりはない。だから、覚悟をしておけ」

「……しかし」

「皇后は動けぬ」

ハッとした表情で、ヤトウィアがシグムントから少し身体を離した。信じられない風のヤトウィアの頬を撫でながら、シグムントは息を吐く。

皇后は動けない。
ラディスがそのように手を回した。

もとより、魔都ウラスロの皇后と宮廷は反目しあっている。擁しやすい幼い王が欲しいのは宮廷も同じだ。だが、今、その後ろについているのは王の実母である皇后バルバラ。旧来の慣習を重んじ、血統の古さと高貴さだけを自慢とし、周辺諸国との友好な関係を築こうともせず、その上に立ちたがる皇后の存在は煙たかった。だが何の理由も無く、王の母をないがしろにするわけにはいかない。

宮廷は皇后を廃する理由を欲しがっている。

ラディスはそれを売りつけるつもりだった。

娘ヤトウィアとその夫シグムントを、侍女のベスプリムを使って殺そうとした。そのような狂った母親を幼い王の側に置いておいてはいけない……と、ウラスロ宮廷に対して進言したのだ。証拠は侍女のベスプリム自身と寝所から出てきたナイフだ。ナイフの造形と塗られた毒が、ベスプリムの出身であるキアフ国のものであったこと。ベスプリムの敵を討とうとする気持ちを利用して、皇后がすべてを仕組んだ……と。それらの案件を事前にウラスロ宮廷へと送る。後で、ベスプリムの身柄を送還する予定だった。毒の入っていた酒も、同様に送ればいいだろう。

無論、たったそれだけの物品で、皇后がヤトウィアを手にかけようとした……などという証拠になるはずが無い。

だが、そんなことは構わない。

理由などはウラスロの宮廷が考え、こじつけるはず。ラディスは皇后がらみの情報を売りつけるだけでいい。そのような母親が側にいる……という情報が諸国に知れれば、幼王の元に輿入れに来る者もいなくなるだろうし、そもそも皇后の存在自体が醜聞になる。それらの情報をラディスが秘する代わりに、ヤトウィアを完全にラディスのものにするのだ。

ヤトウィア個人だけではない。後にレシェクの存在は国に知れるだろう。おそらく宮廷も把握している。だが、ヤトウィアに属するすべてのものに対して、今後ウラスロの干渉を受け付けない。

ラディスは宰相クラクスを使って、ウラスロとそのような売買契約を結んだのだ。

これにより、現在皇后は都城から離されている。後々、ベスプリムを送還したら完全に幽閉されるはずだ。

あとは、ヤトウィアと共にレシェクを迎えに行くだけ。

シグムントは部下たちの協力を得て、そこまで手を回したのだった。だからこの10日間はヤトウィアに会わず、沈黙を見せていた。

そのことを伝えると、シグムントの腕の中でヤトウィアの力が解けていった。この3年間、ずっと囚われていた緊張や不安が解けたのだった。小さな嗚咽が洩れて、遠慮がちにシグムントの身体に体重がかかる。その遠慮も取り除くように、強く抱き寄せた。

「シグムント様……ずっと、……黙っていて、私……」

「もうよい」

「申し訳ありません。……シグムント様を、傷つけて」

「違う。お前が傷ついたのだ」

シグムントの大きな手がヤトウィアの白い髪を梳いていく。やっと自分の手に入ったとシグムントは実感した。3年間も恋焦がれた白妙の姫が、漆黒の自分の下にやってきたのだ。

「ヤトウィア」

「はい」

「よくぞ……俺の子を守ってくれた」

意外な言葉に銀色の瞳がシグムントを見上げた。

「シグ様……私は」

「何も言うな、ヤト。謝らずともよい。ただ……罪だと思うなら、一生俺の側に居てくれ」

「……」

「何も言わずに俺の側で、俺のために生きてくれ」

今度こそ、ヤトウィアが自分からシグムントに身を寄せた。大きな背中に細い手が回り、シグムントの身体にしがみつく。「はい」と、一言だけ答えて、さらに強く腕に力を込めた。

シグムントの身体は暖かく、その幸せがヤトウィアの身体に満ちていく。