触手の1本がスプーンを持ち上げ、もう1本が大きなマグカップを掴んでいる。2本の触手がバケットを入れたカゴを捧げていた。もう1本はしゅるんとしらゆきのお腹に巻き付けられていて、ダンテの腕はしらゆきを満足そうに背中から抱き寄せている。ちなみに最後の1本の触手は、今は成りを潜めていた。
ダンテがにこにことしらゆきを覗きこんだ。マグカップの中はとろりと温かなじゃがいものポタージュスープで、焼きたてのバケットと共によい香りを放っている。
「しらゆき、スープとバケットどっちがいい?」
「あ、あの、ダンテ?」
「あ、スープに浸そうか。しらゆきは、ひたひた派だったよね」
「そうだけど、あの、話を」
「ほら、口を開けて」
あーん。
……とダンテが口を開け、ひたひたバケットをスプーンに乗せた触手が、ずずいと前に出てきた。その様子を困ったように見つめて、しらゆきは「ダンテ」と、改めて呼ぶ。
ダンテはしょぼんと肩を落として、食べ物を捧げ持っていた触手達もしなしなとしなびた。
無事にしらゆきが目を覚ましてから、ダンテはずっとこの調子だ。何か言いたそうなしらゆきに話をさせる暇を与えず、ダンテは世話を焼いている。しらゆきから自分を嫌う言葉を聞くのは耐えられなかったからだ。
しかし、いつまでもこの状態でいられるはずが無い。
しらゆきの世話を焼いている時間は幸せだったが、そんな幸せも終わってしまったような気持ちになる。ダンテは観念して、上目遣いでしらゆきを見た。死刑宣告を待っている気分だったが大袈裟では無い。ダンテはしらゆきの言葉に死ねるだろう自信がある。
「しらゆき、あの……僕」
「ダンテ、あのね」
「うん」
「わたし、もう一度ちゃんとリンゴのタルトを作りたいの」
「えっ?」
しかし、しらゆきはダンテの思っていたよりもずっと思いやりに満ちた優しい声で、なぜかもじもじと寝台の上掛けをいじりながら言った。内容も予想外で、一瞬何を言われたのか分からない。てっきり嫌いとか離してとか帰りたいと言われると思っていたのだ。
「ずっと作っていなかったでしょう? この前は全部ダメにしてしまったし、お気に入りの道具は、家にあるの」
「い、えに?」
「うん、取りに行ってもいい?」
ドキドキとダンテの心臓が早鐘を打つ。……しらゆきは「帰る」ではなく、「取りに行く」と確かに言った。お気に入りの道具を取りに行くだけで、家に帰るのではないのだろうか。いまだに都合のいい解釈ばかりをしてしまう自分に嫌になりつつ、それでも期待は高まった。
恐る恐る、聞いてみる。
「……僕も、一緒に行っていい?」
「うん。あの、手伝ってくれるとうれしい」
「手伝う、手伝うよ! それに、しらゆき、またここに戻ってきて……」
「戻ってきていいの?」
ダンテの言葉が終わらないうちに、しらゆきが嬉しそうに顔を上げたのを見て驚く。その疑問は、まるでしらゆきが戻ってきたいと言っているようではないか。
もちろんだよと、ダンテが何度も頷くと、しらゆきがダンテの好きな顔で笑った。その笑顔を見た瞬間、ポロリとダンテの眼から涙が落ちる。
「ダンテ! どうしたの?」
「……しらゆき、ごめんね。ひどいこと、したのに、僕」
「それは……」
「いいのかい? 僕と一緒にいると、僕はまた触手でしらゆきをあんな風にしてしまうよ」
しらゆきが、その事に始めて気が付いたように顔を上げ、頬を染めて俯いた。ぎゅう……と上掛けを握りしめて、何と言おうか迷っているようだ。だが、しばらくしてぽつりと言った。
「ずっとは、困る」
「……ずっと?」
「疲れちゃうし……その、洗濯やお掃除やご飯作ったりするのが、出来なくなってしまうから……」
「あ、じゃ、あ、そんな風にまではしないように努力する!」
「でも、嫌じゃないの?」
えええ!?
