010.重なり合う夜

確かにラウバルトは塔の上から落ちたはずだったのに、地面にはその痕跡が全く見当たらなかった。月明かりの儚い夜に、これ以上の探索は諦め、辻馬車を拾って帰宅した頃にはもう日も変わっていた。

先に帰した御者に命じ、湯を用意させていたのは正解だった。

「シルフリード、ちょっと、歩けるわ、降ろし……」

「いけません。お怪我をなさっておられる」

そしてその間、イェルルージュはシルフリードの上着を着せられて、横抱きに抱えられていた。いくら降ろせといっても全く聞かないのだ。塔の上から屋敷に着くまで、あの長い階段を下りるときもイェルルージュは降ろしてもらえなかった。シルフリードいわく、転倒して床を這った時にあちこち擦り傷を負ったのだという。しかし、そういうシルフリードの方が大怪我をしているはずだった。

「でも、あなた、の怪我」

「心配してくださるのなら、暴れないでください」

言われてイェルルージュは渋々口を閉ざし、おとなしくなった。できるだけ、先ほどシルフリードが受けた傷に触れないように身体を強張らせる。

がたごとと揺れる馬車の中でも、屋敷に到着して使用人達の慌てふためいた顔に出迎えられても、シルフリードは平然とした表情のまま大丈夫だと指示を出し、まっすぐにイェルルージュの寝室に向かった。

「湯を用意させました。……その血を洗い流さなければ」

シルフリードの声はどこか不機嫌で、そして切実だった。見上げると痛みを堪えるような表情で、イェルルージュの胸元を見下ろしている。視線につられてイェルルージュも自分の胸元を見てみると、そこはラウバルトの血で真っ赤に染まっていた。

脱衣室の椅子に座りイェルルージュを膝の上に乗せると、ぷつりと留め具を外し、紐を解いて血を吸ったドレスを脱がせる。中に着ていた編み上げの下着ビスチェにも血が染み込んでいて、シルフリードは極めて不機嫌な顔になった。

しかし、脱がされるイェルルージュは堪ったものではない。慌てて大きな拭き布を身体に巻きつけると、シルフリードの膝の上で縮こまった。

「ちょ、とまって」

「待ちません、私が洗います」

「で、も、シルフリード、あなた怪我を」

「治ったとご報告しませんでしたか?」

「でも、血が……」

「ああ……」

言われてシルフリードが腕を緩め、自分の肩口を見た。白いシャツが血で真っ赤に濡れている。確かにこれは自分の血液だ。しかし、吸血鬼のシルフリードの傷はとうに治っていた。イェルルージュが心配するようなことは何もない。ただ、このままでは確かに不都合もある。

「そうですね、貴女を血で汚してしまってはいけない」

そう言って胸元を緩め、乱暴にシャツを脱いだ。裸の肌に思わず頬を染めたイェルルージュを抱き上げて立ち上がると、浴室へと運ぶ。有無を言わさず、シャワーから湯を出してその下をくぐった。

それほど酷いものはないとはいえ、身体の表面にいくつもできた小さな傷に湯がしみて、思わずイェルルージュは身体を強張らせた。

「……んっ……!!」

「少し染みるのは我慢して、目を閉じていてください」

シルフリードが少しイェルルージュの肩を押さえ、胸に引き寄せる。顔に湯が掛からないように身体をずらし、胸元と肩口の血を流していく。2人とも身体に付いた分を落としてしまえば新たなものはない。それほど長くはかからずに洗い流し、シルフリードはイェルルージュを浴槽の縁に座らせた。

「シルフリード……あ、の」

「目を開けても、大丈夫ですよ」

まだ抜き布で身体を隠したままのイェルルージュの目の前で、シルフリードが跪いていた。イェルルージュの細い腕を取り、その肌に舌を押し付けて這わせている。少しピリピリと唾液が染みる感触は覚えのあるものだ。いつも、シルフリードがイェルルージュの傷を癒す、あの感触。

「……あっ」

「お怪我を」

「あなた、がっ」

「イェルルージュ様」

しつこくシルフリードの怪我を心配するイェルルージュの手を取って、シルフリードは己の肩口に触れさせた。裸の肌に触れてびくりと震えた指先を掴み、ラウバルトに刺された部分に導く。緊張していた指先が恐る恐るシルフリードの肩を進み、肌を撫で、そこに傷が無いことを知ると、イェルルージュが小さな声で囁いた。

「もう、大丈夫なの……?」

「ええ。痕もないでしょう?」

そこに傷はなかったが、イェルルージュはシルフリードの肌から手を離せなくなった。もっと触れていたくて切ないが、だが触れる理由が見つからなくて戸惑う。

その困惑に寄り添うように、シルフリードが近づいた。イェルルージュの真似をするように、シルフリードも肩に触れる。ちょうどそこは、イェルルージュがラウバルトに噛み付かれたところだった。ただシルフリードと違い、傷痕が残っている。

