「お嬢様」
「こないで……」
「私以外の誰がそばにいられましょう」
そう言って、シルフリードはイェルルージュを後ろから抱き寄せた。触れたシルフリードの手に身体をびくりと震わせたが、徐々に伝わって来る体温にそうっと力を抜く。
「イェルルージュ」
手のひらに伝わる緊張感がほっと解けたのを感じてシルフリードが耳許で囁くと、ようやく力の抜けたと思った身体が、またハッと強張った。シルフリードは苦笑して、後ろからイェルルージュの頬に唇を寄せる。噛み付くようなふりをして軽く口を開き、頬の柔らかみに唇を掠めた。
イェルルージュが不安そうに唇を動かす。
「シルフリード……」
「怖いのですか?」
シルフリードに身を委ねるのも恐ろしく、かといって身体の中にうずまく情欲を逃す術など分からない。触れてほしいのに触れてほしくない矛盾は、心のどこから湧き上がるものなのか、冷静になれぬイェルルージュにはどうすることも出来なかった。
そうした恐怖に揺れるイェルルージュをシルフリードが放っておくはずがない。
イェルルージュとは心を通わせ、夜毎、身体を通わせていた。そうでなかった時に求められた声は、その響きの向こうに己を感じられず心を苛んだが、今は違う。
今宵は満月。
情欲に溺れそうなイェルルージュを掬い上げるのは、シルフリードの役割だ。
****
イェルルージュの身体をそっと寝台に横たえて、おびえた風に震える頬を手の甲で撫でる。視線をそらそうとするイェルルージュの頬を両手で挟み、こちらを向かせた。
唇をきゅっと引き結んで、薄翠色の瞳が恐る恐るこちらを見る。シルフリードがその翠の瞳に唇を近づけると、やんわりと閉ざされた。唇を押し付けると、瞬きをしようとしているのかイェルルージュの瞼が震えるのを感じる。
舌を出して瞼を舐め、顔を離すとイェルルージュの瞳も開く。しかしその瞳を覗き込む前に、耳元で囁いた。
「触れて欲しいですか?」
つい、意地の悪い物言いになってしまう。イェルルージュはいつもと違って弱々しい表情で、何かを言いたげに唇を震わせた。
それを見て、愛おしさにイェルルージュの頬を撫でる。
二度目の満月の夜、イェルルージュの純潔を奪ったあの夜、イェルルージュは確かにこの表情をしていたはずだった。だが、シルフリードはそれに気が付かなかった。そこにある色情しか読み取れず、自分に対する信頼など感じる余裕も無かったのだ。どうして冷静になれなかったのか。一度しかないイェルルージュの純潔は、あんな風にしか奪うことが出来なかったのか。しかし、どうやり直したとて、あの時自分は冷静にはなれなかっただろう。
「シルフリード……わた、し」
黙ってしまったシルフリードに不安になったのか、イェルルージュが掠れた声で呼んだ。シルフリードもまた、小さな声で……イェルルージュの耳にだけ届く声で、そっとイェルルージュの名前を呼ぶ。その声だけでイェルルージュの身体がびくんと跳ねて、今はただ、愛しい女が自分の声にこうした反応を見せることに悦びを見出す。
満月は確かにイェルルージュにとって……いや、二人にとって呪いに違いない。
けれど満月はこれからも必ずやってくるのだ。
「恐ろしさも何もかも忘れてしまいなさい。私がそばにおりますから」
シルフリードの言葉に、イェルルージュはきゅっと唇を引き結んだ。両手を持ち上げて、シルフリードの頭を引き寄せる。
「こわ、こわ……いの」
「ええ」
「身体のおく、が、私じゃないみたい、で」
「わかっています」
イェルルージュの手に引き寄せられるまま、シルフリードは身体を密着させた。ふくよかな胸の膨らみを押しつぶすように身体を重ねて、首筋に口付ける。抱きついていた腕を離させて、手首を掴んで枕に押さえつけた。
首筋と耳元に舌を這わせながら、片方の手をイェルルージュの胸に触れる。幾度触れても飽きることのない、心地の良い柔らかみ。ゆっくりと包みやんわりと撫でていると、掌に触れる切っ先の感触が少しずつ変わってくる。
もっと激しく触れて欲しいのか、イェルルージュの腰が強請るように揺れた。
それだけでイェルルージュの深い場所が濡れていることを知る。常ならば意地悪な言葉を掛けて、イェルルージュの恥じらう姿を楽しむが、今夜はそんな余裕は無かった。理性ではなく、気持ちの余裕だ。
「イェルルージュ、こちらを見て」
それはイェルルージュに自身を認識させようという心持ちもあったが、その瞳を確認したいというシルフリードの気持ちでもあった。満月の夜、シルフリードはイェルルージュの瞳を覗き込むのが怖かった。その瞳に自分が映っていないことを確認することが怖かった。
だが今は知っているのだ。
