002.侍女の場合

ギフヴェントは離れで裸の女を腕に抱きながら、事務的な口調で淡々と言った。

「俺の結婚が決まった」

女が、ぎょっとしたような表情で顔を上げる。

「これは……王からの勅命だ」

何かを言おうとした女をきつく抱きしめて自身の胸板に押し付け、女が言おうとした言葉を塞ぎ、続ける。

「ミア……俺は、お前を離すつもりはない」

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エイメ・リウェリは王女の連れてきた侍女である。

もともとは商家の娘で貴族ではないが、貴族とほぼ同等の教育を受けて王族の侍女に就職した。王城で王妃に仕えて2年。それから王城を出て、シルウィス王女に仕えて2年ほどだが、彼女が公式に姿を現さない理由も、また彼女の生活事情も知らされている一人だ。

王女が公務に出席しないのは様々な理由が憶測されていたが、本来の理由は幼児の折、蕁麻疹に掛かった時の、見た目からの心因性のストレスだそうだ。子供は誰もが掛かるものであったし、もちろん今では綺麗に治っている。だが、一度受けたストレスはなかなか解消できず、周囲の王子王女達が華やかでもてはやされたこともあって、表に出ることが出来なくなってしまったらしい。

王女はここ2年ほどは少ない使用人とヒルダ・ジェイルという元女官長の老婦人とエイメのみを連れて、郊外にある屋敷に移り住んでいる。

エイメにとって王女は、貴族の身分などに関係なく、皆に優しく平等に接するよき主人だった。他の王子王女と比較されるのを辛く思っているようだったが、王女自身はとても愛らしかったし、他の王子・王女達に比べても遜色無いように見える。むしろ派手やかでない分、しとやかな魅力があってそうした居住まいが美しい。

ただ、もう少し野心があってもいいと思うのだ。

平等で優しいのは魅力だが、貴族社会においては押しが弱いと意見が通らない。貴族ではなくとも金銭を武器に貴族と渡り合ってきた親を見ているエイメには、王女は少し気の弱い風に見えた。

そもそも装いが地味でいけない。女の戦いはまず見た目から。そうでなくても可愛い格好をすれば心も晴れるだろうし、気分も変わるかもしれない。エイメはそうした年頃の娘の化粧や服飾の趣味に長けていた。王女の姿に何が似合うか、総合的に自信を持ってお勧めすることができる。しかし、王女は華美な装いや目立つ服装は好まなかった。目立たぬように過ごしていることもあったから、致し方のないことではあるが。

もちろん、そういう控えめなところが王女の得難い美徳であることも分かっている。しかしそれでも……他の王女や王子達の活躍が耳に入るたびに、いわゆる「うちの王女ひめ様だって!!」という思いを抱かずにはいられない。

そこにこの政略的結婚である。

しかも相手は愛人の噂の囁かれる英雄だというではないか。

愛人とは一体どのような女なのか。年齢も容姿も正確な情報は隠されたままだ。さすが英雄というべきか手練の将軍というべきか、存在自体は知らしめながらもその実態は巧みに隠しているのが憎たらしい。

そして将軍は第二王女の降嫁という栄誉を得たことにも動じず、いまだにその愛人と切れていないというのだ。王族を妻に迎え入れるのだ、恋人の二、三人居たとしても身辺の整理をするのが普通だろう。しかしどうやら、つい先日も……王女がすでにこの屋敷にいるというのに、離れに愛人を連れ込んだのだという。ティエルとかいう使用人が他の使用人とひそひそ噂をしていたのを聞いていたので間違いない。それも、侍女であるエイメが王女の結婚の準備のために王城に出向いている隙を狙ったのだ。ようやく仕事が終わってエイメが翌日の昼に帰ってきたとき、憂鬱そうな表情をしていた王女の姿がいたたまれなかった。

なんてかわいそうな王女ひめ様。一体エイメに何ができるだろう。控えめな王女は政略結婚であるという自分の立場を知っているはずだ。出しゃばらずに侯爵家の妻として振る舞い、愛情は愛人に任せる……などと言い出しかねない。

