夜が明ける前に床を出て行くのが通例だが、頼景は思い切り寝過ごしてしまった。
「……」
宿下がりから帰って来た葛貫に朝の共寝を見られてしまったが、意外にも何も言われなかった。しかし頼景を見る表情が冷たいのは、葛貫に黙って時子のところに通ったばかりか、本来ならば姿を見せずに夜のうちに帰るところが寝過ごしたからだろう。
しかし、時子はにこにこと上機嫌だ。改めて詠んでやっていないのに、時子は頼景が持って来ていた歌を後朝の歌に決めてしまったようで、皺を伸ばして大事に懐に抱えている。頼景は自邸に戻ってもいないのだから後朝も何もなかろうに、その様子もまた、葛貫の機嫌の悪い要因になっているに決まっていた。
葛貫の冷たい表情に居たたまれぬ心地になりながら、時子と共に朝餉をいただく。柔らかく炊いた姫飯を口に運びながら、空気を読まぬ時子が笑った。
「あのね、葛貫。あの文の公達、頼景さまだったの」
ぐふっ……と、飯を喉に詰まらせそうになる。急に何を言っているんだと、時子と葛貫を交互に見ると、葛貫は顔色一つ変えずに控えたまま頷いた。
「存じておりました」
「えっ?」
「はっ?」
葛貫の言葉に箸を取り落としそうになる。知っていた? 知っていただと? どういうことだと席を立ち上がりそうになったが、ぐぐっと堪え、答えを視線で促す。
「私の元の主は道由様のお方様にございます。……頼景様は道由様に手蹟を習っておいででしたでしょう」
「……あ、ああ」
「まあ、お父さまに?」
時子は知らぬことだったらしい。葛貫は相変わらずの澄まし顔を少し綻ばせて、時子を優しく見つめて頷いた。
「はい。ですから、お方様や道由様に頼景様の手蹟を見せていただいておりました。頼景様は人を変えたように多くの手蹟をお書きになりますが、その中でも頼景様が常に使われている手蹟でしたので」
だから一目で分かりました、とのことだ。……つまり、何もかも知っていて、葛貫は黙っていたというのだ。今となっては恥ずかしいばかりの恋文の送り主が頼景だということも、誰が見てもそれと分かるほど美しい手蹟を書く男が強い髭面だということも、全て分かっていたというのだ。
顔を赤くして呆然としている頼景の隣で、時子だけが可愛らしく拗ねていた。
「まあ、どうして教えてくれなかったの葛貫、ひどいわ」
「申し訳ございません時子様。ですが、頼景様が黙ってらっしゃいましたので、私風情が口を出すべきではないかと思いまして」
言ってちらりと頼景を見た。時子を見る目は優しいのに、頼景を見る目は相当冷え込んでいる。
これは後から葛貫から頂戴したお小言になるのだが、葛貫は最初から……歌など贈る前から、頼景がいつ時子の許に通うようになるのかと思っていたらしい。時子は噂や文だけで夜這うような公達ではなく、まことに時子の心根を慈しんでくれるような男に囲われるべきだと願っていた。頼景は女の癖も悪く無く、時子も気を許している様子で、身分はそれほど高く無くとも宮中での覚えはめでたい。時子の父にも信頼されているし、相手としては申し分無いと思っていたのだそうだ。
ならばなぜ頼景を疎んじるような顔で見ていたのかというと、あれほど時子の側にいながら一向に手出しをしない様子にやきもきしていたのだという。頼景が能筆家なのを知っていた葛貫は、時子を介して手蹟の上手な殿方をそれとなしに褒めそやしてみるも、文の一つも送って来ない。ようやく文をくれたかと思えば正体を現さず、時子に文を自慢されてもつまらぬ顔で、何をやっているのだこの男はと苦々しく思っていた。
そのくせ、なにやら時子に手を出しかけて止めたらしく、それから訪ねもしないくせに文だけは贈ってくる。さては時子を弄ぶ気か、この正月にやって来なければこちらから尻をひっぱたいてやろう、そのように考えていたという。
つまりは、己の容貌だの何だのを気にしていたのは自分ばかりということか、と、頼景は苦笑する思いだった。
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「時子」
「頼景さま、来てくださいましたのね」
時子の家の床の中で、頼景が今宵も時子を夜這う。
腕の中で揺れる時子の身体の柔らかさと温かさに触れ、自分の硬く厚い身体を絡ませる。鈴の鳴るような時子の声は、聞いているだけで胸が高鳴った。時子の手は細くか弱いのに、その小さな手はほんのわずかに触れるだけで逞しい男の身体を心地よく震わせる。
柔らかい中にゆっくりと包まれて、今はまだ慣れぬ身体を解すように床の中で睦む。
二日目の夜を通い、今日は三日目の夜だ。実は昨日もまた寝過ごしてしまった。 何せ腕に抱いていたら心地よく、それまでの抱き合っていた余韻も相まって、朝が来るのも気が付かずに眠ってしまうのだから仕方が無い。
三善頼景はその日、とうとう妻となった女を腕に抱いて、このように詠んだ。
———— 夢に見し 思いし時を 重ねたる 腕の重みに 現を重ぬ