003.魔の森に捨てられて

「いったあ……」

魔の森の入口で何処かに落ちてしまったしらゆきは、強かに腰を打ちつけた。自分が落ちて来た方向を見上げると、どうやら穴ではなくて、ゆるやかな斜面になっていたようだ。しらゆきは、そこを滑り落ちて来たらしい。

「リュード?」

ここまでしらゆきを連れて来た男の名前を呼ぶが、返事は無い。しばらくの間しらゆきは動かずリュードの姿を探していたが、どうやら居ないということが分かると、ため息を吐いた。

「どこ、ここ」

辺りを見回してみる。

しかし周りは陰鬱とした黒い木と、それに這うように生えている湿ったシダ、倒れた木から生えているキノコと、かすかにけぶる霧だけで、湿った空気は重く息苦しい。昼間のはずなのに肌寒ささえ感じて、しらゆきは心細くなった。

オオオオーーーーーーーーーーン……。

何か獣の遠吠えが聞こえ、しらゆきは大袈裟な程にびくんと肩を震わせた。魔の森の噂を思い出す。

森の奥には恐ろしい魔物が住んでいて、森に入った者を1人残らず食べてしまうという。

「やだ。あんなのただの噂よね……そうよね」

それに魔物が居たとしても、人間を食べるとは限らないではないか。

そう思いはしたものの、その場にとどまるのも恐ろしく、しらゆきは腰をさすりながら立ち上がった。ここが何処なのかは分からないが、少なくとも何処かには辿り着かなければ魔物に食べられる前に飢えて死んでしまう。

ぷるぷると頭を振って、しらゆきは歩き始めた。土が柔らかかったのが幸いだったのか、腰はもう痛くない。

「それにしても、私、何でこんなところを1人で歩いているんだろ……」

とぼとぼと歩きながら、しらゆきはポツリと零した。本当なら、リンゴのタルトを届けて、貰ったお金で美味しいお茶の葉を買って、家で少し休んだあとに明日の分のリンゴのタルトを作るはずだった。明日はダンテが来てくれるかもしれず、来てくれたなら、またしらゆきの作ったお菓子を食べてもらいたかった。そういえば、もうダンテにも会えないかもしれないのだ。そう考えていると、目頭が熱くなってしまう。

しかし、泣きそうになるのを我慢して、とにかく足を前に動かした。

どれくらい歩いただろう。もはや疲労困憊で足を動かすことも出来ない程になったころ、唐突にしらゆきの視界が開けた。

今までうっそうとしていた森の様子が嘘のように、清々しい爽やかな空気になっている。陽の光が差し込み、今まで黒々と見えていた緑が急に青々と煌めいて見えた。気味悪さしか感じなかった草木には、ガラスの欠片のような露がキラキラと踊っている。

そして一番驚いたのは、その開けた場所の一番奥に一軒の小さな家が建っていたことだ。

誰かいるのかも知れないと、しらゆきの胸が期待に高鳴る。

しらゆきは足の疲れを忘れて、その美しい開けた場所へと足を踏み入れた。とにかくあの家に辿り着けば人がいる。景色の明るさと疲労は、しらゆきから警戒心を忘れさせた。少し歩くと優しい水音も聞こえてくる。近くに沢があるのかもしれない。

「助かったわ……」

ほっと胸をなでおろして、しらゆきは家の扉をノックした。

****

「ごめんくださーい」

何度目かのノックと、ごめんくださいを言って、しらゆきはようやく家に誰かがいるのかと期待するのを止めた。どうやらこの小さな家の家主は留守のようで、一体いつ帰って来るかも分からない。陽も暮れかけて、辺りは徐々に暗くなってきていた。

困ったしらゆきは、悪いことをしているのを承知で、そうっと扉を開けた。

小さな家の玄関はあっけなく開き、しらゆきを屋内へと導く。

「誰か、いませんかー?」

アレほどノックして誰も出て来なかったのだから誰もいないだろうとは思っていたが、居留守という可能性もありえる。念には念を押して、「誰かいませんかー」を連呼しながら、しらゆきは家の中をゆっくりと探索した。

玄関を開けたところに大きなかまどがあってテーブルが置いてある。食堂として設えられているその部屋の奥に居間が続き、さらにその奥には寝室や水周りなど、一通りの施設が整っていた。それも一般庶民が使うものよりはずっと上等な様子だ。誰も住んでいないのかと思ったが、床にもテーブルにも埃1つ無く清潔で、空気も淀んでおらずむしろ綺麗だ。しかし、生活感は何と無く薄い。

