ジオリールから1度目の夫、……ノイル侯爵のことを聞かれたシリルエテルは、今までジオリールが見たことのないような冷たい表情を見せた。冷静で落ち着きがある……という表情とは全く別で、明らかに感情がこもっている。それも決してよい感情ではない負の感情だ。しかし、そうした表情はすぐさま消して、常の静かな落ち着きを取り戻す。
「侯爵の死因をご存知ですか?」
「死因? いや……」
「腹上死です」
「ふくじょ……は……?」
「文字通り、愛人の女性の上で」
さすがに眉をひそめて言葉を慎んだジオリールを、伺うようにちらりと視線を向けて、また戻す。
「私と結婚したのは魔導師の血筋が欲しかったようで。ただ、1年ほどで諦めました」
「諦めた?」
「子が出来なかったので」
まるで他人事のように語るシリルエテルだったが、まさに他人事なのだろう。愛情の一欠けらもそこには見受けられず、ジオリールの心中に言い様のない感情がうねる。それは安堵のようにも思えたし、掛けるべき言葉が見つからないという焦燥のようにも思えた。そうした類の感情が何故湧きあがったのかは分からない。言葉を掛けられずにいると、シリルエテルは続けた。
「それ以降は、狂ったように女性を迎えました。……どうしても自分の直系に跡目を継がせたかったようですね」
苦笑を禁じえない。侯爵は1年ほどはシリルエテルを妻として扱ったが、子供が出来ないと考えて途端に遠ざけた。もちろん、子供を作らなかったのはシリルエテルの意図もある。
もともと結婚前から侯爵は、多くの美しい女に入れ代わり身の回りの世話をさせていた。目的はいわずとも知れている。女達とて子が出来れば一生が安泰だ。皆、侯爵がどれほど年上の枯れた男であろうと、懸命に励んだようだ。侯爵ほどの身分になれば、正妻がいて愛人がいるのは誰もおかしくは思わないのだろう。シリルエテルは正妻という身分だけを与えられて、後は捨て置かれた。それでも結局子は出来ず、愛人との行為に耽った挙句に腹上死だ。そうした死因が本当にあることを知って、苦笑した程度の気持ちしか持たなかった。
「私の家系は、元は侯爵に仕えて子爵の身分を与えられた家柄です。私は妻として都合がよかったのでしょう」
「都合がいい?」
「丁度、父も母も亡くしたものですから……資金援助を条件に、楽に手に入る年頃の、それも低いとはいえ貴族の身分を持った魔導師、というわけです」
「……親は、亡くしたのか」
「いれば、お会いになるでしょう?」
ジオリールの声に憐憫の色が込められたのを知って、シリルエテルは苦い気持ちになった。ジオリールは娶りたくもない女を押し付けられ、ただ命令に従って迎えに来ただけなのだ。このようなことがなければ、決して交わりあうことなど無かった男と女である。他に好いた女性もいたかもしれないのに。
それを思って、シリルエテルは静かに瞳を伏せる。
「ジオリール様には申し訳ないことを」
「ああ? 何が」
それには答えず、ため息を吐くこともできず、シリルエテルは沈黙した。亡くした前夫には何の感慨も無かったが、30歳という自分を厄介払いのように押し付けられた男には申し訳なく思っている。
「申し訳ないのはあんたのほうだ」
しかし、再び落ちた沈黙を破るように、ジオリールの太い声が聞こえた。物思いから覚めたように、シリルエテルが顔を上げる。
「え……?」
「俺みてえな男のところに嫁に行けと言われたんだ。しかもその男は、あんたを馬車に閉じ込めて助けもせず、危ない目にあわせたろう」
「そのようなことは、気にしておりません」
「あんたは気にしなくても、俺は気にする」
拗ねたような口調になって、視線を逸らした気配が伝わる。
「悪かったな」
「ジオリール様……」
