傭兵将軍の嫁取り

010.仔リス

暁の空がやけに眩しい。閉ざしたカーテン越しに射し込む光に、ジオリールが瞳を開けた。

昨晩は数度の行為で疲れさせてしまった。シリルエテルが早々にうとうとし始めたときはいささか残念に思ったが、それ以上のことはせず、ジオリールはシリルエテルの身体を抱き寄せ、髪と肌の手触りを楽しみながら身体を休めた。その身体はどこに触れてもふんわりと柔らかく、一度抱き寄せると心地よさが手放せない。結局、一晩中腕に囲っていた。

いまだ挿れるときは身体が強張るが、それ以外はジオリールの腕に安心しきっているようで、思わずほっとしてしまう。規則正しく上下する胸の鼓動と吐息は温かく、眠るときでも気の張りがちなジオリールに驚くほどの安らぎを与える。

今まで全く関わりあうことが無い類の女の、昼間の落ち着いた眼差しと、夜の戸惑いながら乱れる表情、そして健やかに眠る凪いだ吐息。その視線の先が何を見ているのか。唇が動けば何を紡ぐのか、そんなことばかりが気になった。だが、どう扱っていいのか分からない。貴族のように上品な女を側に置いたことが無いのだから。

「ちくしょう……ガキみてえだな……」

ジオリールは眉間に深い皺を寄せた。いまだ頑なに見えるシリルエテルの「妻の義務」という盾を取り払いたいと、苦々しく思う。そう思う反面、「夫」だからという言葉を言い訳にして、シリルエテルを抱く口実にしている。卑怯な男だ。

そろそろ起きなければならない時間だったが、腕に抱いている体温が心地よくて起きる気になれない。それでも渋々起き上がると、シリルエテルの身体を動かさないようにそっと寝台から降りた。巨大な体躯の割にこうした細やかな動きを見せるとは、ラクタムあたりが見たら盛大に吹き出しそうだ。

シリルエテルがまだ眠っていることを確認しながら、やはり誰かが起こしに来るまで粘ってやろうか……。再び寝台に近づくと、コンコン……とノックの音が聞こえる。

今度こそ、本気で舌打ちした。

****

ある程度身なりを調えて扉を開けると、真顔のスフィルがそこにいた。全く感情的ではないが、逆にそれが怖い。じぃ……ともの言いたげに自分を見上げる仔リスに、ジオリールは「どうした」と肩を竦めた。

「シリルエテル様のお姿が見えないのですが、ジオリール様はご存知ですか?」

何食わぬ顔が逆に小憎らしい。知っているだろうに、わざと問うているのだ。ジオリールとてもちろん、スフィルの機嫌が悪いだろう自覚はある。だが部屋に来たのはシリルエテルの方からだ。

「昨晩、俺の部屋に来たが、知らねえのか?」

む……とした顔をする。恐らく、スフィルが寝ているか湯浴みでもしているかのタイミングで出てきたのだろう。真顔の表情が、だんだんと不穏なものになってきた。

「……今もまだ、そちらに……?」

「ああ、俺の寝台で休んでる。少し休ませてやれ」

ピシ……とスフィルの額に青筋が立つ。ギリギリ……と唇を噛み締める音が聞こえそうだったが、意を決したようにジオリールに何かを押し付けた。

「……シリルエテル様の、衣装です。お渡しに」

「ん? ああ、着替えか。あんたの手は必要か?」

「シリルエテル様は、ご自分で何もかもお出来になります」

「そうか。起きたら言付けておいてやるよ」

暗に、シリルエテルの眼が覚めるまではこの部屋に一緒にいる……と言い聞かせるジオリールに、今度こそ、キッ……と強い眼差しを向けた。

「……ええ、よろしくお願いいたします」

では……と下がろうとしたスフィルに漂う敗北感。ジオリールは45歳にしては実に子供っぽい優越感を感じ、追い討ちを掛けてやった。

「おい、スフィル。朝食を2人分持ってきてくれねえか」

「!!…………………かしこまり、ましたっ!」

スフィルは扉を掴むと、「かしこまり」のところで大きく振りかぶり、「ました」のところで、バーン!とジオリールの鼻先で扉を閉める。全く貴族の侍女らしからぬ振る舞いに、くっく……とジオリールは肩を揺らした。

****

食堂で他の戦士達と食事をとっていたラクタムは、目の据わったスフィルが降りてきたのを見て苦笑した。大方、ジオリールの部屋に行ってシリルエテルはどこだと聞いたのだろう。そこで何かを言われたらしい。

「スフィル殿。おはようございます」

ギギギ……と音を立てながら首を回し、スフィルは片方の眉をぴくりと動かした。

「おはようございます、ラクタム様」

「どうかしたのですか?」

分かってはいるが、聞いてみる。猫っ毛気味の赤金色の髪は、今は邪魔にならないように三つ編みにして後ろに丸く纏めている。警戒心の強い大きな淡褐色の瞳は、やはり小動物か何かのようだ。背はラクタムの肩よりも小さいくらいで、小柄な女性である。笑えば実に愛らしいのだろうが、今は大層不機嫌な顔だった。というよりも、ラクタムはスフィルの不機嫌な表情しか見ていない。

