傭兵将軍の嫁取り

003.戦闘

「いいぞ、やれ!!」

食人鬼オーガによじ登っている途中でジオリールが怒鳴った。ジオリールの動きに集中していたシリルエテルは、すぐさま歌うように呪文を唱える。

<Perdere in magica arma Diffusio de magicis sagittis>
(魔法の鎧を破壊する、魔力の矢を拡散せよ)

シリルエテルの手が持ち上がり、ふわりと魔力を纏う。

<Quod oculus meridiem
Vel stella, vel fireflies, vel mergulum volucres,
Conatur ad manu si fluorescent
Fiat cultum si stella>

呪文の詠唱は通常の発声とは全く異なる。魔法のまじない語を聞いたことのない者には、耳に全く馴染みの無い呪文が詠唱された。歌うように響くそれに、さらにもう1人の声が重なる。

<Conuenerunt in a ubi!>
(狙い定めし箇所に集中せよ!)

そして詠唱が始まってきっかり40秒後に、パリン……と美しい音がして鎧が割れた。「おお……!」という感嘆の声が沸きあがり、「行けっ!」……と、ラクタムの号令が響き渡る。一斉に弓手が弓を引き、食人鬼に張り付いている傭兵2人が皮膚を傷つけながらさらに上に登っていく。

「お2人とも下がって!」

ラクタムがシリルエテルとスフィルの元まで下がってきた。シリルエテルも強引に前に出ようとはせず、隣のスフィルを振り返る。右手をす……と上げてスフィルの喉に触れた。何事かをつぶやくと魔力が走り、スフィルの喉の切り傷が消えたようだ。

「スフィル。歩けないほどの怪我人を優先して治癒魔法を」

「はい、了解です! シリルエテル様、お怪我は……」

「私は戦闘中の方に加護の魔法をかけます。早く」

ラクタムが2人の会話に視線を向けた。スフィルはもの言いたげにシリルエテルを見上げたが、すぐに傭兵が退避しているらしい方へと駆けていった。シリルエテルはジオリールの動きをじっと見守りながら、再び呪文を唱え始めた。それが加護の魔法のようだ。ラクタムは魔法に慣れぬ傭兵達に備える。

「味方の魔法だ、動きを止めるな!」

その言葉が聞こえた幾人かがちらりと視線を向けたとき、シリルエテルの唱える呪文が光の筋を描いて、数本、足元で戦っている傭兵の身体に降りかかった。 食人鬼を登るジオリールにもその声は聞こえ、身体に光が降りかかる。吸い込まれるように消えた魔法に気付いたが、慌てることなくそのまま獣のようにするすると登っていき、刃幅の広い短剣の柄を逆手に構えた。急所の左耳下に狙いを定めると、一気にそこへ突き立てる。

ガアアアアアアアアアアア!!

力任せに刃を引くと、凄まじい絶叫が響き食人鬼が暴れ始めた。

「うわああ!」

左腕に張り付いていた傭兵がさかさまに落ちる。普通だったら骨を傷めそうな高さだが、シリルエテルの魔法で大分衝撃が緩和されたようだ。すぐに地面に居た兵士に引きずられて端に退避させられる。揺れ始めた食人鬼の身体にジオリールはちくしょう……と毒付くと短剣をより深く抉り、それを支えに体勢を整える。食人鬼が倒れる衝撃に耐えようと、身体を準備させた、そのときだった。

「…………………………!」

「シリルエテル様!!」

「シリルエテル様っ、危ない……!」

スフィルとラクタムの声が重なり、悲鳴にならない声が聞こえた。ジオリールの意識が一気にそちらに向く。なりふりかまわず腕を振り回し始めた食人鬼が、思いがけぬ動きで近づいてきた。混乱状態の魔物は、どこに狙いを定めるわけでもなく、不意にシリルエテルの身体を掴み腕を振り上げたのだ。その様子が視界に入ったと同時に食人鬼の腕の先から、シリルエテルの身体が離れる。

「くそがっ!」

考えるよりも身体が先に動いた。

宙に投げ出されたシリルエテルの身体はジオリールのすぐ側を落下する。ジオリールは腕を伸ばし、そのまま何のためらいも無く食人鬼の肩を蹴る。

シリルエテルの身体を掴んだ瞬間、ぐるりと身体を地面に向け、向けたと思ったら背中が地面に激突した。ぐう……と衝撃にくぐもった声が漏れるが、予想したほどではない。恐らく、やはりシリルエテルが掛けた加護の魔法が影響したのだろう。すぐさまラクタムと他の傭兵達がジオリールをシリルエテルごと引張る。

食人鬼が地鳴りのような音を響かせて倒れた。

ふう……と息を吐き、ジオリールが頭を振りながら上半身を起こす。

「やったか」

「たいちょ……」

「シリルエテル様っ!!」

ジオリールの側に膝を付いたラクタムを押しのけるように、スフィルが迫ってきた。急に近付いた距離に、なんだ……と睨み付けそうになったが、はたと気付いた。腕に抱えているもの、シリルエテルの存在だ。見下ろすと、ぐったりと目を閉ざしている。息はあるから、意識が少しの間飛んでいるようだ。

「おい、あんた、大丈夫か!」

「大丈夫じゃないですわよ、いつまで抱いてるんですか。シリルエテル様!」

「おい、急に動かすな、邪魔だ。……離せっ」

シリルエテルの身体に傷が無いかどうかを確認しようとしていたジオリールの腕に、スフィルが飛びついた。飛びつくスフィルをラクタムが後ろから引き剥がす。離して離してと喚くスフィルに舌打ちしそうになりながら、ジオリールは腕の中の細身の身体にそっと触れた。揺さぶらないように気をつけながら、頬を柔らかく叩く。