「もっと早くに気付いてやれればよかったのによ」
互いにいい年齢ではあるが、ジオリールはシリルエテルよりもさらに15歳も年上だ。戦っているときはあれほど頼もしく、指示を出している姿はあれほど精悍で凛々しいのに、今はなぜだか大きな子供のようにも思えた。
「あんた、他に家族はいねぇのか」
「侯爵のことですか?」
「違う。そうじゃねえ。……その、あんたの兄弟は」
「2つ下の弟と歳の離れた妹が居ましたが、……どこにいるのかは……」
分かりませんと首を振った。なぜか、と問われてぽつぽつと語る。父と母は有能な魔導師だったが戦乱に巻き込まれて亡くなってしまった。その後、リーン家に援助したのが侯爵家だ。その援助の条件が、シリルエテルが侯爵の妻となって子を産むこと……というもので、それにより2歳離れた弟は魔導師としての勉学に励み国家魔導師になることが出来た。しかし皮肉なことに、そのために戦場に出て行方知れずになったのだ。妹はシリルエテルよりも10も下で、当時は10歳だった。才能を買われて父と母の知人に預けられ、その後連絡が途絶えてしまった。
自分が独立して魔導師として子爵家を建て直すことが出来ていれば、弟も妹も離れ離れにならずにすんだかもしれない。そのことがいつもシリルエテルの心にわだかまっている。
だから……と、シリルエテルは続けようとして、言葉を濁した。
「だから?」
シリルエテルが後ろめたさを覚える理由があった。それをジオリールに言っていいものなのか、どうなのかを葛藤する。
「私が……卿に嫁ぐのは、貴方が伯爵という地位を持っているからです」
ジオリールの吐息が一瞬止まり、隣の気配が低くなったのを感じる。軽蔑されるかもしれない……と、そう思ったが、言っておかなければ公平ではないとも思う。
「どういう意味だ」
「侯爵が亡くなったのにも関わらず、いつまでも離縁せずに領地にとどまっていたのもそのような理由です」
「だから、どういう理由だ」
シリルエテルは伏せていた瞳を持ち上げて、ジオリールの顔を覗き込んだ。
シリルエテルは魔導師の一家の……リーン家の長女だ。順当に行けば長になるべき女だった。しかし一家は3人になり、それぞれが散り散りになってしまった。無事ならばそれでいい。ただ、いつかもう一度会うことが叶うならば、長女である自分が貴族の女として生きていれば、きっと頼りやすいはずだ。だから侯爵が亡くなった後、修道院などには入らずに貴族の身分のまま過ごしていたのだ。そんなときに、宮廷より嫁ぎ先を打診された。今まで何の音沙汰も無かった宮廷が、何故今更になってシリルエテルに注目したのか。しかし好都合だった。子がいないのにいつまでも侯爵の未亡人のまま過ごすことはできない。伯爵夫人になりさえすれば、上位貴族として立っていられる。
だからこそ、ジオリールは自分のことを気に掛ける必要はない。正妻の座だけは譲れないが、望まない妻であろうから、あとは好きにしてもかまわない……そう言い掛けて、ジオリールの表情に言葉を失った。
ジオリールは、45歳とも思えぬきょとんとした顔をしていたのだ。つられてシリルエテルもきょとんとしてしまう。
「ああ、それで?」
「……それ、で」
くく……と面白そうに笑いながら、ジオリールが肩を竦めた。
「難しいことを考えるんだな、あんたらは。……だが、なるほど。俺の嫁になりゃ、あんたは伯爵夫人だ。北の地を守る傭兵将軍の奥方とくれば、その気になって調べりゃすぐたどり着く」
「はい、ですから……」
「伯爵なんざ面倒なだけだと思っていたが、ちったあ役に立つこともあるんだな」
「何を……」
「あんたは正直だ。どっちみち宮廷からの命令なんだ。仕方が無いから嫁いだんだと言っても、誰も咎めやしないだろうに」