「貴女から、あの男の痕跡を一つ残らず消し去りたい」

「あの、男……?」

「貴女に残る、私以外の男の痕を、私の手で消したい」

「シルフリード」

まるで下僕が女王に慈悲を請うかのように、シルフリードはイェルルージュを見上げた。

「この意味が、お分かりですか?」

シルフリードはイェルルージュの耳元に唇を寄せ、軽く噛み付いて囁いた。

「貴女に愛を乞うことをお許しください。イェルルージュ」

****

湯を張った浴槽に香油を滴らし、ほのかな香りの中でイェルルージュの身体はシルフリードの身体に包み込まれている。先ほどまで石鹸で丁寧に洗われていた身体は後ろからやんわりと抱き寄せられ、時折肩や首筋にお湯をかけられた。

愛おしいものに触れるようにシルフリードの手が動き、イェルルージュの顎をこちらに向かせる。

「ようやく、こうして貴女に触れられる」

先ほどからそう言って触れてくるシルフリードの甘い言葉と唇を、イェルルージュは拒むことが出来なかった。素直に受け取りたかったが、しかしどうすればいいのかも分からず、うつむいてシルフリードの首筋に額を預けた。

「身体はお辛くありませんか?」

「傷は……大丈夫、貴方が治してくれたから」

「ならば、少し触れてもよろしいですか。貴女は動かなくてもかまいませんから」

「え……あ」

そう言って、いままでおとなしくしていたシルフリードの手が、後ろからゆっくりとイェルルージュの胸のふくらみに触れた。

その途端、じくりとした感覚が走ってイェルルージュの身体が揺れる。そうしたイェルルージュの愉悦が伝わったかのように、シルフリードが熱い吐息を吐き出した。大きく豊かな胸を下から持ち上げてふくらみに指を沈め、感触の違う部分を軽く摘まれる。

胸に触れられたのに、お腹の奥の何かがどろりと溶けたように感じた。

「ん……」

そして、そのまま弾くようにシルフリードが親指を往復させると、溶けた何かが熱く身体に広がっていく感じがする。身体の奥がじくじくと疼き、愉悦で喉が痛いほどだが、身体を逃そうとしてもシルフリードの手はそれを許してくれない。

胸に触れられながらシルフリードがイェルルージュのうなじに唇を押し付け、時々硬く尖った牙がツウと触れた。

しかしそれは肌に、ちゅ、と吸い付くにとどまり、その間も胸に触れる指先の動きは止まらない。胸に触れられているだけなのに、まるで身体の奥に触れられているようで、腰が動く。

「あっ」

「……あまり動かないで」

時折崩れるシルフリードの言葉が、なぜかイェルルージュの胸をそわそわさせる。同時に、他とは全く異なる質感の熱が、イェルルージュの足と足の間に触れていた。時々震えるイェルルージュの腰の動きに合わせて、その部分を撫でるようにシルフリードも動く。その先を思わせる行為に、イェルルージュの喉がこくりと鳴る。

「ずっとこうしたかった」

「う、そ」

「嘘?」

シルフリードの動きが止まり、まじまじとイェルルージュを見つめる。わずかに首を傾げ、イェルルージュの瞳を覗き込んだ。

「嘘、とは?」

「だって、」

イェルルージュは声を詰まらせて、俯いた。満月の夜、シルフリードに言われた言葉は今でもはっきりと覚えている。ぷるぷると冷えた肩を震わせて、イェルルージュはシルフリードの胸を押して少しだけ距離をとった。

「私のことを、忌々しいと言ったわ」

それを聞いたシルフリードが、切れ長の瞳を丸くした。そうしてすぐに離れようとしたイェルルージュを抱き寄せる。ぎゅっと締め付けるように、……縋り付くように腕を巻きつけて、大きくため息を吐く。

「まったく、貴女は」

「シルフリード?」

「なるほど、確かに言いましたね」

腕の中でそれを聞いて、再びイェルルージュが離れようともぞもぞ動く。しかしシルフリードはその柔らかな身体を抱き上げると、湯船から立ち上がった。

「言い訳をお許しください」

そう言って、抱き上げたイェルルージュの頬に小さく口付けを落とした。

****

シルフリードは裸のままのイェルルージュを拭き布に包んで寝台に運んだ。自分も寝台に上がり、イェルルージュの身体に重なり合うように覆い被さる。

指先でイェルルージュの頬に触れながら、シルフリードは首をかしげた。

「貴女に触れても?」

「……」

イェルルージュは頬を染めて俯いたが拒まなかった。

しばらくの間イェルルージュを見つめていたシルフリードが、やがてイェルルージュの胸元に顔を下ろした。柔らかな胸の頂を口に含み、口腔内でゆっくりと舌が動かされる。もう片方はシルフリードの指が捉え、弾力のあるそれを指先で揺らされた。寝台の上でこうされたのは何度目か、しかしあの時の感触とは全く異なった。もっとはっきりとシルフリードの指先と舌を感じ、もっと重く甘い愉悦に襲われる。

