010.そして、始まり。

魔都ウラスロの都城の森の中にある慎ましやかな修道院の講堂に、年嵩の夫婦らしき男女が控え、腰に剣を佩いて武装した青年と若い女性が座り込んでいる。その輪の中心で、漆黒の髪に漆黒の瞳が印象的な幼児が愛想を振り撒いていた。

「ここにいるとやとがくるの?」

「ええ、ヤトはもうすぐきますよ」

若い女性が優しい声色で言って、そっとその黒髪を撫でた。

「やとにあえる!」

「会ったらなんと言いますか?」

「んー……」

首を傾げて、その子供は考え込んだ。女性の隣に青年も座り込んでいて、優しい眼差しで子供を見守っている。

「いっしょよ、ってゆうの」

「大丈夫。これからはずっと一緒です」

そう請け負ったのは青年の声だ。その青年の声に、子供の素直な眼差しが注がれる。

「ずっと?」

「はい。ずっと」

青年は力強い瞳で頷き、遠慮がちに手を差し出した。子供は不思議そうにその手を握り、にっこりと笑う。

子供の手を握って青年が立ち上がり、それに伴って女性も立ち上がると、ギイ……と音がして講堂の扉が開いた。扉を守っていたらしい2人の戦士が、入ってきた人物に一礼する。子供を囲んでいた全員が、開いた扉に視線を向けた。一番最初にその姿の正体に気付いたのは、青年と手をつないでいた子供だ。その子供は青年の手を離して、真っ先に駆け出す。

「やとだー!」

「レシェク」

扉に居たのは2人の人影だった。1人は体格のいい、漆黒の髪に漆黒の瞳の戦士。もう1人……鈴の鳴るような声で子供の名を呼び前に出たのは、白い髪に銀色の眼差しが優しい女性。

ヤトウィアは駆け足で前に出るとしゃがみこみ、駆け寄ってきた子供を抱きとめる。愛しげにその子を……レシェクを抱き締めた。

「レシェク……元気でしたか?」

「れしぇ、いいこにしてたよ」

「そう。いい子にしていたのね」

「いいこしてたら、やとがくるって」

「そう……」

「やと?」

レシェクが身動ぎをして、ヤトウィアの腕から逃れる。レシェクの小さな手がヤトウィアの頬に触れ、心配そうに漆黒が揺れた。

「やと、やと、なかないで」

「レシェク。ヤトはレシェクに会いたかった」

「れしぇも」

「お前が、レシェクか」

涙を見せたヤトウィアの身体を抱き寄せるように、漆黒の男がその傍らにしゃがみこんだ。座り込んでもなお大きな体躯を、レシェクがきょとんと見上げる。2組の漆黒の瞳は、年齢は異なるがその輝きはそっくりだった。幼い方の漆黒が、不思議そうに首を傾げる。

「だあれ?」

「ヤトの……ヤトを大事にしている男だ」

「やとを?」

「そうだ」

「ぼくも、やと、だいじよ」

「それならば、一緒だな」

「いっしょ?」

「ヤトと一緒に行くか、レシェク」

「いっしょいくー!」

漆黒の男がレシェクに手を差し出すと、迷い無くレシェクはその手を取った。男はレシェクを抱き上げて、立ち上がる。いつもより数段上になった視界が子供には楽しいのだろう。レシェクは、きゃーと歓声を上げて男にしがみついた。

ヤトウィアも立ち上がり、2人を眩しげに見上げる。

「シグムント様」

「どうだ、俺にも懐いただろう」

「……だって、お父様ですもの」

「とーさま?」

「そう。いつもレシェクにお話していたでしょう?」

「してた! やったー!」

その話を聞いて、シグムントの顔がむ……と歪む。

「おい、どんな話をしていたのだ」

「秘密です」

「ひみつ」

どんな話をしていたのかと聞くシグムントに、楽しげにヤトウィアは笑った。この3年間で、初めて心から笑ったような気がする。
ヤトウィアはレシェクに母と名乗ることは出来なかったが、父の話は聞かせていた。強くて優しい、立派な父がいるのだと。レシェクはその父親の子供だから、きっと強く優しい子になれるのだと。話す度に「とーさまとやとが、れしぇといっしょにいたらいいのに」……と拗ねるレシェクに心が痛んだが、その痛みを味わうことはもう無いはずだ。

