正月を迎えた宮中は、夜も明けぬうちから多くの催事が執り行われる。主上に今年初めて拝賀し、その後は全ての公達を集めての宴会だ。元日の間は右の大臣の取り巻きとして宮中をうろうろさせられた。
さらに翌二日の東宮での宴を迎えた頃、頼景が取り巻きから一人抜けて細殿を歩いていると、源成道に話しかけられた。成道は右大臣の子息で、近衛中将を勤める男である。頼景が宮中に参内するようになってから、何かと付き合いのある男だ。
「やあ、御書預殿。父上のお相手もご苦労なことだね」
「……預と呼ぶな気色が悪い」
「おや、私に向かってそんな口を訊くなんて」
「源近衛中将殿。何かご用件がございますか?」
「ああ、やめてくれ頼景。お前のそんな言葉を訊くと気色が悪い」
頼景の口調を真似するように言いながら成道はニヤリと笑う。従五位の頼景と従四位の成道、受領の息子の成り上がりである頼景と、右大臣の息子である成道、身分にも筋にも差のある二人で、通常ならこうした口の訊き方は許されないはずなのだが、成道は何故か頼景の無礼な口調も面白がる奇妙な男だ。性格にも女にも悪癖があるが、何故か心底憎めぬ男でもあった。右の大臣に気に入られるためという意味でも、縁があるに越した事は無い。
「何の用だ。……あんたが、そんな顔をして近付くときは碌な事が無い」
「おやおや、そんな恐い顔をするなら艮にでも立っておいでよ。鬼も入って来られないだろうね」
「うるせえな。何かどうでもいい用事だろうが。一体なんだ」
「何をイライラしているんだい、ひどいね。……ふふ、聞いたよ」
頼景は御書所の次官を勤めているため、預殿、と呼ばれる事が多いが、成道からこのように呼ばれる時はたいして良い事が無い。案の定、成道は笏で口元を隠してにじり寄ると、何やら秘密めいた声でヒソヒソと頼景に耳打ちする。
「聞いたよ、頼景。なんでも愛らしい姫を隠しているのだって?」
グシャ……と、頼景は手に持っていものを握りつぶした。成道が、おや?という顔でそれを見下ろす。
何やら書かれた、白い檀紙だ。
しかし、成道がその檀紙について何か問う前に頼景の声が低くなった。
「なんだって?」
「だから。愛らしい姫を雪の中に隠している……と聞いたよ?」
「誰から」
「誰から……って」
肩を揺らして、ふふ……と笑う成道は、それだけ見るとまるで女のように美しい顔をしている。小袿でも掛ければそこらの女よりも美人だろう。
成道は、頼景が着ている袍の袂に手を入れて、何やらすっと盗み出した。
「おまえ!」
「あうぎもなければ かくるるみもなし」
ふむふむと吟じる成道が手にしているのは、薄い色紙に書かれた恋文だった。少しむくれた様子が手に取るように分かる歌は、年若い女が書いたであろう愛らしいかなの手蹟である。
「ずいぶんとご立腹ではないか。可愛いことだ。行ってやってはいないのかい?」
「五月蝿い男だな」
「あれか、『雪降らば 積もり隠るる君なれば』」
「お前! どこでそれを!」
「大事な文ならば、信の置ける雑色に頼みたまえよ」
顔を赤くしてがなる頼景にも涼しい顔で、成道は恋文を返してやった。ひったくるように色紙を取り返した頼景は、じろりと陰明門の方角を睨みつける。成道は、頼景からこっそりと手紙を渡されている雑色を見つけて捕まえ、何を贈ろうとしているのか問い質したのだそうだ。頼景に仕えている者ではなく普段は使わない新手の雑色だったことが仇になった。頼景などよりよほど身分の高い近衛中将から問い質されれば、口を割ってしまっても仕方が無い。
しかし、そうは分かっていても恨み節は止められぬ。
「あの野郎……!」
「強髭の能書家が書いた本気の恋文だ。興味を持って当然だろ?」
「本気じゃねえよ!」
「へえ」
咄嗟にそう言ってしまった頼景は、言った途端に苦い顔をした。それを言った言葉通り興味深そうにじろじろと眺め、ふうんと成道は笑う。
