002.狐の嫁入り

水希が妖怪酒場を見つけてから、時間のあるときは必ず立ち寄るようになった。お酒を飲まなくても、妖怪達がキャイキャイ騒いでいるのを眺めながら夕食代わりにおにぎりとお味噌汁だけを食べて、頭に角のある赤・青サラリーマンコンビの愚痴を聞いたり、頭に皿のある緑色サラリーマンの子供の写真を見せてもらったり、尻尾が二つに分かれた猫の姐さんに浴衣の着こなし方を聞いたりするのは楽しい。七月と八月だけ……という期間限定である、ということも通う大きな理由だ。こんなに楽しくて料理もお酒も美味しいのに、楽しめるのは夏だけとなれば、出来るだけ楽しんでおきたい。

付喪神達は毎日いるにしても、狸の和尚やサラリーマン達に毎回会えるわけではない。彼らも常連だが、人間に混じって暮らしている以上、水希と同じように予定があるに違いない。そんな中、なぜか八丈はいつも必ずカウンターに座っていて、水希より先に帰った事が無かった。貴船や狸の和尚と話しているところはたまに見るが、誰かと一緒に飲む様子は無い。

そんな八丈と最初に言葉を交わしたのは、夏に特有のひどいにわか雨に当たったときだ。

「うわ、さっきまで雨なんて降ってなかったのに……」

その日は折り畳み傘も忘れてしまっていて、おまけに高いヒールの靴を履いていた。天気予報も悪くなかったし、行きの駅に着いた時までは晴れていたのだ。売店でビニール傘を買っていこうか、それとも妖怪酒場まで走って雨宿りさせてもらおうか。駅の入り口には水希と同じように、走るか、少し待つか、悩んでいる人達がたくさん並んでいる。

どうしようかと悩んでいると、雨足が少し弱まった。

「……んー」

このくらいの雨なら、走っていけばそれほど濡れないだろう。既に何本かある傘を思い出して、これ以上傘を増やしたらダメだと心を決めた。「よし」と、気合いを入れて走り出そうと一歩踏み出す。

しかし、一歩踏み出したときに、ふ、と視界が陰り、隣に誰かが並んだ。

腕と腕が触れ合いそうな距離感に思わず顔を上げると、随分と大柄で胸板の広い男は八丈だった。

「八丈さん?」

「おう」

八丈は水希を見下ろすと、大きな黒いこうもり傘を少し寄せた。傘に入れてくれているようだと気が付いたが、なぜ八丈がこんなところで水希を傘に入れてくれるのだろう。不思議に思い、言葉を失う。

「その靴で走ったら転ぶぞ」

「え? あ……」

確かに今日の靴は、雨に濡れたアスファルトの上を走るには向いていない。水希は自分の足下と八丈とを見比べる。いまだ状況を把握しきれていない水希に苛立つ様子を見せる事もなく、八丈はいつもの飄々とした態度で「来いよ」と歩き始めた。いつもと違うのは、着流しではなく洋服を着ているというところだろうか。着崩したシャツは、八丈によく似合う。

「あの、八丈さん?」

「あ?」

「えっと、どこに?」

「酒場だよ。今日も行くんだろ?」

もちろん、今日も行くつもりだった。八丈も同じなのだろう。動きを止めた水希を腕で押すようにして、傘の中にいれて歩き始めた。

思わずついていきながら、初めてまともな会話をした八丈の声に何故か胸が高鳴る。駅前だからまだ人の波は多い。しかし八丈の傘の中にいると、不思議と人の波に押されたり、慌てたりすることがなかった。それほど歩調が早い訳ではないのに、八丈の腕がゆるやかに人の波から水希を守ってくれているように感じる。

「八丈さん」

「傘、ありがとうございます」

「うん」

強面の男の人とは思えない、優しい「うん」が聞こえて、水希の心がほんわり柔らかくなる。同時にとくとくと心臓が踊り始めた。

雨はいつのまにかしとしととした穏やかなものに変わっていて、周囲はむせ返るような暑さになっていた。おまけに傘の中に身を寄せていると熱気や湿度が常より高く、時々ぺたりと触れ合う腕にそれを強く感じる。それなのに、嫌な感じは全くしなかった。蒸し暑さというのは、人と人との境界をより強く意識する。見知らぬ人と触れ合うときの不快感も高いけれど、そうではない人と触れ合うときの胸の高鳴りもまた、普段より強い。

