ウェルロンドの英雄、守護獅子ギフヴェント・リムガウをウェルロンド国王はじろりと睨みつける。
「あれは、私の娘だ。分かっているのか」
「存じております」
「お前の行い。許さぬぞ」
****
ギフヴェント・リムガウには、人には知られていない密かな秘密があった。
古ウェルギルスの戦士の血を最も純粋に受け継ぐリムガウ家の男子は剣と武術で家族を守り、誠実な男であり戦士であることを求められる。そうしたリムガウ家の男子であるギフヴェントに、それはあってはならぬ秘密であった。
剣に生き、戦いに生きることを厭うたことは無い。幼い頃から教え込まれた剣術、さらには剣術だけではなくあらゆる武器を操る技術を身につけ、戦場で敵無しになることは彼にとっては必然。ウェルギルス一の戦士であることを常に求められ、彼が守護獅子となるのは栄誉ではなく当然のことだ。
そんな彼とて、戦いに赴かぬ時には一時の心の安寧を求めたいことがある。それはウェルギルスで最も強い男の精神と、どのような戦況にあっても動じぬ心を支え、安定をもたらすことに必要なものであった。
戦場には出よう。それ以外は心穏やかでありたい。しかし、そうささやかに願うことを王は許さず、領地へ戻りリムガウ侯爵家を継ぐことは先延ばしにされた。中央の軍事に縛られ、こちらの機嫌を伺い醜聞を逃さぬ貴族達の相手をせねばならぬ。
そうした世俗から少しでも逃れるために、ギフヴェントは秘密を守る離れまで作り、没頭した。飽きることのない恍惚とした世界は、彼を魅了する。
しかし、ある日のことだ。その秘密の一片が、手のひらからこぼれ落ちた。
「閣下。……端切れが」
息の詰まる机上の仕事から解放されたものの、執務室で珈琲を味わうのもやはり息が詰まる。ギフヴェントは仕事の合間に、奥まった休憩室へと足を運んだ。その休憩室は彼自身の執務室からは遠い場所で、足を運ぶのは面倒だ。しかし人の往来も少なく、特に彼しかいないという時間も多くあった。そのような場所で掛けられた声だったから、ギフヴェントは飛び上がらんばかりに驚く。
身体中の血が逆流するのを感じながら、誰だとすごんで振り向くと、そこには白衣を着て眼鏡を掛けた小さな女が一人、いた。
「これを、落とされたようで。閣下のものでは?」
「あ、ああ。作らせたものが、書類に紛れてい、いたようだ」
女が持つ一欠片の端切れ、それを発見されたのはギフヴェントにとって敵に斬りつけられるよりも緊張の走る出来事だった。動揺に思わずどもりながら、ひったくるようにして女の差し出した端切れを奪い取る。この端切れはレース編みの一部だ。クローバーをモチーフにした立体的な作りで、一部、小鳥のような印象が加えられている。
「随分と丁寧にお造りになられているのですね。……それに糸が」
「……何?」
「これはもしかして、アージュ産の綿花で作ったウェイジ青染の糸……? 素敵、羨ましい……」
「貴様」
ボソボソと女が独り言のように言った言葉に、ギフヴェントは声を低くして受け答えた。その声に慌てたように女が顔を上げ、顔を赤くして頭を下げる。
「も、申し訳ありません。つい……私も探していた糸だったもので」
「探していた?」
「は、はい。この糸、とても珍しくて滅多に入荷しない糸で……特にこの青! この青はウェイジ村でももう少ないウェイジ染の中でも特に美しいと言われている青色で……」
「知っているのか」
「は、え?」
「この糸のことが、分かるのか」
ギフヴェントは思わず女の両肩をがっしりと掴んだ。女が慌てて「はい」と何度も頷く。そして、男ですら泣きそうになるギフヴェントの恐ろしい一睨みにも全く動じることなく熱っぽく続けた。
「もし、これを……閣下の奥方や、その……存じている方がお造りになられたものでしたら、よかったらこの糸の入手したお店を教えていただけたら……きゃっ」
ギフヴェントは思わず女の両手を握った。女が持っていた書類がバサバサと落ちたが、この一大事にそんなことを気に留めてはいられなかった。
ごくりと唾を飲み込むと、骨太の喉仏がガックンと動く。それに驚いたのかどうなのかは分からないが、ともかく小さな女が驚いた風に目をパチパチと瞬かせ、まっすぐにギフヴェントの薄い茶色の瞳を見つめた。
女の瞳は……眼鏡の向こうの瞳は、濃い青色をしていた。海の底のような、吸い込まれそうな青だった。