シリルエテルの顔が驚いたような表情になる。気がつけば、触れそうなほど近くにジオリールの……男の顔があった。先ほどまで笑みを含んでいたのに、今は真剣で……すこしばかり熱を帯びた瞳でシリルエテルを見つめている。
「じゃあ、あんたは俺んとこにいりゃいい」
ふ……とジオリールが瞳を細めた。優しい瞳ではない。まるで獰猛な肉食獣が獲物に狙いを定めたように、シリルエテルの黒い瞳を覗きこんでいる。しかしシリルエテルとて、その視線を受け止めて受け流さなかった。挑むように、強く見返す。
「ジオリール様はそれでよいのですか?」
「何がだ」
「私を妻にして」
今度はジオリールの顔が驚愕の表情になる。互いの表情を読むように視線を重ねたが、シリルエテルはいたって真面目な顔でジオリールを見つめていた。
「そいつぁ、俺の台詞だ」
先ほどまでの獰猛な目付きは鳴りを潜め、今度は恐る恐るともいうべき手つきで、シリルエテルの横髪を払い耳元で指を止める。
「あんたは、いいのか」
「……私?」
「あんたは、俺の嫁になってもいいのか」
「私は……申し上げた通り……」
言い掛けて、口を閉ざす。
伯爵の身分を利用するというシリルエテルを、この男はあっさりと受け入れてしまった。シリルエテルは視線を外したが、隣からはずっと自分を見つめているジオリールの視線が注がれている。不躾な視線とも言えたが、まるで心を見透かそうとしているようで、さすがのシリルエテルも冷静ではいられなかった。
粗野で野蛮で、荒くれ者の傭兵将軍……と言うが、それだけではない。言葉や性格が乱暴であっても、何年も傭兵達を統率し、何度も戦を乗り越えてきた男なのだ。戦況を読む力も、人を治める力も、人望も、持ち合わせている。前の夫とは全く異なる強い男性。
「俺は、この通り、貴族としてなっちゃいねえ男だ。これからも貴族みてえな人間になるつもりはねえ。伯爵という位をぶらさげているだけだ。それでもいいのか」
貴族らしいとか、そうではないとか……シリルエテルにとっては些細なことだ。それはこの男の個性そのものであって、男を測るものさしではない。それにジオリールの言葉遣いは乱暴だが、その下には随分と優しい気遣いが隠れていることにシリルエテルは気付いている。その気遣いに、シリルエテルは何度も後ろめたさを覚えた。この優しい男は、優しいからこそ、無理やりの妻を跳ね除けることが出来ないのかもしれないのだ。だが、シリルエテルは結果的にその優しさを利用してしまう。ただ伯爵夫人でいたいから、という理由で。
「私とて、貴方の望むような女ではないかもしれません。若くもありませんし、生意気かもしれませんよ」
「……」
がり……とジオリールが頭を掻いた。再び長い沈黙が降りる。
「分かった」
やがて、ジオリールがぽつりと言って、……ぐ……とシリルエテルの腕を掴み、自分の身体の方に引き寄せた。途端にシリルエテルはジオリールの逞しい腕の中に包み込まれる。
「それなら、決まりだ。……あんたは、俺の嫁だ。俺が守る。その代わり……」
長年、傭兵達に怒号を浴びせてきたからか、ジオリールの声は潰れたように太くて低い。それがシリルエテルの耳朶を犯すように入り込む。
「俺のもんだ。どこにも行くんじゃねえぞ」
シリルエテルの身体が背にしている岩に押し倒され、髭に囲まれた唇が押し付けられた。一瞬、呆気に取られたシリルエテルは、ジオリールの舌がシリルエテルの唇に割って入り込もうとしているのを感じて瞑目する。互いに望まない結婚かもしれないが、……不思議なことに、今から男がしようとしていることに嫌悪など微塵も感じない。シリルエテルはジオリールの大きな背中に腕を回した。
唇が、さらに深く重なる。