薔薇の庭

シューラー家は上位の貴族ではなく、それほど贅沢な邸を所有しているわけではない。しかし、小さいながらも薔薇を設えた庭は、通年楽しめるように見事に手入れされていた。中でも現当主のイェルルージュが生まれた時に作らせた品種はことさら大切にされていて、花の剪定が為されるときは、シルフリードは必ずこの薔薇を選んでイェルルージュの枕元に置いている。

庭を愛でるイェルルージュの供をして庭を歩くこともあるが、今の時期にどのような薔薇が美しいかを見聞するために見回ることも多い。とはいえ、イェルルージュに仕えるまで、シルフリードはさして薔薇の美しさに興味があったわけではない。薔薇という花は、貴族や……とりわけ女の気を引く話題かという程度の認識でしかなく、別段興味もなかった。しかしイェルルージュのためにそれを設えることを覚えてからは、美しさも香りもよくよく見極めている。

その日、シルフリードはイェルルージュの部屋に飾る薔薇を切らせようと、庭を訪れていた。

「……これは」

そして見つけたのだ。

「なぜ、これがイェルルージュ様の庭に咲いている」

苛立ちを抑えきれぬ独り言を零すシルフリードの足元には、一重咲きの愛らしい……野生種の薔薇が咲いていた。色は赤。その形には見覚えがある。

「……」

しかし、名前を出すことすら忌々しい。

それはイェルルージュを脅かした人狼……ラウバルトが、かつて手折った薔薇と同じ形をしていた。イェルルージュを襲った夜、わざわざその枕元に置いた花。そして最後に出会った時、イェルルージュの唇に捧げた花だ。

庭師に聞けば、当然の事ながら植えた覚えはないという。庭師は、通いとはいえ長年シューラー家の庭を世話してきた者で、この家の庭で知らぬところは無いはずだ。その庭師すらも知らぬ間に、いつどうやってここに植わったのやら。

シルフリードは眉根を寄せて、フロックコートの内側……腰に隠してある短剣を鞘から抜いた。

いっそ、切って捨ててしまおうか。

本気でそう思った。

「くそっ……馬鹿馬鹿しい」

しかし、シルフリードは刃を薔薇には当てずに元に納めた。駄犬を思い出させるというだけで野生種の薔薇を切り捨てるなど、あまりに拙く馬鹿馬鹿しいではないか。

あの犬……ラウバルトがあれからどうなったのか、シルフリードが調べておらぬはずがない。憎い相手は名前を思い浮かべるだけでも忌々しいが、こちらに少しでも近づかぬよう見張らずにはいられないのだ。

噂が聞こえ始めたのは、戦いの後、数ヶ月ほどしてからだった。国境の治安維持に集められた部隊に、敵にも味方にも恐れられる悪名高い灰色の傭兵がいるという。その噂は、ラウバルトがイェルルージュの元に現れる少し前にもあったものだ。招集が成された戦いが終わり、ラウバルトが首都に流れてきて、そしてあの出来事があった。

その間消えていた灰色の傭兵の噂は、ここ最近……つまりラウバルトがイェルルージュから離れてしばらくしてから、再び聞こえ始めたのだ。恐ろしいまでの強さだが、なぜか腰に提げている剣を、彼は抜くことはないのだと。

あの男はイェルルージュに主従の契約を強いている。イェルルージュはそれを知らないはずだ。もちろん教えるつもりも毛頭ない。しかし、ラウバルトはイェルルージュから命じられるのを待っている。その命のある限り。

灰色の傭兵は、噂を聞いた他国からかなりの勧誘スカウトを受けたと聞く。中には高位貴族が私兵にと請うものもあったようだ。一部の貴族など、かなりの契約金を提示したらしい。しかしラウバルトはそれらのすべてを断り、グラウフカの国家にのみ雇われている。

腰の剣とはイェルルージュのものだろう。抜かずという噂も癪に触るが、腹立たしいことに、それがあの男なりの勝利であり忠義なのだ。

もっともあの男に「忠義」という言葉があるなどと、シルフリードは信じてやりなどしないが。

「シルフリード、ここにいるの?」

舌打ちをしかけたとき、柔らかな気配と声がシルフリードを探していた。ざわついた心が静まり、己の誇りが戻ってくる。

シルフリードは足元にある野生種の薔薇がイェルルージュの目に入らぬよう、主人の気を引かぬよう、ゆっくりとその場から離れた。美しい女主人を出迎えに気配の方へと足を進めると、柵代わりに植えられている蔓薔薇がちょうど満開で、その隙間にイェルルージュが顔を出す。

ああ、いけない。

そんなに薔薇に近づいては、もっと追い詰めたくなってしまう。

「イェルルージュ様。私はこちらに」

シルフリードは、イェルルージュの身体を絡め取るように腕を回した。執事が女主人をエスコートするにしては近すぎる距離感で、イェルルージュの腰に腕を回し、甘えるように肩口に唇を近づける。

「シルフリード……どうかして?」

「イェルルージュ」

不意に近づいた体温に対してまるで無防備なイェルルージュが、柔らかな表情でシルフリードを覗き込んでいる。その瞼に自分の瞼を重ねるように、顔をすり寄せた。しばらくの間そうして、ゆっくりと離すと、くすぐったそうに細められた瞳が徐々に開かれて、シルフリードの黒い瞳と交わり合う。

