急に身体が冷えたような気がしてイェルルージュは目を覚ました。
「シルフリード……」
しかし、昨晩イェルルージュの身体をあれほど抱いたシルフリードは隣にいなかった。当たり前のことだ。シルフリードはイェルルージュが狂ったからああしただけで、共寝する恋人のように腕枕などする必要はない。
それを分かってはいるのになぜかどうしようもなく悲しくなって、イェルルージュは枕に顔を押し付けた。じんわりと目頭が熱くなる。
どうして、こんなに悲しく思うのだろう。
あの男は、下僕であるはずなのに。
しかしただの下僕……ただの執事としてしまうには、イェルルージュはシルフリードと長く居過ぎた。長く……といってもたった2年だ。父や母がいた頃から世話になっている使用人達の方が、よほどイェルルージュと長く居る。それなのに、シルフリードの存在感だけが日に日に大きくなっていった。まるで恋でもしているかのように。
2年前、刃を合わせたことのある相手だ。挑発してきたのはシルフリードだったが、先制したのはイェルルージュだった。あの時、近づいてきたシルフリードに剣を向けずに背を向けて逃げていれば、こうして過ごすこともなかったのだろうか。
まるで夜の闇を切り取ったような綺麗な男だった。瞳の色も黒。髪の色も黒。しかし満月の光が差し込むと、瞳は刃物のように銀色で、その眼差しをイェルルージュは今でもはっきりと思い出せる。
刃を合わせた瞬間、勝ち目の無い戦いだと悟り、頬を切られた瞬間に自分はもう死ぬのだとはっきり認識した。あの時の激痛は今も忘れられない。思い出せば鳥肌が立ち、思わず恐怖で震えてしまうほどだ。しかしその痛みはイェルルージュの感覚を鋭くさせて視界を狭くした。シルフリードの心臓だけが標的になって、吸い込まれるように剣を突き刺した。
イェルルージュの命令で生きながらえたシルフリードは、その言葉通り、イェルルージュの剣となり盾となって、忠実な下僕となった。しかし最初は当然のように信用できず、目の届くところに置いてその働きを幾度も試した。だが、シルフリードはどのような事態にも動じることなく、イェルルージュが剣を振る前に敵を消し、彼女の剣の稽古相手も、事務仕事も私事の世話も細やかにこなした。
髪を梳く手、剣を教えるときの笑みを消した表情、イェルルージュの好きな茶葉を選ぶタイミング、少しずつ少しずつ、シルフリードはイェルルージュに寄り添ってくる。
いつだったか目が覚めた時、剪定した薔薇の花を水を入れた硝子の器にいれたものが、寝台のサイドテーブルに置かれていたことがあった。良い香りと美しい佇まいに、その日に見た嫌な夢も忘れてしまった。
『綺麗』
手に取ってそっと鼻を近づけると、イェルルージュの好きな香りがする。髪を梳いていたシルフリードがわずかに首をかしげた。聞けば庭師が咲き終わった薔薇を剪定していたのだという。そうだ……あの時、イェルルージュが「ありがとう」と礼を言うと、あの男は瞳を丸くしてきょとんとしていたのだった。
そして、今朝。サイドテーブルを見ると、やはりいつものように剪定した薔薇が硝子の器に浮かべられていた。あの日から、この時期に必ず用意するイェルルージュの薔薇の花。
「いい香り……っあ」
寝転がったまま手を伸ばそうと身体を捻ると、ひきつるような痛みを感じるとともに、足と足の間からどろりと何かが溢れる感触がした。それがシルフリードがイェルルージュの中で吐いたものだと気付き、薔薇を見て癒された気持ちが一気に凍りついて鳥肌が立つ。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。
昨夜は……、自分はよほどおかしかったに違いない。シルフリードの指や舌だけでは足らず、とうとうシルフリード自身を求めてしまうほど。
しかし。
「起きないと……」
速やかに起きて、それから今日の仕事をシルフリードに指示しなければならない。あの執事は、今日もなに食わぬ顔をしているはずだ。イェルルージュも同じように、純潔を失ったことなどなんでもないことのように、振舞わなければならない。
心を殺すような思いで身支度を整えていると、常の通りシルフリードがやってきた。今日は侍女を連れていない。おそらく侍女に聞かれたくない報告があるのだろう。
シルフリードが運んできたワゴンの上にはよい香りの紅茶と、食べやすそうな果物が幾つか切って盛り付けられていた。そしてもう一つ、シルフリードが侍女を連れずにやってきた理由がそこにあった。白湯と錠剤が置かれていたのだ。
何の薬かはすぐに分かった。イェルルージュは唇を噛み締めたが、これが何かと問うこともなく手に取って、すかさずシルフリードが差し出した白湯を受け取り飲み込む。