その瞳に誠実さを見て取って、ギフヴェントは真実を話すことにする。この真実を話すこと自体が、この後のギフヴェントの人生を大きく変えることになる。愛を手に入れ、さらには国の最も貴い存在の信頼も得ることになるのだが、しかしよくよく考えてみると、一目見た女に自分がこれまで誰にも……親にも使用人にも、最も近しい人間にすら話したことのない真実をよく話す気になったものである。ともかく、この出会いが彼の人生の全てを変えたのだ。
「他言無用だぞ」
何度も念を押すと、女もまた、深刻さを分かっている風に頷いた。
「……はい」
「これは、俺が作ったものだ」
****
ギフヴェントの趣味は、レース編み、刺繍で、好物は甘いものである。特に焼き菓子にアイシング細工を施したものは、いつか自分も新たな趣味として開拓しようと企んでいた。
そして現在ハマっているのがレース編みで、特に糸の太さを巧みに変えて立体的に編んだ意匠を連ねたものに凝っている。リムガウ家に古くから伝わる古ウェルギルスの伝統的な編み図にギフヴェント自ら改良を加えたもので、繊細な編み物に熱中する時間は癒された。
その趣味を通して知り合った女は、エウフィミア・ウィルンドといった。中央司令府にて、戦場の緑化や農場の復興などを推進する緑化推進課に勤める研究者だ。いつも白衣を着ていて、他の女性のように髪を伸ばさず短く切りそろえている。その髪型のせいでどこか幼げで控えめに見え、事実、とても控えめな女だったが、趣味の話となるとギフヴェントにも恐れをなす事なく意見する。
ウェルギルスの守護獅子に(レース編みについて)意見をするのだから、さぞ積極的な女性だろうと思って勤め先でそれとなく観察してみると、勤めている仕事の内容については理知的で過不足のない働きをするものの、こと対人関係に至っては遠慮がちで積極的ではない風に思えた。それなのに、彼女はギフヴェントにだけは積極的で、共にいる時間はレース編みの時間以上に癒される。
何よりエウフィミアはギフヴェントの趣味に対して、引いた態度を取らなかった。意外そうな顔すらしなかった。忠実に、誠実に、同じ趣味を持つ仲間として、ギフヴェントに接してくれる。今まで己の世界に閉じこもりがちだったレース編みや刺繍について、己の意見を言ったり互いに教えあったりする時間は楽しいものだ。
今までずっと誰とも秘密を共有することがなかった孤独なギフヴェントの心に、エウフィミアが染み込むのはすぐだった。最初は彼女と趣味の話と趣味の世界に没頭するだけで楽しかったのに、すぐにそれだけでは物足りなくなる。レース編みの話をするために彼女と会うのではなく、彼女と会うためにレース編みを極めた。
職場でそれほど込み入った話をすることはできない。ギフヴェントは休みの日が合ったときにエウフィミアを自身の愉悦の世界……つまり離れへと招待した。離れには趣味に没頭できる編み図や道具を集めた部屋があり、簡単な食事ならば作ることのできる台所も寝室も設えている。
二人の距離が縮まったのは、ある寒い雪の日のことだ。窓の外には、積もるほどではないものの、チラチラと雪が降っていた。それに反して小さな離れの小さな居間には、狭く可愛らしい空間に小さな暖炉が置かれていて、時折パチンと薪の爆ぜる音がして、焦げた木の香りが暖かい。
「外は随分と寒そうだな」
黙々と編んでいた手を止めて、ギフヴェントが顔を上げた。つられたように顔を上げたエウフィミアが「何か飲み物でもお淹れしましょうか?」と席を立ったのを片手で制して、ギフヴェントは棚から蒸留酒を取り出した。
「これは……」
「アージュ産の蒸留酒だ。飲んでみるか?」
「アージュ産!」
エウフィミアが嬉しそうに手を叩いた。一番最初にエウフィミアとギフヴェントを出会わせた綿花の産地の名である。アージュは蒸留酒用の穀物の産地としても有名で、そこで醸造されるまろやかなアージュ・ウィスキーは人気の味わいだ。
「それならば、閣下、私が身体の温まる飲み物を作ってさしあげます」
「ほう?」
エウフィミアが立ち上がり、ギフヴェントの許可を得て、すっかり勝手の知ったる棚から薬草を漬け込んで作った酒を取り出した。
「私の家族だけが知ってる、秘密のレシピなんです」
「それは楽しみだ」
二人で台所に行って、ギフヴェントはエウフィミアの楽しげな姿にすっかり魅了されていた。巷の男たちが騒ぐような華やかさは無かったが、エウフィミアはしとやかで小柄で、澄んだ声色も少し荒れた器用な指先も、細い手足も、何もかもがギフヴェントにとっては愛らしい。
