009.勝利か敗北か

「その、魔獣ヤヴァウォークは……」

「あ?」

しかし、戦闘はいきなりは始まらず、戸惑うようなイェルルージュの声で打ち切られた。ラウバルトに従うのは、喉に鎖を巻きつけた大型の魔獣だ。グルル……と唸り声をあげて、身を低くしてイェルルージュを狙っている。

「それが餌か。駄犬」

シルフリードがイェルルージュを背中に庇いながら、吐き捨てるように言った。ラウバルトは肩をすくめ、シルフリードの答えに頷く。

「駄犬って言うな陰険野郎。……だが、まあ、正解だ」

「……餌?」

首をかしげるイェルルージュに、ラウバルトが小さく笑んで、獲物を狙うように唇を舐めた。

イェルルージュは狩人で貴族だ。狩人というのは高貴な職業ではなく、大概の狩人は森や郊外に魔獣を狩に行くため、庶民街ならともかく、貴族街をうろついているのはイェルルージュくらいしかいない。イェルルージュの馬車が出て行った夜、大きな魔獣を連れて街を出歩けば、絶対に倒しに出てくるだろうと考えた。

魔獣は猿に近い狒々ひひか何かのような生き物の頭が、牛の身体についている。しかし普通の牛よりは遥かに大きく、そして醜悪だ。開いた口から覗く牙は鮫のようだった。その魔獣が、グルルと低い唸り声を上げ、今にもこちらに跳躍せんと頭を低くし前足で床を払っている。

緊張が走る。

イェルルージュが剣の柄に手を掛け、シルフリードが投擲ナイフを構えたその時、魔獣の四肢が床を蹴った。

だが。

グシャ……と、まるで肉が潰れるような悲鳴を上げて、魔獣が動かなくなった。隣に立っていたラウバルトが、魔獣の喉に横から刃を突き刺したのだ。ゴボ、と血を吐き頭からゆっくりと倒れていく。

ぷつりと魔獣の喉から手の甲の刃を抜いて、血を払った。

「あんたが来たらこいつには用はねえなあ、邪魔なだけだ」

ラウバルトの言葉と同時に、イェルルージュが剣を抜いた。響く金属の擦過音にラウバルトも楽しげに笑う。まっすぐに剣を起こし、まっすぐにこちらを見つめてくる。人間のくせにこの人狼と堂々を剣を合わせようとする、誠実な瞳。しかし、ラウバルトが仕込み刀を構える形に持ち上げると、スッ……とシルフリードが前に立った。まるで料理の一皿を供するような振る舞いで、武器を持っていない手を持ち上げて、それを横一閃に振るう。

チッ……と舌打ちして、ラウバルトも武器を振った。

小気味のいい音が響いて、足元にナイフが落ちる。ラウバルトに向かって小さなナイフが投擲されたのだ。それをまずはラウバルトは打ち払って、しかしそこに小剣を抜いたシルフリードが飛び込んできた。抜き様の一閃を受け止める。

「てめえに用はねえんだよ、陰険野郎」

「お嬢様も貴様に用はない。駄犬」

ラウバルトは手首を捻るように刃を返し、噛み合ったシルフリードの剣を受け流す。シルフリードは斜めに踏み込むと、ラウバルトの腕を身体で押さえつけた。しかしすかさずラウバルトが離れて距離が開く。

二人の男が睨み合い、間髪入れずに再び打ち合う。そこにイェルルージュの入り込む隙はない。呆然としていると、視界の端で何かが動いた。

死んでいたと思った魔獣がゆらりと立ち上がったのだ。

その瞳はこちらを向いている。

イェルルージュはこくりと喉を鳴らして、剣を構えた。瞬間、魔獣が跳躍する。

その跳躍は弧を描かず、直線を描いた。牛よりも大きな巨体が、まっすぐにイェルルージュの喉元を目掛けて突っ込んでくる。距離が近すぎる。間に合わない。

切っ先を向け重心を下げる。ぶつかるのは仕方がない。しかし一矢報いるくらいは

「イェルルージュ……!!」

叫んだ声は二つ。勢いよく突き飛ばされ、バランスを崩したイェルルージュの身体が転倒した。なんとか受け身を取ったものの、乾いた石畳に肌のあちこちが擦れ、巻き上がった砂埃が肺の中に入って咳き込んだ。