これは避妊の薬だろう。
「もう一杯お飲みになられますか」
いつもと何も変わらないシルフリードの声にイェルルージュは静かに頭を振った。何も変わらぬ風のシルフリード、下半身に残っていた白濁と、白い錠剤。心がギシギシと痛んだが、イェルルージュはとうとうそれを表情には出さなかった。
胸が苦しい理由に、イェルルージュは気づいてしまった。
だけどそれに向き合うことはできない。
満月の夜、ただ抱かれたということしか覚えていない自分だったが、シルフリードが言った言葉だけを、なぜか鮮明に覚えていた。
シルフリードは、顔をしかめてイェルルージュにこう言ったのだ。
『忌々しい』
……と。
淹れた紅茶はイェルルージュの好きな茶葉のはずだったが、まるでただの色水か何かのように味を全く感じなかった。
****
ゴトゴトと揺れる馬車の中で、イェルルージュは険しい表情で夜の街路を見つめている。向かいにはシルフリードが着座していて、2人は終始、無言だ。
あれから2週間ほどが経過した。新月は過ぎ夜の月は細い。
イェルルージュは投資している事業が主催したイベントに出席した後、夜の街を少し遠回りして帰らせていた。怪我をする前までは日課だった行動だ。夜会や夜の食事会に出席した後、わざと人の少ない通りを通って、魔獣の気配を追いかける。
森や郊外と異なり、街中にいる魔獣はそれほど多くない。その代わり、無差別に暴れる魔獣は少なく、何かしら目的を持った動きをする魔獣が多い。それだけ聡い魔獣が多く、狩った時の賞金も高いのだ。
剣の稽古も再開した。剣の稽古にもシルフリードはいい顔をしなかったが、イェルルージュは聞かなかった。
あれからイェルルージュは心を閉ざしたかのようにシルフリードと距離を取るようになった。まるで、出会った頃のような刺々しい緊張感で、シルフリードと接してくる。望まぬ夜を望まぬ男と過ごし純潔を失ったのだから、誇り高いイェルルージュには苦痛でしかないのだろう。しかしシルフリードが一番忌々しかったのは、行為の関係が二人の関係を近づけるのではないのかと一瞬でも期待していた愚かな自分だった。
人狼と吸血鬼。人型をした魔性の中でも一際強力な力を持った種族であり、その実力は拮抗しているはずだ。しかし、常にシルフリードの心中に敗北感が漂うのは、イェルルージュの血を最初に奪われ、そして結果的にあの男の呪い故にイェルルージュの身体が手に入ったことだった。しかしそれでイェルルージュが本当の意味で手に入るはずがない。イェルルージュの純潔はもう奪われた。シルフリードがこの手で奪ったのだ。あの瞬間は二度と重ならない。この敗北感はあの男を殺しても消えることはないだろう。
あの男がイェルルージュに執着する理由などは分からない。しかし、自身の理由も明確ではないのだから、魔性のこうした性癖に理由など不要なのかもしれなかった。
ふと、気配を感じて視線を上げる。
同時にイェルルージュの視線にも力が入っていた。
「馬車を止めて」
「お嬢様」
「早くなさい」
咎めるようなシルフリードの声に、イェルルージュが強めの語調で言った。シルフリードが止めても聞きはしないだろう。
馬車を止め、勝手の知る御者には、出来る限り近道で帰るよう促す。
降りたのは魔獣の気配を感じたからだ。しかもかなり上位の魔獣のようだった。夜の気配はどろりと重く肌に絡み付くようで、降り立った石畳の路地の奥から濃い気配を感じる。
「この、奥は」
「教会所有の鐘楼があったはずですが」
「そこにいると思う?」
「……外にはいないようです。気配があるとしたら、……中でしょう」
人間には感じられないかもしれないが、シルフリードには理解出来る。これまでになく強い気配は鐘楼を上に上にと登っている。そして気配は2つだった。1つは巧みに気配を隠しているが、同類のシルフリードには分かる。
鐘楼の扉は大きく開いていて、広い空間の奥には、丸い壁沿いに階段があり上へと登っている。見上げると、馬の数倍はあるだろう巨大な獣の影が見えた。
「あれは……!!」
そして、その姿を見た瞬間、イェルルージュが跳ねるように駆け出す。
「イェルルージュ様……お待ちください!」
しかし、シルフリードの制止も聞かずにイェルルージュは階段を駆け上り始めた。シルフリードもそれを追いかける。
あの魔獣は魔獣の中でもかなりの大型だ。普段は街中を駆けるような大きさではない。それを街中に連れてくるなどと、そう簡単にはできないだろう。……例えば、あらかじめ街の中にいない限り。
ということは、あの魔獣の存在には誰かの意図を感じるということだ。