ギフヴェントが何か手伝おうと申し出ると、濃いめ珈琲を淹れてくださいと命じられた。その間にエウフィミアはアージュ産の蒸留酒と薬草酒を混ぜたものを小さな鍋に入れて火にかける。
酒精があまり飛ばない内に熱い珈琲と混ぜてぐるりとかき混ぜ、火からおろした。
「ここにお砂糖を少し。あとはこれを混ぜるだけです」
そうして出来た珈琲に砂糖を一欠片入れて透明なグラスに注ぎ、ちょうどシフォンケーキを作った時に余ったクリームをその上に浮かべた。黒と白の層が出来て美しい温かな酒は、グラスを持つ手をほんのりと温める。
早速居間に戻ってソファに座り、一口飲んでみる。生クリームが混ざったからか、舌が焼けるほどの熱さは感じない。しかし喉を通ると、まずは蒸留酒の豊かな香りが鼻腔を通り抜ける。それから生クリームの混じったコクのある甘さの珈琲の味わいが追いかけ、最後に度の高い酒特有の熱が、喉の奥に落ちていった。
「これは美味い」
「よかった」
エウフィミアは小さく笑って、随分と念入りに生クリームを混ぜていた。白と黒が混ざり合い、まるでエウフィミアの髪の色のようにまろやかな色合いになる。エウフィミアもそれに一口、二口、口を付けてはギフヴェントに小さく笑う。
崩れた生クリームから溢れた酒の蒸気が、眼鏡を曇らせた。「あ」と小さな声を上げて、エウフィミアが眼鏡を外す。
「エウフィミア……」
ギフヴェントは酒に弱い性質ではなかったが、強いていえば酒の甘さと熱さ、そして夜の寒さに酔った。
眼鏡をかけ直そうとする手を押さえて唇を近づけると、エウフィミアがほう……と健やかな息を吐く。吸い込まれるように、唇を重ね合わせた。
腰に腕を回すと、想像以上に細くて華奢だ。自分の腕が常人の何倍も太く強いからかもしれないが、少し触れれば折れてしまいそうなその身体をギフヴェントは大切に、繊細なレース編みのように扱った。
「ミア、触れてもいいだろうか」
「閣下……」
「閣下はやめてほしい」
「ギフヴェント……さま」
「さまも要らない」
もう一度名前が呼ばれる前に、ギフヴェントはエウフィミアをソファに押し倒した。
****
離れには寝室も設えてある。しかし、一人が寝泊まりするだけの寝台しか置いておらず狭いものだ。巨漢のギフヴェントが一人横になればそれで一杯になる程度のものしか置いていない。そこにエウフィミアを運び、ギフヴェントは己の身体で包み込んだ。
口付けする時と服を脱ぐ時には外した眼鏡を、ギフヴェントはエウフィミアに掛け直させた。
「眼鏡は外さなくてもいい」
「あ……」
「見えぬのは不安だろう。落ちぬようにゆっくりする」
「……閣下」
「不安なら俺のことを見ていろ」
そう言って、ギフヴェントはゆっくりとエウフィミアに触れた。
窓の外は未だ寒く、二人は何も着ていない。だが冷たさは感じなかった。エウフィミアの身体は温かく、そして柔らかい。
エウフィミアの身体を背中から抱きしめ、足と足を絡ませて、その間に指を伸ばす。太い腕をエウフィミアの身体の前に回して、秘部を優しく隠すようにそこを捏ね回していた。
「ミア……ミア……愛しい」
「ギフヴェント……あ、あ……」
初めて男を受け入れるのであろうそこは、驚くほど狭く、きつかった。ギフヴェントは長い時間をかけて解きほぐしていく。指を一本、二本……ゆっくりと出し入れすると、粘ついた音と共にそこが少しずつ広がり奥が溶けた。
もう片方の手はエウフィミアの胸を柔らかく弄った。びくびくと逸れる背中をギフヴェントの逞しい身体で受け止めながら、時々花芽を押しつぶすように手の腹に力をいれる。
「ひあ、あ」
その度にエウフィミアの身体が跳ねるのが愛しくて、ギフヴェントは何度も愛を囁いた。こんなに饒舌になったことはなかった。ギフヴェントは普段は無口で、必要なこと以上は口にしない。けれどエウフィミアを相手にすると勝手が違った。
「あ……あ、ギフヴェント……や、あ」
それは、おそらくエウフィミアの唇が動く様子を見たいからだ。レース編み、刺繍糸、それらについて楽しげに話す唇。受け答える己の心が軽くなる、この対話が楽しい。
エウフィミアの身体を寝台に沈めて上に乗る。
「少し……我慢してくれ、エウフィミアっ……」
己を当てがい、じっくりと挿入した。これまで指でしてきたのと同じだけの長い時間をかけて、できる限りゆっくりと欲望を押し進める。一気に貫いた方が負担は少ないのかもしれない。しかしこの狭い箇所が痛むかと思うと、そんな恐ろしいことはできなかった。