強髭の能筆家……というのは、頼景の渾名である。その名の通り、頼景はその大男の風貌に似合わぬ能筆家なのだ。
頼景は、やはり能筆家であった時子の父である伴道由に倣い字を学ぶうちに、思いがけぬ才能を開花させた。それが手蹟の才能である。頼景は男文字でも女文字でも、流麗な字体も、硬質な文字も、美しく記すことが出来るのだ。頼景はその才を知った右大臣に気に入られ、主上の前で書をしたためる機会を得、その容貌と美しい文字との隔たりを面白がられて取り立てられた。
宮中ではこの技量を生かし、私的には文などの手本を頼まれることが多い。字の下手な公達のために、見本となる文字を書いたり、時には字体や書き方を変えて代理に応じる事もある。紙は高価な代物だが、公達らはさすがというべきか惜しげも無く頼景に差し出してくるから、余ったものは皆頂戴していて困らない。
この特技を生かして、頼景は送り主が自分であることを隠して時子に恋文を書いてやった。恋文など柄では無いが、多くの公達の文を見ている頼景は、流行りの言い回しにも長けている。普段から香を薫き染めている公達らから貰う紙にはちょうどよく残り香が移っていて、頼景の使うものと異なるのも都合がいい。時子に送っていた檀紙は、成道から貰ったものだ。
名乗りをしなかったのは、このような文を書いているのが自分だと知られて、がっかりさせたくなかったからだ。時子が待っているのは絵物語に出てくるような、例えば成道のような公達で、自分のような不作法な男ではなかろう。頼景とて男だ。文を書いて女を誘ったことはある。しかしあの文を書いているのが頼景だと分かったときの女どもの反応は、それはひどいものだった。姿を現して床で失神されるのはさすがの頼景にも堪えたが、時子ならばどうだ。さすがに失神されるようなことはなかろうが、がっかりされるのは大層辛い。姿は厳めしいのに、時子のことを考えると心の臓は蚤のようになってしまう。
文は時子を想って書けば、どんな言葉でもすらりと出てきた。最初は一通二通のつもりだったが、それに返事をする時子の素直な反応が愛らしく、気付けば何度もやり取りを交わすようになっていた。
さらに情けないことに、その話を嬉しそうに時子から聞かされた時、頼景は自分で自分に嫉妬したのだ。文を書いたのは頼景であるのに、時子が頬を染める相手は頼景ではない。そのくせ頼景に対しては無防備で、「扇に隠れる」などと言いながら顔を隠そうともしない。欲に任せて抱き締め、それでは足りずに唇まで重ねてしまい、そんなことをしでかした自分に呆然とした。これ以上共にいると自分は何をするか分からない。大事な時子に怖がられたくは無かった。
それで、今の今まで時子を訪ねることも出来ずに年を明けてしまったのだ。その間も時子をがっかりさせたくなく、文のやり取りは相変わらず続けてしまう。時折、恨みがましい文を送ってしまった。情けない。
今日は正月の二日で葛貫は居ないだろう。毎年のことだが宿下がりをしているはずだ。行ってやらねばならぬと思っているが、頼景はぐずぐずとしていた。成道であれば、そんなもの気にもしないで女が居れば飄々と御簾をくぐるだろうに、頼景は扇すら隔てぬ時子には手を出す事が出来ない。こんなときばかりは、成道の女癖がうらやましいようなうらめしいような気がした。
あるいは、成道のような手慣れた男に囲われたほうが時子は幸せなのだろうか。方々の女を相手にしているのは知っているが、女に恨みを買ったことはないと聞く。将来も有望で、時子に不自由はさせないはずだ。
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などと、一瞬でも思った事を頼景はすぐさま後悔した。
頼景が宮中の者に掴まり、年賀の挨拶の文やら手蹟を頼まれている間にいつの間にか成道は消えていた。それらを適当にあしらって内裏から下がろうと門に出向いた時、待っているはずの頼景の牛車が無かったのだ。代わりに、成道がいつも使っている牛車があり、その側で牛飼童や車副共が途方に暮れたように立っている。
