シリルエテルは必要以上の会話はしないが、ジオリールの指示にはよく従った。魔物を倒した後、酷い怪我をした傭兵達を優先して治癒を施し、必要ないと言われたことはやらない。さらに、ジオリールの許可を得て、横転した馬車から2人の持ち物を必要と判断した分だけ取り出していた。馬車を引いていた馬は、1頭は駄目だったがもう1頭は助かった。助かった1頭に荷をまとめ、その様子も手慣れている。
戦いのあった場所は山間に走る道の中でも最も大きな幅のある道で、両脇は見上げるほどの斜面だ。馬車が2台は並んで通れるほどの道幅ではあったが、大きく倒れた食人鬼の死体は通行の妨げになるだろう。傭兵らは、食人鬼の耳飾りと牙を削り取って戦利品とし、残りの身体は、斜面を抉るようにできている空間に押し込んだ。小鬼の死体は適当に道脇に避けておく。
血の匂いが他の魔物達を呼んでしまわないように、シリルエテルとスフィルが浄化の魔法を掛けて死の気配を消していく。それでも死体が転がっている場所は落ち着かず、早々に出発した。
シリルエテルは常に伏し目がちで真意をあまり表に出さない物静かな女だ。酒と女さえあればどこでも生きていける傭兵達とは、全く異なる人種のように見えた。だがシリルエテルもスフィルも、薄いテントを張っただけの宿営にも、水辺で身体を拭くだけの日々にも、貧しい食事にも、馬車を失ったために満足な着替えの無い事情にも、文句一つ言わなかった。それどころか、自ら進んで食事の用意や医療品の世話をする。シリルエテル自身は必要と思われる部分はスフィルに任せ、邪魔にならないような立ち回りも心得ていた。
貴族など傭兵らには馴染みの薄い人間だ。だが、そこは気安い男達である。忙しく動き回る仔リスのようなスフィルに慣れるのはすぐだった。治癒した恩人に無体を働く者などは居ないが、軽口を聞く程度には気が慣れたらしい。もちろん、スフィルはつんとした態度を崩さない。時々態度の行きすぎる傭兵の傷を蹴飛ばしたり叩いたりして男達を黙らせるが、治癒魔法はきちんと掛けてやっている辺り、彼女なりに気を遣っているようだ。
当然のことだが、傭兵将軍の奥方になるであろうシリルエテルをからかう者は居ない。さらにジオリールも珍しくそのような傭兵達の騒ぎには加わらず、たしなめることもしなかった。騒ぎすぎる傭兵達を大人しくさせるのは主に副官のラクタムと、侍女スフィルの仕事になった。
そのジオリールは時折、じっとシリルエテルを見つめている。視線はあからさまで、ラクタムはやれやれと苦笑を浮かべた。
戦場に酔う男が女の肌を求めることは、よくあることだ。もういい年齢だから若いときのように盛んではないだろうが、ジオリールとてそれは例外ではない。望む望まないに限らず、お前のものだと目の前に差し出されている女性は、1度の戦闘でも分かるほどの腕のいい魔導師で、立ち居振る舞いが美しいのに傭兵達に混じることを厭わない。今までジオリールの側に居たことのない女だったが、それだけに、興味を引くのだろう。しかも、手を出したとしても誰にも咎められないのだ。食指が動いたとて、何もおかしいことはない。
ジオリールは男女関係の甘い駆け引きなど不得手だ。ものにしようと思えば強引に押していく男である。だがギリギリのところで葛藤しているようだった。戦いの場で呪文を唱えていた姿はともかく、それ以外の時のシリルエテルは、野営が続いていて化粧もしていないのにも関わらず、端正な雰囲気を損なってはいなかった。傭兵将軍という粗野な男が押してどうにかするには、繊細すぎる。