幸福に満ちた親子3人を、漆黒の王に仕える男と、白妙の姫の側に居た女が見守っている。

プロントが腕を組み、呆れたように言った。

「何が心配だというのだ、あれを見ろ」

それに優しい苦笑を返しながら、ヴァンダも同じ感想だ。

「それに関しては全く同感だわ」

ヴァンダの両親は、2人の主君に忠実な2人の男女を見て肩をすくめている。その視線に気付くことなく、プロントは溜息を付いた。

「抱き上げたら、まるで同じ顔ではないか」

レシェクをシグムントが抱き上げると、その顔は親子にしか見えぬほど同じだった。小さい頃からシグムントを見てきたプロントには、疑いようも無くあれはシグムントの子だと分かる。改めてシグムントを見たヴァンダもまた、同じことを思った。ヴァンダにはヤトウィアが嫁いでからすぐに見張りが付いた。

彼女にとっても、ヤトウィアが人質に取られたようなものだ。ラディスに向けて下手に連絡を取るわけにもいかず、何らかの手段を構築しようと両親と相談しかけていたところに、プロントが来たのだ。自分達と違い、プロントならば動ける。プロントから話を聞いたヴァンダ達はすぐにラディスに連絡を取り、それからの動きは迅速だった。

「婚儀の時に、民の前でレシェク様を抱き上げれば、文句は付けられぬだろうよ」

その言葉にヴァンダがもの言いたげに、視線を向ける。その視線を見下ろしたプロントが、ふ……と笑った。

「なんだ。……単純な民よと言いたいか?」

「違うわ」

「何?」

「……剣の国と聞いていたけれど、」

「ん?」

「勇敢で、優しい人達なのね」

人を信じ、受け入れる勇気と優しさを持ち合わせた。

それだけ言って、ヴァンダはプロントから視線を外してヤトウィアに向ける。プロントはその言葉に少し驚いたようだが、何も答えず、つられたようにシグムントに目を向けた。

2人の視線の先では、優しくたおやかな白妙と力強く頼もしい漆黒が、小さな子供と共に幸せそうに笑っている。

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剣の国ラディス。

決して他国へ攻めることなく、だが、攻められれば守る為に容赦しない誇り高い武勇の国。その国の勇猛な王に、魔都ウラスロから美しく優しい妻が迎えられた時、こんな歌が流行った。

『ある日のこと。魔都の森に傷ついた戦士が辿りつく。

その戦士を助けるは、魔都の優しい白妙姫。
2人はたちまち恋に落ちた。それは許されぬ若い恋。

戦士は王になることを誓い、姫はそのときをただ待った。

時が過ぎ、

魔都の姫には子がひとり。
漆黒を持ったその子供は、愛する男の残した形見。
その子を大事に守る為、姫は静かに過ごしていた。

漆黒の戦士は王となり、2人を阻むものはもはやない。

王と青馬は森を駆け、愛する姫を迎えに行く。
そこに居るのは忘れもしない、魔の都の白い姫。
自分と同じ黒を持つ、愛しい愛しい我が子供。
やっとその腕に姫を抱き、漆黒の息子を肩に乗せ、王は国へと帰ってきた。

たのもしきは漆黒王
うるわしきは白妙姫

剣国ラディスの恋語り。』

そうして、この歌には数年後、続きが付けられることとなった。

漆黒王と白妙姫の2人は、漆黒の息子とそれからまた幾人もの子供に恵まれ、よき民に囲まれて幸せに暮らした……と。