その瞳にシルフリードが映らないことを恐怖しているのは、イェルルージュの方なのだと。
綺麗な薄翠色の瞳は色めいていたが、確かにシルフリードの黒い瞳を懸命に覗き込もうとしていた。すがるようなその表情が可愛くて、なぜこの表情にあの時気がつかなかったのかと胸が痛む。
視線が絡み、イェルルージュの瞳がはっきりとシルフリードを捉える。その瞬間の、ホッと安堵したような顔に、シルフリードは堪らず唇を重ね合わせた。喘ぎ声が呼気とともに飲み込まれ、ギシ……と寝台が軋む。
少し体勢を動かしてイェルルージュの秘部に指を伸ばし、どれほど濡れているかを確認する。そこはシルフリードの予想以上に濡れていて、まだ触れていない下半身が熱くなり、腹の底に何かが競り上がってくるような強い欲を感じた。
「イェルルージュ」
「シルフリード」
彼女のためではなく、むしろ自分の都合のために、つながりあってもよいかと問おうとした声が重なる。シルフリードが口を閉ざすと、イェルルージュがひくりと喉を揺らした。
「い、あ……シルフリ、ド」
「お嬢……イェルルージュ?」
「はやく、おねがい……あ、の」
「ああ……」
強請る言葉も「助けて」の言葉だと思うと、人狼への嫉妬すらイェルルージュへの思いの強さを認識するためのものに過ぎない。シルフリードが己の欲望をイェルルージュの足と足の間に触れさせると、ぬるりと容易く入り込んだ。
容易くといってももちろんそこはきつくて、押し入るには力がいる。しかしその弾力は心地よく、少し先端が押し入っただけで、残りは吸い付かれるような感触と共に膣内に包み込まれる。
「っは……く」
思わず声を失ったのはイェルルージュだけではない。シルフリードもまた、危うい感覚を味わった。あまりの心地よさにしばらく動かず、とくとくと脈打つ襞の柔らかさと温もりを味わった。
身体を交わらせる慌ただしさからは想像できないゆっくりとした動きで腰を引くと、粘膜がまとわり付いてくる。その粘膜を押し戻すように中に入ると、奥の引っ掛かりに吸い込まれた。その引っ掛かりをシルフリードの熱が擦るたびに、イェルルージュから声が上がる。
何かを掴もうと彷徨う手を掴まえて、指を絡めてつなぎ合った。
指先の動き一つからすら、イェルルージュの愉悦が伝わってくるようだ。シルフリードが動くたびに指の先が震え、指をぎゅっと握ってくる小さな動きがいじらしい。
激しく動かしたい衝動を抑えて、イェルルージュの繊細な動きを身体で追い掛ける。触れ合う肌は汗ばんでいて、ひたりと重なり合い、離れるのを拒んでいるようだった。ゆっくりと、しかし強く動かしながら、シルフリードはイェルルージュを覗き込み、そして黙って、口付ける。
舌と唾液が水音を鳴らし、下半身の愉悦に合わせて息を求め、その吐息の音だけが鼓膜をくすぐる。
いつもなら言葉を交わし合い愛を囁き合うこうした行為も、満月の夜はただ飢えた身体に水を満たすようにと願い言葉は少なめだ。時々、互いの名前を呼ぶだけで、あとは身体で会話する。
「はっ、……あ」
緩やかな抽動は満月の夜には物足りない。物足りないならもっと激しく、より感じる身体で、思う存分愉悦で満たされなければイェルルージュには苦しく辛いだけだろう。かつてはその愉悦を与えているのが、自分ではない……人狼の呪いであることに激しい嫉妬を覚えていた。今もまだ、その嫉妬が完全に無くなったとはいえない。
しかし。
「イェルルージュ、今、貴女とこうしているのは私ですよ」
「……あ、あ……おねが、い……シルフリード、も……と」
「意地悪は止めましょう。……貴女に触れているのは私です、……私が」
シルフリードはイェルルージュに覆いかぶさり、つながりあったまま、唇を喉元に寄せた。口を開くと吸血鬼の牙が覗き、それをイェルルージュの白い柔肌に軽く触れさせる。
狙いを定めるようにやわやわと牙の先端で軽く撫で、その皮膚の向こうにとくとくと血が脈打つ場所へとあてがう。
この血の奥に人狼が混じっていることをシルフリードは知っている。その人狼が、時に嫉妬という感情でシルフリードの心を掻き毟ることも。
しかしそれ以上に、シルフリードを酔わせ、シルフリードを恍惚とさせる血の甘やかさがあることもまた、知っている。その血の持主はシルフリードの愛する女……愛する薔薇だ。
薔薇には棘がある。
棘のある薔薇を愛でるためには……どうすればいい。
薔薇の棘をナイフで削り取ればいいのだろうか。それとも触れずにただ見つめるだけにすればいいのだろうか。しかしシルフリードはこの薔薇の何もかもが欲しいのだ。
それならば。
ぷつ……と、吸血鬼の牙がイェルルージュの肌を貫いた。弾力があるが脆さを感じる皮膚に牙が通る瞬間は、きつい秘部に己の欲望を入れる時の反発と、その反発を貫通してぬるりと誘い込まれる感覚によく似ている。