気の遠くなるような時間に感じた。自分自身の理性という、これまでにないほど手強い相手との戦いだった。やがて互いの秘部がこつんと当たり、ギフヴェントの欲望の全てが収まったことを知る。
かなり大きかったであろうに、エウフィミアのそこに全て飲み込まれていた。
「ミア……だいじょ、ぶ、かっ」
「大丈夫……あ、ギフヴェントが、中に……わた、し」
「ああ」
「好き、です、……すきなの、あっ……!」
思いがけぬ告白に、ギフヴェントが思わず唸った。動かせぬほどきついのに、動かさずにはいられない。激しい抽送はできなかったが、腰を引き寄せ奥を抉るように細く揺らし始める。
「ギフ、ヴェント……あ、眼鏡を、はずし、てっ……」
「ん……」
揺れが徐々に激しくなり、ギフヴェントはエウフィミアの眼鏡を外してやった。その途端、ぎゅう……とギフヴェントの胸板に額を触れさせるようにしがみついてくる。
「くっ……奥が……」
エウフィミアにしがみつかれ、結合がより深くなった。寝台がギシギシと揺れ、その揺れのリズムに同調するようにエウフィミアの声も揺れ、ギフヴェントの吐息も荒くなる。声を出してみろと命じると、逆に肩口で声を塞ごう恥じらう姿がただただ、可愛い。
幾度か動かしただけで、ギフヴェントは限界を迎えた。歯を食いしばり、理性の全てを掻き集めてエウフィミアの身体から抜け出す。
途端に、あふ、とエウフィミアが小さな吐息交じりの声を上げた。同時に跳ねるように外に出たギフヴェントの欲望が、エウフィミアの腹の上に白い精を吐き出す。
これまでに味わったことのない深い愉悦と、それを吐き出した解放感に、全力疾走した後のような荒い息を吐きながら、ギフヴェントはエウフィミアを見下ろした。
「ミア……愛してる、ミア」
己の身分も立場もこの時だけは関係なかった。
ただ、ひたすら、エウフィミアが愛しかった。
****
それから、ギフヴェントはエウフィミアと恋仲になった。レース編みに刺繍糸、編み図やモチーフを競い合ったり、新しい糸が入荷したと聞いては、何色にするかを仲良く話し合い、それが終わったらどちらからともなく愛を囁きあっては抱き合った。
二人が関係したすぐ後のことだ。もう一度、珈琲にウィスキーを落として生クリームを浮かべた酒を作ってもらいながら、話を聞いたことがある。
「母が、父によく作っておりました」
「ミアもよく飲んでいたのか?」
「いいえ。父と飲んだのは……お酒が飲めるようになってから一度だけ。作り方は母に教えてもらいましたの」
「家に伝わる味ということか」
ギフヴェントの言葉には何も答えず、エウフィミアは軽く眼鏡を押さえて俯いた。エウフィミアは心を閉ざす時に、眼鏡の位置を直す癖がある。黙ってしまったエウフィミアの肩を、ギフヴェントはそっと抱き寄せる。
付き合いが深くなるにつれて、家族の話を聞いてみることがあった。しかしそうした時のエウフィミアは、言葉を濁すだけで明確な答えは返さない。
ギフヴェントはエウフィミアとのことを、もちろん遊びと割り切るはずがなかった。こんなに愛しく、そして自分を理解してくれた女は居ない。もう手放すことなど考えられない。だからこそ、正式に妻として迎えたいと思うのは順当な発想だっただろう。
何度も、結婚を申し入れた。
しかしなぜか、エウフィミアは首を縦に振らなかった。
最初は身分のことを気にしているのかと思っていた。ギフヴェントは侯爵家の嫡男であり、ウェルギルスの英雄だ。ギフヴェント自身、そうした自分の地位を正しく理解している。だからこそ、エウフィミアとの付き合いは誰にも知られぬように厳重な体制を敷いてきた。それこそ、レース編みの趣味を隠してきた以上に気を使った。秘密は家令のスウェイクのみに話し、他の使用人には教えていない。
しかし、人間には勘の働く者も多くあるようで、ギフヴェントが定時通りに帰宅したり、頻繁に離れに出入りするようになるのを知られると、「中央司令府内に恋人がいるのではないか」という噂を立て始めた。嘘ではない。ゆえにギフヴェントも否定はしなかった。そうしておくことで見合いの話を断る理由にもなる。
そしてそれ以上に、エウフィミアがなぜ頑なに結婚しないのかが分からない。身分ゆえかと聞いたこともあるが、エウフィミアは首を振るだけだ。
離れの狭い寝台で愛するエウフィミアを何度も何度も抱きながら、それ以上は問えなかった。エウフィミアとの関係は深く親密でありながら、どこかふわふわとした不安も伴う。エウフィミアはギフヴェントに、何か重大な隠し事をしている。そう感じていた。