カラン……と、手から離れた銀の小剣が落ちた音がする。

「し、るふりーど」

砂埃に乾いた喉を無理やり動かし顔を上げると、シルフリードの小剣が魔獣の喉に食い込み、ラウバルトの刃がシルフリードの肩を貫いていた。

ラウバルトがニヤリと笑うと同時に、シルフリードの剣を喉に食い込ませたまま魔獣が倒れ、剣から手を離して後ろに倒れそうになるシルフリードの胸ぐらをラウバルトが掴む。

シルフリードの肩から刃を抜いて、今度はそれを心臓に狙いを定めた。

「うまく魔獣をヤってくれたのに悪ぃなあ、陰険野郎」

「……足癖の悪い、犬め」

シルフリードが、呼吸を荒くしながらラウバルトを冷たく睨みつけた。ラウバルトは笑みを消して沈黙する。

あの時、イェルルージュが魔獣に襲われそうになったとき、その身体を突き飛ばした正体は二つあった。一つはシルフリードの腕、そしてもう一つはラウバルトの足だ。しかし、ラウバルトのそれは計算外だった。イェルルージュを庇いさええしなければ、一瞬隙のできたシルフリードの肩口ではなく……まさに心臓を一突きに出来ていたからだ。普段のラウバルトならばそうしたはずだ。イェルルージュは戦うことができる。放っておいても、死ぬことはなかっただろう。まさに腕の一本や二本、持っていかれたかもしれないが。

しかしラウバルトが取った咄嗟の行動は、それとは真逆だった。ラウバルトはシルフリードを一撃で殺すことより、イェルルージュを庇うことを優先したのだ。

自分らしくない行動に、チッ……と舌打ちして、再び笑みを作る。そんなことはどうでもいい。たとえあの時シルフリードを殺せなかったとしても、次の一手で殺れるのだから。

「俺がこんなところで手加減すると思ったか?」

「……」

シルフリードがす……と瞳を細くした。二の腕を貫かれ、利き腕は上がらない。

しかし。

シルフリードが片方の腕を振り上げ、手に持っていたナイフを投げた。ラウバルトは身体をよじってそれを避け、後ろの美しいステンドグラスがカシャンと大きな音を立てて割れる。夜空が見え、冷たい外気が流れ込んだ。

「どこに投げてんだよ、ああ?」

「……駄犬が……」

「その駄犬に、てめえの大事なお姫様を預けて死ね」

ラウバルトが拳を作り、仕込み刃をシルフリードの心臓に突き立てる。

その瞬間。

男の身体を刃が通り、貫いた銀が背中の向こうに飛び出した。

****

「……て、めえ……」

男は信じられないように自分の胸を見た。そこには、深緋色の髪の女が一人、男の胸に縋るようにもたれている。しかし、その手には銀色の小剣が握られていて、その小剣は男の……ラウバルトの心臓を貫いていた。

「は、……全然躊躇わなかったな、お前」

ラウバルトの手がイェルルージュを強く抱き寄せる。そうして片方の手で、ゆっくりと髪を撫でた。見事な髪は砂埃を被ったようにボロボロだったが、まるで大切な宝物のようにそっと指を通して、するするとほどけていく様を楽しむ。慌てて離れようとイェルルージュが身体を動かしたが、繊細な指の動きからは信じられないほど力が強く、動けない。

「イェルルージュ」

まるで恋人の名でも呼ぶかのように、優しい声でラウバルトが囁いた。イェルルージュを連れたまま、ズルズルと後ろに下がる。シルフリードが構えるが、ラウバルトは脅すように、イェルルージュの首元に仕込み刃を突きつけた。

そうしてシルフリードの動きを封じ、割れたステンドグラスの際までやってくる。そこには小さな祭壇が置かれていて、薔薇の花が生けられていた。

ワイルドローズ。

ラウバルトがイェルルージュの寝台に置いた薔薇だ。ラウバルトはワイルドローズの花びらを毟ると、それを口の中に入れた。

「なあ、イェルルージュ。お前のものを、一つだけくれよ」

「……え?」

それは、一瞬の出来事だった。

ラウバルトがイェルルージュを抱く腕が一層強まり、二人の身体が近づく。片方の手でイェルルージュの深緋色の髪を掴んで上を向かせ、唇が触れ合った。

「!!」

慌ててイェルルージュがそれを引き離す前に、口の中に何かが入れられる。ラウバルトの舌がそれを喉の奥までねじ込んできて、思わずこくんと咀嚼した。

唇を離したラウバルトが、ニイ……と笑う。

「あんたの剣、くれよな」

そして、トン……と、イェルルージュの身体を後ろに押した。その勢いのまま、イェルルージュの……父と母に作ってもらったイェルルージュの銀の剣を腹に刺したまま、窓の外に身を投げる。

後ろに押されたイェルルージュの背中がシルフリードの胸に受け止められ、瞳を塞がれ、抱きしめられた。

「イェルルージュ様」

耳元から聞こえる、シルフリードの柔らかな声がイェルルージュを引き戻す。そのままよろよろと後ろに引っ張られ、まるで二人子供のように、背中から抱きしめられたまま床に座り込んだ。