一番予想外の質問に、ダンテが驚いて仰け反った。ぱちぱちと何度も瞬きをして、眩暈がしそうな程頭を振る。何をどう解釈したら、あの行為をダンテが嫌だと思っていると勘違いするのだろう。嫌なわけが無い、何言ってるんだ。
嫌どころか、こうしてしらゆきを背中から抱き締めているだけでも何回かイケそうなのに。
しらゆきの可愛い声も、潤んだ瞳も、想像以上に白くて柔らかで大きかった胸も、特にそれに挟まれた時などは、思い出しただけでも一番太いあの触手が首をもたげる。
「嫌どころか……しらゆきを離せなくなって困る位だったのに」
「えっ、でも、いっつも苦しそうだったでしょう?」
「それは……」
確かに苦しかった。
情欲をしらゆきにぶつければ、しらゆきに嫌われてしまう。だがしらゆきへの執着と性欲は制御できない。泥沼のようにしらゆきへと落ちていき、落ちていくたびに、しらゆきの「いや」「こわい」を聞かされて、さらに暗い思いに囚われる。
それでもしらゆきを愛でるあの時間はどうしようもなく幸せで、幸せを感じる身勝手さが辛かった。
説明できなくて、ダンテはしらゆきの髪に頬を擦り寄せる。
「しらゆきのこと、すごく好きで辛かったんだ」
「え?」
「もうひどいことしない。一杯、気持ちよくしてあげるから」
「あんまりやりすぎるのはこまるよう……」
ぼそりと言って俯いたしらゆきの薔薇色に染まった頬は、なんて可愛らしいのだろう。ダンテは「分かった。がんばる」と言ってしらゆきに触手達を絡みつける。
だから。
どうか、いつまでも僕と一緒に居ておくれ。そう言って、ダンテは触手でしらゆきをぎゅうっと包み込んだ。
「しらゆき、大好き」
そういって、しらゆきの首筋に鼻をくっつける。ダンテの柔らかい黒髪がしらゆきをくすぐるのは心地が良く、しらゆきもダンテの身体に腕を回した。
「私も、好き」
「本当!?」
ダンテがしらゆきの首筋から顔を離して、嬉しそうに目を丸くする。その顔を見て、しらゆきもまた嬉しそうに微笑む。
「怖くない? 僕のこと」
「怖くない。ダンテはダンテでしょう?」
ダンテの執着も魔性も、しらゆきはやすやすと受け止めてくれる。
その幸せを胸にいっぱい吸い込んで、ダンテはしらゆきにキスをした。それは、しらゆきが想像した通りの愛し合う恋人同士がするような優しい口付けだ。
こうして、しらゆきはもう両親の居ない寂しさを思い出すことはなくなり、ダンテは愛しい伴侶と今度こそ愛のある生活を送ることになった。
しばらくして2人はとうとう夫婦になって、しらゆきの家に移り住んだ。しらゆきはリンゴのタルトやアップルパイを作って、また<7人の小人>で売ってもらうようになり、ダンテは今は国から派遣された6人の部下達と共に、相変わらず魔の森の調査をしている。
時折何かをお願いしに、王国の偉い人がダンテの元を訪れる時があった。そのような客にしらゆきがリンゴのタルトを振るまうと大変美味だと評判になり……、じきに本国の父王とその妃の元にもその評判が届き、献上に赴く機会に恵まれる。
美味しいお菓子を作る愛らしい義理の娘を父王夫妻は大層喜び、第3王子が心からの伴侶を迎えたことを温かく祝福した。
2人はいつまでも仲良く幸せに暮らしたということだ。
*
*
*
*
*
さて。
シェンスタドの魔女はどうなったかというと。
「化物め!」
赤いフードでも被ったような真っ赤な美しい髪を無残に振り乱して、ソルシエはガシャンと鏡を壊した。その鏡には先ほどまで、しらゆきとダンテが絡み合い、寝台に沈み込む様子が映っていた。
自らの手でしらゆきにリンゴを届けにいき、しらゆきがそのリンゴを使ってタルトを作り、ばたりと倒れたところまでは確認したのだ。
これでダンテは自分のものだと思いながら、早速館に招待する準備をしていると、急に自分の放った呪いがぐしゃりと潰されたのを感じた。
嫌な予感がして鏡を確認してみると、目を覚ましたしらゆきをうっとりと眺めるダンテの姿が映っている。
しかもダンテは、不気味な触手の化物で……。
「おのれ、おのれ、2人で私をバカにして……!」
自分が惚れた男が触手の化け物で、なお、しらゆきはそんなダンテの様子にも怯えることなく、愛を受け取っていた。ソルシエはしらゆきに、愛も美貌も何もかも敗北したのだ。
なんて哀れなソルシエ。
だが、しらゆきを一度殺した報復は受けてもらうよ。
そのような感情と共に近づく男の影に、ソルシエは気付かなかった。
魔法の鏡を壊して、悔しさに打ち震える主をおろおろと見守るむく犬の人狼に、そっと近づく黒いマントの男があった。男はリュードの隣に並ぶと、そのよく聞こえる大きな犬耳に顔を近付ける。
そうして抗い難い甘い声で囁いた。
「ねえ、お腹を空かせたリュード。なりそこないでも狼の血が騒ぐのだろう? もう我慢することなど何も無い」
ソルシエを見ていたリュードが目を見開き、グルルと腹を鳴らす。その様子にマントの男が何もかもを見透かしたように、クスクスと笑った。
「お前が小さな頃から欲しがっていた美味しい餌は、今、悲観に暮れて無防備だ。しかも愛と伴侶を求めているよ。お前が食べて、慰めて、ずっとそのおぞましい呪われた身体で守ってやるがいい。餌も誰かに食べられることを望んでいる」
グウウ……とリュードが、ソルシエに一歩、二歩、歩み寄った。
それを見届けて、マントの男は身を翻す。
男の背後で女の悲鳴が聞こえた。「どうして?」とか「なぜ?」とか、何度も何度も涙声の質問が繰り返される。幾度かそれを繰り返して、再び絹を裂くような悲鳴に変わった。
その悲鳴は幾晩も響くだろう。
「だけど、その気になれば、なりそこないの人狼などシェンスタドの魔女なら抗えるはずだ。そうしないのはなぜだろうね?」
シェンスタドの領主一族は、ソルシエの代を境に人狼の血が混じるようになるのだが、マントの男にはどうでもよい話だ。
「さ、リンゴとシナモンを買って帰らないと!」
マントの中の形のよい口元を綻ばせて、男は愛する女の顔を思い浮かべる。
今日はちょうど満月だから、魔の性分はその本性をあらわすだろう。自分も早くこの手にしらゆきを抱きしめて、思いきり可愛がりたい。