傭兵将軍の嫁取り

008.蒸留酒

食事も終わり全員が退室する頃合、夜は自分の部屋に来るように伝えようとジオリールがシリルエテルの方を見ると、鬼のような形相でスフィルに睨まれた。一体いつまでこのスフィルという侍女は、ジオリールをシリルエテルに近づけないようにするつもりなのか。

いまだ許してもらえてない様子に、さすがのジオリールもため息を吐く。もちろん、馬車の話だけではないのだろう。旅程の途中でシリルエテルを抱いたときは、2人連れ立って朝帰りをしたのだから何が起こっているかは予測しているはずだ。正式に婚姻もしていないのに、野外で……などという状況が、スフィルのお気に召さなかったと見える。

ジオリールの性格上、はいそうですかとシリルエテルを逃すはずもないのだが、今日はせっかく寝台の上で寝られるのだからゆっくりさせてやったほうがいいかとも思う。話したいこともあったが、夜でなければ話せないということでもない。ジオリールは大人しく退き、「よく休め」と言って部屋を送り出した。

ジオリールらの部屋には軽く湯浴みも出来るような設えもあった。部屋着を解き、いつもより念入りに旅の垢と汗を落とし、下穿きだけを履いてソファに座り込んで瞑目する。脳内で、旅程と……今後のことを考えた。準備すべきものに見当は付けている。シリルエテルとスフィルのための馬車も、ここで用意する予定だ。荷台も兼ねているから楽ではないだろうが、いつまでもジオリールとラクタムの馬に相乗りさせるわけにはいかない。

「俺は別にいいがな」

ぼそ……とつぶやくと眼を開け、自分の手を見た。剣の柄を握り続けて幾重にも重なった分厚い皮膚は硬く、それに触れるシリルエテルの肌は対照的に柔らかかったのを思い出す。自分が妻を持つことになろうとは、全く想像も付かなかった。戦いに明け暮れる日々だったから、好いた女が出来たところでそれは一時的な関係だ。しかし、シリルエテルとの関係はそうしたものには終わらないだろう予感がした。

「俺が伯爵で……おまけに元侯爵夫人を嫁に、だとよ。人生何が起こるか分からんな」

嫁やら妻やら夫婦やら、関係性を表す名前だけならたくさんある。初めはそれら表向きの関係性にだけ頼るのも仕方がないかと思っていたが、今はどうだろう。く……と喉の奥で笑って、酒瓶を手に取る。器に注いで、それを部屋に置かれた灯りに透かしてみた。色のついていないそれは傭兵らがよく飲む蒸留酒だ。妻になるべき女を想って一人寝の夜、寝酒に一杯飲もうと器を取ったところで、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

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上着を申し訳程度に引っ掛けて部屋の扉を開けると予想通りともいうべきか、そこにはシリルエテルが居た。ジオリールの肌蹴た姿を見てシリルエテルは、少し驚いたように頭を下げる。

「お休みでしたか……?でしたら、また明日に」

「ああ、いや、待ちな」

ジオリールは退こうとしたシリルエテルの腕を掴んで引き寄せた。シリルエテルが部屋に入ったのを確認すると、扉を閉める。

「休めと言ったろうが。何の用だ」

「帰り際、呼び止めようとなさいませんでしたか……? 御用がおありか、と思ったのですが」

夕食後に呼び止めようとしたことを言っているのだろう。スフィルに阻まれたが、ジオリールのもの言いたげな視線には気付いていたらしい。ジオリールはしばらくの間シリルエテルの二の腕を掴んだまま細い身体を見下ろしていたが、小さく息を吐き、そのままシリルエテルをソファに引っ張っていった。

シリルエテルを座らせると、ジオリールは側近くに設えているサイドテーブルからもう1つ酒盃を持ってきて隣に座った。それをテーブルに置くと、ジオリールの指が離れる前にシリルエテルが酒瓶からそれを注ぐ。

「あんたは、飲める口か?」

「多少ならば。……でもこれは、強いのではありませんか……?」

「強かねえさ」

それを聞いて首を傾げるシリルエテルの表情が、ひどく愛らしく見える。

「まあ、無理にとは言わん。飲みたきゃ、飲め」

元々ジオリールが飲もうと思っていた酒盃の方を顎で指すと、自分はシリルエテルが注いだ酒を、く……と煽る。その様子を見ていたシリルエテルも酒盃を取る。無色透明な蒸留酒は、貴族の間ではあまり飲まれないものだ。鼻を近づけると、少し甘めだがすっとしたよい香りがした。こくんと一口飲んでみると、喉が焼け付くように熱くなる。けふっ……と思わず咳き込んだシリルエテルの背を、ジオリールが撫でてやった。

「おい、大丈夫か、無理すんなっつっただろうが」

「いえ……一口くらいなら、大丈夫、かと思ったんですが……」

たった一口だったのに胃が熱い。思わず「強いではありませんか」……と非難めいた視線でジオリールを見上げると、悪戯が成功した子供のような顔でジオリールがニヤリと笑っていた。