これではまるで水希が八丈を意識しているみたいではないか。

しかし、感じてしまった胸の高鳴りと直感は、そうそう抑えられるものではなかった。

****

それから、八丈とは酒場でもよく話すようになった。八丈は毎日酒場にいるらしい。水希が行けば、いつでもそこにいた。しかし2人の距離を近付けたのは、雨の日だ。夏の間に時々雨の降る日があって、そういう時は、水希が駅に着くとどこからともなくフラリと現れ、一つの傘に入って酒場まで一緒に行く。

最初に見たときは熊みたいに毛むくじゃらで何がなんだか分からない山男に見えたが、髭も髪もすっきり刈ると、濃い眉と硬そうな鼻筋が男らしい、精悍な顔付きだった。無愛想で怖い人かと思っていたが、笑うと急に子供っぽくなる。

八丈は水希が傘を持ってきていても迎えにきてくれていて、必ず二人で一つの傘に入って歩いた。水希も傘があるからいいと断らず、おとなしく一つの傘を享受する。

そんな風に歩く道すがら、水希が男の正体を聞いたら、八丈はあっさりと白状した。

「俺の正体は黒蛇だ」

「えっ?」

もはやどんなことを言われても驚きはしないと気構えていたが、自分は黒蛇だと名乗られて驚かない女はいないだろう。目を丸くする水希に、八丈はハッハと笑った。

店に到着するなり、筋肉の形がはっきりと分かる腕を見せる。

「見てみるか? これがそのあかしよ」

丸太のように太い腕は浅黒く日焼けしているようで、その肌には黒い鱗のような模様がところどころに浮かんでいた。腕の全てを覆ってる訳ではなく、筋肉の盛り上がっているところに所々浮かび上がっているようで、まるで入れ墨にも見える。思わず指を伸ばしてそっと触れてみると、ざらりと鱗の手触りがした。

「珍しいか」

「あ、うん」

珍しい手触りにそろそろと触っていると、苦笑したような声が聞こえて水希は我に返る。男の人の腕を撫でていたことに気が付いて、水希は頬を赤らめた。

水希は今年24歳で、さほど初心な年齢というわけでも無いのに、自分でもよく分からないほど慌てて手を引っ込めると、八丈のごつごつした指が水希の前髪を払って顔を覗き込んでくる。

薄い琥珀色の虹彩に浮かぶ縦に長い真黒の瞳孔は、人のそれとは明らかに形が違う。とても綺麗だった。

先ほど腕に触れて決まりの悪い思いをしたばかりだというのに、水希は今度は八丈の瞳に見蕩れて動きを止めてしまった。爬虫類は苦手な方だが、不思議に怖くない。

カウンターでお酒の入ったグラスを間に挟み、息が届くほど八丈の顔が近付いている。

「人間が俺らの目をそうそう真っ直ぐに覗き込むもんじゃねえよ」

「な……覗き込んだのは八丈さんじゃない……!」

「術にかけようとしてるのかもしれねえぞ」

「もう、からかわないでください!」

ぷいと顔を背けて身体ごと距離を取る。だが、心の距離はうまく取れそうになかった。八丈と話すのは楽しくて、時々こんな風に不意に距離が近付く事がある。自分は八丈に心惹かれているのだと、認めざるを得なかった。

それでは八丈のどこに惹かれるのかというと、はっきりとは答えられない。酒場では他の妖怪達も一緒になって、昔の話に相槌を打ち、時々水希の仕事の話とか悩みとか、そういう他愛も無い話ばかりしている。八丈が水希の話を楽しそうに聞いてくれるのは嬉しかった。

ただそれだけだ。一緒に飲むお酒がおいしくて、そのお酒と一緒に話すのがとても楽しいだけ。

そして、それ以上の接近は出来なかった。彼にこれ以上惹かれる訳にもいかなかった。

妖怪達の話や、八丈自身の話によれば、小さなおやしろが、このビルの屋上にあるのだという。八丈は石に封じ込められて、そこに祀られているのだそうだ。現状は蛇ではなく石が本性で、神通力が溜まれば姿を現す事が出来るがそれも夏の間、あまりビルを離れられず、せいぜい町内をぐるりと周回できるくらいらしい。

