焼けたアスファルトから立ち上る熱気に、ビルに塞がれた通らない風。昼間さんざん地面を照らした灼熱の熱気が、いまだ逃げ切れずに夜の空気に絡み付いている。
「あっつい……これだから最近の異常気象は……」
歩いていると時々開くコンビニの自動扉の隙間から、僅かに冷房の利いた風が肌を冷やしてくれるが、一瞬の心地よさはもどかしすぎてその後の空気を一層暑く感じさせた。時々時代を含めた何もかもに悪態をつきたくなることがある。もちろん悪気は無い。夏だから日本全国いつでもどこでも暑いのは知っているが、山名水希は、とりあえずこの不快指数を最近の環境のせいにした。
駅から少し離れた雑居ビルの合間、客が三人しか入れないような古いバーや、ビニールで壁を作っただけの立ち飲みの居酒屋、そんな軒が並ぶ場所をすり抜ければ家までの近道だ。危ないと思われるかもしれないが、街灯の少ない道よりはよほど安全で明るい。
汗ばんだ額に手の甲を当てた時、足元を風が通り過ぎ、ふと見ると錆色の猫が小さなビルの隙間へと帰っていく所だった。
「あれ?」
こんなところにビルがあっただろうか。……いや、ビルなんてたくさんありすぎて、はっきり何処に何が……なんて覚えていない。特徴が無ければなおさらだ。その場所は、そうした見覚えの無いビルの見覚えの無いくぼみにあった。
ビルの壁にぽっかりと地下に続く穴が開いていて、コンクリートの階段が螺旋状にぐるりと180度回っている。階段を下りてみるとチョコレート色の木製の扉があって、洋風の扉にはまったく不似合いな毛筆のひらがなでこのように書いてあった。
ゑいぎやうちう
「えい、営業中……?」
こんなお店、こんなところにあっただろうか。いつも通っていたはずなのにあまり覚えが無く、水希は首をひねった。もしかして新しく出来たとか? それならば何のお店なのだろう。腕時計を見るとまだ19時を回ったばかりで、お腹の調子を聞けばいい具合に減っている。だが、食事が出そうな場所かどうかも分からない。
「何のお店なんだろう」
初めて入る店……というのはなかなか思い切りが必要なものである。特にこんな何やら入り難そうなお店であればなおさらだ。ただ「ゑいぎやうちう」と書かれているのだから、何らかの営業はしているのだろう。
「お客さんですか? やってますよ」
「うわ!」
水希が逡巡していると、急に後ろから声を掛けられた。驚いて振り向いたが、声の主はもう水希を追い抜いて、扉に手をかけていた。後ろ姿から見るに若い男の子のようだ。白いシャツに黒いスラックスを履き、腰には黒いカマーバンドを巻いている。
「えっと」
「どうぞ」
もじもじと水希が迷っていると、茶色い扉がギィと開いた。青年が先導するように先に店に入っていく。カランとドアベルが鳴って、涼やかな空気が水希の頬に触れた。思わず店の中を覗き込んでみると、居酒屋とは別種のざわつきが店内を支配している。
「……?」
店内に一歩入ると、そのざわつきが静まる。そこで水希は目を丸くした。
「……え?」
「いらっしゃいませ」
シンと静まった店内に、青年の気安い「いらっしゃいませ」と、店主らしい少し年嵩の「いらっしゃいませ」の声が重なる。灯りを落とした店内を見渡して、水希の動きが固まった。
これは、何の仕掛けだろうか。
「ニンゲンダ」
「ニンゲンのにおいがする」
「ニンゲンが酒を飲みにきた」
ざわ、ざわと、店内のざわめきが戻ってきたが、その声の大半は水希に向けられているようだ。水希はその声が聞こえる方に順番に視線を向けた。店内は濃い飴色に磨かれた一枚板のカウンターを中心に、立ち飲みの席や、昔ながらの喫茶店のようなテーブル、奥にはなんと畳の座敷まであって、まったく統一性が無いのになぜかしっくりくる空間だった。カウンターの天井からはワイングラスと、それから生ハムとか、そういう類の何かしらよく分からない材料がぶらさがっている。
そうして、その空間に、見た事も無い光景が広がっていた。
畳の席には首の長い化け物と、袴を着た骸骨。立ち飲みの席には、髪をぼさぼさにした鎧武者姿のおじさんと、白い着物を着た顔色の悪いお姉さん。テーブル台には、着物を着た猫の集団と犬の集団が盤を挟んで何かの遊びに興じている。カウンターには緑色の肌にクチバシ、頭に皿のある男が背広を着て座っていて、その隣には肌が青くて頭に角のあるおじさんが、同じように背広を着て座っていた。
「ニーンゲン?」
「……きゃ!!」
驚き固まっていると、ぬう……と、店内の四分の一ほどもあろうかと思うほどの大きな猫の頭が現れた。ふわふわとそれは水希の目の前を横切って、「ニーンゲン」とからかって、壁の向こうに消えていく。
それを合図に、店内の全員が水希から興味を失ったように、もとの喧噪に戻っていく。
「なに、これ」
「お客さん、入らないの?」
きょとん、と覗き込んだのは先ほどの青年だ。しかし、その青年を見て水希はぎょっとした。なんと顔が真っ白くてふわふわの狐の顔だったのだ。まるで狐のお面のように真っ白で、瞳が綺麗な石のように赤い。どうぞと差し出された手も肉球のあるも狐の手で、ちらりと腰に視線を向けると、狐特有の太くてもこもことした尻尾が揺れていた。
何これ。どっきり? コスプレ集団? 特殊メイク?