やがて唇を離すと、イェルルージュの頬がシルフリードの両手で包まれた。

黒い瞳が、じっとイェルルージュの瞳を覗き込んでいる。

「私が忌々しいと言ったのは、貴女を狂わせているのが……私ではなく、あの男が原因だったからです」

「あの、男? ラウバルト……?」

「その名前を貴女が口にしないでください。忌々しい」

イェルルージュがきょとんと首をかしげると、シルフリードが実に苦々しく吐き捨てた。驚いた風に瞬きするイェルルージュから、決まり悪げに視線を外す。

しかし、再びイェルルージュに視線を絡めた。

「満月の夜、声をあげ、積極的な貴女は愛らしかった」

しかし同時に憎らしかった。イェルルージュが感じているのはシルフリードの身体ではなく、呪いによる衝動だ。その美しい薄翠色の瞳はシルフリードを見ておらず、目の前で触れている男がシルフリードだから受け入れてるというわけではない。愛する女が確かにこの腕に身を委ねて濡れている。それなのに、女の中にシルフリードはいないのだ。

「それが堪らなく憎らしいのに、私は貴女に夢中になったのです」

夢中にならざるを得なかった。イェルルージュは我を忘れていて知らないだろう。シルフリードが何度、乱れるイェルルージュに己を吐き出し、汚したか。

「でも、最初の夜は……」

「私が貴女の就寝前、身体を綺麗に清めましたからご存じないでしょう」

その意味を知って、カア……とイェルルージュの頬が染まる。交わらずにイェルルージュの身体で吐精する方法ならばいくらでもある。しかし、目の前に愛しい女の麗しい身体があるというのに、我慢するのは拷問だった。それでも、あの男の呪いの手を借りて抱くよりはマシだと思っていたのだ。

それなのに、ラウバルトはイェルルージュの身体にいとも簡単に触れ、シルフリードの理性を一気に崩した。

「これ以上待てないと思いました」

「だから……?」

「ええ。だから、奪った。我慢などできませんでした。貴女を奪われる可能性を全て無くしてしまいたかった」

しかし思う様イェルルージュを抱いたとて、心は晴れることがない。初めて繋がる身体、イェルルージュの痛みを奪う瞬間、もっとも心寄り添うはずの瞬間に、2人の心は重ならなかった。イェルルージュはただひたすら己の欲情を持て余し、シルフリードは己の感情を持て余していた。感情を込めれば胸が軋むが、淡々と抱くには愛し過ぎる。

言葉を詰まらせてシルフリードがイェルルージュの髪をただ、撫でると、イェルルージュが手を伸ばした。先ほどシルフリードがそうしたように、頬を包んで引き寄せる。

「私、貴方でなければ、きっと耐えられなかった。確かに細かなことは覚えていないけれど、貴方が触れているのだということだけは分かっていたもの……そうでなければ、私は別の意味で、きっとおかしくなっていたわ。私が我を失っている間、そばにいてくれているのが貴方だと分かったから、耐えられた」

「イェルルージュ?」

「でも何もかもが終わったあと、こちらを見ていないのが悲しくて、翌日だって何も思っていない風なのが悲しくて、本当に、ただ満月で私が狂っているから、義務的に触れているのだと思っていたの」

「義務、などと。貴女に浮かれている顔など見せられるわけがないでしょう」

ムッとしたシルフリードに、イェルルージュが小さく笑う。その表情にシルフリードが真剣な眼差しになった。無表情には見えるが、満月の翌日のように冷たいものではなく、静かで熱が籠っていた。

シルフリードの手がイェルルージュの喉に触れる。

それに答えるようにイェルルージュがシルフリードの手を取った。

「今日は、満月じゃないわ」

「イェルルージュ。そんな風に言われると、我慢できない」

いつの間にか、シルフリードはイェルルージュを「お嬢様」とは呼ばなくなっていた。名を呼ぶ時に甘さを込めて、指先は大胆にイェルルージュに触れる。

おしゃべりはもうやめて、シルフリードは丹念にイェルルージュに触れ始めた。愛の言葉を囁く代わりに唇を重ね、その身体を賛美する代わりに手を動かす。

ほんのわずか動かしただけでイェルルージュの身体の奥の種火が熱くなった。身体の奥で何かが溶ける。溶けて、溶けて、シルフリードの指を濡らしていく。

長いシルフリードの指が、イェルルージュの奥をくすぐり始めた。美しく長い指だと思っていたが、奥で感じると節ばっていて男らしい形をはっきりと感じる。たっぷりと濡れたその奥を指が自在に撫でていくが、粘液と膣の柔らかさが絡み付いて、ほんのわずかの面積のはずなのに、身体の全てを触れられているようだった。

初めてではないはずなのに、まるで初めて触れられているような感覚だ。

「私の瞳を見てください、イェルルージュ」

シルフリードがそう懇願すると、イェルルージュが潤んだ瞳を向けた。そこには月に満ちて沸き起こる欲情はなく、愛する者に触れているからこそ沸き起こる愉悦が見て取れて、シルフリードは安堵する。

もうとうに硬く熱くなっている己の欲望を押し当ててゆっくりと進むと、そこは容易く蜜と柔肉に包み込まれた。