八丈は、昔(想像も出来ないくらい昔)八人兄弟の蛇神で、雨を降らせてこの辺り一帯の八つの水源を守っていたのだそうだ。蛇神だった彼らを畏怖していた民達は、別段蛇神が何か恐ろしい事をしでかしたわけではないというのに、その怒りを勝手に恐れて、一年に一人ずつ、勝手に娘を差し出してきたのだという。

「娘らは、親も兄弟もいないような者や、身体を弱くして働けずに追いやられているような者ばかりだった」

だから蛇神は差し出されてくる娘を哀れに思って、かくまった。そうして何かの縁か、兄弟たちは娘達と順番に心を通わせ、順番に妻に娶ったのだという。

そして八番目の八丈の順番が来たその年、よそ者の武者が現れて、蛇神達のことを「いたいけな娘を食らう化け物め」と騒ぎ始めた。どうやら余所には、蛇神に捧げられた帰ってこない娘のことは「1年に1度、生け贄に差し出された食われた哀れな娘」と伝わっていたようで、娘を食う恐ろしい蛇の化け物を退治しようと、力の強い武者が名乗りを挙げた事態になっていたらしい。蛇神の妻となった娘達が里に下りてそれは違うと説得しても、化け物に魂を食われてしまったと逆に追い立てられてしまう。妻達に危害を加えられそうになった蛇神達は怒り狂った。

怒り狂う蛇神達を前に、武者はそれみたことか化け物め……と罵り、戦いをやめようとはしなかった。武者もまた神通力を持つ存在で、彼は八丈の目の前で八番目の「生け贄」の娘の姿を小さな櫛に変え、自分の髪に挿してこちらに向かってきたのだった。しかし戦いはあっさりと決着が着いた。振り下ろされる剣を八丈は避けず、その刃が身体に触れたと同時にその身体を黒い石に変えたのだ。八丈が石になったのを見て、武者は蛇神を殺したと思ったらしい。蛇神に勝利したと宣言し、そのまま8番目の生け贄の娘を妻に娶って周辺一帯を治める王となった。

しかしこれは、兄弟達に害を及ばぬようにするために取った八丈の策だった。八丈は、剣が身体に触れる瞬間を狙って自分の身体を石かなにかに封印してくれ……と、他の兄弟神に頼んでいたのだ。八丈は武者に倒されて滅びたふりをしてその場の戦いを収めた。

その後、兄弟達はそれぞれの妻を連れて散り散りになる。ある者は本来自分達が住まうべき場所へ向かい、ある者は人間に混じった。

「そんなの……」

ひどい、と眉をひそめると、話を聞いていた狸の和尚が吹き出した。

「お前さんには関係無い事なのに、ひどいと思う義理もねえじゃねーか」

「でも、……本当は、八丈さんは、その娘さんと結婚するはずだったんでしょう? ……それに、戦わなかったのは、櫛にされた娘さんが危険な目にあわないように、って思ったからじゃないの?」

「ああん?」

「ははあ」

八丈がきょとんとして、狸の和尚がニヤニヤしている。

しまったと思った時には遅かった。口調がまるで拗ねた女みたいになってしまっていたことに気が付いて、水希はむっとして口を閉ざした。

狸の和尚が、狸の細い口許をくふふと膨らませる。

「なあんだ、お前さん、嫉妬してるのか?」

「違うわよ、誰が誰に嫉妬してるの」

慌てて水希は首を振ったが、顔が熱くなるのは止められなかった。ちらりと八丈を見ると、しかし彼は困ったような表情をしていて、火照った顔が一気に冷たくなるのを感じる。

「でもよう、お前ら似合いじゃねえか。八丈も嫁はいねえし、この際、つがいになりゃあいい」

「止めてよ、だって八丈さんは」

「なあに、櫛の娘っこは、ほとんど姿を見てねえって八丈も言ってたろ。しかも八丈が女にこんなに身の上話をするのは珍しいしな」

「止めてってば!!」

八丈が、おいおい、止めろと苦笑しながら狸の和尚をこづくのと、水希が顔を赤くして席を立つのは同時だった。

どれほど距離が近付いても、好きになれない理由がある。それを水希は知っていた。ずっと黙っていようと思っていたのに。

「だって、どうせ……」

好きになったとしても。

「どうせみんな八月いっぱいしかいないじゃない」

ガタンと席を立って、水希はお財布から千円札を二枚取り出してカウンターに置く。狐の秦野が尻尾を下ろしておろおろと水希の側にやってきたが、今日はそんな可愛い顔を見ても気は紛れなかった。