「おい、お前ら。俺の車はどこだ、成道……中将はどこ行った」
「そ、それが……」
ようやく頼りになる者が来たとでもいうように、牛飼童が泣きそうな顔で頼景に訴えた。
随行の者の話によれば、成道は頼景の牛車を使ってどこかに出かけてしまったのだという。自分の使っている牛車の者らには、後からすごい形相の男がやってきて、鬼のように怒鳴り散らすだろうから、怖がらずに牛車でもそこらの馬でも、なんでも使わせてやれとだけ残していたのだそうだ。
「あの野郎……!」
成道が言い残した通り、頼景は「おい!」と成道の供の者を怒鳴りつけた。恐ろしい形相の大男、それも曲がりなりにも貴族の男に怒鳴られれば誰しも震え上がるというものだ。恐らく用意していたのだろう。一人の車副が慌てた風に騎乗用の馬を一頭、鞍を付けて引いて来て、頼景に手綱を持たせた。
頼景は牛車の者らに行き先を教えて後から来いと伝え、馬の腹を蹴って駆け出した。
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「いや、いや、よりかげさま」
「そう可愛い声を上げないで」
腕の中で必死に抵抗しようとする時子を抱き締めてその頬や唇に口づけながら、成道は頼景が秘していたらしい姫君の愛らしさにほくそ笑んでいた。あの鬼のような男にあのような文を書かせる姫だ。成道が興味を抱かぬはずが無く、その姿を一目見てやろうと頼景の牛車に乗ったのはいい思いつきだった。
もちろん、人の女であれば手を出す面倒など掛けるつもりもなかったが、頼景はあの文を「本気でない」と言っていたのだ。成道とて頼景の「本気でない」が本気でないはずがないと分かっているが、それにしてもまだ妻にもしていないのであれば、少し味見をする程度ならば罰もあたるまい。もし本当に本気でないなら成道が囲ってやってもかまわない。これほど愛らしい姫であるなら、手を掛ければそれは美しい女になるだろう。
「よりかげさま、よりかげさま」
にしても、これほど頼景の名を呼ぶとは、よほどに信頼しているに違いない。それだのにこの姫は「文をくだすった方」が「頼景」だとは思っていないらしい。あの男ときたら、女に頼りにされて手出しの一つもしていないなど、なんとも失礼な話ではないか。
「頼景殿は来ませんよ、可愛い雪の姫」
そう耳元で囁いてはみたが、先ほどからどすどすと床を踏み抜きそうなほどの音が近付いて来るのに成道は気が付いていた。随分早かったとつまらなく思って、少しだけ身体を離す。
「あれは姫に『本気じゃない』と申していたのですけどね」
「いい加減なことを言うんじゃねえ!」
板でも踏み抜いたかと思うほど大きな音が響いて、几帳が倒された。足音がそれほども聞こえぬうちに、身体を起こした成道と女の間に転がるように大きな男の身体が入り込む。
「おいおい、この小さな姫君は二人も相手に出来ぬだろう。後から来た者は遠慮したまえよ」
「はあ!? どの口が言ってんだ、この野郎! 時子から離れろ!」
「この野郎とはまた随分な。君が本気じゃないというから、哀れな姫君を私が貰いに来たのだろう?」
「てめえ!」
いつの間にか成道と頼景の位置が入れ替わっていて、頼景の腕の中に時子の小さな身体が隠されていた。怒鳴り声など気にせぬ顔で成道は、楽しげに衣服を正している。
「時子姫、というのだね。私の名前は成道だ」
「なりみちさま?」
「時子、こんな男と口を訊くな!」
時子を覗き込もうとした成道の視界を塞いで、頼景はまるで歯を剥いて警戒する犬のようだ。その姿を見て、成道はくっくと肩を揺らしていたが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「てめ……何がおかしいんだよ!」
「だっておかしいじゃあないか。そんなにむきになって。お前のどこが本気じゃないんだか」