しかし、いずれ妻になる女なのだから、今からそんなにぎらぎらした眼で見つめることはなかろうにと思うが、北の地まで我慢出来るかどうか。まだあと半月は掛かる。その間に宿場町も通過するだろうし、そこには当然花を売る宿もある。しかし、興味を引かれた女を連れた男が娼婦で満足するとは思えなかった。
そうした旅路の途中、ラクタムとジオリールが火の番をしていたときのことだ。
視界の端でシリルエテルのテントが揺れた。とっさに横を見るとジオリールは既に気付いていて、人差し指を唇に当てて言葉を制し、ここにいろ……という意を伝える。
追いかけるつもりなのか。
ラクタムが頷くと、ジオリールは静かに立ち上がった。
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北の地へ赴くのはともかく、爵位についてもシリルエテルの件についても、元より乗り気だった話ではない。だが、シリルエテルはジオリールの興味を引くには十分な女だった。何よりも食人鬼を目の当たりにしたときも、部下らの怪我を治癒するときも、冷静さと的確な行動を崩さず、雰囲気に怯えないその態度が好ましい。
食人鬼は宮廷の誰かしらの罠だったという。峠の道の側道にはもともと食人鬼がいるが、繁殖期ではない今は横道に逸れない限りは襲ってこない。シリルエテルの護衛の騎士が食人鬼を呼び、与えられた術符で魔法鎧を纏わせたのだそうだ。シリルエテルは術符を奪おうとしたところを捕らえられたとのことで、食人鬼の魔法鎧を解呪されては困る……と、沈黙の首輪を付けられていたらしい。幸い……と言うべきなのかは分からないが沈黙の呪いは精密で、声だけを完全に失わせ、魔力や体力、身体の器官には全く影響のない代物だったようだ。相当腕のいい魔導師が作ったのだろう。
騎士も御者も戦闘中に逃走してしまったが、特に追いかけはしなかった。時間の無駄だ。公領の騎士が死んでしまっては責任問題になるだろうし、捕虜として世話をするのも手間がかかる。それならば途中で仕事を放棄して逃げてもらったほうが都合がいい。
このような事態が起こったのは、宮廷のいずれかの示威、もしくはあわよくば……という行動の現われだと見ている。
首都の傭兵をとりまとめていたのはジオリールだったが、戦争が終われば、国家所有の傭兵集団は不要な存在だ。しかもそれをまとめる男は戦績を上げすぎた。ジオリール自身にその気が無くとも、宮廷の武官にとって邪魔な存在には違いない。しかし、戦争で活躍した男を何の理由も無く処罰するわけにもいかない。貴族の身分と女を与えておけば満足するだろうと、宮廷の文官共がいかにも考えそうなことだった。北の辺境を魔物から守るならばそれはそれでよし。途中で死ぬにしろ惜しくは無い。首謀者が分かったとてどうしようもない。ジオリールがそこまで叛意を持っていないだろうと分かっていて実行したのだ。
いずれにせよ、シリルエテルはジオリール側の事情に巻き込まれた……というだけだ。途中で死のうが傭兵将軍の女になろうが、どちらでもかまわなかったのだろう。運悪く……いや、運良く食人鬼の餌にでもなれば、傭兵将軍の名誉は地に落ちる。だが結果はそうはならなかった。
ジオリールの力を削ぎたいならば魔導師など妻に押し付けなくてもよいだろうに、なぜ彼女が自分の手元に来たのか。……あるいは、手頃なところに、ジオリールに押し付けてもいい女がいなかったのか。疑問は残るが、考えていても仕方が無い。
不思議な女だとジオリールは思う。
泥に汚れ、傭兵達と寝食を共にしてもそれを厭わない。仕事をするときに手や身体が傷むのも気にしない。馬に乗せるために手を貸したとき、触れた指先が荒れているのにも気付いたが、その程度ならば治癒魔法も使っていない様子だ。睫の長い伏し目がちな瞳は切れ長で、視線を上げてこちらを見上げてくるときはぱちりと大きく見える。自分に対しては義務的な応対だけで笑みなど浮かべないくせに、スフィルと会話するときだけは優しく微笑む薄い唇に苛立ち、何を考えているのかを暴きたて、探りたかった。