まるでお化け屋敷のようだが、どこかコミカルで面白味があり、非現実的過ぎて怖いとは思えなかった。恐る恐る、一歩、二歩、足を進める。床も丁寧に磨かれた黒い木材で、コンクリートを踏んだ時とは異なる小気味のよい音が響いた。カウンターに近付くと、中で酒を作っていた主人らしき男が、にこりと笑う。
「おやおや、人間のお客様がお一人で来られるのは久しぶりですね」
やわやわとウェーブのかかった長く伸ばした白髪は髭と一体化している。口許も深く覆っていて、まるでサンタクロースのようだ。しかしサンタとは違って、頭にはよく絵で見る天狗が被っている五角形の頭襟を付けていた。太っちょ気味の身体に着ている服はさきほどの青年のような白いドレスシャツで、腰のカマーバンドは赤だ。
「あ、のぅ……」
ようやく水希の喉が何かしら音を発した。主人(らしき人)は一見恐ろしそうな顔をしているが、白髪の向こうの瞳を優しく細めてゆっくりと頷く。
「ようこそ、妖怪酒場へ。私はここの主人。天狗の貴船ともうします。秦野、お客様にメニューをお出ししなさい」
「はい!」
妖怪、天狗……?
主人の発した単語を不穏に思いながら水希がカウンターに座ると、秦野と呼ばれた狐の青年がすぐに飛んできて、コトンと水の入ったグラスを置いた。さらに革張りのメニューブックを差し出され、受け取って開けてみる。
「飲まれますか? それともまだ早い時間ですから、お食事でも?」
「あ……ここって」
「基本的には酒の店ですが、もちろん食事もありますよ」
主人の貴船がカウンターの奥で何かしら作業をしながら、ゆっくりとした穏やかな口調で水希を気にかけている。水希は周囲の非現実的な騒ぎを気にしつつも、メニューに視線を向けた。
・氷きゅうり(浅漬け)
・きゅうりスティック(ひしお味噌・バジルマヨネーズ)
・きゅうり(オススメ!)
・ひやしさつま(きゅうり多め)
・きゅうり氷(粕漬け)
・カットきゅうり(浅漬け・ぬか漬け)
・まるごときゅうり(浅漬け・ぬか漬け)
・きゅうり(焼酎用)
「あ、すみません、それカッパ族向けでした。人間にはこっち!」
狐の手がもふりと割り込んで水希からメニューを奪い、代わりに別のメニューが渡される。
・焼あぶらあげ(塩・ポン酢)
・煮あぶらあげ(醤油・味噌)
・あげたてあぶらあげ(オススメ!)