負けたくない。

うちのご主人様が一番可愛い。それを将軍にも知ってもらいたい。

……そうした感情が、忠義に厚く王女に同情的なエイメに当たり前に生まれた。ゆえに、エイメは王女にために……さらに言えば、王女が将軍の愛情を得るためにできる限りのことをしようと力一杯考えたのである。

それが、将軍と王女の「買い物デート」であった。

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ギフヴェントと王女の買い物デートとやらの計画を多少の不安を持ちつつも、協力を請け負ったのは家令のスウェイクと使用人のティエルだった。愛人の存在と噂については第二王女側も知っているのだろう。王女が連れてきたエイメが、慣れぬ環境で気疲れせぬように、また「将軍と親交を深めるため」の時間を設けるように提案してきたのだ。

本妻である王女を大事にし、家の名誉やよろしくない噂を払拭するためにも、愛人とやらの存在は遠ざけ……できることなら別れて欲しいと思うのはティエルらリムガウ家も望むところではあった。愛人には申し訳ないが、割り切った仲である以上は身を引くのが筋であろうし、逃げ隠れしている愛人よりも、リムガウ家に懸命に慣れようとしている健気な王女に肩入れしてしまうのは無理からぬことだ。

家令のスウェイクがさりげなく、「明日は休みですから、買い物などに出かけてごらんになってはいかがですか」と提案する。

その日はギフヴェントも早くに仕事を終わらせて帰宅し、王女とともに夕食をとり、居間で寛いでいたのだ。

寛いでいた……と言っても、ギフヴェントは相変わらず無口で、時折恐ろしい形相でおっとりとレース編みをする王女を睨みつけている。

それが何度か続いた後、とうとう王女が申し訳なさそうにレース編みの手を止めてしまった。

「あの……申し訳ありません」

「謝る必要はない」

「でも」

「やめる必要も無い。勝手にやるがいい」

いくらレース編みとかそういう女っぽい訳の分からないことに興じているからといって、そんな言い方しなくても!! 控えていたティエルが緊張に目を見張り、エイメが怒りで顔を赤くした。しかし、王女も王女で淑やかに見えて肝が座っているのか、再びレース編みに視線を落とし、手を動かし始める。

「明日は俺も休みをもらっている」

苦虫を噛んだような低い声色でギフヴェントがやっと切り出した。王女が再び手を止めて顔を上げる。

「まあ」

「どこか行きたいとこがあるなら、連れて行ってやる」

軍隊の申し送りじゃないんだから、もう少し優しい言い方ってものがあるだろうとハラハラしながら、緊張感を持って王女の言葉を待つ。ちなみに事前の準備は万全だ。エイメに頼んで、城下で一番人気の喫茶カフェや流行の宝石店などの情報が掲載された雑誌を王女にそれとなく見せている。かなり興味深く見ていたということだから、年頃の女性であれば行ってみたいと言うに違いない。いや言ってください。

しかし王女は使用人全員の期待に反し、このように言った。

「では、私、レース編みの糸を売っているお店に行ってみたいのですが」

居間の空気が凍りついた。

なんだってそんな、なんだってそんな!!

なんだってそんな、男には分からない世界の中でももっとも男には分からない世界の店を出してくるのか。女性の服飾専門店とか貴金属のお店とか、まだ比較的分かりやすい店もあるではないか。そして女性の訳の分からない買い物に付き合わされるなど、男性にとって苦行というほかない。

ああ……。言わんこっちゃなかった。ギフヴェントが額に青筋をうかべんばかりの表情を浮かべ、一度ティエルを睨みつける。その視線から逃れてティエルが「どういうことだ」とエイメに視線を向けると、エイメは無責任にも「私は何も知らない」という風に首をふるふると振った。

すなわち「せっかくの休みをレース編みの糸などという意味の分からぬ買い物に付き合わねばならぬのか」ということであろう。こういうとき、愛人ならばかわいく宝石などをおねだりするだろうに。

しかし王女の希望を聞いた手前、「ダメだ」とは言えなかったのか。それとも愛人を囲っている後ろめたさが多少なりともあるのか、ギフヴェントは表情を無に帰しながら「よかろう」と言った。