咄嗟に言ってしまったけれど、これでは告白をしているも同然だ。八月が終わると、すなわちそれは妖怪の皆とのお別れで、つまりは八丈とも会えなくなるのを意味した。もうあとほんの少しで離れてしまうひとを好きになんてなれなかったし、そう思っていたからこそ、ずっとずっと我慢してきたのだ。

八月が終わるまであと一週間も無い。

うまく切り抜けられると思っていたのに、今更、本当に最後のギリギリになって思いがあふれてしまうなんて。

あちゃー、と肩を竦める狸の和尚と、慌てる秦野に比べて、貴船も、そして悔しいことに八丈も普通通りの顔をしていた。八丈にとってはたまたま姿を現したときの女の一人に過ぎないのだろうか。自分だけが振り回されているようで、急に惨めになって水希は目頭が熱くなった。

「水希さん? 外は雨ですよ」

「傘あるから大丈夫です……ごめんなさい」

ここで泣くまいと我慢して、水希は皆に背中を向けた。いつのまにかサラリーマンの赤鬼青鬼も、付喪神達も、しんと静まって水希のことを心配そうに見ている。もう少しでお別れだというのに、なんてみっともないのだろう。

最低だ。

いたたまれなくなって水希は早足に酒場を出て扉を閉める。コンクリートの階段を少し上がると、星も見えない夜の空はしとしとと雨が降っていた。通りの人はみな早足に家路を急いでいて、不思議な酒場から出てきた水希など気にも止めていない。

ようやく涙が出てきて、すん、と鼻をすする。

「帰ろ」

鞄の中からごそごそと折り畳み傘を探していると、隣に大きな気配が並んだ。

「……送ってやるよ」

八丈の声だ。だが、八丈の方を見る事が出来なくて、水希は泣きながら首を振る。

「いいよ」

「いいから。家どこだよ」

「いいってば」

「送らせろ」

八丈の逞しい声が、水希を包むような重さで耳に響いた。八丈の声はいつもこうだ。きれいな声でもよく通る声でもない。野太くて、まるで遠くで鳴っている雷の音のように重くて優しい。その声と八丈の側は居心地がよくて、居心地がよいと感じる自分の気持ちの居心地が悪い。

いらない、いるの押し問答の末に、押し負けたのは水希だった。静かな声に諭されたように思え、自分のみっともない我侭にますます瞳が潤んでくる。八丈の傘を持っていない方の手が水希の頬に伸びて、ぐいぐいと乱暴に水希の瞼をぬぐった。丁寧な仕草じゃないのに、ごわついた手の大きさと温もりをどうしようもない風に感じてしまって、なんだかもう、泣いているのを隠す気も無くなってくるのだ。ぐすぐす、すんすん、といつまでも鼻をすすりながら、水希は黙って歩き始めた。

「和尚のやつが、悪かったってよ」

「うん」

「秦野が心配してたぞ」

「うん」

「貴船が、最後の日にはちゃんと来いってよ」

「……」

水希の歩調に合わせて、特に慌てる風でもなくゆったりと歩いている八丈に、心ここにあらずといった返事を返しながら、最後の一言に胸が痛む。「最後の日」これがもう、すぐそこまで迫っているというのに、あんな風に気まずい感じで出てきてしまった自分が情けない。

もちろん最後の日にはちゃんと行ってあいさつするつもりだった。ちょうどその日は近所でお祭りがあるから、浴衣を着ていくと約束していたのだ。それなのに今はそれすら守れそうにない。こんなに苦い思いを抱えるなんて思ってもいなかった。