「こんなところで何をしていたの?」

「薔薇をいくつか、頂きにまいりました」

それを聞いて、イェルルージュは少し考える風に首をかしげ、小さく笑った。

「よい薔薇はあって?」

「さて、お嬢様の好みの色があれば、お持ちいたしましょう」

言われてイェルルージュはきょろきょろと周囲を見渡した。そうして一点に目を止める。視線の方向にシルフリードがわずかに顔をしかめたが、それに気づかずイェルルージュは手を伸ばして、そして。

「痛っ」

その声に、シルフリードが我に返った。

直後、強い香りに表情を揺らす。

見下ろすと、どうやら薔薇に指を伸ばしたイェルルージュが、小さな棘を指に刺してしまったようだった。反射的に顔を下ろし、その手を取って指先を口に含む。

「あ」

イェルルージュが羞恥に頬を染めたが、ふざけないでと腕を引くこともできない。シルフリードがいつものような不敵な顔ではなく、思いの外真剣な顔をしていたからだ。

淫靡な風でもなく戯れるでもなく、まるで騎士が心酔する姫に愛を誓うような、切羽詰まった真面目な顔で口に含み、指先に舌を這わせて血を舐める。

血の味はすぐに無くなった。

しかしシルフリードはイェルルージュの指先から唇を離し、今度はイェルルージュの細い顎を掴んだ。

あまりに自然な動きに、イェルルージュが抵抗する隙もない。

唇同士が触れ合って、それを受け入れてしまう。

顎を掴んでいたシルフリードの手は、するりとイェルルージュの頭に回され、離れられないように押さえられていた。

シルフリードの唇がイェルルージュのそれに軽く重なり、やわやわとなぞる。やがて唇だけでは物足りないと、濡れた舌がもっと奥を求めて撫で始めた。

「ん」

太陽もまだ高い内から外でこんな風に口付けするなど、イェルルージュには羞恥が過ぎるのだろう。とっさにシルフリードの身体を押し返そうとした。

しかしそれよりも早く、シルフリードがイェルルージュの下唇に吸い付く。

「……っい、あ」

途端に、チクリと鈍い痛みが唇に走り、同時に甘くキュンとした刺激が身体に走る。膝がカクリと折れて倒れそうになる身体を、シルフリードの強い腕が支えた。

イェルルージュを抱えたまま、「は」と少し荒い気を吐く。

「ああ……これは……」

「ちょっ……と、シルフリード……っ」

「失礼いたしました。私の牙が、お嬢様の唇を傷つけてしまったようですね」

謝罪しながらも、シルフリードは少しばかり楽しげにイェルルージュの身体を支え直し、傷付いたイェルルージュの下唇をそっと舐めた。傷はすぐに治り、もとの美しく艶やかな唇に戻る。

しかし、傷つけたときに……一瞬我を忘れて吸血してしまったときに送り込んでしまった媚薬は、少なからずイェルルージュの身体に影響を与えたようだ。耳を赤く染め、抵抗も少なくシルフリードの胸に顔を埋めている。

「落ち着きませんか、イェルルージュ様」

「あ、なたの、せいでしょう」

「ええ。私も落ち着きません」

色めいた声でシルフリードが囁くと、イェルルージュの身体が小さく跳ねた。それが可愛らしくて、シルフリードは思わずイェルルージュの頭を撫でる。豊かな深緋色の髪をゆるく握り、そのままゆっくりと下ろした。美しい髪が指をするすると抜けていく感触を楽しんでいると、イェルルージュが身じろぎをする。

不意にシルフリードがその動きを止めた。

「……?」

イェルルージュが不思議そうな顔でシルフリードを見上げる。

しかし、イェルルージュがシルフリードの視線を追いかける前に、一度ぎゅ……と身体を抱きしめてその視線を隠し、「行きましょうか」と掠れ声で囁いた。

頷くイェルルージュから身体を離して、シルフリードは執事の表情へと戻る。丁寧にイェルルージュの手を取って、エスコートするように引いた。

シルフリードの視線の先にあったのは、一重咲きの野生種ワイルドローズ

庭の片隅を陣取るように咲く野生種から、イェルルージュの視線をそらすように歩き始めた。それが己の狭量に寄るものだと知っていてもなお、そうせずにはいられない。かといってイェルルージュと己の関係を疑っているとか、そういうわけでは決してないのだ。むしろイェルルージュへの愛情が深くなればなるほど、彼女の目隠しをせねば気が済まない。ギラギラとこちらを見ている男の視線に、気づかせたいはずがない。

それでもいつか、イェルルージュは気がつく時があるのだろうか。この世界の片隅に、知らぬ間に己に従を誓った魔性がいるのだと。この庭の片隅に、知らぬ間に育つ野生種があるのだと。

しかしたとえそんな魔性があろうとも、この美しい……たった一人の己の薔薇を、シルフリードは誰からも守り、誰にも渡さず、棘ごと愛すると誓ったのだ。

その柔肌の向こう、流れる甘い血とともに。