買い物は供を連れずに王女とギフヴェントの二人で行くこととなった。

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せっかくの「買い物デート」であるというのに、まさかレース編みの糸を見繕いに行くとは、エイメにも予想外だった。王女の年齢は22歳。エイメとちょうど同い年で、つまり、素敵な喫茶カフェでお茶をして、身に着けるものを買い物するなど好きなはずではないか。ちなみにエイメはそんな買い物デートが大好きだ。

いや別にレース編みの糸を買いに行くのが悪いと言っているわけではない。王女のレース編みの腕は素晴らしく、趣味のものを買いに行くのは楽しかろう。しかし、しかしである。夫と二人で腕を組んで仲良く見にくるものでもなかろうと思わずにはいられなかった。それを聞いたときにギフヴェントが気難しい顔をさらに気難しく歪めたのも致し方ない。

買い物に「お前たちは絶対ついてくるな、供は不要だ。絶対に要らん」と強く言っていたのも、将軍ともあろう男が妻と一緒にレース編みの糸を買うなどという姿を見られたくないからだろう。密やかに、それと知られることなく厳重体制を敷いて、二人は買い物に臨んだ。とても和やかなデートどころではない。

そこで何が行われたかは到底分からない。

しかし、間違いないのは、ギフヴェントは相当ストレスが溜まったのだろうということだ。疲れた顔をして帰宅するなり「離れに行く」と言って、王女を下がらせた。しかもエイメは聞いてしまった。ギフヴェントが家令のスウェイクに「心得ているだろうな」と耳打ちしているところを。おそらく愛人を手配したのだ。

王女と買い物した直後に愛人を呼ぶなどと。しかも家令のスウェイクは、あの様子だと、事情を知っているに違いない。それはそうだ。邸宅に一人くらいは事情を知るものがいなければ、バレずにうまくできっこない。こんな近くに敵がいたなんて。

なんということだ。せっかくの買い物作戦が裏目に出てしまった。このままでは王女にまた悲しい思いをさせてしまう。

エイメは急いで王女の部屋へと戻った。

しかし、そこに王女の姿はなく、エイメの胸は不安に襲われる。ちょうどギフヴェントを探していたらしいティエルを捕まえて、王女がいなくなったことを告げると、ティエルはさっと顔を青くした。

「まさか、離れの方にいったのではあるまいな」

王女は慎ましい性格だったはずだ。愛人が来ると分かっている離れに自らやってくるとは思えない。しかし、リムガウの屋敷は輿入れしてきた王女の屋敷でもあるのだ。自由に歩き回る権利は与えられている。離れの方向に彼女がそれと知らずに出向く可能性だってもちろんあるのだ。

もちろん杞憂であればそれでいい。だが、それならばそれで、確認しにいったって間違いはあるまい。

ティエルとエイメは言葉は発しなかったが、同じ思いを持つものとして互いに何を考えているか分かり、顔を見合わせて頷いた。そして同時に駆け出す。

「離れはこっちだ」

リムガウ家の使用人であるティエルがエイメを先導した。薬草園や温室の置いてある素朴な裏の庭の奥にある、少しの木を植えた場所にギフヴェントの離れがあった。冬の寒さに木々はすっかり葉を落とし、裏庭の見通しはよい。そこに、見間違えるはずのない巨漢、ギフヴェントの姿があった。

ティエルに引っ張られてエイメは咄嗟に木の影に姿を隠す。

しかし、そっと外を伺い頭に血が上った。

なんとその傍らに小柄な女性を連れていたのだ。

「ギフヴェント閣下!!……もう我慢なりません。シルウィウス様という方がありながら貴方は……」

そう叫びながら出て行くと、ギフヴェントが連れている女がゆっくりと振り向いた。その姿を見て、エイメは絶句する。

「エイメ……? 一体どうしたの?」

ギフヴェントが腰に手を回して愛おしそうに寄り添うその女性は、栗鼠のような灰色がかった栗色の髪に眼鏡をかけた慎ましやかな女性。

……すなわち、シルウィウス王女だったのだ。

それを見て、エイメは頭が真っ白になって言葉を失う。愛人を連れ込む離れに、妻となる人までも連れ込むなんて……!!

四人の間に緊張感が走り、ギフヴェントの低い声が二人を脅すように響いた。

「貴様ら、こんなところで何をしている……」