「俺らが飲む酒だから、あんたには強いかもしれねえな」

「もう、ジオリール……」

「ほら、貸せ」

頬を少し染めるシリルエテルを横目で見ながら、シリルエテルが飲みきれないだろう酒盃も手に取って一気に空けた。この程度の量ならば酔うというほどでもない。空いた2つの杯に水を注ぐと、片方をシリルエテルの前に置いてやった。

シリルエテルは黙ってその器を手に取り、少しずつ水を飲む。杯を洗わずに入れた水は、ほんの僅かだが先ほどの酒精が溶け込んでいるが、喉に流し込むと大分楽になった。

「それで……何かご用件ではなかったのですか?」

「用ってほどの、用じゃあねえ」

夫となる男が妻になる女を寝室に呼ぶ。用件など、言わなくとも分かっているだろう。だが、とりあえずジオリールは先に話しておきたいことを伝えておくことにした。

「ホーエン夫人のところに行ったら、俺とあんたの、仲人を頼む予定だ」

静かにシリルエテルがジオリールを見つめた。

「直に宮廷に言やあすぐにでも手続きは進むだろうが、侯爵の後見があったほうが何かと便利だろ」

確かに、貴族同士の……それも伯爵と元侯爵夫人との婚姻であれば、それだけ聞けば全うだ。後見も不要で、むしろ宮廷のほうでは何らかの処理は済んでいるはずだった。だが、そこに身分の高い別の貴族が仲人になれば、2人の婚姻はより揺るぎの無いものになるだろう。将来に渡ってグレゴル伯爵家とホーエン侯爵家の間柄は公然に約束される。その代わり、離縁や不貞などの真似も当然許されない。もし別の女との間に子供を設けたとしても、それを理由に正妻をないがしろには出来なくなる。

シリルエテルにとって断る理由などは無い。躊躇うことなく、分かりました……と頷く。これでシリルエテルの正妻としての座は確実になる。もちろん、シリルエテルがホーエン侯爵に認められれば……の話だが、余程の事がない限り問題は起こらないだろう。

「ホーエン夫人が引き受けてくださるなら、これ以上のことはございません」

あっさりと是の返事をしたシリルエテルに、ジオリールは慎重に頷いた。再度、「俺でいいのか」と確認しそうになる言葉をぐっと飲み込む。ただ「ああ」とだけ、返答した。

「それが、ご用件ですか?」

シリルエテルが首をかしげた。他意はない様子だった。だが、酔いを帯びた頬がほんのりと染まっていて、外套を羽織ってはいるが、夕食の時に見たよりも随分と柔らかく脱がしやすそうな服であるのが眼を惹く。湯を使った後なのか、少し顔を近づければ髪や肌からは上品な花のような香りが静かに漂っていた。ほんの少し香るそれは、ジオリールが普段知る夜の女が使うような華やかなものではなく、控えめで、シリルエテル本人の肌や髪の匂いを損なっていない。

誘われるように、抱き寄せる。

太いごつりとした腕が、シリルエテルの身体と外套の間に入り、する……とそれを脱がせた。やはりその下は夜着のようで、外套を羽織っていたとはいえ、ジオリールの部屋までこの格好で来たのかと思うと腹立たしい。この宿屋には傭兵達も泊まっているのに、見られたらどうするんだと舌打ちしそうになる。そうした気持ちを隠すように、軽い調子で言った。

「スフィルとかいう侍女は、おかんむりだろうな」

「あの子も、悪気はないのですよ」

「ああ、分かってる」

腕の中に囲った感触は互いに薄着であるからか、曲線のまろやかさも柔らかなふくらみもはっきりと感じられる。ジオリールがシリルエテルの細い背中に、つ……と手を這わせると、「あ」と小さな声を上げて、ジオリールの腕を掴んだ。

その手を自分の背に回させ、片方の手で顎を掴んで顔を向かせる。しっとりと潤んだ瞳も不安そうに開かれた唇も、やはり昼間見ている落ち着きのある表情とは異なる。その唇に自分の唇を重ねた。間を置かず、零れる息を吸い尽くすような濃密な口付けを交わす。しばらくの間その温かさを堪能し、唇を離すと戸惑ったような切なげな瞳でシリルエテルがジオリールを見上げていた。抵抗しない様子に、ジオリールの太く潰れた声が掠れたように響く。

「いいのか」

今ここで、抱いても。

「……私は貴方の妻ですから」

そう返したシリルエテルの言葉にジオリールの気持ちが急に苛立ち、女に対する執着と情欲が焼け付くように煽られた。2人が身体を重ねる言い訳はそれだけだ、分かってはいる。だが、それでも……ジオリールは正体不明の怒りを感じるのだ。ジオリールには、シリルエテルが己の本心を隠して身体だけを差し出したように見えた。それが物足りなくて、子供のわがままのように気持ちが焦れて、焦がれる。

ジオリールもまた、そうした自分の心を隠すように、シリルエテルの首筋に甘く歯を立てた。