「な……」
「やれやれ、私は人の妻に手を出す面倒ごとは嫌いでね。興も覚めたし帰ろうかな」
「さっさと帰れ、帰れ帰れ!」
「子供かいお前は。言われなくても帰るさ。……時子姫」
頼景に抱き締められるように隠されている時子を、成道がひょっこりと覗き込んだ。傍らに置いた燭台はまだ火が残っていて、ゆらゆらと揺れるそれに照らされた成道の顔に先ほどの妖しい美しさは無く、どこか無邪気な様子だ。思わず時子はまじまじと見つめてしまう。
「素直な可愛らしい姫。またお会いしましょう」
「誰が会わせるか!」
「はいはい」
「外にお前のところの牛車を待たせてある、さっさと帰りやがれ!」
分かった分かったと成道はようやく諦めて、燭台を手に立ち上がった。先ほどまで時子を組み敷いていたのにも関わらず、烏帽子の傾きを少し直しただけでいつものような成道の艶な姿に戻る。
女の所に出向いて別の男とかち合うなど、成道にとっては珍しくも無い話だ。面倒ごとには首を突っ込まない主義であるというが、まことその通りなのだろう。成道はあっさりと退いて、時子と頼景を残して去っていった。
****
はあ……と頼景は息を吐いた。
時子の家に辿り着くと、案の定頼景の使っている牛車が停まっていた。話を聞くと頼景の行こうとしている姫君のところに案内せよと言われたのだそうだ。車は少し離れたところに停めて、成道は裏口から入ったらしい。車副らはさすがに右大臣の子息の命令を断る事も出来なかった。停まった車が頼景の牛車だったこともあり、また月の無い夜でその出で立ちを確認することも出来ず、時子に仕える家人らは、この高貴な侵入者を止める事はなかった。それに頼景がいつも案内も無く黙って時子のもとにやってくるのは常のことだったため、また、今宵は頼景の来るであろう正月二日であったために、警戒が緩んでいたのだ。もともとそういう風に時子の家に出入りしていたのは頼景だ。家人ばかりを責める事は出来ない。
焦燥に掻き立てられて急いで廊を渡ると、奥から「よりかげさま、よりかげさま」と己を呼ぶか細い声が聞こえた。頭が真っ白になって力任せに几帳を倒せば、成道に組み敷かれた時子がいる。
時子を取り戻してその身体にしがみつかれた時、ようやく頼景の心がほっと安堵した。
「頼景さま」
「ん? ああ」
しかし呼ばれても抱き締めている腕を離す事が出来ず、ぎゅっと閉じ込めたままでいると、やがて困ったような時子が頼景の名を呼びながらごそごそと身じろぎをした。
そこでようやく、腕を緩めてやる。
「頼景さま、あの」
「時子、何もされてやしねえか?」
「あ。私……」
自分が持って来た燭台の灯りを頼りに時子の顔や首筋を見聞していると、頼景の着崩れた袍に時子がしがみついた。やはり先ほどのことを怖がっているらしい。すがるように体重をかけてくる時子に愛しさを覚えながら、出来る限り優しい声でささやいてやった。
「どうした?」
「あの、あの……」
「成道に何かされたのか」
「……唇を」
「え?」
「唇を、吸われて」
言う時子の言葉にぎょっとして、頼景はやはり成道を一発殴ってやろうと身体を起こしかけた。しかし、時子の潤んだ視線に縫い止められる。
「……何だかぬるぬるしてて、生あたたかくて、気持ち悪くて」
その言葉に、いつだったか自分がしたことを咎められているように感じた。あの時も、頼景としたことを気持ちが悪いと思っていたのだろうか。抱く腕に思わず力がこもった時、時子がとんでもない言葉で頼景を引き戻した。
「頼景さまにされたときは、とても気持ちがよかったのに」
言われて、頭のどこかでぷつんという音が大きく響いた。夜の帳の中であるが、それを言った時子がどのような表情であるのか、容易に想像が出来る。
「と、」
時子。
呼ぼうとした言葉は最後まで言い切るまで待つ事が出来ず、頼景は時子の唇に自分のそれを押し付けた。
もう我慢の限界だった。この女を、他の誰かに渡す事など出来やしない。