009.事の終

しばらくの間、互いの温もりを堪能した。ヤトウィアはシグムントの胸板に頬を寄せ、シグムントはヤトウィアの身体の柔らかさと髪の滑らかさを楽しむ。そうしてヤトウィアが落ち着くのを待って、シグムントは口を開いた。

「レシェクは、お前を母だと?」

「いいえ、名乗ってはおりませぬ。ただ、時折会いに……」

孕んだと知られれば下ろされるかもしれなかったため、病だと偽り宮廷にも皇后にも知られないように身を潜め、ヴァンダとヴァンダの両親の手を借りて産んだ。賊に辱められたという噂と、もとより疎まれていたことが幸いしたのか、人目に付くことなく子は無事に生まれた。知っているのは、修道院の世話をしていた医者と、護衛とヴァンダ、そしてその両親だけのはずだった。もっとも、今となっては宮廷も皇后も見て見ぬフリをしていただけだったのだろう。

そのような子であったから、自分が母と名乗るわけにもいかなかった。産声が聞かれぬように離宮の奥で隠れるように産み、2週間ほど乳を与えたことだけが母としてのヤトウィアの思い出だ。それ以降は孤児院に預けた。離宮の家令であり乳母の夫であったヴァンダの父が、妻と共に職を辞して孤児院のひとつの責任者となり、そこでレシェクを育てたのだ。

ヤトウィアは何週間かに1度、乳母夫妻を訪ねる風を装って孤児院へ出向き、そっとその成長を見るだけだった。それでも、なぜかレシェクはヤトウィアに一番懐いた。ヴァンダの両親がレシェクが手を焼くほどに泣いて騒いでも、ヤトウィアが抱き上げるとピタリと泣き止み、歌を歌うと眠りにつく。

父親がシグムントであることは、ヤトウィアだけが知っていることだ。ヴァンダとヴァンダの両親にすら、ヤトウィアは明かさなかった。

書簡をしたためたり、誰か人を遣わせたりすればよかったのかもしれない。ただ、ヤトウィアの味方はヴァンダとヴァンダの両親、そして離宮の僅かな護衛だけ。話せばかならずシグムントに会いに行こうとしたに違いない。しかし、その人達を自分のために使役することは、ヤトウィアにはとても出来なかった。

最初に黙したのは、シグムントのことを公にすることを避けたからだ。子を孕んでそれを黙したのは、愛する男に信じてもらえぬかも知れぬ恐怖と、シグムントは認めても、周囲が認めぬかもしれない……という心配だった。あれほどの武勇を誇る剣の国の王。民からも愛されている国の長。自らの身に降りかかっている嘲笑や噂の中、ラディスの王の子を産みましたと出ていくことが出来るはずがなかった。しかも、真実の父親が誰であるかはヤトウィア以外誰も分からない。

漆黒王のその誇りも、その身体も、そしてレシェクも、一欠けらも傷つけたくは無かった。

そして、それは、自分が傷つきたくない……という言い訳かもしれなかった。

だからといって黙っていても解決はしないのは分かっていた。しかし動けば誰かが傷つく。ヤトウィアはこの3年間。ずっとその思いに囚われてきたのだ。

シグムントは黙ってヤトウィアの頭を撫でる。

漆黒王とレシェクが持つものすべてを、ヤトウィアは損ないたく無い……。ただ、漆黒王とレシェクが損なってはならないものの中に、ヤトウィア自身が入っていない。これからは、それをヤトウィアに教えなければならないだろう。

穏やかな闇の帳をゆっくりと浮上させ、シグムントは戦に赴く戦士のような表情に変わった。

残っている仕事がある。

シグムントはヤトウィアの身体を離すと、その銀色を覗き込んだ。甘い雰囲気は消えうせ、王の漆黒を取り戻す。その漆黒をヤトウィアの銀色の瞳もまた、覗き込んだ。

「ヤトウィア。……だが、まだ終わりではない」

「は、い」

「お前には厳しいものを見せるかもしれないが、やってもらわなければならぬことがある」

「……シグ様とレシェクの無事のために、何かできるのであれば、私は」

「お前の無事もだ。ヤト。俺にとって、お前が居なければ何もかも意味を成さないと覚えておけ」

そう念を押してヤトウィアの身体を再び抱き寄せ、シグムントは静かに行動を開始した。

****

そうして迎えた明け方。

あらかじめ武器を持って寝台に隠れていたシグムントに、ベスプリムはやすやすと捕らえられ、そして自害した。本来ならば生きて捕らえたかったが仕方が無い。シグムントはヤトウィアが動かぬように抱えながら、数名の親衛隊に指示を出してその遺体を始末させた。ウラスロへ届けるように、手配しなければならない。

目の前に死を見たからか、それともシグムントがこのような恨みを買うことに衝撃を受けたからなのか、ヤトウィアが腕の中で身体を硬くしている。それを見下ろして、シグムントは問いかけた。