「ジオリール様が、お部屋に、朝食を2人分……とおっしゃいましたので、それをお願いしに参りましたの」

「ああ……では私も手伝いましょう」

なるほど……と得心したラクタムは立ち上がると、自分の食器を厨房に渡す。スフィルが2人分の朝食を用意するように厨房に頼み、近くのテーブルにすとんと座ったのを見て、自分も相席した。相席した様子を見てスフィルが、ガタッと立ち上がる。おや、機嫌を損ねたかな?と思っていると、脇に置いてある冷たい茶を2つ注いで持ってきた。黙って、ずずいとラクタムの前に出す。どうやら、気を使っているらしい。

それにしても、シリルエテルの前では立派すぎるほどの侍女としての立ち居振る舞いだったが、自分たちの前では全くそのような鳴りを潜めているのが可笑しい。傭兵達のからかいの声を受けたときも、怪我を治癒しているときもそうだった。シリルエテルだけが自分の主で、それ以外はその夫だろうが夫の副官だろうが、皆同列なのだろう。いっそ清清しい。

「ありがとうございます」

ラクタムはにっこりと笑っておとなしく、出された茶器に口を付ける。

「随分と、不機嫌ですね」

「別に、そのようなことはございませんわ」

相変わらず、つーんとそっぽを向いて答えてくる。

「それほど、隊長がお嫌いですか?」

率直に聞いてみた。スフィルは思いがけない風な言葉を聞いた……とでも言いたげな、怪訝そうな表情を浮かべる。てっきり、「嫌いです」と即答が返ってくるかと思ったが、意外なことに少し間を取って、「別に」と首を振った。

「嫌いというわけではございません。シリルエテル様の、お、お、」

「夫」

「夫……になる方ですもの」

「夫」という言葉を言うとき、心底嫌そうな顔をしたが……だが、別段ジオリールのことが嫌い……というわけでは無いようだ。面白くなって、ラクタムは続けてみる。

「ですが、……随分と、警戒していらっしゃるようだ」

「1週間やそこらで、信頼できるわけがありません」

「シリルエテル様は、やはり先の夫……ノイル侯のことが、忘れられないのでしょうか」

「はあ?」

不躾であることは承知の上だ。だが、自分達は傭兵で、不躾なフリをしてこうした質問をするのもラクタムにとっては容易い。質問は思ったよりも劇的な効果をスフィルにもたらしたようだ。

「あんな枯れた男」

憎々しげに吐き捨てたスフィルに、今度はラクタムが驚いた表情を浮かべる。ラクタムの表情の遷移をちらりと見て、スフィルは表情を改め、自分もお茶を一口飲み込んだ。

「……ノイル侯は、愛人を多く囲い、不名誉な亡くなり方をなさいました。これでお分かりですか?」

「……なるほど、それは失礼」

「だからあの枯れたクソ爺が死んで、やっと……やっとシリルエテル様が幸せな結婚をなさる……って思ったのに……」

「スフィル殿?」

聞き間違いでなければ確かに「あの枯れたクソ爺」と言っていたような気がしてラクタムが聞き返したが、スフィルはそれに気付かずうつむいて、何事かをぶつぶつと言っている。かと思うと、バーン!とテーブルを叩いて、ラクタムを睨みつけた。

「それなのに、伯爵様だというから白馬の金髪碧眼でも来るかと思いきや、黒い馬にむさ、む……むさ……しい殿方が夫だなんて……」

「むさくるしい?」

「そこまでは言っておりませんわ!」

……言ったも同然だろうと思ったが、これ以上言うと被害が及びそうなので黙っておいた。白馬の金髪碧眼とはこれまた具体的なようで、非常に抽象的で広範囲な理想である。しかも恐らくシリルエテルの好みは完全に無視した、スフィルの妄想であろう。ラクタムは、自分のお茶を避難させて、大人しく続きを待った。

「それに……貴族然とした美麗な青年ではなく、こう……なんというかこう、ごつい、ひげ、ひ……」

「髭面?」

「しかも、無精でしょう!? ……いや、だから、そこまでは言っておりませんってば!」

どう考えてもはっきり言ったと思ったが……言っていないと言い張っており、反論する雰囲気ではないのでラクタムは口を噤んだ。

「……しかも、まだ、婚儀も迎えてないのに……あんな場所で……」

「野外で」もしくは「一晩中」などという言葉が続きそうだったが、それ以上はさすがのスフィルも口を閉ざしたようだ。……忠義な侍女だな……と思いながら、ラクタムはもう一口お茶を啜る。見ていて飽きない。

「つまり……隊長……ジオリール閣下は、シリルエテル様にふさわしい夫ではない、と?」

「そうではありません!」

理想と現実が違うことなど、スフィルだって理解している。

「あの爺が亡くなった時、周りの方はシリルエテル様に随分と修道院を勧められましたの。でも、シリルエテル様は頑としてお断りしていて……当然ですわ、あのような馬鹿げた婚姻に義理を立てて……修道院などに入ったら、もう2度と婚姻など出来ないではありませんか。だから、私嬉しかったのです」