****

「イェルルージュ様……」

シルフリードの鼻がイェルルージュの首筋に押し付けられた。座り込み投げ出した足で挟むようにイェルルージュを抱きしめ、何度も何度も名前を呼ばれた。

「シルフリード……?」

そして戸惑ったように後ろを振り向くイェルルージュの頬を両手で挟んだ。不機嫌に顔をしかめ、もう少しで唇が触れ合うところまで顔が近づく。

「あの駄犬に飛び込むなど、なんという無茶をなさるのですか」

吐息に触れるほど近くて、こんな時なのにイェルルージュの心臓が跳ね上がった。

「……シルフリード、怪我、は」

「大丈夫です。貴方のことを思えば、すぐに治りますから」

「ふざけないで」

「ふざけてはおりません」

本当のことだ。主人が生きよと命じれば、魔性の身体は身体能力が増す。治癒へと力を集中させながら、シルフリードはイェルルージュの唇に指を触れた。

「忌々しい……」

「え……?」

「あの駄犬、イェルルージュ様の唇に触れやがって」

そう言って、シルフリードがイェルルージュの頭を引き寄せた。腕が体に回り、身体が重なる。

「シルフリード、傷が」

「イェルルージュ」

傷に障るでしょう。そう言おうとしたイェルルージュの言葉は遮られた。唇が重なり合い、しばらくの間動かずにそのまま止まる。しかしやがてゆっくりとシルフリードの唇が動いた。食むように動いているとイェルルージュの唇が誘われるように開き、厚みのある長い舌が入り込んでくる。

二人の舌が優しく触れ合った。

深くなる口付けに、シルフリードの手がイェルルージュの顎を支え、イェルルージュの手もまたシルフリードの背中に回る。

「ん……ふ」

口腔内で二人の舌が絡みつき、唾液が溜まりこぼれ落ちる。

「イェルルージュ、様」

「シルフリード?」

「ご無事でよかった……」

唇が離れ、銀糸がふたりを繋いだ。それが、ふっと消えたとき、シルフリードが泣きそうな瞳でイェルルージュを覗き込む。その瞳を受け止めて、イェルルージュが小さく笑う。

「貴方が、ガラス窓を割ってくれたから」

「……」

あの時、背後でイェルルージュがわずかに動いた気配を感じ、シルフリードはラウバルトが避けることを計算してナイフを投げたのだ。ナイフを回避する行動とステンドグラスが割れた音、シルフリードがナイフを外したという事実に、ラウバルト自身の気が一気にイェルルージュから逸れる。剣を取る音も聞こえなかったのだろう。大きく開いた左胸に飛び込む隙が出来たのは、もうあの瞬間しか無かったはずだ。

しかし、それでもイェルルージュを飛び込ませたくは無かった。その結果、ラウバルトにイェルルージュの唇と剣を奪われたのだから。

「貴女の唇は誰にも触れさせたくなかった」

「え?」

「それなのによりによって、あの駄犬に触れられて」

「シルフリード……?」

イェルルージュは首をかしげる。そういえば先ほども、シルフリードの言とは思えないほどの乱暴な言葉で、同じようなことを言っていたような気がする。

「忌々しいって」

「忌々しいでしょう。……私の、イェルルージュ様の身体には、誰にも触れさせない」

忌々しい? 触れられるのが……その言葉の真意を測りかねるように、イェルルージュがシルフリードを見つめる。シルフリードはその物問いたげな瞳に……瞼に、唇を押し付けた。

「触れさせたくないのです、イェルルージュ様。貴女を……誰にも渡したくない」

「え……」

そう言って、シルフリードはイェルルージュをもう一度抱きしめた。そうしていると、やがておずおずとシルフリードの背中に細い腕が回されて、体重が掛かった。シルフリードが一瞬身体を強張らせる。その動きに、怪我に触れたのかと思ったイェルルージュが慌てて身体を離した。

しかし、シルフリードは離さないよう抱き締める腕をきつくした。

「もう少しこのままで」

「あ」

「お願いですから、もう少し……このままで」

シルフリードの声が掠れている。その声に答えるように、イェルルージュが胸に顔を埋めた。この重み、温かな身体に何度も何度も安堵する。確かめるように、やわらかな髪に指を通した。

「シルフリード……帰りましょう」

「ええ、そうですね。帰りましょう」

もうこれで本当に終わったのかは分からない。ラウバルトはどうなったのか。呪いは消えたのか。けれど今は、互いの関係に何かが掴めそうな今は、少しの間寄り添っていても許されるだろう。

シルフリードは座り込んだまま、己の上着を脱いでイェルルージュの肩に掛けた。イェルルージュが不安そうな顔でシルフリードを見上げたが、シルフリードは小さく首をふる。イェルルージュは、言葉にはしなかったけれど「生きろ」とシルフリードに命じた。

もう肩の傷はふさがっている。

これで思う存分、イェルルージュの肩を抱き寄せることが出来る。