「怖かったか、ヤトウィア」

しかし、ヤトウィアは首を振った。シグムントの腕の中で、ヤトウィアの銀色の瞳が自分を見上げる。

「いいえ」

「俺は戦で恨みを買われていたようだ」

「シグムント様……」

「恐ろしいか」

剣の国が、恐ろしいか。

やはり、ヤトウィアは首を振った。少しだけシグムントに身を寄せ、労しげに笑ってみせる。

「いいえ」

ラディスは剣の国。だからこそ自ら国を攻めない。自国を、愛するものを守る為に剣の技を身に着け、それこそが武勇とされてきた国だ。怖かろうはずがなかった。シグムントはただ小さく頷いて、抱きしめていた腕を緩めた。

2人並んだ様子に、宰相クラクスが一礼する。

「お2人ともご無事でようございました」

「ああ。手間をかけさせたな」

「とんでもございません。ようやくこれで、お2人が心やすらかに過ごせるというもの」

クラクスが、老いた穏やかな瞳をヤトウィアに向ける。

「ヤトウィア様、ここに居る親衛隊の者達も私も、ご事情、シグムント様よりお伺いしております」

その言葉にヤトウィアの表情が硬くなり、身体が強張った。しかし、それを優しく見守るようにクラクスは瞳を細める。

「ヤトウィア様。……陛下の、シグムント様のお子を産み、2年半もの間守り健やかにお育てくださり、臣下一同感謝申し上げます」

そう言って、膝をついた。さらに、親衛隊達も同様に膝をつく。

立っているのはヤトウィアとシグムントとなった。ヤトウィアは瞳を丸くして慣れぬ風に身動ぎをしたが、シグムントの腕が身体を支えるように細い腰に回された。その睦まじい様子を見上げて、宰相クラクスは満足げにまた頷く。しかしヤトウィアは慌てて、首を振った。

「あの、どうか膝をつかないで下さい。私は……」

「ヤトウィア様。これに懲りずに、シグムント様のお側に居てくださいますか?」

「え?」

ヤトウィアの顔がきょとんとしたものになり、シグムントがむっとした。クラクスはやれやれと立ち上がり、親衛隊たちもそれに合わせて立ち上がる。老宰相は、老人特有の悪戯げな表情を浮かべてみせた。

「ああ、ご安心下さい。3年も貴女様のことを放っておかれたと聞いて、このクラクスめが叱り飛ばしておきましたからな」

「クラクス!」

シグムントの顔が赤くなった。

「それに、ヤトウィア様。プロント……ああ、レシェク様のことを調べたラディスの親衛隊長ですが、それから聞き及んだ話によりますと、シグムント様にそっくりのお子とか」

今度はヤトウィアの顔が赤くなる。

「ご心配には及びませぬ。ラディスの民は、皆、お2人のお子を祝福いたします。その気概が我らの誇りゆえに。どうか、我らを信じてくだされ」

「……クラクス様」

「ヤトウィア……!……おい、クラクス、ヤトウィアを泣かせるな」

シグムントの腕の中でヤトウィアの肩が嗚咽に揺れた。慌てて見下ろすと、ヤトウィアの銀色からほろりと涙が零れている。ヤトウィアは慌てて涙を拭うが、それはなかなか止まらない。部下達の前で泣かれ、シグムントはおろおろし始めた。

「やれやれ、ここからは陛下のお役目ですかな。……皆、下がれ」

親衛隊も一様に笑顔を見せ、暖かな眼差しで一礼して下がる。

「争いのあったこの部屋では落ち着かぬでしょう。ヤトウィア様のお部屋を調えさせております。すぐにアンナを寄越しますので、それまでシグムント様、ヤトウィア様をよろしくお願いしますぞ」

「クラクス」

「は」

親衛隊を下がらせ、一旦立ち去ろうとしたクラクスをシグムントは呼び止めた。

「ウラスロへの手配は」

「明日にでも発てましょう。ご一緒に?」

「無論」

「了解いたしました」

全員下がり、ヤトウィアとシグムントの2人になった。人の死があった場所だ。あまりヤトウィアを長居させたく無かったが、薄い夜着のまま連れ出すわけにもいかない。アンナが着替えを持ってくるまでの間、シグムントは昨晩抱き合った敷布の上にヤトウィアを導き、膝の上に座らせる。

「ヤトウィア。やっと俺のところに来てくれたか」

「シグムント様……本当に、私を……許してくださるのですか……?」

「言うなと言ったろう、ヤトウィア。許すも許さぬもないのだ。それに、愚かなのは俺とて同じ」

「ずっと……お側に居てもよいのですか?」

ヤトウィアが、そう言ってシグムントを見上げた。その眼差しを受けて、シグムントはようやく一心地をつく。愛する女のその頬に手を滑らせ、唇を寄せた。

「ずっと側に居てくれ」

「……シグムント様」

遠慮がちに唇が触れ合った。触れ合わせたのは、……ヤトウィアからだ。

「お慕いしております。シグムント様」

「ああ……愛している。ヤトウィア」

再び、唇が重なる。少ししてそれが離れて、シグムントが小さく笑った。

「そう誘ってくれるな、ヤトウィア。もうすぐアンナが来てしまう」

「シグ様!」

頬を染めて、ヤトウィアが俯いた。