窓の外は暗くなっていき、灯りを点していない家の中はそれよりも早く暗くなる。しらゆきは観念した。

居間のソファにぺたんと座り、ふかふかの背もたれにぐったりと身体を預ける。

一日中、薄気味悪い森を歩いていたからだろう。森の地面は歩きにくく、しらゆきはすっかり疲れていた。この家の家主が帰って来るまでは起きていなければと思っていたのだが、心地よい空気と家の暗さがしらゆきの瞼を優しく閉ざす。

結局、そのまま眠ってしまった。

****

何かが優しくしらゆきの頬を撫でている。

頬だけではない。髪の毛を少し掬い上げては落とし、首筋をくすぐり、二の腕をくるりと何かが締め付け、腰に腕らしきものを回されて、スカートの中には何かが入ってきていて太ももに触れている。誰かに抱き締められているのかなと思ったが、抱き締めている腕は2本ではない。身体のあちこちを撫で回す存在は1つではなく、皆が同時にそれを行っているようだった。

唇を、細い指か何かがこじ開けようとくすぐっている。

「ん……」

しらゆきが、むずかるように顔をしかめると、唇に触れていた何かがスッと退いて代わりに誰かの唇が重なった。

誘われるように、瞳を開ける。

「しらゆき?」

「ダンテ……?」

しらゆきが目を覚ますと、そこは見知らぬ寝台の上だった。覚醒する前のぼんやりした脳内は、この場所がどこかをなかなか思い出さない。自宅の寝台でもないし……、それにどうして、ダンテがいるのだろうか。ダンテは、目を覚ましたしらゆきを、心配そうに覗き込んでいたのだ。

それにさっき、身体のあちこちを何かが触れていたような気がするのだけれど、夢?

ガバッ!……としらゆきが身体を起こす。びっくりして仰け反ったダンテが、慌てて背中に腕を回してしらゆきの身体を支えてくれた。

「しらゆき、急に起きてはいけないよ。随分疲れていたみたいだけど……」

「ダンテ、あの、ここ……どこ? 私」

「ここは僕が寝泊りに使っている家だよ。しらゆき、君はどうやってここまで来たんだい?」

「私、リュードに注文を受けて、それで……」

確かしらゆきはリュードから注文を貰って、彼に連れられて注文主のところまで出かけたはずだった。それから足を滑らせて斜面を滑り落ちて、戻れなくなって魔の森をさまよっていたのだ。小さな家を見つけて、恐る恐る中に入って、ソファに座ってそのまま寝てしまった。

少しずつ思い出しながら経緯を説明すると、ダンテはしらゆきの頭を労わるように優しく撫でてくれた。

「なんてことだ。かわいそうに……だいぶ疲れただろう」

「私……」

「それにしても、リュードめ……一体何を考えて」

ダンテが声を低くして、怒りを滲ませてつぶやいた。その声を聞いて、しらゆきはハッと顔を上げる。リュードは一体何のためにしらゆきを魔の森に連れてきたのか。その理由を思い出したのだ。

「あ、私……ソルシエ様に、追い出されて」

「ソルシエ夫人に?」

しらゆきは泣きそうな顔で、こくんと頷いた。そう、しらゆきは、領主のソルシエにシェンスタドを追い出されてしまったのだ。一体しらゆきの何が悪かったのかは分からないが、ソルシエの不興を買ってしまったしらゆきの作ったお菓子など、もう誰も買ってくれないだろう。それに、もし戻れたとしても、また追い出されるかもしれない。

あの家に……両親が残してくれたあの可愛い家に、もう戻れないなんて。

「しらゆき」

ダンテの手がしらゆきの頬に触れる。その手が優しくて、その声が真っ直ぐで、張っていた気が緩んだしらゆきは思わずぽろりと涙をこぼす。

「ダンテ……私、どうすればいいの。もう、戻れない、かも……うっ」

「しらゆき、泣かないで」

ずっとずっと泣かずにここまで歩いてきた。だが、突然魔の森に追い出されたしらゆきの身体と心は限界だった。一日中恐ろしい森の中を歩いた疲労、知らないうちに領主を怒らせたという恐ろしい事実、大好きな家に戻れないかもしれない現実に、やさしいダンテの手が追い討ちを掛ける。

大きな声を上げることなく、ただただ、ぽたぽたと涙を落とすしらゆきの身体を、ダンテが躊躇いがちに抱き締めた。