「おい? 大丈夫か?」

シリルエテルの睫が震え、黒い瞳がゆっくりと開いた。瞳を瞬かせている様子が頼りなげだったが、徐々に意識を取り戻し、ハッとした表情で身体を起こす。起こした途端、くらりと身体が揺れた。「気をつけろ」……とたしなめて、思わず支える腕に力を込めた。その言葉に小さく頷くように、シリルエテルがジオリールを見上げる。当たり前だが、吐息が掛かりそうなほど近い距離に顔があることに気付いた。睫が長くて触れることが出来そうだ。

ため息を吐くようにシリルエテルが口を開く。

「ジオリール様、は」

「俺ぁ大丈夫だ。あっから落ちたくらいで死にやしねえ。それに、あんたの魔法もあったからな……助かった」

「そうですか……よかった……」

「シリルエテル様!」

ラクタムの腕から逃れたスフィルがシリルエテルに抱きつく。ジオリールがむっとして、スフィルを退けながら完全に身体を起こした。

「分かった、分かったから退け。重い」

「申し訳ありません……」

「ああん、あんたが重いわけじゃねえ」

重いと言ったのはスフィルのことであって、抱き上げているシリルエテルのことではない。それなのに謝られてしまい、ジオリールは何故か不機嫌に声を荒くした。シリルエテルがスフィルの手を借りて慎重に身体を起こすと、ジオリールから重みが消える。その柔らかな重みが消えたことを残念に思いながら、ジオリールも立ち上がった。

「ジオリール様。助けてくださってありがとうございます」

スフィルの手を借りて立ち上がったシリルエテルは少しふらついていた姿勢をしっかりと整え、ジオリールに美しい所作で一礼した。その姿に、思わず面食らう。

礼を言われる筋合いはないのに、先手を打たれたからだ。

「いや……あんたらが無事でよかった」

声が苦々しいものになるのを隠し切れない。「いいえ」と首を振って遠慮がちに顔を伏せたシリルエテルの頬に思わずジオリールが手を伸ばしたとき、スフィルがシリルエテルとジオリールの間に割って入った。

「シリルエテル様にさわらないで!」

「スフィル」

咎めるようなシリルエテルの声が響いたが、スフィルは首を振って、きっ……とジオリールを睨みつけた。睨みつけられたとて仔リスのようなスフィルの視線は、全く怖くも無かった。しかし確かにジオリールには責められるべき負い目がある。普通ならばシリルエテルの夫になる男であり、伯爵の身分にあるジオリールに、ただの侍女がこのような態度を取るのは許されるものではないだろう。だが、それを咎める気にはなれない。

「いいえ。シリルエテル様。私、納得できません。これだけは言わせていただきます」

「スフィル。口を謹んで」

「いかような手もあったはずでしょう。シリルエテル様をこんな目に合わせて……」

「スフィル」

今までに無くきつく咎められ、スフィルがさすがにためらった。だが、最後に一言だけ付け加える。

「妻になるべき女性の身が心配ではなかったのですか!?」

「スフィル、下がりなさい」

強引にシリルエテルがスフィルの前に出て、片方の手で身体を押さえた。2人の言葉が重なったが、スフィルが何を言ったのかは、はっきりと伝わる。

ジオリールは唸るように黙り込み、周辺の傭兵達も口を出せない。スフィルの言い分はもちろん感情的としかいえない。しかし、たかだか騎士が1人と御者が1人、おかしいと思った時点で無理やり暴けば気付けただろうし、外套のままとはいえ何度か外に出ているのだからそこを捕まえる事だって出来たはずなのだ。貴族の貴婦人だからこのようなものかという蔑みにも似た感情と、傭兵のようながさつな男に会いたくもないだろうという卑下にも似た感情が綯い交ぜになって、問題を後回しにしてきたのは自分達だ。妻になる女の顔くらい確認させろとすごめばよかったのに。

「スフィル、怪我をしている方々の治癒に行きなさい」

「しかし!」

「私の命が訊けないのですか?」

常になく強引に命じるシリルエテルに、やっとスフィルが口を閉ざした。ジオリールが言葉を告げないでいると、シリルエテルが頭を下げる。

「私の侍女が失礼なことを」

「いや……あんたらは悪く無い」

「いいえ。いかような手もあったのは私達とて同じです。これほどに側近くに居たのに……、状況を伝えられなかった私達にも非がございます。……スフィル、さあ」

シリルエテルがスフィルに視線を向けた。スフィルは苦い表情で俯いていたが、「分かっております!」と言って、たたた……と再び怪我人のほうへ駆けて行った。それを見送っていたシリルエテルが、静かな表情でジオリールを見上げる。

「ジオリール様、お怪我を……」

ジオリールの頬に裂傷があった。シリルエテルが魔力を込めた手を伸ばそうとしたが、ジオリールはその指をそっと掴んで止めさせる。

「俺ぁかまわん」

「しかし……」

「あんたらの手と首の傷を先に治してくれ。……頼む」

シリルエテルの剥き出しになった手首には縄で擦れた擦過傷が、白く細い首筋には短剣で傷つけてしまった切傷が、それぞれ痛々しく残っていた。それが先ほどからちらちらと目に入って仕方が無かったのだ。


<Quod oculus meridiem
Vel stella, vel fireflies, vel mergulum volucres,
Conatur ad manu si fluorescent
Fiat cultum si stella>

『あの眼の光るは
星か、螢か、鵜の鳥か、
螢ならばお手にとろ、
お星樣なら拜みませう』
(北原白秋『叙情小曲集』より「思ひ出」の一節)

口語に訳したものを、Google翻訳にてさらに翻訳したものです。