「……っ、ひ」
そしてその瞬間、愉悦なのか瞬間の痛みなのかどちらともつかない感触が、イェルルージュの身体に奔る。跳ね上がる身体を押さえつけ、シルフリードは挿入したままの腰を深く穿ち、より奥へと進んだ。
ビクビクと膣内が激しく脈打ち、イェルルージュが声もなく達したことを知った。噛み付いたまま、シルフリードの口角が上がる。牙の方にくつりと力を入れると、イェルルージュの首筋から温かな血が……愉悦の美酒がこぼれ落ちた。
それはとろりとシルフリードの喉へと到達し、しびれるほどの甘い味わいをもたらす。一瞬でシルフリードを酔わせ、興奮に思わずイェルルージュの髪を掴んだ。
掴んだ髪を軽く引っ張り上を向かせ、もっと強く牙を食い込ませる。血の溢れる勢いが少し増して、代わりに吸血鬼の媚薬が注がれた。
「あ……あ……」
こうしている間にも、何度もイェルルージュは達しているようだ。少し腰の位置を動かしただけで、奥が震えて締め付けてくる。シルフリードもおそらく数度、精を吐いた。自分でも分からない。
黒い瞳は銀色にギラギラと燃え、理性が霧消してしまう。
棘のある薔薇の何もかもが欲しいなら、その棘ごと飲み込んでしまおう。その棘が、たとえシルフリードの喉を傷つけたとしても。
片方の腕をイェルルージュの腰に回して、自身の欲望をさらに押し付ける。子宮の入り口まで到達した先端は、奥の襞を容赦なく抉った。喉に突き立てた牙からは愉悦の血が交換され、二人は何度も、果て無き果てを見る。
やがて、ふ……とイェルルージュの手から力が抜けた時、ようやくシルフリードは我に返った。
慌てて牙を離し、幾度目かの吐精をした己も抜いた。イェルルージュだけではなく、自身までもが夢中になってどうする。今宵はイェルルージュを酔わせようと思っていたのに。
「イェルルージュ様?」
気を失ったイェルルージュの頬をそっと撫でると、「ん」と小さな声が返ってきた。まだ夜明けまで時間は少し残っているが、気を失ってしまっては仕方がない。先ほど噛み付いたところに再び唇を寄せると、今度は舌を這わせて残っている傷口をふさいだ。
とくとくと鼓動を感じることに安堵して、シルフリードは身体を起こした。らしくもなく、頭がグラグラしている。イェルルージュの血に酔っているのだ。
それにまだ正直に言えば興奮もおさまってはいない。
気を失っている「お嬢様」にそれを慰めろというのは、酷な話と思うだろうか。
「イェルルージュ……」
少し考えて、シルフリードはイェルルージュに覆いかぶさった。
****
「ん……重い……」
重いのは自分の疲労した身体ではなく、自分に覆いかぶさっている何かがあるからだ。視線を動かすと外は明るく、もうすっかり夜は明けている。満月の夜はいつの間にか終わっていた。
重い何かはシルフリードの腕のようだ。いつもは片方の腕をイェルルージュの首の下に置いて、もう片方の腕は腰を抱えるように回している。少し首は痛いけれど重いということはなかったのだが、今日はちょっと苦しいくらいの重みを感じた。
「シルフリード?」
見ると、シルフリードが身体を半ばイェルルージュに覆いかぶさるようにして、うつ伏せになって眠っているのだ。片方の腕はイェルルージュの肩を抱き、イェルルージュの頬に顔を寄せている。無意識に置かれている唇から溢れる健やかな吐息が耳元を揺らしていて、くすぐったくて、温かい。
よほど疲れているのか、先ほどうっかり零してしまったイェルルージュのささやき声にも目を覚まさなかったようだ。疲れている……という事実の具体的な真相に思い至り、イェルルージュの頬が熱くなる。
全て覚えていないわけではない。
だが、一つだけ確かなことがある。満月の夜の呪いはまだ残っていても、自分を掻き乱したのはそれではない。人狼の呪いではなくて、シルフリードの身体と能力だった。
シルフリードが、自分を呪いから救ってくれる。それがどんな方法であったとしても、シルフリードの牙ならば、イェルルージュは受け入れることができるだろう。
イェルルージュはシルフリードの肩に毛布を掛けようと手を伸ばそうとした。しかし、シルフリードの身体が邪魔で手が届かず、しばらくもぞもぞとしただけですぐに諦める。
まあいいか。二人でくっついているから、温かいだろう。イェルルージュは伸ばした手をシルフリードと自分の間にしまい込んで、覆いかぶさっている胸板と首筋にすり寄った。
いずれシルフリードが目を覚ましたら、今日は随分と寝坊したのね、とからかおうと考えながら、イェルルージュ自身も、もう少し寝坊することに決めた。