「ここでいいよ、ありがと」

「部屋の前まで連れてけ」

「でも」

アパートの前まで着いたが八丈は帰ろうとせず、譲らない押し問答の挙げ句に再び負けて、結局部屋の前まで送ってもらった。

部屋の扉の前で2人の足が止まる。もう一度「ここでいいよ」と言おうとして、視界が塞がれた。そっと抱き寄せられたのだということを知ったのは、そのすぐ後だ。あ、と思った時には八丈の腕の中にいて、厚い胸板を感じていた。

「八丈さ……」

「水希、なあ」

低くて真剣な声に、好きにならないと決めた心がぐらぐらと揺れる。だが、止めてとも言えなかった。頭を抱えている手に力が込められてるようにも思えないのに、水希は動く事ができなかった。

もうこれ以上何も言わないで欲しい。そう願うのに追い討ちをかける。

「俺の嫁になるか、水希」

「……無理だよそんな」

言いかけてあげた顔に、唇が重なる。唇が重なったままじりじりと追い詰められ、とん、と背中が扉に当たった。食むように唇を触れ合わせて、少し離れると吐息混じりの八丈の声がささやく。

「来年の夏まで待て、水希」

「え?」

「来年の夏、会える」

「でも……!」

ぐ、と力一杯腕をつっぱねた。男の力であれば離れるはず無いのに、たやすく身体は離れて、予想外に空いてしまった距離に水希が八丈を見上げると、何かを堪えるような真面目な顔をした八丈の瞳と目があった。

琥珀色の瞳の光彩はナイフのように、きゅう……と尖り、じりじりと水希との距離を詰めてくる。

その視線から逃れるように目を逸らして、水希は頭を振る。

「だって、来年の夏……会えても、また夏が過ぎると会えなくなるんでしょ!」

「水希」

「そんなのやだ……」

「分かってる。……だが、時間が無いから言ってるんだよ。次に会う時まで、お前が誰かのもんになってたらどうするんだよ」

「そんなのずるい!」

タイムリミットがあるから、水希はブレーキを引いていた。しかし八丈は違う。タイムリミットを盾に、水希を手に入れようとしているのだ。それならば、会えなくなった後はどうするのだろう。いつになったら会えるのだろう。

もう一度八丈が水希と距離を詰めて、今度はなだめるように抱き寄せて頭を撫でた。心地が良くて、安心して、もうダメだと水希は思う。背中に触れている掌が大きく、身体に巻き付いた腕が太くて、まるで逞しい蛇に絡みつかれたようだ。実際には熊みたいな男に抱き締められていて、心臓の高鳴りは恐怖とは別のものだった。

「ああ、ずるいな。分かってる。俺だって何の考えも無しにこんなこと言ってんじゃねえ」

「八丈さん?」

「来年の夏までになんとかしてやる」

「なんとかって……」

「信じろなんて言えねえがな。だが、信じてくれ」

そう言って、八丈はそっと水希の髪に口付けた。そうして、それ以上の触れ合いに進む事も無くゆっくりと離れる。じゃあな、ゆっくりやすめ、と、それだけを言い残すと水希に背中を向けた。

八丈さん、と呼ぶ声がどうしても喉に引っかかって出せずに、水希はなす術も無くそれを見送る。

部屋に帰っても八丈の声と言葉が頭から離れなかった。だがよく考えれば、口説かれたことがあったわけでもなく、決定的な言葉をもらった訳ではない。たとえば、好きだとか、愛しているとか、そういう言葉だ。だが、八丈の「嫁になるか」という言葉を不思議に唐突なものだとは思わなかった。

好きなのだ。八丈が水希を傘に入れてくれたときからその芽があって、彼のことや自分のことを少しずつ話して、美味しいお酒を一緒に飲んで、温かいご飯を食べて、その気持ちが少しずつ成長した。話を静かに聞いてくれるところ、よく分からないタイミングで笑ったりからかったりしないところ、水希が真剣でいて欲しいときは必ず真剣でいてくれるところ、そういうところが好きだった。

「八丈さん、ずるい」

だって、拒絶する理由が見つからない。


きつね‐の‐よめいり 【狐の嫁入り】
1 日が照っているのに、急に雨がぱらつくこと。日照り雨。
(デジタル大辞泉より)