最上階にたどり着くと、急に視界が広がり、鐘楼の入り口の空間と同じだけの広さの部屋に出た。鐘の吊り下げられているすぐ下の部屋で、奥には壁一面を覆うほどの見事なステンドグラスが飾ってある。その手前に花の活けられた小さな祭壇が置かれていて、一人の男が魔獣を従えて立っていた。
駆け込んだイェルルージュの足が、止まった。
「よう、イェール」
不敵に笑う男の声とともに、部屋に灯りが灯される。
「ラウバルト……?」
「おう。名前覚えてくれていたんだな?」
ラウバルトがニヤリと笑い、その男の視線からイェルルージュを隠すように、シルフリードが前に立った。
****
血の海の中から這いずるように逃げた10年前の屈辱の日を、ラウバルトははっきりと思い出すことができる。ヘルツァス・シューラーの刃を交わしながら逃走する途中、マリアデール・シューラーを見つけた。薔薇色の髪の美味そうな女、押し倒した瞬間、銀のワイヤーで尾を切られたのだ。心臓を一突きにされなかったのはただ運がよかっただけだろう。あの頃のラウバルトは何もかもが浅はかで、大して強くもないのに己の強さを過信していた。
身体に刺さったナイフは屈辱の証として持ち帰った。大げさな印章を調べ上げてシューラー家にたどり着いたが、己が満足するまで強くなるまではあの男に見えまいと決め、数多くの戦場を渡り歩くことになった。戦いは楽しいという以外なく、金と食事と、時々女をもらって、その上合法的に人殺しが出来るなど、人間どもはクズが多いと本気で思う。
そして、戦いに飽きたころ、ラウバルトはシューラー家に出向いたのだ。
しかし、そこにはヘルツァスもマリアデールも居ない。2人とも自分ではないものに殺されていた。クソッタレめ。
2人を殺す機会を永遠に失い、ラウバルトは永遠に敗北したままだ。新しい標的を見つけなければ、苛立ちと退屈で死にそうだった。
そんな折、ラウバルトの新しい標的として目をつけたのが、ヘルツァスの強い薄翠色の瞳とマリアデールの美しい髪を持った、愛らしい女だった。
名前はイェルルージュ。剣を持ち魔獣と戦う狩人だという。それを知って、ラウバルトは幾度か首都に魔獣を放った。街に魔獣が現れれば、必ずイェルルージュも出てくるからだ。
いつも赤を基調にしたシンプルなドレスを着ていて、髪はなんの形にも結い上げずに下ろしている。ゆるく波打つ髪も白い肌も柔らかそうで、夜会にでも出向くかのような姿で剣を持ち、しなやかに動く様は見ていて飽きない。
そしてもう一つ興味深いことに、イェルルージュは魔性を狩る狩人でありながら、吸血鬼を従えていた。
それも、イェルルージュよりも格段に腕の立つ、いけ好かない顔の男だった。イェルルージュを籠絡したのならともかく、あの様子はシルフリード自身が恐らく主人と決めて、従っているのだろう。
誇り高い魔性の吸血鬼が、たかが人間に従っている。それも、例えばラウバルトが貴族やそこらから金を貰って人を殺るような関係ではなく、ただ純粋に敬慕の念を抱いて。
面白い。
あの女にどれほどの魅力があるのか、俄然興味が湧いてくる。食い千切ったら分かるだろうか?
イェルルージュは女にしては動きがよく、勝機を信じる瞳が美しかった。そして、己の死ぬ最後の瞬間まで、生きる時間を測る冷静さ。肩口を狙った噛み付きが、急所を外れたのは予想外だった。急所を噛み、半分殺したようにして、連れ帰ってゆっくりと可愛がる予定だったのに、あの女は完全には避けきれないことを分かった上でストールでラウバルトの視線を僅かにそらしたのだ。
そして、そのほんの僅かの時間差でラウバルトはシルフリードのナイフを避けることが出来なかった。毒は即効性のものと遅効性のものとが二層に塗られていたらしく、すぐに動けなくなり静養を必要とした。
大きな代償を支払うことになったが、分かったこともある。あの女の柔らかい肉、それを育む強い精神と弱々しく震える心、それが欲しくて堪らない。シルフリードもそうなのだろう。あの女の性格を溶かしたような血の香りに、膝を折ったに違いない。
あの男うまくやりやがったな。俺もあの女が欲しい。
満月の夜に狂わせた女と、男はよくやったに違いない。あんな女が欲情して、我慢できる男がいるものか。
3人で楽しもうと提案したが、それはすげなく却下された。
「独占欲の強い男は嫌われるぜ、低血圧野郎」
「黙れ、駄犬」
あの黒い陰険そうな男を殺さなければあの女が手に入らないのであれば仕方がない、殺すまでだ。それはそれで楽しかろう。あの男が女を守りながらどれほど戦うことができるのかにも興味がある。ラウバルトは、イェルルージュの腕の一本や二本無くなったとて気にはしないが、あの男は気にするだろう。実に陰険で細かそうだから。
楽しくなりそうではないか。
ラウバルトはニヤリと笑って、手の甲から得物を出す。仕込み刀の金属音が、小さく澄んだ音を響かせた。