シリルエテルは時折、遠い眼差しで景色を眺めていた。その様子もまた、どこかに行ってしまいそうな危うさがある。扱いを測りかねているとはいえ、このまま順当に行けば自分の妻になるはずの女なのに、どのようにかして捕まえておかなければならない気がして急いていた。
ラクタムと共に火の番をしているとき、本当に静かに、シリルエテルのテントが揺れた。音は魔法で消しているのか、聴覚には届かなかった。しかし、ジオリールとて伊達に傭兵将軍の二つ名を持っているわけではない。テントをじっと見つめていたということもあって、すぐに気配を感じた。
まさか本当にどこかへ行くとは思っていなかったが、それもまたありえる事なのかもしれない。半ば必然のように感じながら、ジオリールは後を追った。
シリルエテルはすぐに見つかった。
森の奥。川辺の、少し開けたところの背の低い大きな岩に身体を預けて座っていた。ちらりと見えた横顔はぼんやりしているというわけでもなく、瞳はジオリールを見返すときのように強かった。物言わず、何か考え事をしているようだ。ジオリールはじっとその横顔を見ていたが、不意にシリルエテルの表情が感情的に動いた。眉をしかめ、俯いたのだ。
ジオリールにはなぜかそれが、ひどく傷ましいものに見えた。
「シリルエテル」
「……ジオリール様?」
シリルエテルがハッとした表情で振り返った。少し焦っているように見え、この女にもこのような表情があるのかとほっとする。
「こんなところで、何をしてんだ」
ジオリールが近づくと、シリルエテルが姿勢を正し礼を取ろうとした。頑なに見えるその態度に今度は感情が逆立つ。……若造でもあるまいに、女の態度にいちいち一喜一憂する自分に顔をしかめながら、シリルエテルの正面に立った。シリルエテルも女としては背の低いほうではないが、そもそも規格外に体格のいいジオリールに比べれば小さくか細い。それに今は昼間見ているときと異なり、壊れ物のような繊細さばかりが際立っていた。
「眠れねえのか」
「少し」
苦笑するシリルエテルの表情に、ああ、とぶっきらぼうに頷く。
「無理は、してねえか」
乱暴な物言いになるのは自覚しているがこれが地の性格だからどうしようもない。相手が貴婦人だからと隠すつもりも無い。それでもシリルエテルは別段怯えることもなく、ただ思いがけない言葉を聞いた風に僅かに首を傾げた。その表情がなぜか幼く見えて、柔らかそうな頬に思わず指を伸ばす。つ……と、黒い瞳の下を指の腹でさすると、シリルエテルは眩しげな瞳をした。
「よくしていただいていると思います」
「別に……俺らは何にもしてねえ。当たり前ぇのことだ」
なぜか機嫌悪く声を荒げたジオリールに、シリルエテルが小さく笑んだ。その表情の柔らかさにジオリールが一瞬目を見張ったが、それには気付いていない様子で、シリルエテルは腰掛けていた岩から少しずれて再び座る。誘われるように、空いたところにジオリールも腰掛けた。
しばらくの間沈黙が落ちて、シリルエテルのことを考える。ジオリールはこの年齢になるまで妻など持ったことはないが、シリルエテルにとって自分は2人目の夫なのだ。そのことが気持ちの奥を不愉快に引っ掻く。思わず、問うた。
「亡くした旦那のことでも考えていたか」
「旦那?……そうですね……」
シリルエテルが自嘲にも似た暗い表情を浮かべた。それはとても夫を亡くして悲しんでいるような顔には見えず、ジオリールはいぶかしんだ。
月明かりだけが辺りを照らす夜、再び沈黙が降りる。