・あぶらあげバーガー(今週はエビしんじょ)
・いなりずし酢飯抜き(酢飯ありも選べます)
・きつねうどんうどん抜き(うどんありも選べます)
・衣笠丼米抜き(米ありも選べます)
・餅巾着餅抜き(餅ありも選べます)
※あぶらあげは全て、厚め・薄めが選べます
「秦野、それはお前ら狐族用のメニューだろう」
「うわ! すみません!! えっと、ええと、ニンゲン……人間用のメニュー、メニュー……」
秦野が店内をうろうろしながら、あちこちを捲っていると、とことこと何かが運ばれてきた。よく見ると小さな小人のような生き物が2匹、おしぼりを乗せた銀色のトレーを持ち上げて、うんしょ、よいしょと運んでいる。一匹は小さな烏帽子が狩衣を着たような生き物、一匹は腰布を巻いたカワウソのような生き物だ。それぞれの背の高さは大体10cmくらいだろうか。
どんな仕掛けになっているのだろうと思いながらおしぼりを受け取ると、急に軽くなったからか2匹ともバランスを崩してこてんと転がり、キャアと鳴いた。あわてて「ごめんなさい」と言うと、貴船が「いえいえ」と首を振る。
「いつものことですから気にしなさんな。お客様、お腹が空いているのであれば、どうですか? 一緒に焼うどんでも」
「は、はあ」
結局、その日水希が食べて飲んだのはキャベツと豚肉のたっぷり入った焼うどんと炭酸水だった。当然、仕事帰りの水希は一滴も飲んでいなかったが、これ以上幻覚を見ては困ると思いアルコールは断ったのである。
****
その不思議な酒場は、7月と8月にだけ現れるのだという。
この世界には人に化けて生活している人ならざるものが多く居て、そうしたもの達が、暑い夏の間、この酒場でだけ化けの皮を脱ぎ、人の世の世知辛さを肴に美味しいお酒を飲むのだそうだ。人に化けているものだけではなく、普段は道具に隠れている付喪神と呼ばれるもの達や、植物や動物に隠れているもの達もいるらしく、いわゆる「妖怪」と呼ばれる類いのものばかりが客というわけではない。魔界の王や将軍などのような大げさな人?達も来るというのだから驚きだ。
「先日は元サボテンの男性が、人間の女性を連れて来られてましたよ」
とは、主人の貴船の談。その日は確か水希も店にいたが、童顔の綺麗な顔をした男の人がにこにこしながら、ほっそりとしたお洒落なOLさんっぽい女性と楽しそうに飲んでいたのを思い出した。大概の妖怪や精霊になら水希はもう驚かなくなっていたが、まさかあれがサボテンだなんて。
ちなみに主人の貴船は、その昔、かの牛若丸を育てた天狗様だそうで、「日本の偉大な天狗四十八選」にも選ばれた、由緒正しい方なのだそうだ。見た目はサンタクロースで、天狗を示すものは頭に被っている黒い五角形の頭襟だけだったが。
「はい、水希さん、焼うどんね!」
「ありがとう、いい匂いね、お腹空いたわ」
ゆうらり尻尾を揺らしながら、焼うどんを運んできてくれたのは野狐の秦野だ。以前まで働いていた九尾先輩に紹介されてバイトしているらしい。スラックスとシャツの間から窮屈そうに尻尾が出ていて、上向きにゆらゆらとバランスを取っている様子は愛らしい。もっとも可愛いというと男の子らしく嫌がられる。
酒場の客のほとんどが人間ではないもの達ばかりで、メニューはどちらかというと妖怪達の好みのものが多い。人間達の食べる美味しいものは人間に化けて食べにいけるから、化けの皮を脱いでいるときは妖怪向けの好物を食べたいようだ。ちなみに酒場だけあってアルコールのメニューも豊富である。
頭にちょんまげを結った白いネズミ(髪だけは黒)が、はちまきのようなものを巻いて、奥で料理を作っている。焼うどんも彼が作ったもので、寡黙な彼は何故か和服だ。酒の肴に妖怪用のメニューも美味しいが、水希が好きなのは人間用の、焼うどん・豆腐の味噌漬け・黄身の醤油漬け・じゃこてん・おにぎり等である。
一番美味しいのは一番最初にも食べた焼うどんだ。もっちりとしたうどんの麺に、少ししみ込んだソース。ざっくり切った甘いキャベツに、芯も葉っぱも混じっているのはご愛嬌。具はほかに、かまぼこの代わりに薄切りのちくわ、それに天かすだ。たっぷり乗せた鰹節は踊るのが醍醐味だが、ソースを吸っていよいよ踊らなくなってしまって、豚肉に絡み付いているのも美味しい。
「今日は、少し強めのビールにしてみますか?」
「強め?」
「ええ」
ビールはさほど得意ではない水希が、それでも夏の一杯を楽しみたい……アドバイスを求めて貴船に勧められたビールがベルギービールである。ほんのり香るフルーツの香りが水希の好みで、暑い外から店に入って最初は冷たい一杯のビール……という楽しみが、水希にも少し分かるようになった。いつもはホワイトビールを頼んでいるが、貴船の勧めに間違いは無い。瓶を見せてもらうと、白いラベルにギロチン台の絵が描かれている。注いでもらうと薄い濁りがあった。
「あれ、あんまりビールくさくないですね」
「これもベルギービールです。アルコール度数は高いですから気をつけて」