「嬉しかった?」

「もう一度夫を得て、結婚することが出来るではありませんか」

スフィルにとってシリルエテルは唯一の主人だ。シリルエテルは当時、常に離れで静かに過ごしていて、侯爵がこちらを思い出さないように上手く立ち回っていた。派手な化粧をせずに華やかなドレスを着ることも無く、貴族の夫人としては最低限の慎ましい装いと振る舞いを心がけ、表情も押し殺した女はつまらなかったのだろう、侯爵はたまに屋敷内で顔を合わせても食指は動かなかったらしい。華やかな女たちが側にいるのだから、当然といえば当然だ。しかも、侯爵自身がそのとき既に社交的な人物ではなくなっていたため、侯爵夫人として社交の場に出されることもほとんどなかった。

こうした暮らしはシリルエテルにとって望むところではあっただろうが、幸せとはとてもいえないようにスフィルには思えた。

「だから、次こそは幸せな結婚を……と……」

「そうですか……でもジオリール卿は宮廷から突然命じられた伴侶だ……と」

拗ねたように黙ったスフィルに、ラクタムも沈黙する。ノイル侯がどのような男だったのかは大方が知れた。シリルエテル自身が納得していたとしても、スフィルは主の幸せを願わずにはいられないのだろう。

ふと、ではスフィル自身はどうなのか……と、非常に私的なことが気になった。話しぶりから、ノイル侯爵が生きている頃からシリルエテルに仕えているらしい。侍女でありながらシリルエテルの弟子でもある。治癒魔法も施せるほどの魔導師となれば、大した腕前だ。だが、ノイル侯の目があるのなら、それほどおおっぴらに修行をするわけにもいかなかったのではないか。この侍女と女主人の間には、ラクタムも知れぬ多くのことがあったに違いない。しかしそれはさすがに問わず、スフィルの気持ちを慮る。

シリルエテルに気を遣い、ジオリールを警戒し、傭兵達に囲まれての慣れない野営生活は辛いだろう。それでもスフィルはシリルエテルのことを健気に思っているのだ。なぜだか切ない気持ちになって、ラクタムはスフィルを見つめた。

しかし既にスフィルはラクタムのことはちらりとも見ておらず、ふたたびぶつぶつと何事かをつぶやいている。やがて、キッ……と顔を上げた。

「……ねえ、ラクタム様!」

「は、はい?」

突然スフィルが前のめりにラクタムに近付いた。くりくりと大きな瞳とみずみずしい唇が驚くほど近くにある。さすがのラクタムも、一瞬どきりとする。全然色気のある場面ではないのに、心臓が高鳴ってしまったことに内心驚き、仰け反りながら頷いた。

「……ジオリール様に、女性はいませんの!?」

「……私の知る限りでは、おりませんが……」

ジオリールの性格上、いたらさすがにそのままにはしておかないだろう。もちろん特定の相手がいないというだけで、娼館に赴いたりすることはあったがさすがにそれは口に出さない。

「それならいいのですが、もし他に女作ったら、縛り上げてちょん切ってやりますわ」

それは、環境によろしくない。

傭兵将軍のためにもそう言いたかったが、やはりラクタムは口を慎んだ。

****

へぇっくしょい!

「うぅん……」

「ああ、すまん、起こしちまったか」

ジオリールは結局、あれからもシリルエテルを腕に囲んで寝台にいたのだが、どうやらくしゃみで起こしてしまったようである。もう少しシリルエテルの体温を楽しんでいたかったのだが……一体どこから邪魔が入ったのだろうか。日の高さに気付いて慌てて起きようとするシリルエテルを強引に抱き寄せながら、ジオリールは眉をしかめた。

「お風邪を……? 私、上掛けを取ってしまって……」

「ああ、あんたのせいじゃねえ。……シリルエテル……こっちへ……」

「ジオリール、あ、の、もう……起きないといけない時間なのでは……?」

「もう少しいいだろう。あんたも疲れたろ。無理すんな」

「……それは……」

昨夜の情事を思い出したのか、シリルエテルが顔を赤くした。その様子を楽しげに見下ろし、全く悪びれず抱き枕のように引き寄せた。体温に触れ合う独特の感触は、実に心地よい。困ったように窓の外の明るさを確かめているシリルエテルの頬に唇を寄せる。薄い夜着一枚だけを着せている身体の曲線は、何度触れても欲を誘う。悪戯にまさぐると太腿の感触が心地よいし、そこから曲線を持ち上げてやると、小さなシリルエテルの声があがって……

「朝食お持ちしましたー! 」

まるで見ているかのような絶妙のタイミングで、朝食を持ってきたスフィルの声とノック音が響いた。

「朝食です、朝食! ジオリール様が2人分持ってこいとおっしゃったんでしょう。とっとと出てきやがりませ! 重い! 重いです!」

さすがのシリルエテルも自分の侍女の声に瞳を丸くしている。実にいい仕事をする侍女に、ジオリールは「くそっ、……あいつは魔物モンスターか……!」と、心の中で毒付いた。