貴船がサンタクロース風の髭の奥で瞳をにっこりと細くした。なかなか消えないクリーミーな泡を乗り越えるとひんやりと冷えた甘味のある味が喉を通る。あまり炭酸はきつくない。爽やかな味のすぐ後に、ずっしりとした苦みを感じる。その苦みはビール特有のものというよりも、香辛料か何かのようだ。そして飲んだ直後に、くらりと酔いがくる。聞くとアルコール度数は9%程あるのだというから当たり前だが、この重みはくせになるかもしれない。
「あー! ワシもそれ飲みたい」
力強いベルギービールと焼うどんという組み合わせを楽しんでいると、一つ空けて隣に座ってうなだれていた狸がむくりと起き上がった。焼うどんが出来るまでの間、水希と世間話を楽しんでいたこの狸は、黒い僧衣の上に織りの細やかな琥珀色の立派な袈裟を着ている。どうやらどこぞのお寺の和尚のようで、恩返しのためにお寺の偉い人に仕えたのはいいが、あまりに人間から信頼されたがために「人間じゃないです」と言い出せずに何百年も経ってしまったのだそうだ。偉い人も何代か代替わりしているのだからいい加減気付いて欲しいと嘆いていた。
「それに和尚になったのはいいけどよう、案外事務が多くてなあ。文字を書き写したりする机仕事は性に合わん」
「でも和尚さん続けてるんだ」
「だってよ、めちゃくちゃ期待されてるんだもん、ワシ。なんか言い出しにくくって」
「ははあ。軽い気持ちで引き受けたのに最初が上手くいくと、無駄に期待されちゃうよね」
「それよそれ。なんだかなんだいいながら、わあ、和尚さん素敵って言われるとちょっと嬉しいしな」
そう言いながらぽりぽりと頭を掻く狸の和尚は、素敵な茶釜を持っているらしく、趣味は茶道と幻術……というインテリ派だ。最近は人間の楽しみも覚えて、仕事の後のビールがたまらないのだとか。かんぱーい!とビールのグラスを持ち上げて、狸の和尚は1杯目を、水希は残りのビールをこくこくと喉に通す。
周囲ではキャイキャイと楽しげに妖怪達が騒いでいる。今日は百鬼夜行イベントで、百鬼夜行でおなじみの付喪神や小鬼、家鳴りなどの小さめの妖怪達が、百鬼夜行風の行列を作って店内を練り歩いて遊んでいる。その傍らでは、枡から手を生やした妖怪と、徳利の妖怪が、目隠しをして上手く酒が注げるか……という遊びに夢中になったりしていた。
そんないつもよりもにぎやかな店内の扉が開いた。急に、シン……と妖怪達の騒ぎが鎮まる。
「いらっしゃいませ」
狐の秦野の声につられて水希が視線を向けると、白茶の着流しを着た男が気だるげに入ってきた。狸の和尚が、「お」と声を上げ、貴船が「おやおや?」と首を傾げた。
「珍しいやつがきたもんだ」
狸の和尚がこくりと一口ビールを飲む。それに答えるように貴船が肩をすくめ、入ってきた男にカウンター席を示した。
「これはこれは、おはようございます八丈。またお会いできるとは思いませんでしたよ」
「……珍しく目が覚めた。なんか面白いやつでも来たか」
夜なのに「おはよう」と挨拶をされた男は、カウンターへと進みながら水希の後ろを通り過ぎる。彫りの深い顔に鋭い瞳で、じろりと水希を見下ろした。水希が椅子に座っているというのもあるだろうが、随分と大きな男だ。おまけに無精髭というには伸びすぎた髭とぼさぼさの髪がだらしなく、水希も不躾ながらもポカンと眺めてしまう。
八丈と呼ばれた男は水希と一瞬目が合ったが、興味無さげにそのまま通り過ぎて少し離れたカウンターに座った。
「人間か」
「ええ、めずらしいでしょう」
どうやら水希のことを話しているらしいが、会話の内容はたちまち聞こえなくなった。静まっていた付喪神達が再び遊びに興じ始め、店内に喧噪が戻ってくる。水希は意味も無く狸の和尚にちらりと視線を向けてみた。
狸の和尚は、ビールのグラスを前足で温めながらカウンターにだらだらともたれている。
そうして水希の視線に答えるように言った。
「あいつ、ここにいるのとは比べもんにならねえくらい大物だぜ」
「大物?」
「ひさしぶりに見ますよね、八丈さん」
ひそひそと口を挟んだ秦野に、狸の和尚もふむふむと頷く。
「ワシなんか、前見たの、安政の時代だし」
「それは古過ぎ。このビル出来たときは一回来ましたよ」
「ワシ、そんとき日本三大狸の会に出席してて、おらんかったもん」
「なんですかその日本三大狸の会って」
「え、お前知らんの? 日本三大狸の会知らんの? 全部で六匹おるアレ」
「なんで三大狸なのに六匹なんですか!?」
秦野と狸の和尚の話題が八丈から「日本三大狸の会」にシフトしていくのを聞きながら、水希は焼うどんに入っていた豚肉を一切れ口に入れた。
大物、というならば貴船や和尚も大物だと思っていたが、その和尚が言うほどの「大物」とは一体誰なのか。疑問に思ったが、しかしそのようないわゆる「大物」が水希と関わるはずもなかろう。
「ま、いいか」
店の喧噪がすぐ元通りになったように、水希の興味もすぐに目の前の焼うどんに戻っていく。さしあたり、大切なのは腹ごしらえなのだ。